アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』を斬る

アイヌ副読本のウソを徹底的に晒している本書はとても参考になりました。

アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』を斬る

 ネットではアイヌ先住民族国会決議とアイヌ新法への批判、アイヌ協会とチュチェ思想の関りなどが取り上げられています。
そういう情報に接しながらも本書が斬っている「アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』」は手に取ったことがなかったのですが、これを機会に読んでみようと思います。
 確認したら当市の市役所図書館にも所蔵されていました。

 私は小学校3・4年の時の学級担任が共産党員で、その洗脳教育を受けました。(参考:丸山久明先生の思い出
 幸いその後洗脳は解けましたが、今でもそのことを悔しく思っています。
 著者の指摘を見ずに、副読本を読んでいたら洗脳されてしまうと思います。
 このような本が「全道の小中学生と全国の小中学校に配布され」ているのですから恐ろしいことです。
 

 アイヌ副読本のウソを教えてくれるだけでなく、アイヌ協会とチュチェ思想の関りも解説している本書は、アイヌ問題の入門書としてとても良いと感じました。

 的場光昭さんの「アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』を斬る」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』を斬る 的場光昭


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目次

 はじめに 1

 第一章 副読本を書いた人たち
問題が多い編集・執筆者たち 18  /  1 阿部一司(ユポ)委員長の問題その1 19  /  2 阿部一司(ユポ)委員長の問題その2 22  /  3 石黒文紀委員の問題点 23  /  4 平山裕人委員の問題点 25

 第二章 副読本のウソを見抜くための基礎知識
概説 30  /  2 北海道の時代年表 32  /  3 日本の歴史に現れる北海道 35  /  4 各地の博物館を巡ってみよう 38  /  5 貨幣文化と言語文化 40  /  6 史実から逃げ回る先住民族論 42  /  7 アイヌの定義 49  /  8 実際のアイヌから見た北海道開拓 51

 第三章 ウソ満載! アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』(小学生用)
ウソその1 (はじめに) 54  /  ウソその2 アイヌ語地名(7ページ) 54  /  ウソその3 食べ物(10~11頁) 56  /  ウソその4 縄文文化からアイヌ文化へ(24ページ) 56  /  ウソその5 コシャマインの戦い(26~27ページ) 59  /  ウソその6 シャクシャインの戦い(29~30) 64  /  ウソその7 クナシリ・メナシの戦い(30~31ページ) 68  /  ウソその8 漁場ではたらくかげで(32ページ) 69  /  ウソその9 北海道の「開拓」とアイヌ民族(34ページ) 70  /  ウソその10 同化政策(35ページ) 72  /  ウソその11 北海道旧土人保護法(36~37ページ) 78  /  ウソその12 アイヌ協会を作る(38~39ページ) 79

 第四章 ウソ満載! アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』(中学生用)
ウソその1 (はじめに) 84  /  ウソその2 表1-1:日本の歩み(6ページ) 84  /  ウソその3 擦文文化(8ページ) 86  /  ウソその4 古代のエミシから中世のエゾヘ(9ページ) 87  /  ウソその5 モンゴル帝国の成立とアイヌの人たち(12ページ) 87  /  ウソその6 コシャマインの戦いと戦国時代の北海道(14~15ページ) 91  /  ウソその7 シャクシャインの戦い(16~17ページ) 94  /  ウソその8 場所請負制成立とクナシリ・メナシの戦い(18~19ページ) 99  /  ウソその9 高床式の倉(21ページ) 102  /  ウソその10 写真V-1:江別に強制移住させられた樺太アイヌの人たち(22ページ)<.a> 103  /  ウソその11 アイヌ民族の日本への統合と北海道の開拓(22~23ページ) 106  /  ウソその12 強制移住 112  /  ウソその13 土地私有を認めない 114  /  ウソその14 日本語と生活習慣の強制 116  /  ウソその15 北海道アイヌ協会設立 117  /  ウソその16 戦前とは別の北海道アイヌ協会 117

 第五章 教師用副読本の問題点
問題点1 120  /  問題点2 「補足説明」(7ページ) 120  /  問題点3 板書例(8ページ)指導のポイント・【補足説明】(9ページ) 121  /  問題点4 板書例(10ページ) 122  /  問題点5 「資料」(11ページ) 123  /  問題点6 板書例(12ページ) 123  /  問題点7 指導のポイント(13ページ) 124  /  問題点8 質問(13ページ) 124  /  問題点9 住まい(14ページ) 124  /  問題点10 【資料】(17ページ) 125  /  問題点11 歌と踊り(18ページ) 125  /  問題点12 「資料」(19ページ) 126  /  問題点13 指導のポイント(21ページ) 126  /  問題点14 指導のポイント(23ページ) 126  /  問題点15 指導のねらい(25ページ) 126  /  問題点16 表題(26ページ) 127  /  問題点17 年表(27ページ) 127  /  問題点18 「用語」(27ページ) 128  /  問題点19 コシャマインの戦い(28ページ) 128  /  問題点20 活動の流れ3 発問1(29ページ) 129  /  問題点21 【資料】〔オッカイとはどういう意味?〕(29ページ) 129  /  問題点22 シャクシャインの戦い(30ページ) 133  /  問題点23 【資料】(31ページ) 134  /  問題点24 クナシリ・メナシの戦い(32ページ) 134  /  問題点25 指導のポイント(33ページ) 135  /  問題点26 漁場ではたらくかげで(34ページ) 135  /  問題点27 板書例(34ページ)136  /  問題点28 指導のポイント(35ページ) 136  /  問題点29 発問2(36ページ) 137  /  問題点30 板書例(36ページ) 138  /  問題点31 指導のポイント(37ページ) 139  /  問題点32 板書例(38ページ) 140  /  問題点33 指導のポイント(39ページ) 140  /  問題点34 板書例(40ページ)・【資料】(41ページ) 144  /  問題点35 アジア・太平洋戦争(41・42ページ) 147  /  問題点36 差別の強調(42ページ) 147  /  問題点37 ◆その裏には(43ページ) 150  /  問題点38 (44ページ・全頁) 150  /  問題点39 【資料】(45ページ) 154

 第六章 副読本は恐ろしい思想教育書
1 反日活動の拠点となったアイヌ協会 160  /  2 アイヌ協会を牛耳る北朝鮮のチュチェ(主体)思想 163  /  3 チュチェ(主体)思想に汚染されたアイヌ協会が地方自治体を乗っ取る日 168

 あとがき 171
 


はじめに

 北海道の小中学校に平成20年(2008)以降に在校された方であれば、一度は目を通したことがあるアイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』(財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構、所管は国士交通省)には多くの記載に誤りがあり、また多くのウソが盛り込まれていることが問題視されてきました。

 北海道議会自民党議員団が記載に問題があると申し入れをしましたが、執筆者たちは、学問の自由や表現の自由という訳のわからない理由を並べ立てて、この申し入れを拒否していました。
 平成30年(2018)に改訂版(写真1 小学生用と中学生用、他に教師用もあり)が公益財団法人アイヌ民族文化財団(所管は同じく国土父通省)によって出されましたが、先の申し入れも含めて誤りは全く正されていません。そもそも、全道の小中学生と全国の小中学校に配布される副読本の所管官庁が文部科学省ではなく、国土交通省ということにも大きな問題があると思いませんか。拙著では野放しにされている数ある誤り ―― もうほとんどウソというべき ―― の中で決して見逃せないものを選んで訂正し、背後にある恐ろしい思想を紹介します。
 本書の副題にはあえて“チュチェ思想汚染”という言葉を使いましたが、アイヌ団体とその背後にある中国共産党、そして北朝鮮のチュチェ(主体)思想で、日本の子供たちや若者を洗脳するために書かれたものといっても言い過ぎではないほど、副読本はウソによって日本国の尊厳を貶め、我々の祖先を辱め、未来を背負って立つ子供たちから自信と勇気、そして希望を奪う内容になっています。繰り返しますが、教育現場で用いられる副読本が国土交通省のもとで作成され、文部科学省の検定を受けないで児童生徒そして教師に渡されてよいものでしょうか。
 昨年発行した『科学的“アイヌ先住民族”否定論』(的場光昭事務所、2019)は、同年4月19日に成立したアイヌ新法(アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律)に明記された“先住民族”が、歴史的・科学的に全く根拠のないものであること、そしてアイヌを利用する周辺諸国、わけても北朝鮮・韓国、そして中国の、日本国内における反日活動の実態を広く国民に知ってもらうことを目的に、大急ぎで書き上げました。
 今から12年前、“アイヌ先住民族国会決議”との闘いを始めた時は、歴史戦と政治戦の両面作戦でみごとに敗北しました。
 その後、道北を中心に次々と建立計画がもちあがった、歴史的に全く根拠のない“反日石碑”との闘いを続けているうちに、アイヌ先住民族運動と反日石碑建立の母体がしっかり繋がっていることに気づきました。その繋がりを丹念に探ってゆくと、チベットやウイグルで他民族を虐殺して民族浄化をはかり、香港で民主主義の危機に立ち向かう若者たちを弾圧し続ける中国共産党に、さらに一方では横田めぐみさんをはじめ多くの日本人を拉致し自国民を飢餓で苦しめ、核・ミサイル開発によって日本を脅し続ける北朝鮮とその日本国内工作機関である朝鮮総聯に行き着きました。
 みなさんも新聞などでご存じかと思いますが、中国企業による北海道の土地の爆買い、国会議員の買収で問題になっているIR関連会社などとアイヌ協会の結びつきに注目して、以前から活動しておられる小野寺まさる先生に加え、昨年は北朝鮮の日本国内工作活動に詳しい篠原常一郎先生がこの戦いに参戦してくださり、政治戦に関してはお二人が大活躍中です。
 私の使命は歴史戦に専念して、両先生に自信をもってそれを政治戦の根拠の一つとして使っていただけるような資料の発掘と紹介にあると自覚しています。
 まず、このようなウソだらけの副読本で教育を受ける小中学生や、これを用いて教育指導をする先生方に、真実を少しでも早くお届けすることが最も急を要すると考えて、手元にある資料と国会図書館その他のアーカイブで公開されている原本に基づいて書き上げました。
 いったいどんなウソが書かれているのか、最もわかりやすいウソの一例をまずご覧ください。

 写真2は中学生用副読本22ページ(Ⅴ 近代の政治・社会)に掲載されているものです。写真の説明は「写真Ⅴ-1:江別に強制移住させられた樺太アイヌの人たち」とあります。この写真の出典を調べようと巻末を見ると、「北海道大学図書館」とだけあり、真偽の確かめようがありませんでした。
 写真3は『新撰北海道史』第一巻(北海道庁、昭和11年)の134ページにあるものです。現代かなづかいに直して読んでみましょう。
 「明治八年、樺太、千島交換条約後、樺太の土人八百数十人帰化を望み、開拓史は之を石狩川沿岸の対雁(ついしかり)に置いて、農業教授所、漁場等を与え篤く之を保護することとした。図はその一集団を表示せるもの」(ルビは著者)となっています。
 ここに見られるように「帰化を望み」・「保護」を「強制移住」と言い換えるような大ウソがこの副読本の文章にはあちらこちらに見られます。
 
私たち日本人は大航海時代(15世紀後半から16世紀)以後の白人のように、先住民族を虐殺・差別したような歴史はもちません。中国・北朝鮮そして韓国と手を携えた国内の反日組織は、アイヌを利用してそのような誤った歴史観を子供たち若者たちに植えつけ、日本国民の罪悪感をあおり、自信を喪失させ、それに乗じて彼らの領土的野心および経済的野望を成し遂げようと狙っています。
 
そのことは日本政府に対して「差別された」、「虐殺された」、「強制連行された」……と騒ぎ立てて予算をむしり取ろうとしているアイヌ団体やこれを支援する人々そして政治団体が、差別・虐殺・強制連行を現在進行形で行っている中共や北朝鮮に対して抗議する様子を見せないという事実をみても明らかでしょう。
 かつて、中国によってあれほど宣伝された“南京大虐殺”そして韓国による“軍慰安婦”および“徴用工”の強制連行、これらが朝日新聞が正式に誤りを認めたことで、多くの国民に全くのウソであることが広く知れ渡り、日本人わけても若者の間には、かつてないほどの中韓両国人や在日韓国・北朝鮮人への反感が強まっています。
 私が最も懸念するのは、南京大虐殺や朝鮮人強制連行同様に、過去もそして現在もアイヌ差別などなかったにもかかわらず、アイヌ団体が声高に差別を言い募り、差別利権を貪り続ける実態が明らかになった時、現在中国や韓国・北朝鮮そして在日朝鮮人へ向けられている反感と同じように、アイヌおよびその関係者に対する反感が増幅し、将来においてアイヌ差別が現実のものになりはしないかということなのです。
 本書は多くの国民、特にこれからの日本を背負って立つ若い人たちに、同じ日本人であるアイヌ系日本人の正しい歴史を再認識してもらい、自信をもって日本国を未来へ引き継いでほしいという一心で書き上げましたので、前半は小学生にも読んでいただけるようにできるだけわかりやすく、そして必要と思われる漢字には読みがなをつけることにしましたので、ぜひご家族みなさんで読んで議論や会話のきっかけにしてもらいたいと思います。

*なおアイヌ副読本はPDFとして公開されておりますので、第三・四・五章はこれと対比しながら読まれるとより一層ウソが理解できると思います。


ウソその9 北海道の「開拓」とアイヌ民族(34ページ)

 1850年ころ、北海道のほとんどの場所に、アイヌの人たちが住んでいました。しかし、1869年に日本政府は、この島を「北海道」と呼ぶように決め、アイヌの人たちにことわりなく、一方的に日本の一部にしました。そして、アイヌ民族を日本国民だとしたのです。しかし、日本の国はアイヌ民族を「旧土人」と呼び、差別し続けました。

 
1850年の北海道の人口の内訳を見ましょう。1854年時点で、樺太を含めない北海道のアイヌ人口は15,171人です。一方、ほぽ同時期(1846年)の北海道の和人人口は85,100人でアイヌ人口の5.6倍であったことがわかります。
 アイヌ人口はほぼ正確に把握されていると考えられますが、和人統計については当時の人別帳(戸籍)を基に集計されており、人別帳に載らない無宿者といわれる男たちや被差別部落民の男女を加えると、さらに多くの和人がいたことになります。
 つまり、当時は“北海道のほとんどの場所に、和人が住んでいた”のです。
 北海道議会議員たちが問題にしたのは、「アイヌの人たちにことわりなく」という文言ですが、同族を差別し売りさばくような部族社会・縄張り社会を放置すれば、北海道はロシアに編入されてしまいます。そもそも国家の概念のないアイヌに、どうやって近代国家の概念を理解させようというのでしょうか。後にロシアに編入された樺太や千島アイヌが、コサックの奴隷として売り払われた経緯をみれば、明治政府の判断、そしてこれに従ったアイヌの先人たちの判断は正しいものだったのです。
 しかも明治10年に発布された地券条例(ちけんじょうれい)には、アイヌの居住地を官有地に編入し、ずる賢い和人にだまし取られないようにアイヌの所有権を保護することまで定められているのです。(『新撰北海道史』)
 旧土人を差別語としていますが、そもそも土人という言葉は昭和30年代まで差別とは認識されていませんでした。またアイヌを特に旧土人といったのは、先にも書いた通りこの時すでに8万人以上の和人(土人:現地に住む人)が暮らしており、アイヌをこれと区別して保護する必要があったので敢えて旧土人としたのです。


ウソその10 同化政策(35ページ)

 アイヌの人たちの住むところは、いろいろな事情に関係なく、しばらくの間、すべて官有地に入れます。と決めました。このきまりで、アイヌのひとたちは、それまで住んでいた土地も取り上げられたのです。そして、その土地は和人にあたえられていきました。

 
北海道に渡った多くの和人商人たちがアイヌを騙して土地を取り上げることが横行していたために、まず官有地としたのは、アイヌが土地を酒や煙草と換えてしまうことを防ぐ処置でした。アイヌに戻した後にすぐにだまし取られた土地を再度取り返すのに当時の北海道庁の役人が大変苦労したことの記録が残っています。また、アイヌに与えるとせっかく取り戻した土地を和人に奪われるので、アイヌに戻さないことにしたところ、この役人が横領したと宣伝してアイヌに土地を戻させ、まんまと土地を手に入れたという和人商人の話も記録に残っています。北海道新聞はこの献身的な元道庁職員を、アイヌの歴史に詳しいという元東北学院大学教授の“アイヌの土地を横領した”という誤った見解を載せて、著しい名誉棄損をしていました。詳しくお知りになりたい方は拙著『アイヌ先住民族 その不都合な真実20』(展転社)を参考にしてください。

 それまでの、アイヌの人たちの文化や習慣に対して「やってはいけない」「変えなさい」と命令したものがいくつもあります。
 ◆イレズミをしてはいけない
 ◆耳かざりをしてはいけない
 ◆川でサケを取ってはいけない
 ◆和人風の名前に変えなさい
 そして、狩りや漁が中心の生活を、農業中心の生活に変えて、日本語を使うようにと言いました。「和人と同じような生活をしなさい」ということです。これを「同化政策」と言います。


 イレズミ
 アイヌ女性の入れ墨については、非衛生的に行われていたことが一番の問題でした。現在でも入れ墨のある人に、血液によって伝染する肝炎や白血病の一部などが多いことは医療に従事する者の常識となっています。また「入れ墨は大人になった印」、「結婚した女性の印」だとする記載が多く認められますが、明治11年に北海道を訪れたイザベラ・バードの『日本奥地紀行』の記載を紹介しましょう。
 「最近日本政府が入れ墨を禁止したのをたいそう悲しみ、また困惑している。神々は怒るだろうし、入れ墨をしなければ女は結婚できないのだ、という。彼らはシーボルト氏や私にどうかこの点に関して日本政府との間を仲裁してもらえないか、と嘆願した。彼らは、他の点ならいざ知らず、この点については無関心ではいられない。『これは私たちの宗教の一部分なのです』と、何度も繰り返して言うのである」(ルビは著者)という記載があります。
 ちなみに同書には、「入れ墨は5歳のときに始まるが、まだ乳離れしていないものもある。今朝私は可愛らしい利口そうな少女に入れ墨をするのを見た。一人の女が鋭い刃のついた大きなナイフをとり、すばやくその上唇に数個の水平線を切り刻み、すぐ次にその非常に美しい口許を切り刻んだ。そして微かな血の流れが止まらぬうちに、囲炉裏の上にかけてある蓆(むしろ)にまとめてある黒光りする煤を少しすりこんだ」(ルビは著者)とあります。
 この「宗教の一部分」である行為が非衛生なばかりか、かなり残酷なものであったことをうかがわせます。もの心がついたときに腕や手はともかく口もとに大きな入れ墨をされている自分を想像してみてください。私か子供の頃(昭和30年代)にはまだ口もとに入れ墨をした老婆を見かけることがありましたから強制性を伴うものではなかったのです。入れ墨の習慣は上川では早くになくなりましたが、十勝方面ではかなり遅くまで残っていたようです。明治・大正・昭和を生き抜いたアイヌ女性砂沢クラさんは、十勝へ嫁に行った娘が口もとに入れ墨をされて里帰りしたので、本人ともども一同とても驚くと同時に悲しんだことをその手記に書いています。

 耳かざり(耳環)
 耳たぶに穴をあけるのですから不潔操作による感染の危険が伴います。以前、私の病院へ研修に来ていた医学部の女学生はピアスの穴開けで感染し、その後大きなケロイドが残って気の毒でした。また、江戸期に北海道を旅行した菅江真澄(1754~1829年)は、アイヌの耳環は大きなもので、男同士の喧嘩のときなどはこれを引っ張って相手の耳を引きちぎったということもあったと記録しています(『菅江真澄遊覧記』)。

 サケ漁の禁止
 江戸中期以降、大網を用いた近代漁法が導入され、サケだけではなくニシンなども徐々に漁獲量が減少し、当のアイヌ自身が大網による漁の禁止を求めている記録がすでに江戸後期にみられます。特に産卵期のサケ漁は一例をあげると、明治初期の段階で約300人の上川アイヌが捕獲したサケは10万尾であったといいます。こうした乱獲の結果、捕獲制限が加えられたもので、全面禁漁としたわけではありません。こうした乱獲はサケやニシンだけではなくエゾシカ・テン・キツネ・タヌキ・カワウソ・ヒグマ、そして海ではラッコ・オットセイ・アザラシなどに及びました。エゾシカの角は漢方薬の原料として、また毛皮も需要が高く沼地や落とし穴に追い込む乱獲が続き、明治初期には大雪による大量死とあいまって禁猟にせざるを得ない状況にまで追い込まれましたが、アイヌには猟銃が支給され、これによる捕獲は許されていました。当時の函館新聞にはシカ猟で大儲けをした羽振りのいいアイヌの記事が紹介されています。カワウソは絶滅、テン・ラッコ・オットセイも北海道ではほとんど見かけなくなりました。

 和人風の名前
 明治になって人別帳(江戸時代の戸籍)に乗せてもらえず不利をこうむっていた無宿者や被差別部落民なども、平民として新しい戸籍に組み入れられ、身分差別が撤廃されました。従来文字がないアイヌにも、文字の記録によって血縁関係などが明らかになる戸籍を与え、アイヌも同じ日本人として平等に扱ったものです。戸籍上の和風の名前はあくまでも表記上の便宜のためであり、それぞれのアイヌ部落やアイヌの家族同士でアイヌ語の名前を禁止したものではないのです。やがてアイヌ自身が和風の便利さに馴染んで使うようになったのです。
 現在でも年金・社会福祉や税務上などの便宜のために、国民総背番号制が導入され国民一人一人に番号が割り振られていますが、私たちは日常生活でその番号を強制されているわけではありません。やがて世の中が進んでそちらのほうが便利で馴染みやすいとなれば近い将来、自他ともに番号を利用する機会が多くなってくるでしょう。
 これとは少し趣が変わるかもしれませんが、戦前そして戦後に朝鮮半島から渡って来た在日朝鮮の人たちが、韓国や北朝鮮の戸籍上の名前ではなく通名といっていくつもの日本人の名前を使い分けて、犯罪の温床になっているのですが、これも日本政府が通名を強制しているものではありません。そもそも通名の始まりは日本統治下の朝鮮半島の人たちが、満洲に出かけた際に朝鮮名だと支那人に馬鹿にされるので日本名が欲しいと訴えたことから始まったものです。
 結局アイヌも朝鮮人も、日本にいる限りは使い勝手の良い和風の名前を使用し続けているということに過ぎないのです。現に旭川アイヌ協議会会長の川村兼一さんは、アイヌ関連の集まりでは川村シンリツ・エオリパック・アイヌと自己紹介しています。また、阿部一司北海道アイヌ協会副理事長は、21世紀自主フォーラムという北朝鮮の思想を広める団体の活動では、阿部ユポと自己紹介しています。また、東川・美瑛においてニセ人骨ニセ墓穴で反日石碑を建立しようとしていた殿平善彦さんの催し(平成25年8月)に川村兼一さんと一緒に出席していた札幌の石井由治さんは、令和元年(2019)12月21日に札幌市で、皇室や自民党政治家さらには保守評論家や原爆被害者の写真を燃やす展示で問題になった“北海道・表現の自由と不自由展”の開会式に、朝鮮民族衣装を着た2人の女性を従えて石井ポンペと名乗ってアイヌ式の祈り“カムイノミ”を主催していました。日本政府は強制的に彼らの名前を奪ったことなど一度もないのです。


ウソその3 擦文文化(8ページ)

 擦文文化人はアイヌ民族の祖先と考えられている。

 
全くこのようなことはありません。土器文化も引き継がず、古墳などの墓制つまり埋葬方法も全く異なり、したがって宗教観も異なる人々を無理やりアイヌ民族の祖先としています。
 アイヌの歌人違星北斗(いぼしほくと)は、戦いや日常生活など細々したことまで歌い上げるユーカラに、道内で発掘されている土器(擦文文化)が触れられていないことを見ても「アイヌは先住民族ではない」としっかり書いています(昭和2年12月19日小樽新聞)。
 ユーカラを話題にしたのでついでですが、小樽に在住しアイヌの研究をしたロシア人のネフスキーはその著書『月と不死』に、邪悪なトラが歌われているユーカラを紹介しています。もうおわかりでしょう。アイヌはシベリアの記憶をユーカラとともに携えて北海道へ渡ってきたのです。
 
また古人骨ミトコンドリアDNAの分析からも、アイヌは東シベリア→樺太→オホーツク→沿岸→全道へという経路が明らかにされています(拙著『科学的“アイヌ先住民族”否定論』参照)。


ウソその9 高床式の倉(21ベージ)

 倉は高床式で、ネズミ返しを持っていた。高床式の倉は近世の日本列島では、琉球文化圏とアイヌ文化圏においてのみ見られる。

 高床式といわれる建築様式は弥生時代から日本に広く受け継がれているもので、北海道のほとんどの神社建築はこの様式です。また、古い神社に付属する倉庫や、平成の末頃まで札幌市の中心部にあった旧家の大邸宅の敷地内の倉庫にもみられました。


ウソその10 写真Ⅴ-1:江別に強制移住させられた樺太アイヌの人たち(22ページ)

 この副読本の最も悪質なキャプションの改竄です。この一事をもってこの副読本の配布をただちに中止、さらに回収破棄すべきと文部科学大臣は通達すべきです。
 本書5ページの写真2は副読本に掲載されているものです。写真の出典は巻末に「北海道大学図書館」とあり、あえて出典を隠す悪意が現れています。
 本書5ページの写真3をご覧ください。北海道庁が昭和11年に出版した『新撰北海道史』(第一巻)の134ページに掲載されている写真です。これは筆者がたまたま発見し、昨年末からネット上に公開したものです。
 説明文を現代仮名遣いとルビを加えて読んでみましょう。
 「第三十一図版 対雁(ついしかり)在留樺太土人」(右横説明)。
 「明治8(1875)年、樺太・千島交換条約後、樺太の土人八百数十人帰化を望み、開拓使は之を石狩川沿岸の対雁に置いて、農業教授所、漁場等を与え、篤く之を保護することとした。図はその一集団を表示せるもの」
 副読本にある説明は悪質な捏造です。彼らは日本人としての“帰化を望み”樺太から北海道へ保護を求めて来たのです。
 
当初、樺太は日本とロシアの入会地のようになっていました。この条約以前、樺太は一応日露両国の管轄領域は設定されていましたが、ロシアは南下圧力を強めていたのです。
 文久2年(1862)当時、日本管轄下で罪を犯したトコヘンというアイヌが逮捕を逃れるために知り合いのロシア人のもとに行きました。日本側は犯人の引渡しをロシア側に要求しましたが聞き入れず、彼を厳寒期にも犬皮一枚を着せるだけで奴隷として使ったため、彼はこれに耐え切れず日本側へ逃げ帰って逮捕されたという記録もあります。
 その暴虐非道は一般のアイヌにも及び、彼らを強制使用し、逃亡を企てるものは銃殺と脅し、日本人との交流を禁じることもありました。
 このような状況下で、明治8年(1875)の樺太・千島交換条約によって、樺太アイヌは日露どちらかへの帰属を自らの意思で決定したのです。
 この間の事情ついてはロシア人作家チェーホフの『サハリン島』(岩波文庫)に詳しい記載があります。これによれば、樺太アイヌは和人の請負人の下に主に昆布漁を行い、「夏には絹の寛衣(ガウン)を着てゐ(い)た」「早くから樺太アイヌの主食は米であり、残留アイヌたちも米を求めてマツマイヘ移住し始めた」ほどの豊かな生活をしていたが、樺太もロシア領になって以後、アイヌの虐殺事件や婦女への凌辱事件も起り、日本人の退去と共に、もはや誰一人魚を獲る者はなく、稼ぎはなく、北方のギリヤークに奴隷として売られたアイヌ女性は犬以下の扱いをうけ、アイヌは飢えを経験するようになったという状況で、残留アイヌも貧困のために北海道へ移動し続け、その数は半減したといいます。
 開拓使は日本への帰属を希望した樺太アイヌ(百余戸、841名)を一旦宗谷へ落ち着かせたものの、自然環境が厳しく生活維持は困難であり、また彼らを樺太付近に置くことは国際紛争の元となることを恐れ、石狩の対雁(ついしかり)へ移住させることにしました。
 ロシアが自国の少数民族保護と称して国境を越えて兵を進めるということは、ごく最近ウクライナ領へ行われていることを思えば、強国ロシアを恐れる開拓使の判断は当然でした。開拓使が提示したこの移住に樺太アイヌたちは異議を唱えたため、酋長格10人が江別太を実地踏査して結果がよければ応ずることになりましたが、結局彼らは移住を拒否し、開拓使はさらに厚田・石狩の漁場を与えることによって、はじめて双方の合意が得られたのでした。
 樺太から宗谷への移住は彼らの自由意思に基づいて、宗谷から対雁への移住は双方の合意に基づいて行われたというのが事実です。
 当時の写真撮影は今のように一瞬で終わるものではなく、一定時間同じ姿勢を保たなければならないものでした。強制連行された人びとが長時間同じ姿勢を保つことなど考えられません。この写真こそが強制連行を否定する何よりの証拠なのです。


ウソその11 アイヌ民族の日本への統合と北海道の開拓(22~23ページ)

 アイヌ民族を「旧土人」と呼び、和人とは差別し続けた。成人の印とされた女性の入れ墨や男性の耳飾りなどの伝統的な風習を非文明的と見て、アイヌ民族の言語や生活習慣を事実上禁じた。さらに、日本人風の名前を名乗らせ、日本語の使用を強制するなどの同化政策を行い、和風化を強制した。(22ページ)

 
小学生用副読本の中で紹介した違星北斗と共にアイヌ協会を設立したと称えられている幕別の吉田菊太郎氏の『アイヌ文化史』(昭和33年)の一節を紹介します。

 現行の北海道旧土人保護法の上ではアイヌ人のことを旧土人と呼んでゐるが是は救恤(きゅうじゅつ)(的場注:ルビ著者、憐み救うこと)を行ふ場合に於ける一般和人に対する事実上の区別に過ぎない。故にその族籍上に於ても其の他法令上に於てもアイヌとか土人とかの区別を表したものは一つとしてなく正しく日本人であリ社会人である。一般人同様憲法上に保証されたる権利を享有し得るのは言ふ迄もなく国民に負担されるすべての義務に服するのである。要するに両者の差は土人と言ひ和人と言う天来の血族に停まるのである。

 昭和33年の時点で自らアイヌ系日本人である吉田氏は、旧土人保護法の「旧土人」をこのようにとらえていたのです。著者の知る限りにおいて、旧土人保護法を差別的法律ととらえられるようになったのは、著者が北海道大学に入学した昭和48年(1973)頃からだと思います。ちょうどこの年に太田竜著『アイヌ革命論』が出されています。その約3年後には80名以上もの死傷者を出した道庁爆破事件(昭和51年3月2日)で、東アジア反日武装戦線という過激派から以下のような犯行声明文がだされ、アイヌが過激派闘争に利用されていることを知らされました。

 すべての友人の皆さんへ。私達日帝本国人は アイヌ 沖縄人民 チョソン人民 台湾人民 部落民 そしてアジアの人民に対する日帝の支配を打ち砕いていかなければならない。カナジ(「ジ」は原文のまま)ミからの「反日闘争に呼応していかなければならない。一切の思い上がりを捨て、自己を変革し我々の反日戦線を鍛え上げ、拡大して行こう。道庁を中心に群がるアイヌモシリ(北海道はその一部)の占領者共は第一級の帝国主義侵略者である。日帝は国力増強を目的としてアイヌモシリ植民地経営を推し進め モシリのすべてを強奪し墓石 アイヌ絶滅を企てて来た。日帝は戦争遂行のため 北海道 サハリン 千島にも無数のチョソン人、中国人を強制連行し 奴隷労働をさせ 多くを虐殺してきた。道庁はその先頭に立って北方領土返還運動を推進してきているが、アイヌは北海道 サハリン 千島は アイヌ ギリヤーク オロッコの母なるモシリ(大地)である、と主張している。侵略占領者である日本とソ連こそが北海道 サハリン 千島の全領域から撤退せねばならないのだ。日本の立場を支持する中国毛沢東一派は大きな犯罪を犯しているのだ。
  的場注:*チョソン人民=朝鮮人民 *カナジミ=悲しみ

 この二つの引用をじっくりと読み比べてみてください。現在のアイヌ協会を主導する人たちがどのような思想の延長上に活動し、そして歴史を捏造しながら、子供たちにこのような副読本を与えて洗脳しようとしているか、みなさんはお気づきになったと思います。

 旧土人保護法
 今から12年前まで、明治32年(1899)に制定された北海道旧土人保護法について、“土人”あるいは“旧土人”という言葉自体が差別語であり法律も差別法だと、アイヌ団体や在日朝鮮人そして鈴木宗男・今津寛両衆議院議員によって盛んに宣伝され攻撃されました。私が月刊誌『正論』や拙著『アイヌ先住民族、その真実』などで、昭和20年後半まで“土人”は差別語ではなく「その地に住んでいる人」という意昧であり、また“旧土人”については、幕末すでに北海道に住んでいた86,000人の和人とアイヌ15,000人(松浦武四郎の安政人別:松浦武四郎が報告した現在でいうところの戸籍、ただし和人人口には人別帳にのらない多くの被差別部落民や無宿者が別に多数居住していたといいます)を併せて土人とし、特にさらに保護の対象となるアイヌを“旧土人”と定めたもので、差別ではなかったことを説いて大方の同意を得ることができました。これを差別だと叫ぶ人は一時いなくなったのですが、この頃になってまた復活しています。そもそも、北海道旧土人法の制定を求めて帝国議会に陳情したのはアイヌの人々であり、さらにその廃止を最後まで反対したのも北海道ウタリ協会(現北海道アイヌ協会)なのです。アイヌの人たちが中心になって出版した『アイヌ史』(北海道ウタリ協会)や『古潭の痕跡』(旭川人権擁護連合委員会)さらには北海道庁の出版物である『北海道旧土人保護法沿革史』にはっきりとその経緯が書かれています。

 アイヌの伝統的習慣の禁止
 明治政府が禁止したアイヌの習慣については前章の小学生用副読本の項でも述べましたが、そこで触れなかった部分について補足します。

 日本版奴隷解放
 アイヌの酋長やその一族は、ウタレ(男の半奴隷・下僕)とチハンケマチ(妾)を所有し、働かせることは、もちろん時には売買されたり、結納として差し出されたりする身分制度がありました。明治政府はこうした人たちを解放して、等しく平民としたのです。これはアメリカの南北戦争中にリンカーンによって行われた奴隷解放宣言(1862年)とほぼ時を同じくする日本版奴隷解放宣言ともいえる画期的なものでした。しかしアイヌ女性の入墨同様、これを徹底させることはできませんでした。また江戸幕府は、酋長による若い女性の独占がアイヌ人口減少の原因と考え、妾の数を3人に制限しましたがなかなか守られなかったようで、明治になっても酋長の妻女の数は6人まで黙認したようです(名取武光『アイヌと考古学』)。
 余談ですが日本における奴隷解放で忘れてならないのは、明治5年(1872)のマリア・ルス号事件があります。マカオから南米ペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が修理目的で横浜港に入港した際に、奴隷運搬船であることが発覚し、時の外務大臣副島種臣は人道主義に基づき230人の清国人を救出させたものです。当時開国したばかりの日本のこの措置に対してペルー政府は翌年、日本に謝罪と賠償を求め両国間の紛争に発展しました。ロシア皇帝アレクサンドルニ世によりサンクトペテルブルクで聞かれた国際仲裁裁判は、明治8年(1875)「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出してペルーの主張を退けました。

 野蛮な葬礼の禁止
 明治政府が禁じた伝統的風習の中にアイヌ式葬礼があります。
 アイヌは一家の主人や主婦、老婆が亡くなると、地下の世界に行く故人に不自由のないように家財もろとも家を焼いて移住する習慣があり、これがアイヌの貧困の大きな原因と考え禁止した江戸幕府同様に明治政府も禁止しました。
 また、埋葬から帰った遺族を傷つけたり、夫を亡くした妻の悲しみを救うために意識が失くなるまで打ちつけるメッカウチも禁止しました。
 その他、ウカリといって罪を犯した男を棒で殴りつける刑、サイモンといって罪を犯した女の手を熱湯に入れる刑などを禁止し、日本国の法律よって平等に裁かれるようにしたのです。
 和風の名前については、中学生用の副読本しかおもちにならない方もおられると思いますので重複しますが、触れておく必要があると考えますので再掲します。
 これとは少し趣が変わるかもしれませんが、戦前そして戦後に朝鮮半島から渡って来た在日朝鮮の人たちが、韓国や北朝鮮の戸籍上の名前ではなく通名といっていくつもの日本人の名前を使い分けて、犯罪の温床になっているのですが、これも別に通名を日本政府が強制しているものではありません。そもそも通名の始まりは日本統治下の朝鮮半島の人たちが、満洲に出かけた際に朝鮮名だと支那人に馬鹿にされるので日本名が欲しいと訴えたことから始まったものです。
 結局アイヌも朝鮮人も、日本にいる限りは使い勝手の良い和風の名前を使用し続けているということに過ぎないのです。現に旭川アイヌ協議会会長の川村兼一さんは、アイヌ関連の集まりでは川村シンリツ・エオリパック・アイヌと自己紹介しています。また阿部一司北海道アイヌ協会副理事長は、“21世紀自主フォーラム”という北朝鮮の思想を広める団体の活動では阿部ユポと自己紹介しています。また東川・美瑛においてニセ人骨ニセ墓穴で反日石碑を建立しようとしていた殿平善彦さんの催し(平成25年8月)に川村兼一さんと一緒に出席していた札幌の石井由治さんは、令和元年(2019)12月21日に札幌市で、皇室や自民党政治家さらには保守評論家や原爆被害者の写真を燃やす展示で問題になった“北海道・表現の自由と不自由展”の開会式に朝鮮民族衣装を着た二人の女性を従えて石井ポンペと名乗ってアイヌ式の祈り“カムイノミ”を主催していました。日本政府は強制的に彼らの名前を奪ったことなど一度もないのです。


ウソその12 強制移住

 1875(明治8)年、明治政府はロシアとの間で樺太・千島交換条約を締び、樺太や千島に住んでいたアイヌの人たちを強制的に北海道や色丹島に移住させた。移り住んだ人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなった。(23ページ)

 先にも触れましたが、樺太アイヌは山丹人との交易で負債に喘いでいたものを幕府が借財をアイヌに代わって弁済し、その後は運上屋の指導の下に漁業を行い、非常に豊かな生活になりました。
 明治8年(1875)の樺太・千島交換条約によって、樺太アイヌは日露どちらかへの帰属を自らの意思で決定したのです。この間の事情ついてはロシア人作家チェーホフの『サハリン島』(岩波文庫)に詳しい記載があることは先に紹介した通りです。
 また、江戸末期から明治初期にかけて日本国中に天然痘とコレラが蔓延し、アイヌだけではなく日本人も犠牲になりました。江戸末期にコレラが持ち込まれた安政5年(1858)にはわずか55日の間に江戸の人口の17%(26万8057人)の犠牲者がでたという記録が残っています。『北海道百年』(北海道新聞社)によると、本道では明治10年の西南戦争帰りの屯田兵によって当時九州に流行していたコレラが待ち込まれたといいます。この年の罹患者127人中死亡者は93人、死亡率73%(全国では12,710人中死亡者7,967人、死亡率62%)です。明治19年には死者2,155人を出しました。
 国際交流が盛んになると他国で生じた疫病が国内に持ち込まれることは、現在の武漢肺炎(新型コロナウイルスによる肺炎)の世界的流行をみてもよく理解できると思います。
 詳しく先にも述べましたが、クリール人(千島アイヌ)については択捉島以北のアイヌはロシアに帰属しましたが、政府は占守島が日本の領土に属して以来、残留したクリル人106名に対し3年毎に5千円の金品を与え保護しました。


ウソその13 土地私有を認めない

 *政府・道庁は、アイヌの人たちが土地の売買の手続きなどに不慣れなことから、財産の管理をする能力がないと決めつけ、アイヌの人たちには土地の私有を認めなかったのである。(24ページ)

 
小学生用副読本の章でも触れた通り、アイヌに与えられた土地は和人商人たちに、酒や烟草の対価として取り上げられてしまう現実を見かねて道庁の役人たちが取り戻し、表向きアイヌの酋長を代表として共同で管理する組合を作ったりしました(実務は道庁職員が担当)。商人たちはアイヌを唆して個々のアイヌにその土地を取り戻させ、それをまた取り上げるということまでしたのです。見かねた役人が今度は自分の個人名義にしてアイヌの土地を預かり多くの財産を蓄えて、新たに組合を作り全てアイヌを代表とする組合に引き渡すということすら行われました。東北学院大学の名誉教授は北海道新聞に、この間の経緯を誤解して道庁役人がアイヌの土地を取り上げたという記事を書いていました(詳しくは拙著『アイヌ先住民族その不都合な真実20』参照)。

 *和人に与えられた肥沃で広大な土地に比べると、アイヌの人たちに与えられた土地ははるかに狭く荒れたものであった。湿地や傾斜地などはじめから農地に向かない土地を与えられた結果、農業に失敗して土地を取り上げられたアイヌの人たちが多くいた。(24ページ)

 アイヌに与えられた土地は多くの場合酋長が一括管理し、これを和人入植者に貸与して開墾させ小作料を酋長が集めてこれを一族に配分することが行われていましたが、その配分は不公平なもので酋長一族は豊かな生活をする一方で、身分の低かったアイヌは貧しい生活を強いられました。実際に汗を流して開墾したのは和人であったことは強調しすぎることはないでしょう。
 名寄アイヌの北風磯吉などは広大な土地を所有し多くの和人小作人を抱えていたことが名寄市北国博物館の資料で確認できます。故人になられましたが北海道遺族会会長であった旭川市の桜岡勝三さんのお祖父さんたちも、こうして開墾にご苦労されたということをお聞きしています。
 また、和人に与えられた土地は特に広大だったわけではありません。アイヌも和人も同じように5町歩(約5ha)です。屯田兵はこれより少なく3町5反でした。これ以上の土地は有償であり北海道開発やアイヌ撫育のための財源として用いられたのです。


1.反日活動の拠点となったアイヌ協会

  副読本の内容がいかに偏向し、また誤りを通り越して捏造されているかを明らかにしてきました。私の論証はすべて過去の文献に基づいており、お読みになった方々も納得できたと思います。
 私は平成20年(2008)6月6日のアイヌ先住民族国会決議以来、私が子供の頃から周囲で見聞きした実際のアイヌ系日本人と普通の日本人(多くのアイヌ系日本人は普通の日本人として暮らしている)の関わりと、この国会決議は程遠いものであり、考古学・歴史学的事実を無視し、日本人の名誉を著しく傷つける決議であることを訴え続けてきました。そして、さらに深く考古学・歴史学・アイヌ関連古文献や行政関連文献、分子生物学(遺伝学)などの文献を読み漁っていました。
 月刊誌『正論』の拙稿や拙著『アイヌ先住民族 その真実』を読んだ方々から多くのお便りが届けられました。その中には十勝方面のアイヌ共有財産の管理に実際に関わられた方の子孫から当時の共有財産目録や名簿、アイヌの教育に心血を注がれた教師の子孫からの当時の手記なども届けられました。
 また、アイヌ研究者のご子息が実際に私を尋ねてこられ、当時のアイヌ研究者がどれほどアイヌを愛し、資料を得るのに多くの労力と出費を重ねたかを、当時の取材日誌などを拝見させてもらいながら説明を受けたこともありました。
 三代にわたるアイヌ研究を大成された河野本道先生とは、晩年に行動を共にする機会をいただき多くの教えをいただくことが出来、大切な資料を受け継ぐこともできました。
 また、昭和40年代の過激派たちがいかに多くアイヌに関わっていたか、そして現在も関わり続けているかという情報も文献付きで送ってくださる方もおられました。
 “過激派とアイヌ”、当初はあまり興味がなかったのですが、東川町や美瑛町、さらには猿払村ですすめられた“反日石碑建立”の阻止活動をしているうちに、アイヌ団体が共産党や同和団体、元革マルおよび元国労関係者、中核派などと繋がっていること、さらには朝鮮総聯との関りが明白になって、これを公表すると放火や脅迫の被害を受けるようになり、もはや自分一人が扱えるものではないことを知りました。所属や住所、過去の活動歴を記載した百数十名の実名リストも早くから作成し手元にあります。リストの公表は控えておりますが、数名の方々に依頼して、私に万一のことがあった場合には公表してくれるようにお願いしてあります。アイヌ団体や反日団体が活動報告する名簿などは逐一このリストと照合していますが、日教組や労働組合構成員をはるかにしのぐ、朝鮮名の多さと浄土真宗僧侶の多さには驚くばかりです。最近札幌市で行われ、皇室や政府関係者などの肖像を焼いて問題になった“表現の不自由展”の参加者もこのリストに載っていました。
 こうした情報は、過去に北海道警察や公安調査庁などが身辺を警護してくれることもあり、依頼があれば提供するようにしていますが、私は決して警察や公安の意を受けて活動しているのではなく、“アイヌの真実”を求めて調査を続けているにすぎません。そもそも北海道警察や公安調査庁は現場に足を運んで調査していませんし、担当者が短期間で代わるために問題の本質をそのたびに話さねばならず、相手にしている暇がないというのが現状です。
 そのような調査の中で、アイヌ協会やこれを支援する共産党系組織さらには日中友好協会のホームページを丹念に調べてゆくと、恐ろしい事実に突き当たったのです。
 それは、北海道アイヌ協会の幹部が北朝鮮関係団体と結びついていること、アイヌ団体と親密な関係をもつ深川市の浄土真宗住職が代表を務める共産党系団体が中国の国家主席や北朝鮮の総書記に日本国内での活動に関する協力要請までしていることが、堂々とホームページ上に掲載されているのです。
 そして盛んに朝鮮人強制連行や強制労働を報じ続けていた元北海道新聞旭川支社長が、これも深川西高校以来の民青(日本共産党の下部組織)活動家であり、北海道大学時代私の一期上で盛んに運動していたことがわかったのです。当時の北大民青は革マルなど問題にならないぐらいに凶暴でした。昼間は教養部と食堂との間の芝生でアコーディオンを鳴らしながらロシア民謡などを歌い仲間を勧誘し、夜になると角棒の先に五寸釘を打ち抜いて殺傷能力を高めるという禁じ手を使って革マルを集団で襲うという状況で、両者が衝突した北大教養部の天井には血しぶきが飛び散っていた記憶があります。私はノンポリというよりは、彼らのやっていることが子供じみていてどちらにも与しませんでしたが、同級生が革マルの活動家であり自宅付近で待ち伏せに遭ったとのことで、彼を人道的見地から匿ったことすらありました。


2.アイヌ協会を牛耳る北朝鮮のチュチェ(主体)思想

 それほどにまで激しく対立した革マルと民青が、今になってなぜアイヌを媒介として共同歩調をとっているのかを詳しく説明します。
 マルクス主義唯物史観によれば、原始的無階級社会はやがて階級社会そして資本主義社会へと進み、資本主義社会・階級社会の歪が増大して階級闘争へと進展し、資本主義・階級社会が解体されて、無階級社会である社会主義もしくは共産主義社会へ移行するのが歴史の必然、とされています。
 明治維新は地方の下級武士が中心となって行われたため、明治政府は学歴と本人の能力を重視する制度を採用し江戸時代以来の階級制度は解体しました。さらに敗戦後日本では財閥が解体され、貴族・華族といった階級も消滅しました。そのために共産主義者たちは彼らの革命理論である階級闘争によって日本社会を破壊することが困難であることを、六〇年安保闘争の敗北から徐々に気づき始めたのです。彼らが階級闘争に代わる新たな革命理論として発掘したのが、“差別”だったのです。
 日本における差別問題といえば部落問題です。『破戒』(島崎藤村)や『橋のない川』(住井すゑ)を読まれた方も多いと思いますが、私のように北海道で差別ということを全く知らずに育ったものにはピンとこない小説でしたが、大学へ行って本州出身の同級生などにそれとなく実態を聞く機会があり、特に『橋のない川』などは再度読み直して涙したことが昨日のことのようです。
 私は小さいころから父の従弟妹たちや弟同様に医師になろうと思っていましたが、赤緑色弱という遺伝性の色覚異常で小学校高学年の時にその希望が打ち砕かれた経験をもっていました。当時は医学部・歯学部はもちろん、様々な理系・工学系・生物系学部には本人がどんなに望んでも、また努力しても入学を許されないという状況に中学校の頃から自暴自棄になっていました。北海道大学文類に入ったのも貧しい農村から抜け出したいための方便でしかありませんでしたので、家庭教師や土方、引っ越し作業員、酒類配達、麻雀、パチンコ、運転手などアルバイトばかりでろくに勉強などしたことはありません。そんな中で自分もその一人だったのですが、それぞれに様々な事情を抱えながら夢や希望から見放され、日々生活に追われて暮らす社会の最底辺の人々を身近に感じて、被差別部落民の状況がよそごとではないように感じられたのでした。
 幸いにも私は北大入学以来高校1年生から家庭教師をしていた生徒の受験アドバイスのために、各大学の入試要項と過去数年の入試問題をまとめたいわゆる赤本を見ていて、新設の旭川医大が色覚異常者を排除しないことを知り、北大経済学部を退学して受験し運よく合格し、医師になることができました。
 そうした差別問題によって、いわゆる被差別部落民に重くのしかかった歴史の重圧を少しでも軽くしようと制定されたのが、昭和44年(1969)に制定された同和対策事業特別措置法でした。この法律は昭和54年(1979)3月31日で効力を失う10年間の時限立法として制定されました。しかし、その後様々な法案が提出され、平成14年(2002)に廃止されるまでに33年間で実に15兆円の国費が投入されました。地方自治体は同和対策事業を計画し行うことに必要な費用の8割を交付金として受け取ることができたのです。
 巨額の補助金によって様々な利権構造が地方自治体や業界団体に構築されて行ったことは、最近ニュースになった関西電力高浜原発問題や、辻本清美衆議院議員との関係がマスコミに取り上げられて80名以上の逮捕者を出して問題化している関西生コンなどだけではなく、平成16年(2004)の狂牛病騒ぎの時のBSE(牛海綿状脳症、狂牛病)対策事業を悪用した牛肉偽装事件などをみれば明らかです。
 昭和44年の同和対策事業特別措置法制定時に、北海道のアイヌもこの法律の対象にしてはどうかという国からの申し出に対して当時の町村金吾知事は、アイヌと部落問題は全く別である、アイヌは文明社会に遅れて参入してきた人々であり、これを文明社会に導きいれるための法律として北海道旧土人保護法があるのであって、差別問題として扱うべきではないと一蹴しています。
 先にも述べましたが、同和対策事業特別措置法は平成14年(2002)に廃止されました。それに先立つ9年前の平成5年(1993)、被差別部落出身の竹内渉氏が社団法人北海道ウタリ協会事務職員になっています。平成21年(2009)に出版された氏の著書に紹介されている略歴その他によると、昭和29年(1954)、埼玉県生まれ。昭和54年(1979)、北海道大学経済学部卒業。平成5年(1933)、社団法人北海道ウタリ協会事務局職員(平成20年著者が、アイヌの定義について直接電話でお話しさせていただいた時には事務局長だったと記憶します。)、現在北海道アイヌ協会事務局次長。
 以上のことを踏まえながら、同和対策事業特別措置法と昨年(2019)の“「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(以下「アイヌ新法」)”を見比べてみると、この法律の目的がはっきりとわかります。

 (交付金の交付等)
  第15条 国は、認定市町村に対し、認定アイヌ施策推進地域計画に基づく事業(第10条第2項第2号に規定するものに限る。)の実施に要する経費に充てるため、内閣府令で定めるところにより、予算の範囲内で、交付金を交付することができる。
 2 前項の交付金を充てて行う事業に要する費用については、他の法令の規定に基づく国の負担若しくは補助又は交付金の交付は、当該規定にかかわらず、行わないものとする。
 3 前2項に定めるもののほか、第1項の交付金の交付に関し必要な事項は、内閣府令で定める。

 本年度からアイヌ関連事業を行う地方自治体に対して必要額の8割が交付金として出ます。同和対策事業特別措置法は再三延長されましたが、当初10年の時限立法でした。アイヌ新法には現在期限が銘記されておりません。彼らの目的は「アイヌの人々の誇りが尊重される社会」ではなくて、実にこの補助金なのです。そもそも修学資金・免許取得・雇用職業訓練など様々な補助金をもらって、しかも不正をしながら返金もしないで、さらに自治体事業を隠れ蓑に補助金をむしり取ろうというような団体のどこに“誇り”を感じることができるしょうか。
 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会」を望むなら、まずアイヌ自身が一生懸命働き、学んで日本国社会に貢献することが求められるのではないでしょうか。副理事長が二代続けて北朝鮮のチュチェ思想を日本に広げるための組織の幹部であり、しかもアイヌ関連予算の不正受給を指摘されているようでは、新法にどんなに美しい文言が並べられていようと、普通の日本国民は「アイヌの人々の誇り」を尊重することなど無理というものです。


3.チュチェ(主体)思想に汚染されたアイヌ協会が地方自治体を乗っ取る日

 私は今から12年前に“アイヌ先住民族国会決議”によって日本の歴史に取り返しのつかない汚点を残したこと、北方領土交渉に大きな不利益をもたらすこと、そしてアイヌ団体が様々な要求をエスカレートさせることを指摘しました。
 それに対して、国会決議の中心人物である鈴木宗男氏は、私の懸念などは政治を知らない素人の戯言であると一蹴し(『月刊日本』)、また今津寛氏は沈黙したまま何の説明責任も果たさないままに政界を引退してしまいました。
 私が警鐘を鳴らし続けた上の3つの問題は、不幸にもすべて現実のものになってしまいました。
 
私は次の10年間に何か起こるのか、声を大にして叫びたい気持ちでいっぱいです。
 関西電力高浜原発問題が昨年大きな問題として取り上げられました。しかし、多くのテレビや新聞は関電役員を叩くばかりで、問題の本質には一切触れることはありませんでした。産経新聞や月刊誌・週刊誌、インターネットの情報を総合すると、高浜町の元助役(故人)が先に述べた同和対策事業特別措置法を利用して様々な利権構造を構築し、町役場に不可解な経緯で職を得て、やがて助役(現在の副町長)にまでのし上がり町政を牛耳っていたことがわかります。
 これから、アイヌ協会についても同じことが行われようとしているのです。そして同和対策事業特別措置法よりもたちが悪いのは、北海道アイヌ協会副理事長をはじめ多くのメンバーが北朝鮮の金一族を首領と仰ぐチュチェ(主体)思想に汚染されているということです。
 私か懸念するチュチェ思想による地方自治体乗っ取りは、白老のウポポイの200億円にはじまって、今回のアイヌ新法15条によって全道・全国の自治体に広がってゆくでしょう。
 町が計画するアイヌ支援事業や文化保護事業には国から8割の予算がつきます。事業の計画の中心にはアイヌ協会から派遣された人物(Aアイヌ)がつくことになります。Aが事業の継続によって町に数千万単位の交付金をもたらします。町長も徐々にこのAに頭が上がらなくなり、Aを副町長に指名し議会もこれを承認します。Aはあくまでも選挙を経ない副町長のままですが、町長が代わっても町の実権を握り続けることができるのです。
 この地方自治体乗っ取り計画を成就させるには、日本人の警戒心を、とりわけ若い世代の警戒心を奪い取らねばなりません。もうおわかりでしょう。この副読本の意味は、もしかするとアイヌ団体は気づいていないままに利用されているのかもしれませんが、アイヌ団体と背後にいる北朝鮮による地方自治体乗っ取り計画の狼煙であり、アイヌ新法は橋頭保そのものなのです。
 「核とミサイル開発で世界の自主平和を主導する朝鮮」(『自主の道』163号目次)と公言するような団体の幹部が編集を主導するアイヌ副読本は恐ろしい思想教育書だということを忘れてはなりません。


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