細川日記

「東条英機暗殺計画」と「近衛文麿の自死」に付いて書かれた日の記述に興味を持ちました。

細川日記

 竹田恒泰さんのユーチューブ動画( 【竹田学校】歴史・昭和時代編(戦前)㉓~東條首相暗殺計画~ )を視聴していたら「高松宮宣仁親王とその御用掛であった細川護貞も東条英機暗殺計画を企てたものの実行しなかった。そのことが細川護貞(ほそかわ もりさだ)の『細川日記』に書いてある。」という解説がありました。
 そこでその細川日記を読んでみることにしました。
 古い文体であり登場人物も多数なので、私にはとても読みにくいものでしたが、日記の大雑把な流れは確認できました。
 ちなみに、東条英機暗殺計画については、竹田さんの解説のような記述にはなっていませんでした。
 今回購入した物は改訂版ですが、もしかしたら竹田さんが手にしているものと一部内容が異なるのだろうか・・・。

 一方で、林千勝さんは著書やユーチューブ動画で「近衛文麿は、昭和天皇を排し藤原文麿(近衛家は、藤原北家の嫡流で、五摂家の筆頭)として日本を動かしたかった。共産主義者に利用されていた。」という趣旨の解説をし、近衛の自殺に疑問を呈しています。
 そういう見方があることも本書を手にする動機の1つでした。
 そこで、それらのことが書かれているであろう2日分の日記をコピペさせてもらいました。

 ウィキペディアでは細川護貞について、次のような解説をしています。
 熊本藩主細川家の第17代当主。 配偶者は近衛文麿の次女の細川温子。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。1943年(昭和18年)、昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王の御用掛となり宮中グループを中心に各方面の有識者から情報や意見を収集し、海軍グループで同郷出身の高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い、戦時中の動静を「細川日記」として戦後発表している。
 戦後は政治から一線を引き、細川家当主として生きた。
 長男の細川護熙が政界入りを希望すると反対し、「そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」と勘当を言い渡した。
 細川護熙が日本新党代表として首相に就任した際のインタビューで、護貞は息子の首相就任を喜ぶこともなく「あれの性格ではいずれ投げ出すだろう」という趣旨の発言をし周囲を唖然とさせた。しかし結果的に翌年4月に護熙は電撃辞任しており護貞の予見は当たることになった。

 細川護貞さんの「細川日記」 を紹介するために、以下に2日分の日記をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

細川日記 細川護貞

 


七月十五日

 今朝八時、高松官邸伺候。
 恰も岡田大将拝謁中なりとて、約四十分別室に御待ち申し上ぐ。拝謁を願ふの時、殿下には背広に開襟シャツを召され、「待つたかい」と仰せありたり。余は昨日迄の概要を申し上げ、三殿下が上奏遊ばされたる由に漏れ承ると申し上げたる所、「僕は行かなかった。木戸に相談した所、本庄大将が統帥の確立と云ふことについて東久邇、朝香両殿下に申し上げたとのことであったので、夫れではその方のすぢから申し上げられた方がよいと思って行かなかった。多分東条が参内する前であったらう。そこで今、岡田大将が来て陸軍は東条陸相、後宮総長、海軍は沢本海相、島田総長で行くことになったと云って居ったが、岡田もあの連中の心臓の強いのにはあきれてもう匙を投げたと云って居った」との仰せなりしを以て、余は、「両殿下が上奏遊ばされたることも又、御上が東条に仰せ遊ばされたることも、単なる形式上の統帥の確立に非ずして、主として人の問題なるかと拝察仕ります。即ち統帥と軍政を一処にしたる当人が、今又是を分けて平気で居ることが既に常軌を逸すると申すか、責任を知らぬと申すか、言語道断の行為と思ひますが、尚、問題は是を一つにするとか、別にするとかのことではなく、東条と島田とがいかんと云ふことだと思ひます。そこで内府も統帥の確立と申したことではあり、形だけ整へてごまかさうと云ふのでは、最早絶対にいけません。従って、前に上奏遊ばされた両殿下が、再び上奏遊ばして、此の点を明確に遊ばすことは、両殿下の御義務かとさへ存じます。此の点、殿下より一つ御配慮を願ひたいと思ひます」と申し上ぐ。殿下は「うん、だが岡田も投げてゐるし、まあ今度はこれでいゝとして、どうせ永続きはしないんだから、又次の機会にやったらいゝではないか」と笑ひ乍ら仰せあり。
  余は今日の一刻が大切なることを、重ねて言上、是非御尽力遊ばさるゝ様、御願ひす。又、殿下には木戸内府が中間内閣として、寺内を考へ居ることを指摘遊ばされ、「もうそんなものは飛んでしまって、宮様内閣になるかもしれんね」と仰せあり。「僕も宮様内閣でなくてはいかんと、木戸に云ったら、重臣の中に反対の者が居ると、木戸は云って居った」と。又、「今の東条内閣では、一種の恐喝政治だから、何をやるかわからないし、此の前の二・二六の経験があるから、あれを逆用して、宮城を近衛兵で取り囲むかも知れない。そんなことになって、こんなこともあるまいが、他に政権でも出来ることになったら、承久の乱だからな」。
余は、「仰せの通りなるを以て、若しかゝる気配が見えましたる時は、殿下には恐れ乍ら中大兄皇子と御成り遊ばさるゝ御決心が肝要と存じます。手を下します者は、海軍にも居りませうが、此の私でも御命令あれば、いつ何時でも馳参じます。而し昔、明智光秀が謀叛を致します時にも、是の相談に与りました左馬介は、事の成否は兎も角かゝる言葉が出た以上、断行せねばならぬと申して、事を挙げたと云はれて居りますが、余程御言葉に御注意遊ばされませぬと、逆に是を口実として、弾圧を下さぬとも限りませぬ。何卒事を挙げまするその日まで、重々仰せ無き様御願ひ申し上げます」と申し上げたり。又、敵は何処に来るかとのことに就いては、「琉球は飛行機の爆撃圏内なるも、飛機そのものがないから駄目だし、又、艦隊を三つも持ってくれば、何なく押へられてしまふ。敵は、第二戦線でもさうだが、十一二ケ所に上陸を試み、その中半分も成功すればいゝと云ふ様な大ザッパな計画でやって来るだらう。その時、老幼婦女子迄カルタゴの時の様にやれと云ったって、近代戦ではそんなものは兵力にはならないから、従って一億玉砕なんてことは問題にはならぬ」と仰せありたり。 約四十分程にて退下。荻窪に行く。何等の情報なし。内閣改造はほゞ成功すべしとの見透しにて、若しこのまゝ続けば旅行して掛り合はぬことにしようと云ふ如き閑談等す。
 三時、外務省出仕。加瀬氏と会談。氏は松平秘書官長より、昨今の情勢を聞知し居り、要するに人の問題にて、東条その者が替らざる限り、日本は危しと云ひ、重光外相も水曜日、東条に招かれ約一時間話したるも、その時率直にこのまゝにては自信なきこと、東条首相その人に、人心が離れ居ることを述べ、改造の無意味なるを説明して帰りたるを以て、近衛公の方からも、内府か又は直接宮中に対し奉り運動する様にとのことなりしを以て、余は、「最早人を依頼すべき時に非ず、若し大臣にしてその御考へならば、閣議の席にて総辞職を唱へ、若し聞入れられずば、直に参内、単独上奏を為せば、是が最も捷径なり。是非その決心をされんことを望む」と云ひ置きたり。氏は、「海軍も、翼政も重臣も国民も、皆かく迄反対しあるも、あの男のことなれば、海軍大臣を得ば、一応改造に成功すべし」と云ひたるを以て、余は、「今朝聞きたる所では、既に沢本、島田に決りたりとのことなり」と云ひたる所、「其の後、島田はやめさせることとなり、今、永野が熱海に伏見宮殿下を御訪問申し居り、海軍は米内大将を推し、東条は是と交渉中なるも、米内氏が受けざることを望むなり」と。余は「是亦一法なり」とし恰も面会を申し込まれたる矢部貞治氏に、このことを語り、万難を排し総ゆる努力を傾けて、米内氏を東条内閣に出すことに反対する様、伏下、高木氏等に伝へられんことを云ひたる所、既に両氏共その意向にて活躍中なりと思ふも、尚その由伝ふるとのことなりき。
 六時、鎌倉帰宅。加瀬氏より電話あり。明朝十時半、逢ひたしと。又、富田氏鎌倉駅より電話あり、散歩しつゝ今日の情勢を伝ふ。


十二月十七日

 余は、去る三日東京発、八代に向ひ、約十日を彼地に過し、一昨十五日夜半、東京に帰着せり。其間八日、近衛公、木戸侯に対する容疑者としての逮捕令の出るあり、余は新聞によりて、公が軽井沢より直接、十六日に大森に入獄せらるゝことを知りたるを以て、十三四日に帰京すべく、急行券の手配を為したるも、漸く十四日に人手するを得たるを以て、十四日十一時五十五分、八代発にて上京の途につく。博多にて急行に乗換へたるも超満員にて座席なく、遂に京都まで立ちづくめにて来りたる有様なり。而して上京を報ずる電報は、四日経るも未だつかず、漸く十五日深更帰宅するを得たり。
 而して、翌日、公邸に電話せるも故障にて通ぜず、十時、家を出でゝ十一時、荻外荘着、門前、新聞社の車あり、外人あるを見て裏口より入る。此の時、通隆君稍眼をはらして来り、何気なく挨拶す。然し乍ら何となく一体の様子異り居りしを以て、公の所在を問へば、御居間なりとのことに裏より向へば、是は如何に床に伏したるまゝ皆して位置を直す所なりき。 余は不吉を予感しつゝも、すぐ信ずる能はず。前日車中にて未知の人の語り居たる公の病のことを思ひ浮べて、或は病ならんかとも思ひ、或は自決かとも疑ひつゝ応接間に到る。此処には近衛秀麿子、水谷川男、通隆君、富田氏等ありて、思ひ思ひに沈み顔なり。余はかくて始めて万事休せることを知りたり。余は通隆君に請うて対面す。尊容平常に異らず、恰も眠れるが如し。余は悲しみよりも、むしろ茫然たりき。
 公は八日の逮捕令を軽井沢にて聞き知りたるも、その前五十九名の逮捕令の出るや、既に覚悟する所ありたるものの如しと。牛場氏は八日より終始行を共にし、十二日には軽井沢より帰還、来客を避けて、長尾邸に入り、十四日荻窪に帰還。公は始めより出頭の意志なく、側近に対して、「若し出頭を拒絶せば如何になるか」との質問を発する等のことあり。
 十五日夜は、富田、山本有三、岸、牛場、松本氏等多数と深更まで語り、其の間児島喜久雄氏は柿沼博士を伴ひて、公の健康診断をなし、若し出来得れば出頭を延期せんとしたり。 是は公が、「出頭する前に、支那事変以来のことをまとめて置きたい」との希望を考慮しての、側近のすゝめに出でたることなりしも、医師は延期の確信なき由を語るや、自ら中村公使と会見、延期せざること、及び明日、中村公使の出迎への必要なきことを伝へられたりと。 而も此の時、公は一言出頭のことに触れず。為に側近者は益々憂ひを深くし、公の自決の翻意を熱心にすゝめたりと。而して午前一時頃、牛場、松本両氏を残して、他の来客は帰り、通隆君は公のベッドに入りて共に種々のことを語りたり。即ち我国の将来が共産主義化さるゝこと、従って国体護持が極めて困難なること、近衛家に生れたるものとしては、あく迄国体護持に努むべきこと等語り、又、家事についての通隆君の質問に答へて、一切は富田氏等と相談すべきこと、財産等のことは、小林一三氏に相談すべしと語り、三時頃、通隆君は意を決して「それでは明日は行って下さいますね」と正面切って問ひたる所、いとも事なげに、「あゝそれあ行くとも」と答へられた。更に通隆君は、「今日は親子で一処に寝ませうか」と云ひし所、「僕は人が居ると寝られないから、一人にしてくれ」といはれた。そこで通隆君も別室を出たのであった。
 午前六時、夫人は公の部屋に燈あるを見て入室せる処、既にこと切れては居たが、体の温みはあったと。
 公は二時頃、通隆君に、「僕の心境を書かうか」といはれ、通隆君に筆と紙を要求されたが、附近に筆がなかった為、鉛筆を渡し長い紙を切って渡した処、「もっと立派な紙はないか」といはれ、近衛家の便箋を探して、左の如く書いて渡された。
 僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂、戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは、堪へ難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から、今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。
 しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへ、そこに多少の知己が存することを確信する。
 戦争に伴ふ昂奮と激情と、勝てる者の行過ぎた増長と、敗れたる者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に本づく流言蜚語と、是等一切の所謂輿論なるものも、いつかは冷静を取戻し、正常に復する時も来よう。其の時初めて、神の法廷に於て、正義の判決が下されよう。
 側近のものは、此の日此の事あるを憂へた。憂へたればこそ、深更に到るまで翻意せしむべく努力し、あまつさへ公が風呂に入りし時、その衣服を探し部屋を探して、毒を求め遂に得なかった。又公爵夫人は、殆ど此の事あるを予期せられたものの如くである。通隆君が側近の請ひを納れて、毒を探し求めんことを夫人に相談したる時、夫人は、「あなたは皆さんと一処に探されたらいゝ、然し私は、お考への通りになさるのがいゝと思ふから探しません」と答へられ、公が就寝の前、枕頭に水を求められた時も、その通り是を備へられた。
 米国側は此の朝、直にキーナン検事の代理を派し、検屍を行ひ、毒の入りたる小壜を持ち帰り、其の他夫人、通隆君及び牛場氏に、種々の質問を為して帰った。而して其の後、此の公のメモは発表を禁止された。これは通隆君に対して渡される時、「字句も熟しては居ないから、君だけに渡す」とのことを述べられたものである。然し、見事に米国の法廷を拒否するの意志を表はし、死を以て勝てる者の横暴に抗議して居られる。
 さればこそ、キーナン検事は、通隆君の談話及び此のメモ、自決前後の模様を発表することを厳禁した。加ふるに今日、キーナン検事は、「良心の苛責なきものは恐れず」とのステートメントを発表するに到った。正しく是、横暴である。
 公が如何にして薬物を入手されたか。是は一つの謎である。恐らく八日の逮捕令と共に、死を決意されたであらうが、最後まで自己の進むべき道の研究を怠らず、衆議を尽された。入院の問題の如き、拒絶のことの如き。
 余は羞しいことに、公が此の決意と勇気を持たるゝことを信じ得なかった。八日の逮捕令を知った時、余は公が入獄せらるゝことに、何の疑ひもいだかず、電報を以て、「九州旅行中御目に掛る機会なし、くれぐも健康に注意あらんことを」と、最後の決別の辞を送ってしまった。然し今にして思へば、公が此の時、此の方法をとられる公算は、極めて多かった。その一は、通隆君にも語られた国体護持の困難なることである。或は、戦争責任を至尊にまで及ぼさないと、何人が云ひ得よう。公は最近も人毎に、「陛下に及ぶことがあっては、臣子として生きて居られない」と常に云って居られた。而して公がよし法廷に立って、陛下を弁護申し上ぐるとも、時潮と米国の感情は、とても是を防ぎ得ないかも知れないこと、その二は、公が米国の法廷に於て、東条と立合って、黒白を論ずる如き、ジャーナリスティックな興味以外の何物でもないことを知って居られた。三、公の政治的生命が、既に終ったことも、よく承知して居られた。四、よし死刑を免れて十年の刑を受けたとしても、肉体的生命も亦危険であることを知り、此の屈辱と苦痛を受ける前に、生命を絶たれることは、想像し得ることである。五、共産主義的社会に、何の希望があり得よう。かくて公は最も合理的に、自己の生命を絶たれた。寿五十五。
 余は未だに茫然たるの時期を脱しない。然し悲しみは刻々に深まり、寂しさは時々胸をうつ。吾邦は最も聡明なる人物を喪った。而して余は最も寛仁なる父を、主人を亡った。だが然し余は思ふ。公は死すべき時に死なれた。余は更めて公の聡明と勇断に、最上の敬意を表する。而して余が最後の機会を失ひたるに就いて、無限の悲しみと悔恨を以て公に御詫びする。

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