官愚の国

 ツイッターやネット番組などで高橋洋一さんの発言を見聞きして、優秀な方だと思っています。
 レベルは違うにせよ、私も考え方は同じ方向のように感じています。
  高橋さんの著書、初めて拝読しました。

官愚の国

 ご自身が元官僚であり、「霞が関を敵に回した男」と呼ばれる高橋さんが解説する官僚の世界、面白いし勉強になりました。
 単なる暴露本ではなく、日本の政治・官僚制度が良くなるための提言もあり、当事者である政治家・官僚の皆さんも謙虚に耳を傾けてみてはどうかと思いました。

 ネット番組などを見ていると飄々とした雰囲気が感じられる高橋さんですが、5章の「政治家に殉じる官僚はいるか P197」では、なかなか男気がある方なのだなと感心しました。

 高橋洋一さんの「官愚の国」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

官愚の国 高橋洋一



目次

 まえがき  3 

 1章 日本の官僚は、実は“無能”だ 13
 「試験に通ったエリート」に弱い日本人 14   / 官僚の採用試験の仕組みはどうなっているのか 16   / 事前にリークされる「問題の中身」 19   / 私か出題委員を務めたときは…… 21   / 合格のために必要な受験テクニックとは 23   / キャリア試験で植えつけられる官僚特有の資質 25   / 天才は、いらない 28   / 今も残る「脱亜入欧」の遺伝子 30   / 「通産省批判論文」の反響 35   / 日本の成長産業は「官」に従わなかった 37   / なぜ「日本株式会社論」は広まったのか 41   / 産業政策は役人の失業対策 44   / 失われた大蔵省の許認可権 47   / すさまじかった金融機関の接待攻勢 49   / 民間業者が役所の仕事を肩代わり!? 50   / 「袖の下」と「誘惑」 54   / 増税政権の陰に有名財務官僚がいた 57

 2章 「官僚神話」という幻想 63
刷り込まれた「官僚信仰」 64   / 外国にあって日本にない仕組みとは 67    / 政治任用ポストを増やさなければ官僚が暴走する 70   / 『男子の本懐』が広めた偽りの官僚像 72   / 大蔵省の新人研修で叱られた 74   / ようやく分かった金解禁の経済学的評価 78   / 通産官僚は「全知全能」なのか 80   / 官僚は「市場」と「民主主義」が大嫌い 83   / 大蔵省を“スライス”する案とは 86   / 松本清張の“ミスター通産省”分析 89   / 「天下り」をどう英訳するか 92   / 東大卒でなければ人にあらず 94   / 政治家の首が飛んでも、官僚の首は飛ばない 98   / 公務員も失業保険に加入せよ 100   / 3回“殺されかけた”私 103   / 110年も続く「官のかたち」 108

 3章 「官庁の中の官庁」大蔵省の秘密 111
国家公務員の「人事部」はどこにありますか? 112   / 官僚の給料と人員配置は、すべて財務省が握っている 115   / 「われら富士山」 119   / 大蔵省はGHQの改革をも食い止めた 122   / 財務省のもうひとつの力、国税庁 125   / 脱税だけは逃げられない 127   / 税務署長時代、私のもとに飛んできた政治家 130   / 同じキャリアでも国税庁と大蔵省には「差」がある 132   / 日本の国家予算は財務省が先に決める 136   / 復活折衝の「握り」とは何か 139   / 財務官僚が竹中総務大臣を恐れた理由 141   / 財源不足は「埋蔵金」で穴埋め 143   / 「官僚言いなり」が増税を招く 145   / IMFに「増税」をアナウンスさせたのも日本の財務官僚だ 148

 4章 世にも恐ろしい官僚の作文術 153
これが「官僚のレトリック」だ 154   / 官僚作文に仕掛けられた「罠」の実例 157   / 数学的能力がないからレトリックを使う 160   / なぜ「数値目標」を避けたがるのか 166   / 財投改革で知った官僚の欠陥 169   / 日銀の大蔵省攻撃 172   / たったひとりのALMプロジェクト 173   / ロシア語ができないのに「駐ロシア」 175   / 省を貫くファミリー意識 177   / 大蔵省大運動会は100年も続いた 180

 5章 霞が関を“統制”する方法 183
首相も官僚を“尊敬”していた? 184   / 言うことを聞かないのなら辞めてもらえ 186   / 官僚を「使いこなす」ことは、実は困難だ 190   / 首相官邸“裏の秘書官”グループ 193   / 政治家に殉じる官僚はいるか 197   / 中央銀行の「独立性」には二つの意味がある 199   / 失敗しても責任を問われない不思議 201   / 円高ショックのときに日銀は何をしたか 206   / 田中角栄は「官僚を使いこなした」のか 209   / 「党人派」VS「官僚派」 213   / 「過去官僚」たちの正体 215   / 政治主導を実現する第一歩とは 217


まえがき

 なぜ日本では、いつまでたっても「政治主導」ができないのか。それは官僚が抵抗するからだ、と読者はすでに知っている。
 民主党政権の標榜する「政治主導」が画餅に帰したことは言を俟たない。2011年1月、菅直人改造内閣に経済財政担当相として与謝野馨氏が入閣し、78歳の藤井裕久氏が官房副長官に起用された。与謝野氏の「たちあがれ日本」離党はもとより、「健康上の理由」から一時は財務大臣の職を辞した藤井氏の復帰に、眉をひそめた国民は少なくない。
 複数のメディアも指摘するとおり、この人事には明らかに財務省の意向が強く働いていた。稿をあらためて述べるが、水面下での牽引者は丹呉泰健前財務事務次官と言われる。消費税増税論者である政界の重鎮二人を閣内に送り込むことで、近い将来の増税への布石を打つ。増税はつねに財務省の。“最終目標”のひとつである。
 ここに「政治主導」が骨抜きにされ、「官僚主導」が優越した典型を見るのは私だけではあるまい。官僚にとって政治主導は、権限・権益が侵害されることを意味する。自らの思惑どおりに政治権力を操りたい。そのために策略をめぐらすのが官僚の習性である。
 むろん、この官僚主導という日本国の構図は今に始まったことではないし、周知のように、かねてから官僚制の弊害は批判に晒されてきた。
 それを承知で、私は日本の官僚の持つ特質を体験的に指摘してゆこうと思う。1980年に財務省(当時は大蔵省)に入省して以来、退職までの28年間を、私は「霞が関」という面妖な官僚集団の中で過ごした。今では「霞が関を敵に回した男」という、ありかたい称号を頂戴している(あるいは「霞が関埋蔵金男」とか「暗黒卿」とも呼ばれる)が、霞が関の住人として身をもって味わった諸事象から、官僚と官僚制を論じるのが本書の趣旨である。その意味で、数多あるステレオタイプの官僚制研究や官僚批判とは一線を画すつもりだ。なお、ここで言う「官僚」とは、いわゆる「キャリア」を指す。
 民主党の枝野幸男氏は、はからずも「政治主導なんてうかつなことを言ったから、大変なことになった。与党がこんなに忙しいと思わなかった」と公言した。官僚に依存しなければ政権与党として機能できない、と泣き言を漏らしたに等しい。党幹事長代理時代の2010年11月14日のことである。その枝野氏が今、官房長官の要職を務めている。菅氏に至っては、内閣改造後に事務次官たちを集め、「政治主導に行きすぎがあった」と陳謝したという。まるでマンガである。
 政治主導の政治、と書いてみると、その字面にどこか奇妙さを覚える。奇妙さの理由は「政治主導の政治」が当たり前のことだからだ。日本はいつまでたっても、当たり前のことができない。なぜなのか。本書はその解を求める試みである。
   2011年3月 高橋洋一


民間業者が役所の仕事を肩代わり!? P50

 MOF担の仕事は官僚から情報を仕入れることだが、もっと大きな仕事がある。役所のやることを“肩代わり”してしまうのだ。どういうことかと言うと、役所が何かの規則をつくるときに「お手伝いします」と近寄ってきて、本当に手伝うのである。
 私は入省後、証券局に配属され、公正取引委員会に出向してから、1988年にふたたび証券局に戻ってきた。そのときの私は課長補佐で、「お手伝いしますよ」と言ってくるMOF担がたくさんいた。私はマニアックで何でも自分でやってしまうのが好きだから、彼らに頼むことはなかったが、役所の中には丸投げして、ペーパーの作成までやってもらう者もいた。
 制度設計から資料作成まで、すべて業者の人に任せてしまう。当人は夜、飲んで遊んで、次の朝には業者がつくったペーパーを「私かやりました」と、平然と上司に提出する。嘘のような本当の話である。
 MOF担が手伝っても、官僚は絶対に「業者にやってもらった」とは言わない。しかしペーパーを見れば分かるものだ。政令や法律が、金融業者の手によってつくられてしまうのだから、中身は自ずと業者に都合のいいものになる。
 私は1993年に大臣官房金融検査部に移り、不良債権問題を担当した。上司から「不良債権処理のプランと、そのための規則をつくれ」と命じられたのだが、どこで聞きつけたのか、全銀協(全国銀行協会)の人がすぐにやってきて「何かご用はありませんか」と言う。
 「とくにありませんけど」
 と答えても、しょっちゅう来るので、不思議に思いながらも無視していた。そうこうしているうちに、自分でプランと規則をつくってポンと提出したところ、また全銀協の人が来て、今度はこう言われた。
 「高橋さん、困るんですよ。私たちの立場がなくなります」
 何のことかと思って話を聞いてみると、
 「高橋さんがこの規則をつくるのは知っているから、全銀協としてチームもそろえて、全部こちらでやるつもりだったんです。なのに、高橋さんがそれを蔑ろにして、ご自分でつくって出してしまった。私たちはメンツがつぶれて大変です」
 これには私のほうがびっくりした。以下、私と全銀協の人とのやりとりである。
 「だって規則は私かつくるんじゃないの」
 「そんなのは高橋さんしかいませんよ。普通の方は、みんな私たちに頼んでやっていましたよ」
 「みんな、って」
 「○○課の××さんも、△△課の□□さんもそうです」
 「そういうふうに言われても、私は自分でつくっちゃったから」  ・・・。
 と押し問答になっだのだが、銀行業界で私の評判は下落した。彼らにすれば、役人が勝手に規則をつくるなど言語道断で、腹が立つかのだろう。マスコミを通じて私の悪口を流布させたりもした。またマスコミもマスコミで、銀行業界の意向を真に受けて、私がつくった規制をさんざん叩いた。
 私か手がけるまで、不良債権処理の仕方は世界の標準からずれていた。というか、日本の銀行に都合よくずれていた。それを直してしまったものだから、銀行業界にとっては非常に不満足だったのだろう。


東大卒でなければ人にあらす P94

 日本人の「官僚信仰」は「官僚無謬神話」に基づいて形成された幻想である。無謬神話は官僚側自身から流され、かつ官僚に接して何らかのメリットを得る民間側からも流れただろう。神様ではあるまいし、人間が無謬であるはずがない。官僚のやることは間違いの連続である。むしろ、間違いをしでかしたときに、それを正すシステムが日本にないことが問題なのだ。なぜ間違いを正せないのかと言えば、検証のしようがないからである。
 無謬神話の形成には、前章の冒頭で述べた「お勉強秀才」へのあこがれも一役買った。庶民から見れば「官僚は東大卒で学歴が高い」ということで尊敬の対象となる。終戦直後ごろまでは、学歴が社会での地位に直結していたのだろうが、官僚の世界では、その価値観が今も尾を引いている。
 官僚の取り柄と言えば、「有名大学を出た」「学生時代の成績が優秀だった」「公務員試 験の成績が高得点たった」……と、一般社会では通用しないことばかりである。
 ところが、バッシングを受ける反動なのか、官僚たちは「国民はバカで、自分は賢い」と思い込むことでアイデンティティを保っている。実際に官僚と話をすると、潜在的に自らを賢いとする意識が惨み出てくる。そして必ず「大学はどこですか」という話題になる。出身大学の偏差値で人物の優劣を測るような、とんでもない価値観である。
 最も有名なのは故宮澤喜一氏だろう。東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵官僚から政治家に転じた第78代総理大臣である。宮澤氏は人に「どこの大学?」とは言わない。「あんた、(東大の)何期生?」と聞く。要するに東大卒が前提の質問なのだ。聞かれた側か東大卒でないことが分かると、宮澤氏は露骨に見下したという。彼は故竹下登氏と初めて会ったときも、早稲田大学卒の竹下氏に向かって「何期ですか」と尋ねたらしい。後年、竹下氏率いる経世会は官澤氏と敵対した。
 私か大蔵省に入省した1980年、新人同期23人のうち、私を含めた19人が東大卒だった。あとは京大卒が2人、一橋大卒が2人である。一部の東大出身の連中は、一橋大出身者のことを陰で「ワンブリッジ」などと呼んで蔑んでいた。東大卒の品性を疑う下劣な話である。
 また、私は1982年に大蔵省財政金融研究所に異動したのだが、そこに上司として、日本開発銀行(現在の日本政策投資銀行)から竹中平蔵氏が出向してきた。竹中氏は一橋大学経済学部の卒業である。彼は二重の意味で大変だったと思う。
 「二重の意味での大変さ」とは何か。ひとつは日本開発銀行(関銀)出身であるというこ とだ。開銀の総裁は歴代、大蔵事務次官の天下り先で、次官以外にも大蔵省OBがたくさん勤めている。言わば大蔵省の植民地同然だった。大蔵省が宴会を開こうとするとき、場所に困ると「じゃあ、開銀の寮でも使おうか」という具合である。竹中氏は、そんな格下扱いの銀行から本省に送り込まれたのだった。
 もうひとつは言うまでもなく学歴である。民間から大蔵省に出向する場合、多くは東大卒が選ばれる。他の大学出身者では東大卒の大蔵官僚と話がしにくいだろうから、との配慮がなされるのだ。ところが竹中氏は一橋大卒だった。彼が大学を受験した1969年は東大紛争で入学試験が中止され、そのため東大生になり損ねたという側面もあるかもしれないが、学歴は変えられない。
 大蔵省財政金融研究所からすれば、竹中氏は“格下の子会社”から“格下の学歴の男”がやってきたように映っただろう。少なくとも心理面で竹中氏を軽んじていたことは想像に難くない。いやらしい世界である。


同じキャリアでも国税庁と大蔵省には「差」がある P132

 本来、国税庁は独立した官庁であって、財務省の“下部組織”扱いに異議を唱える人もいるだろう。たしかに財務省と国税庁は試験区分も別個だし、国税庁は財務省の「外局」(内部部局に対して用いる用語。専門性の高い事務・実務を担当する組織で、本省と並立関係にあるとされる)なのだから、日本の省庁機構上は対等の存在である。
 それでも私が国税庁を財務省の「傘下」と見なさざるを得ないのは、それぞれの職員間に存在する微妙な「差」を肌で感じてきたからだ。
 国税庁の上級職員を「庁キャリ」と呼ぶ。「国税庁のキャリア」という意味である。このような呼び方があること自体、国税庁を見下しているのではないか。財務省のキャリアは「省キャリ」か、と思いきや、何のことはない「本省キャリア」だ。
 それはともかく、かつて「庁キャリ」も「本省キャリア」も、比較的若手のうちに地方の税務署に出向し、税務署長を経験するという制度があった。私も前述したように1年間、税務署長を務めた。場所は四国、高松国税局観音寺税務署である。このとき知った財務省(当時は大蔵省)と国税庁の「差」から説明しよう。
 まず、税務署に出る際の年次に差がついている。大蔵省の場合は入省後5~6年目、国 税庁は入庁後10~12年目であることが多い。税務署での現場体験をする時期が、大蔵省の ほうが早いのである。
 次に赴任する税務署の規模でも差がつく。規模はおおむね管轄エリアの人口に比例するが、四国ではその規模に応じてA、B、C、Dの4段階にランクが分かれていた。たとえば香川県高松市のような県庁所在地や大都市の税務署はA署、それに次ぐ上位5~6番目までの中核都市ならB署、地方都市はC署、もっと小さい都市がD署となる。
 私がいた観音寺税務署はB署だった。ところが同じ時期に国税庁から香川県に派遣された人、つまり「庁キャリ」は、C署の署長に就いた。私は微妙な思いをしたが、彼は彼で「庁キャリはそういうものだ」と割り切っていたようである。いずれにしても、この「本省キャリア=B署、庁キャリ=C署」の序列には、上下関係が明確に表われていると言えるだろう。
 さらに財務省と国税庁の上下関係は、人事面での昇進にも及ぶ。政府機関総体をひとつの企業とすれば、各省庁は「部」であり、官僚たちは各部に所属する社員に当たる。したがって社員が人事異動でいろいろな部を経験するのと同様、官僚も各省庁に異動して経験を積む。また企業、官庁を問わず、経験を通じて実績を上げた者が昇進してゆくのも変わらない。しかし、決定的に異なる点がひとつだけある。省庁の「上下関係」が昇進のベースになっていることだ。
 「庁キャリ」が国税庁の幹部職員になる確率は低い。実に課長級の大半を「本省キャリア」が占めるのだ。その上の部長級となれば全員が「本省キャリア」で、当然、国税庁長官の座にも「本省キャリア」が就く。「庁キャリ」の人には、さほど要職ではない部長のポストが、ひとつ宛われるくらいである。これを「端牌(はしぱい)部長」と言う。端牌とはマージャン用語で「手役に不要な牌」のことだ。
 ここまで来ると、完全な階級社会である。
 たとえば東京国税局査察部長というポストがある。本省キャリアで出世コースに乗った官僚が進む優良ポストだ。査察部は「マルサ」の通称で有名だが、言うまでもなく脱税の摘発を目的とする調査部隊であり、東京・神奈川・千葉・山梨の1都3県を管轄して一大部隊を率いる東京国税局の査察部長ともなれば、マルサのトップ中のトップである。何しろ首都圏に本社を置く一流企業や高額所得者の“お金の流れ”に目を光らせ、ほとんど従えているに等しい。
 法人、個人の税金に関して、ありとあらゆる情報を握る東京国税局査察部長識を、歴代すべて本省キャリアが務めてきたのだ。
 そして本省キャリアが東京国税局査察部長への出向を終えると、決まって政治的な要職に就く。首相秘書官や官房長など、政府内部で側近として政治家を補佐する役目が与えられる。一例を挙げれば、1986年から1988年まで東京国税局査察部長職にあった坂篤郎氏(1970年に大蔵省入省)は、その後、内閣総理大臣秘書官、経済全画庁長官官房長、内閣府政策統括官、内閣官房副長官補を歴任している。こうした人事を見逃してはならない。
 政治の側か、本省キャリアのエリートで、なおかつ「税金に関して、ありとあらゆる情報を握る」ポストを経験した官僚を登用するのは、財務省のスーパーパワーを十分に知っているからだ。見方を変えれば、政治の側か財務省を押さえているとも言えるが、本心では「財務省を敵に回したくない」と思っているに違いない。政権与党を屈服させる財務省の力がここにも見てとれる。


日本の国家予算は財務省が先に決める P136

 さて、2011年度政府予算案が、関連法案をめぐり国会で紛糾したことは記憶に新しい。この永田町の騒ぎを財務官僚たちはどのような思いで見ていたのだろう。おそらく、その目つきは冷ややかだったに違いない。
 日本の国家予算は事実上、財務省が先に決めていってしまう。財政制度審議会(大蔵省時代にあった5つの審議会を統合したもの)の提出する「建議」を盾に、8月頭ごろには概算要求基準(シーリング)を発表する。これがそのまま閣議決定されて、その後は財務省の“手順”どおりに進むのだ。
 通常、8月末ごろに各省庁から予算要求額(概算要求)が出されるが、先にシーリングが決まっているのだから、手足を縛られたようなものである。一応、財務省主計局は各省庁の予算要求額を査定し、年末の「財務省原案」(かつての大蔵原案。閣議決定されて政府予算案となる)発表まで予算編成に取り組むことになっているものの、実はほとんどの作業は9月中に終わっているのである。
 あとはゆっくり、のんびり過ごせばよい。だが、のんびりしている姿が国民にばれたらまずいので、「一所懸命やっています」と対外的に示す必要がある。
 よくニュースで「大臣が陣中見舞い」の見出しが躍る。財務大臣が主計局の中を歩き、「予算案づくりのために、寝食を忘れて仕事に打ち込んでいる」官僚たちを労うというものだ。2011年度予算の場合は、以下のような具合である。
  〈 野田財務相が庁舎内を陣中見舞い
 野田佳彦財務相は22日、2011年度予算編成で大詰めの作業を進める財務省主計局など庁舎内を陣中見舞いし「連日遅くまでありがとうございます。(予算案の)最終形ができるまでよろしくお願いします」などと職員をねぎらった。
 陣中見舞いは旧大蔵省時代に始まった恒例行事。政治主導を掲げる民主党政権に交代した後も、2年連続で踏襲した 〉(2010年12月22日、共同通信)
 こういうとき、財務官僚は必死で電卓を叩いたり、担当省庁からのペーパーを受け取ったりと、忙しく働いている(ように見える)。が、はっきり言ってポーズにすぎない。大臣が来ることも、それをマスコミが報道することも先刻承知だ。土台、「陣中見舞い」自体が形式的なもので、「政府予算案は、これだけ一所懸命やった成果です」とムードを盛り上げるための儀式なのである。たまに、年末になっても本当に(予算案づくりで)電卓を叩く官僚がいる。そのような人は「まだ撥(は)ねて(相手省庁が静まっていない、の意味)いるよ」と、同僚から電卓ならぬ陰口を叩かれがちだ。


復活折衝の「握り」とは何か P139

 財務省原案が政府予算案として閣議決定される前に「復活折衝」がある。各省庁(概算要求)と財務省(原案)との間で行なわれる修正交渉だ。交渉内容の難易度・複雑度にしたがって、事務折衝(各省庁の総務課長級と財務省主計局の主査級)、大臣折衝(各省庁の大臣級と主計局長級)、政治折衝(与党幹部と財務大臣)とレベルアップするのが通例となっている。財務省原案発表後、およそ5日間かけて展開される。
 ところが、この復活折衝も、あらかじめ財務省の“手順”に組み込まれているのだ。年末になっていきなり折衝が始まるわけではない。 11月の中ごろになると、主計局の官僚は、担当省庁の人間と「握る」(私は9月に握ったこともある)。「握る」とは、要するに復活折衝のシナリオを提示して、相手(担当省庁)の合意を引き出すことだ。私の大蔵省時代は、役所同士で「握って」しまったら予算の話は終わっていた。だから合意したあとは「会議をしていることにしよう」と言って、相手と役所を抜け出し「ゆっくり、のんびり」過ごしたのである。そして、シナリオどおりに年末に政治折衝をやった。
 「握る」ときは、大蔵省の査定案(原案)を伝えつつ、相手の予算要求の「部分的復活」を先に言ってしまう。
 「これは大したタマ(予算要求項目)ではないから局長ぐらい(の復活折衝でゼロ査定から復活させよう)ね」
 「こっちは事務次官でいいでしょう」
 「少し大きなタマだから、これは大臣復活折衝にしよう」
 などなど、1ヵ月先を見越して相談する、と言うか主計局・理財局の“決定”を伝えるのだ。相手に異存があろうはずもなく、「握った」結果は見事に復活折衝で復活する。復活折衝まで最初から大蔵省が決めているのだから、予算がきちんと収まるのは当たり前なのである。
 一見、大げさに映る大臣折衝も「握って」いるから茶番以外の何ものでもない。官僚が先にすべての文書を書いて、主計局長と相手方の大臣がお互いにその文書を読み合っているだけだ。政治折衝の進行は分刻みで決められている。それでも、復活折衝という最後の場面で大臣が登場し、ゼロ査定から復活すれば、「俺が(復活部分を)取った」と顔を立てることができる。大相撲みたいだが、ガチンコで復活折衝をした政治家は少ない。


首相官邸“裏の秘書官”グループ P193

 安倍晋三氏は首相に就任して間もない2006年9月2日、官邸に詰めるスタッフを全省庁から公募した。人数は10人、募集要項には「(公募する職員は)総理の指示による特定の政策課題の企画立案を担当する」と記されていた。安倍政権に奉じ、出身省庁のリモコンにならない、純粋な政治任用スタッフを集めるのがその趣旨だった。安倍氏から「高橋君も応募して」とお誘いがあり、私もこの公募に志願した次第である。実は、公募スタッフのアイディアは、小泉政権のときに私から安倍氏に提案したものだった。そのときは小泉政権で辞めようと思っていたので、まさか自分にお誘いがあるとは夢にも思っていなかった。
 ところが「公募」とは言うものの、募集要項をよくよく見ると「公募にあたっては所属長を経由して」とある。要するに各省庁の人事セクションを通せ、ということだ。これでは「公募」にならない。人事セクションのフィルターを通過するのだから、応募するのは各省庁のお眼鏡にかなった官僚でしかない。私には「所属長を経由して」の一文を挿入した人物の目星もついているが、こんなところにも“官僚のレトリック”が発揮されていたのだから呆れる。
 当時、私は総務省に籍を置いていた。とはいえ“本籍”は財務省である。すると困った問題が生じた。応募書類を総務省秘書課に持っていったところ、「高橋さんは財務省でしょう。財務省経由で(書類を)出してください」と言われたのである。財務省は財務省で「今は総務省にいらっしゃるのだから、総務省経由でしょう」と、にべもない。結局、当時の総務大臣である竹中平蔵氏の手を煩わせて一件落着したが、ひどい話である。総務省も財務省も、私か応募することで、自分たちの「官邸枠」が削られることを嫌ったのだ。
 この公募システムの原型は、小泉純一郎内閣で首席秘書官(政務担当首相秘書官)を務めた飯島勲氏がつくったものである。飯島氏は財務省出身者らが幅を利かせる首相秘書官(事務担当秘書官)の「枠」を拡大した。それにより他省庁の不満を解消し、自らの“部隊”として活用した。さすがに知恵者だと思う。
 事務担当の首相秘書官は4人で、財務省、経済産業省、外務省、警察庁からの出向というかたちをとるのが通例だった。そこに飯島氏は“裏秘書官”と呼ぶべき枠を設け、他省庁から5人のスタッフを入れたのである。  首相官邸には総理執務室の隣に秘書宮室がある。秘書宮室を通らなければ首相の部屋に入ることはできない。つまり秘書宮室に座っていると、誰がいつ、どのように首相に面会したかが分かる。ここがポイントだ。新たに秘書官として登用し、秘書宮室に座らせてあげれば、財務・経産・外務・警察以外の省庁が喜ぶと飯島氏は察知した。
 秘書宮室には右の財務・経産・外務・警察出身者用に4つの席があるのだが、スペース的に空けようと思えば5つ分は確保できる。その“5番目の席”に、飯島氏は他省庁出身の“裏秘書官”を座らせた。それも月、火、水、木、金、と日替わりである。週に1回、たとえば月曜は厚生労働省のAさん、火曜は総務省のBさん、水曜は国土交通省のCさん……という具合だが、それだけでも各省は大喜びだった。この5人は「第二秘書官グループ」と呼ばれ、秘書官に準じる扱いを受けた。私は飯島氏の官僚掌握術にほとほと感心したものである。


政治家に殉じる官僚はいるか P197

 安倍音三氏の公募に応じた10人も、自らを「第二秘書官グループ」と認識して官邸入りした。さまざまな省から人が集まったが、しかしながら2007年9月に安倍政権が倒れたとき、安倍氏に“殉職”したのは私ひとりだけだった。あとの9人はすっきり爽やか、元いた省庁に戻って、順調にエリート街道を歩んでおられる。公募は自由任用であって政治任用ではない。政治任用は政権交代とともに失職するが、自由任用なら古巣に戻ることができる。
 私は事務手続き上、2008年3月に公務員を退職した。実質的にはその半年前の安倍首相退陣時に辞めている。私か辞意を伝えたところ、安倍氏は「よかった、(辞めるスタッフが)ひとりいてくれて」と笑顔を見せた。私が「本当は、ここで10人全員が辞めるくらい一所懸命やればよかったですね」と頭を下げると、その笑顔は消え、「まあ、そうなんだよな……」。呟くようなひと言を漏らした。
 官邸の中の状況は、かくのごとしである。霞が関は永田町の本丸に出向者を送り、情報を取りたいだけなのだ。したがって「政治主導」を実践するには、このことを前提に考えたほうがいい。政治と殉職する覚悟のある人間を集める以外に方法はない。政治家は、自分と一心同体になって働いてくれる官僚を探し出し、起用しなければならない。探せば意外といるものだ。
 だが、現実にそのような努力をする政治家は皆無に近い。


田中角栄は「官僚を使いこなした」のか P209

 故田中角栄氏。官僚統制という側面で、伝説的に語られる政治家である。「角さんは官僚を使いこなした」との表現をあちこちで耳目にする。しかし私は「使いこなした」と認定できるかどうか、懐疑的なのだが。
 たしかに政治家・田中角栄のもとに参集した側近は、政策担当秘書の故早坂茂三氏を除きすべて役所から派遣された官僚であり、田中氏は役所の人事について非常に詳しかった。その点においては、ある程度「角さんは官僚を使いこなした」と見ることができるかもしれない。有名な『日本列島改造論』は、田中氏の一気呵成の口述を当時の通産官僚たちが書き起こし、一冊にまとめ上げたものである。同書は田中氏の首相就任直前、1972年6月に出版され、ベストセラーとなった。
 とはいえ、田中氏に仕えた役所派遣の官僚たちが、心の底から彼に忠誠を誓っていたとは思えない。政治家の秘書官になった官僚は、その政治家が政治力をつけるにしたがって自分も偉くなれる。要職に就くチャンスに恵まれる。だから「先生、頑張ってください」と口で言いながら、政治家の昇進に自らの昇進を恃むのだ。
 それは政治家のほうも似たようなもので、官僚の政策立案能力(作文能力)に依存しながら、政治家としてのパワーを集積・増大させてゆく。そこには互いのメリットを計算した、持ちつ持たれつの構造が横たわっている。私か「角さんは官僚を使いこなした」ことに懐疑的なのは、こうした“もたれ合い構造”を無視できないからだ。
 ただし私は、田中角栄という政治家を一点だけ評価して憚らない。それは議員立法(国会議員提出による法案の成立)の多さである。官僚と持ちつ持たれつの関係であっても、彼が議員立法を手がけた希有な政治家であることは素直に認める。田中氏は政治家生活で46の法案を提案し、うち33件を成立させた。
 ここで重きを置くべきは、政治家が自身の手で法案を国会に提出し、成立させた、その揺るぎない事実である。
 日本の国会法では、法案を提出できるのは内閣か国会議員と定められているが、法律として成立する9割方は内閣提出の法案(閣法)で、議員立法は圧倒的に少ない。そしてこの閣法こそが官僚による「官僚作文」に他ならないのだ。だから法律に書いていることは、書いた官僚がよく知っており、政治家は中身を知らない。私は法律のほとんどが「閣法」であることが、官僚主導の根幹であると思っている。
 その結果、官僚のやりたい放題が許されてしまう。政策は法律に基づいて行なわれるが、細部まで官僚がつくれるのは、大本の法律を官僚が書いているからだ。むろん閣法の主体は「政策」だが、その政策を実施するという名目で、ほとんど「天下り先」が必要とのロジックが忍び込んでいるのである。議員立法の場合は、そこまで頭が回らない。したがって、天下り先を生み出す余地はない。
 政治家は、少なくとも議員立法を手がけなければ「官僚を使いこなした」と言ってはいけない。それは詭弁になってしまう。田中角栄氏が議員立法にあたって誰の手を借りたかは知る由もないが、33件の法案を成立させた事実には政治家の見識があり、手法として「政治主導」の要件を満たしている。
 今の国会議員は、「国会における各会派に対する立法事務費の交付に関する法律」に基づき、立法事務費を毎月65万円もらっている。これで議員立法をしない今の国会議員は、税金のムダ遣いである。そもそも議員は、英語では「ロー・メーカー」(law maker)と言う。法律をつくらない国会議員は何をしているというのだろうか。
 国会議員が議員立法をするのは当たり前の話であるが、それができれば官僚は法律に従わざるを得ず、官僚主導などありえない。議員立法ができなければ、閣法ばかりになってしまい、官僚主導から政治主導への転換は無理だろう。議員立法なくして政治主導なしである。


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