経済学とは何だろうか 現実との対話

著者の基本的な経済認識は「現実経済は内在的な変動因を有している」というものだそうですが、私もそうだと思います。

経済学とは何だろうか 現実との対話

 青木泰樹さんとその著書を知ったのは、西田昌司参議院議員のネット番組「NISHIDA VISION」でした。
  西田議員が各界の方と対談をする番組で、その第1回目の対談が「西田昌司×青木泰樹経済対談」だったのです。
  対談の中での青木さんの解説はなるほどと頷けるもので、とても勉強になりました。
 その際に本書が紹介されていたのですが、それが本書を手にするきっかけでした。

 まえがきに「筆者の基本的な経済認識は、現実経済は内在的な変動因を有しているというものです。」とお書きです。
私もそう思います。

 青木泰樹さんの『経済学とは何だろうか 現実との対話』を紹介するために、以下に目次とまえがきをコピペさせていただきます。興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

経済学とは何だろうか 現実との対話

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目次


  まえがき

  第1章 展望:問題の所在
1.経済学とヴィジョン 1
2.経済学と現実経済:妥当性のジレンマ  4
3.社会科学としての経済学の性質  6
4.経済学における論争  8
5.効率性と社会的公正  11
6.経済論理の濫用と社会的勢力関係  14
7.目的と方向  17

  第2章 経済学の構造
1.社会認識の方法:個人か集団か  21
2.分析範囲の設定:抽象化と与件  26
3.人間行動の目的とは  29
4.経済学説の分類:静態理論と動態理論  34
5.静態と動態の相違  36

  第3章 経済学の潮流Ⅰ 静態理論の成立
1.古典派経済学・小史  41
2.経済学の転換点:限界革命  43
3.経済学の科学性と数学  48
4.経済学者と科学哲学:実証主義の誤解  55

  第4章 経済学の潮流Ⅱ せめぎ合う理論と現実
1.事実解明と規範  65
2.厚生経済学の成立  69

  第5章 経済学の潮流Ⅲ 現実との対話へ向かって
1.ロビンズと経済学の定義  79
2.分水嶺としての世界恐慌  82
3.対話のはじまり:ケインズ革命  85
4.反ケインズ主義の台頭:マネタリズムの登場  90
5.超合理主義へ:ルーカス批判の衝撃  96
6.新古典派経済学の終着点:「新しい古典派」とは何か  100

  第6章 現代の主流派経済学の抱える問題
1.マクロ経済学のミクロ的基礎:代表的概念  109
2.非自発的失業をめくって  113
3.現代経済学の主流派の形成:ニュー・ケインジアンの登場  115
4.分岐点:理論的発展は経済認識の深化をもたらしたか  123

  第7章 経済社会学への道:体系化の放棄を出発点として
1.もうひとつのミクロ的基礎づけの論理  129
2.シュンペーターの論理と方法Ⅰ:動態理論の構築  134
3.シュンペーターの論理と方法Ⅱ:現実への二段階による接近  139
4.経済社会学への道:現実分析の方法論的考察  151

  第8章 動態的貨幣論:貨幣循環に関する現実分析
1.静態理論と貨幣:数量説と貨幣の中立性をめくって  161
2.動態的貨幣理論へ向かってⅠ:貨幣需要と貨幣循環  170
3.動態的貨幣理論へ向かってⅡ:外生的貨幣供給と内生的貨幣供給  180
4.貨幣流通と物価水準および貨幣の非中立性について  190

  第9章 経済通念の陥穽:利害対立に翻弄される経済論理
1.経済論理の濫用の構図  203
2.市場原理主義の誕生:論理の鎧をまとったイデオロギー  207
3.市場原理主義の限界:市場の失敗と価値の選択  211
4.グローバル化とグローバリズム  219
5.グローバリズムの構造と本質  223
6.なぜ「供給側の経済学」は濫用されるのか:反ケインズ主義の学問的帰結  229
7.日本における濫用の事例:構造改革論と成長戦略  234
8.金融政策至上主義の限界  240

  第10章 現実分析への一寄与:国債問題の最終解決
1.国債問題の憂鬱  247
2.「主流派経済学者の提言」の行方  250
3.国債問題に潜む静態理論  256
4.財政均衡主義の誤謬  262
5.国債の機能と貨幣循環  266
6.国債問題の最終解決:動態的金融政策  274

  主要参考文献  286

  索      引  289


まえがき

 「経済学は、現実の経済を分析する学問ではありません」といわれたら、あなたはどう思いますか。おそらく、経済学を学びたいと考えている人であれば、驚くでしょう。経済学を志す人の大半は、通常、現実経済の解明を目指していると思われるからです。「経済を知るために経済学を学びたい1という動機は、極めて自然なものです。しかし、残念ながら、現代の経済学はそうした期待に応えてくれそうにありません、最近の20~30年間、経済学は大きく変容しました。現実の経済問題に取り組む学問から、論理的厳密性を追求する学問へとその性格を大きく変えてきたのです。

 それでは、なぜ現実性と論理的厳密性を同時に追求できないのでしょう。それに答えるためには。多少、理論の構造について知る必要があります。理論は現実の描写ではありません。理論に求められるのは、その論理(理屈)が様々な状況に当てはまるという意昧での一般妥当性です。しかし、この一般妥当性が問題なのです。「一般」とは、どこまでの範囲を指すのかという点に関して意見が分かれるのです。例えば、われわれ人類の歩みを振り返ってみると、原始時代からはじまり中世封建社会、近世民社会を経て現代資本主義社会ヘ至る歴史の流れがあります。理論は、原始時代から現代までの全ての時代状況に当てはまらなければ、一般妥当性を有するとはいえないのでしょうか。確かに、自然科学の場合は、そうであるように思われます。物理法則や化学反応式は、時代状況にかかわらず、一般的に当てはまると考えられるからです。しかし、経済学は社会科学です。自然科学と同列に扱うことは妥当なのでしょうか。この問題に関して、意見が分かれるのです。有史以来の社会や人間の全てに当てはまらなければ理論とはいえないのか、もしくは、例えば資本主義過程という歴史的一段階に当てはまるだけでも理論といえるのではないか、といった具合です。

 理論の有する一般妥当性を決めるものは抽象化の程度です。抽象化の程度は、与件の設定に反映されます。与件とは理論の対象範囲を決めるもので、いわば相撲における土俵のようなものです。その範囲内で理論は構築されるのです。抽象化の程度を高めれば高めるほど、一般妥当性も高まります。しかし、抽象化は現実的諸要因を次々と捨象するプロセスに他なりません。それによって現実性から次第に遠ざかってゆくのです。もちろん、現実との関係を保持できるような仕組みを用意した上で、抽象化の程度を上げてゆく分には問題は生じません。凧(たこ)に糸がついている限り、いくら高く揚がってもまた現実に戻れるからです。、しかし、抽象化もある段所を超えると糸が切れます。すなわち、元に戻れなくなります。その理論を用いて現実経済を分析することができなくなってしまうのです、現代の経済学は正しくこうした状況にあると思います。

 しかし、急いでつけ加えなければならないことは、経済学の体系は一枚岩的な統一体ではなく、様々な経済学説の集合体であることです。つまり、経済学はひとつではないのです。その中には、様々な学説および学派があります。学派とは経済思想を同じくする諸学説の集合です。先に示した「現実分析ができない経済学]も、体系の中のひとつの学派にすぎません。実際、現実分析に適した学派や学説もあるのです。ではなぜ、現代の経済学を指して現実分析ができないと言い切れるのでしょうか。実は、現代経済学において中心的な地位を占める主流派もしくは正統派経済学といわれる見解を支持する経済学者の多くは、現実分析の可能な学説、すなわち抽象化の程度の低い学説を経済学の範疇から斥ける傾向にあるのです。捨て去ってしまったといってもよいかもしれません。つまり経済学を自然科学に近づけることを「科学的」と考えているのです。その傾向が助長された結果が、現代の経済学の状況です。現実を説明する理論の構築は非科学的であって、シミュレーションによって現実を理論に適合させることが科学的であると考えている経済学者の数は思いのほか多いのです。ベッドの長さに合わせて足を切らねばならない時代が経済学の世界にやってきたのです。

 こうした経済学における現実的関心の不在という状況が、社会にとって何ら実害がないなら、それは経済学界というコップの中の嵐にすぎません。しかし、経済学界の動向いかんにかかわらず、現実の経済は生き物のように動いています、日々新たな事態に直面しているのです。政府を筆頭に、われわれ一般人もまたそうした新たな経済状況を理解し、問題解決に当たらねばなりません。その際の武器が、これまでは経済学であったのです。しかし、現代経済学は守備範囲を変更してしまいました。現実分析から厳密なる論理分析へと関心の矛先を変えたのです。野球にたとえれば、外野から内野へと守備範囲を変えたようなものです。もはや外野フライを捕ることはできません。しかし、現実はそうした経済学の事情に関わりなく、外野フライを飛ばしてくるのです。何本も何本も。一体誰が捕るのでしょう。

 現代経済学、正確には主流派経済学における現実分析不在という穴を埋めているのは、現在のところ二つあります。ひとつは、主流派経済学自身です。言語矛盾のようですが、実際、主流派経済学者は自己の立脚する理論が現実を分析し得ないことを理解していません。それゆえ純粋論理で得た結論を用いて現実経済を説明しようとします。例えば、主流派財政学者がよく論ずるように、「現実の人間が理論を知り、それに従って合理的に行動すれば理論通りの帰結を得る。、すなわち財政破綻する」といった類の説明です。彼らにとって理論は常に正しく、現実は常に誤っているのでしょう。しかし、この純枠論理の現実への適用は明らかに学問的守備範囲の逸脱です。本書では、そうした考え方を[経済論理の濫用]と規定してゆきます。 二つ目は、経済学体系の中で現実経済を位置づけることなく、あくまでも部分的な経済知識や情報から現実分析を行うものです。人間の経済行動をいかに考え、経済活動の場をいかに捉えるかといった基本的な経済の見方、いわゆる経済観を提示することなく、現実経済の説明に使えそうな経済法則を脈絡なく持ち出し、統計データで装飾する方法です。そこには経済の全体像に関する論理の土台がありません。したがって、場当たり的な接近法といえましょう。

 本書は、こうした経済学における現実分析の不在を正当な理屈で埋めることを目的としています。しかし、一挙に埋めることはできません、、手順を踏む必要があります。ある程度の経済知識を持った人にとっては、少々退屈かもしれません。しかし、辻回生産は、後々、必ず利益をもたらすでしょう。先ず、現実分析の不在という状況へ至った原因を考えます。様々な経済学説の中から、なぜ現代の主流派が生まれたのか。そして、現実分析に好都合の経済論理が排除された理由は何かといったことを考えます。その理解のためには、経済学の構造と若干の経済学説史の知識を必要とします。また経済学者の学問姿勢を支配する科学哲学についても検討しなければなりません 本書の第1章で概略を示した後、第2章から第5章までがその説明にあてられます。特に第5章と第6章は、現実経済分析を放棄するに至った経緯とその論理を解説します。

 次に第7章からは、現実の経済分析のあり方を考えます。人間は経済活動だけを行っている存在ではありません。政治、宗教、文化等の非経済領域で様々な活動を行っています。現実は歴史の一断面ですから、経済論理をベースに置くとしても、そうした人間の社会的活動をも射程に収めた分析の枠組み・・・それを経済社会学といいます・・・が必要になります。第7章では、経済社会学的分析の先駆者であるヨゼフ・アロイス・シュンペーターにならい、現実分析の方法論的な土台を構築します。第8章は、現実経済における貨幣分析に焦点を当てるものです。主流派経済学は、実物経済と貨幣経済とを峻別し、両者を没交渉としています。そして、現金通貨の変動と物価水準の変動を直接的に関係づける数量説的見解に立っています。このわかりやすい見解は経済通念と化し、インフレに関する人々の思考を停止させています。しかし、学問の世界ではなく現実の世界を前提とすれば、数量説的見解は誤りであることを第8章で説明します。

 第9章は時論です。現実経済の中で経済論理がいかに利用され、時には悪用されているかを説明します。主流派経済学が現実分析として適さない最大の理由は、社会の構成員全員を同質的であると想定していることです。皆同じ価値観を有し、知識水準も情報量も同一と考えているのです。その前提の下では、経済の内部での利害対立は決して生じません。ある制度変更があったとしても、それは全員にとって好ましいかもしくはそうでないかの何れかになるからです。そこに意見の不一致はありません。しかし、現実には様々な利害対立が生じていることは説明を要しないでしょう。現代社会において利害対立が民主主義という制度的ルールの下で調整される以上、利害対立は政治過程における過半数の支持の獲得競争に反映されます。支持の獲得のためには、人々を説得する必要があります。とりわけ知的水準の高い人達を説得するには、誰をも納得させる理屈が必要です。その理屈として主流派経済学の論理が、特定の社会的勢力に利用されてきました。そうした事情をここでは説明します。

 第10章は、日本における国債の累積問題を取り扱います。経済通念と化しているのは貨幣に関するものだけではありません。国債問題も同様です。国債問題は日本経済に重石のようにのしかかっていると思われていますが、そうした考え方は経済通念に基づく誤解です。国家の財政を個人の家計と同列に考え、世代間の貨幣循環を無視した結果、誤解が醸造されてきたのです。ここでは、そうした誤解を解き、正当な解釈を提示することを目的とします。それによって、ささやかながら現実経済分析への貢献ができればと思います。

 筆者の基本的な経済認識は、現実経済は内在的な変動因を有しているというものです。同質的な人間からなる社会は決して変動しません。変動は全て外的ショックによって引き起こされるだけです。経済内部に他者と価値観を異にする異質な人間が存在してはじめて、経済は内部から変動します。経済過程を自律的に変動するものと捉えるか、均衡状態の継続と捉えるかは、経済学者のヴィジョンの問題です。筆者は前者の立場をとっています。経済学は現実経済を分析するためにあると考えているからです。こうした認識は、シユンペーターの方法に全面的に依存したものです。 しかし、その方法論的基盤に立脚する理論的構築物は筆者独自のものであります。筆者は、浅学非才の身を顧みず、長年シュンペーター体系を研究してきました。それは学説史的関心から発したものではなく、現代的意義を汲み出すためでした。本書が現実経済の分析へどれほど接近できたかはわかりませんが、一歩踏み出すことが必要だと思い発刊こ至りました。

 本書は経済学研究にたずさわるあらゆる人達に読んでもらいたいと思っております。同時に、経済学を学ぼうとしている、もしくは現在学んでいる学生の皆さんや経済に関心のあるサラリーマンの方達にも是非読んでもらいたいと願っております。経済学に関する誤解、経済通念の落とし穴、経済論理を濫用する社会的勢力の存在等を理解していただきたいからです。そのために、本書は可能な限り平易に、そして丁寧に書くことに意を注ぎました。理解の一助とするために図式も多用しました。本書は理論から現実分析へ、そして具体論へと展開されています。それにつれて論理の妥当範囲も狭まってゆきます。現実経済を分析するためには、そうした方法をとらざるを得ないと考えているからです。しかし、本書における論理展開は筆者独自のものであるため、様々な批判や疑問が生ずるかもしれません。読者諸兄のご叱正を是非賜りたいと思います。

 最後になりましたが、本書の出版にあたっては、八千代出版株式会社の森口恵美子氏にたいへんお世話になりました。ここに深く感謝の意を表させていただきます。また、本書を、筆者を常に支えてくれている妻と子供達に捧げることをお許し下さい。

    2011年11月           青木泰樹

 

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