『日本国紀』の副読本

日本国紀の著者である百田尚樹さんと、編集者である有本香さんの対談本です。

『日本国紀』の副読本 学校が教えない日本史

 タイトルの通り、本書は百田尚樹さんが書き、有本香さんが編集した『日本国紀』の解説書的な側面があります。同時に副題にあるように学校で教えられている日本史のおかしさを論じています。
 百田さんが日本国紀を書こうと思い立った理由や、どういう思いで書いたのかというような内容をお二人の対談を通じて理解でき、「日本国紀を読んでみたい」と思うようになるのではないでしょうか?。
 「はじめに」でもお書きですが、「歴史教科書の酷さ」が百田さんに日本国紀の執筆を決意させた理由の一つなのだそうです。偏向教科書の具体的記述例をあげて、その異常さを議論しています。

 百田尚樹さん・有本香さんの「『日本国紀』の副読本」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、是非本書を手にしていただければと思います。

『日本国紀』の副読本 百田尚樹・有本香



目次

 まえがき

 序章 なぜいま『日本国紀』か 13
なぜ国を誇りに思う歴史教育がないのか / 「この国に生まれてよかっ た」 / 予約段階でアマゾン一位を独走 / 「この国の歴史」ではなく「私 たちの歴史」 / 民衆の反乱  

 第1章 歴史教育とGHQの申し子 29
局地戦と民族の物語 / 何を書いて、何を書かないか / 「李舜臣は世界三大提督」の嘘 / 教科書で韓国の顔を立てる理由 / 「南京大虐殺」が現れて任那日本府が消えた / “近隣諸国条項”と同じマインド / 占領軍が行った焚書坑儒 / 「戦犯を助けよう」 / 戦争を知っている世代 / 社会に出た“GHQの子供たち” / 八〇年代の政治家つるし上げ / 家で修正された歴史観  

 第2章 歴史は「物語」である 71
年表は歴史ではない / フィクションという意味ではない「物語」 / 駄目なところがあるのが「物語」 / 自分史を書くように / 学者は怖がって「I」を消す / 通史は小説家の仕事だと思う / 寄せ集めでは物語にならない / ハルキストとナオキスト / 村上さんが通史を書いたら / いまの日本史には怒りも悲しみも喜びもない  

 第3章 消された歴史 99
なぜ敗戦がたった一行なのか / 元寇を大きく取り上げた理由 / 自分を奴隷として売った愛国者 / 日本人の生き方が消された / ばらばらの歴史では流れが見えない / ペリーの黒船は来るのがわかっていた / 「ペリー来なければいいなあ」がない / 平安時代の平和ボケ / 幕末の平和ボケ  

 第4章 日本人は駄目だけどすごい 127
提灯屋が蒸気船をつくった日本 / 消された小栗上野介 / 田沼意次を再評価 / 無名の人の力 / 自前主義と誠実 / 戦国の強さがあったから鎖国できた / 「ことを荒立てるな」はそっくり / 「幣原外交」といまの政治家 / 「犬のお伊勢参り」は日本文化の象徴 / これぞ日本人  

 第5章 日本人はなぜ歴史に学べないのか 151
『日本国紀』の隠しテーマ / 韓国を助けるとろくなことにならない / 自虐史観と反日教育のなかで / 韓国の約束破りは続く / 韓国を甘やかしてきた日本  

 第6章 「負の歴史」を強調する教科書 169
「朝鮮王宮を占領して、清との開戦へ」 / 壬午事変も天津条約もすっと飛ばし / なぜか讃えられる倭寇の青年 / 「ハングル」をわざわざアピール / 恫喝外交が通交希望に / 消された「文禄の役」「慶長の役」 / 不確かな韓国人「沙也可」 / 徴用工と慰安婦問題が / 独立マッセー / 「負の歴史」を教える教科書  

 第7章 ベストセラー作家の秘密 205
「一人ブラック」の自覚がない / 百田尚樹はモンスター感がすごい / 法則のない天才 / 「あしたの朝までに書いといて」 / スロースターターの執拗なダメ出し / 執筆は彫刻と同じように / 歴史は「脇道」だらけ / 道が見えない幕末 / 素晴らしかった監修者 / 歴史の重要性 / 民族の歴史を守る / 善良な人が自虐史観に侵されている  

 終章 日本史の中の異質なもの 237
「全面講和」と「単独講和」 / なぜ自民党ができたのか / 国民を守らず、憲法を守る / なぜメディアはWGIPを語らないのか / 戦後権威の欺瞞

 あとがき 有本香 263  


まえがき

 私は日本という国が大好きです。
 ただ告白しますと、そんな気持ちになったのは五〇歳を過ぎてからです。いやもっ と正直に言うと、六〇歳に近くなってからでしょうか。
 若い頃はそんなことに気付きませんでした。自分が生きるのに夢中で、むしろ社会 や世の中に不満を常に抱えているような人生を送っていました。早い話、己の幸福だ けを追いかけている生き方をしていました。当然、日本という国に対しても、感謝の 念など少しも持っていませんでした。
 しかし人生の折り返し点を大きく過ぎ、半生を振り返ってみると、自分はなんといい国に生まれ育ったのだろうと気付くようになりました。むしろ、若い頃はなぜこんな当たり前のことに気付かなかったのだろうかと思います。
 もちろん、今も社会にたいする不満は山ほどあります。日本特有ともいえる硬直した制度や同調圧力。また国を動かしていく政治家たちのどうしようもない低レベルと、そんな彼らを選ぶ民衆の無関心。実際に多くの制度を決めていく官僚たちの視野のなさと夜郎自大ぶり。腐ったようなメディアや、拝金主義とも思える大企業 ―― いちいち挙げていけばキリがないくらいです。
 それでも私は、日本は素晴らしい国だと胸を張って言えます。日本が嫌いな人たちも、日本人が優しく、誠実で、勤勉で、悪事を憎む国民であることを否定する人はいないでしょう。
 しかし戦後、私たちは、国を愛せない人間になるような教育を受けてきたといっても過言ではありません。それは自虐史観にとらわれたメディアのせいでもありますが、実は最もひどいのは教科書なのです。本来は、日本の素晴らしさを子供たちに教えるためにあるはずの歴史教育が、それとは正反対のものになっていたのです。しかも、それは年を追うごとにひどくなっていきます。
 私か『日本国紀』(幻冬舎)を書こうと思った理由の一つはまさにそれです。こんな歴史教育を放置していては、未来の日本を担う子供たちが、祖国を愛せない人間になってしまう。
 生まれた国を愛せない人間ばかりになった国に、はたしてどんな未来が待っているでしょうか。想像するだけで恐ろしいことです。こんな教育が進めば、いずれ日本は、「グローバル」という得体のしれない名のもとに、何のアイデンティティも持たない鵺(ぬえ)のような国に成り果てるでしょう。
 本書は『日本国紀』の編集者でもある、ジャーナリストの有本香氏との対談による「メイキング日本国紀」ですが、内容はそれに留まりません。『日本国紀』の中には書かなかった内容がふんだんに入っています。特に対談で白熱したのは、「教科書問題」です。現在、使われている教科書を俎上に載せて論じていますが、それらの教科書の信じられないような記述は、多くの読者の心胆を寒からしめるのではないでしょうか。それらは「現代の日本の闇」とも言えるものです。
 有本氏との対談は非常にエキサイティングなものでした。同時に、大いに勉強になりました。気鋭のジャーナリストとしての視点の鋭さのみならず、その博学と洞察力には何度も唸らされました。おそらく読者の皆様も同じように感じることでしょう。しかし有本氏の最も素晴らしいところは、誰よりもこの国を愛しているということです。この心がない学者や文化人が何を語ろうと、その言葉はただ空虚な妄言にすぎません。
     平成30年12月 百田尚樹  


なぜ敗戦がたった一行なのか

百田:今回、いろいろな歴史書を参考に読んだのですが、「え? なぜこれが書いてないの?」ということが、すごくありました。どうしてこんなに重要なことが削られているのか。なぜこの史実が歴史書の中で大きなページを割かれていないのか。なぜたった一行で書いてるのか、と。そういうものはものすごくあるんです。
 例はたくさんありますが、もっとも極端な例が大東亜戦争の敗戦。たいがいの教科書は一行ですよ。

有本:「1957年、ポツダム宣言を受諾した。以上終わり」みたいな。

百田:ちょっと待て、と。日本という国が開闢以来、初めて、敗戦したんですよ。そして同時に、他国の軍に完全に支配されたんです。超大事件です。とてつもない大事件ですよ。これを一行で書いてどうするんだ、という話です。「ポツダム宣言を受諾して戦争が終わった」という一文からは、民族の屈辱、怒り、悲しみ、絶望が、まったく伝わってきません。

有本:ポツダム宣言受諾に至るまでの苦悩も伝わってきませんね。ひょっとしたら国体が壊されるかもしれないという、とてつもない大きな不安も伝わらない。

百田:ポツダム宣言受諾までには二度の御前会議が開かれていますからね。最初の御前会議が開かれたのは、東郷茂徳外相や阿南惟幾陸軍大臣らの議論が紛糾し、ポツダム宣言の受諾について決まらなかったからです。最終的に鈴木貫太郎総理は天皇陛下のご聖断を求めます。それが昭和20(1945)年8月9日の深夜から10日の午前2時にかけての御前会議で、ここで「国体護持」のみを条件とするポツダム宣言受諾が決定されました。この場面は劇的という言葉ではおさまらない荘厳なシーンです。しかし歴史教科書では、まったく描かれていません。
 その後、もう一度、8月14日に御前会議が聞かれています。これは天皇陛下が最高戦争指導会議に加えて全閣僚を集めて開いたものですが、ここでもすごい場面があります。陛下がなぜこのようなことを行われたか。それは軍がポツダム宣言受諾に抵抗していたからです。これを受諾すれば、日本が滅ぶかもしれないという可能性があったのです。
 もしかしたら、民族が皆殺しにされるかもしれない。あるいは、国家が分断されるかもしれない。実際にドイツも分断されたし、朝鮮半島も分断されました。そういう国はいくらでもあるんです。あるいは、世界の歴史には、国が解体されて民族が流浪の旅に発ったような例はたくさんあります。ですから、そのとき日本は、日本民族は未曾有の危機だったのです。そのときの日本人の苦悩と怒りと悲しみはすごかったと思いますが、そういうものが……。

有本:せいぜいわずか数行。

百田:そう。数行なんですよ。それではいけないと思いました。

有本:ですからそこを百田さんは『日本国紀』で紙幅を割いて書いておられます。他に『日本国紀』で大きく取り上げているのは「元寇」ですね。  


「ベリー来なければいいなあ」がない

百田:ペリーが来る一年前、嘉永5(1852)年に、オランダの商館長が幕府に「来年、ペリーが来ます」とアメリカ艦隊の開国要求のための来航情報を伝えているんですよ。

有本:にもかかわらず。

百田:にもかかわらず、幕府の閣僚たちは、「ペリーが来なければいいなあ」と願っていたのです。仏壇でも拝んでいたのでしょうか。

有本:どうなんでしょうか。

百田:歴史の教科書にはその「来なければいいなあ」という状況が書かれていないのです。もちろん、どこにもそんなことを言っていたという証拠はないですよ。でも、歴史を見ると「来なければいいなあ」と思っていたのは丸わかりなんですよ。なぜなら、ペリーがやって来たとき日本には何の対策もなかったからです。一年前にペリーが来るとわかっていたのに何の対策も練っていないということは「来なければいいなあ」と思っていたということですよ。

有本:いまと同じ人々がそこにいますよね(笑)。そういう意味では、笑いごとではな いですが、我々の先祖だなという感じはしますよ。

百田:そうなんです。いまの私たちは戦後70年の間に完全に平和ボケになってしまいましたが、実は幕末の日本人も同じでした。江戸は、少しスパンが違いますが、鎖国していた約250年の間に完全に平和ボケになっていたのです。そして実は平和ボケは、もう一つあるんです。それは平安時代なんです。寛平6(894)年に遣唐使を廃止した時点で「プチ鎖国」なんですよ。

有本:そこから外のものは入って来なくなりましたからね。

百田:だからこそ平安のいわゆる華麗な日本の文化が花開くんですよ。それまでの漢文から仮名文字が発見され、清少納言や紫式部が出てきて、きらびやかな日本独特の王朝文化が花開くんですが、同時に平和ボヶになるのです。
 だからよく人権派の弁護士が言いますよね。「日本は平安時代、死刑がなく、人権意識が進んでいた」と。

有本:たしかに平安時代は300年以上にわたって「死刑」が行なわれなかった。

百田:そうです。確かにこれは世界的に見ても希有なことではあります。でも、それは「すごいこと」ではないんですよ。天皇や太政官が「死刑」という恐ろしいものにかかわると「身が穢れる」と考えていたからなんです。崇ることを恐れたということもあります。だから罪人は都から追放した。決して人権意識から死刑を廃止したのではありません。

有本:嫌なものを見たくないだけということでしょうか。

百田:そう、だから平和ボケ。  


無名の人の力

百田:そうはいっても明治になってからの日本人もすごい。

有本:鉄道の開通でも信じられないことを成し遂げていますよね。

百田:たった二年半でやり遂げています。測量が始まったのは明治3(1870)年3月。新橋から横浜の約29キロを開通させたのは明治5年9月ですよ。その間わずか二年半。測量開始から二年半で鉄道を通してしまうのです。しかも途中に多摩川があるから橋をかけたりもしている。この橋は最初は木造、後に鉄橋になるけれども。鉄道を通すためには測量や土地の確保が必要で、山あり谷ありの大変な近代的作業ですが、それを成し遂げたのはみんな江戸の生まれ。

有本:時代が下って、戦後の新幹線もそうですよね。当時、新幹線のような高速鉄道は世界になかったのですから人類史上の偉業と言っていい業績です。

百田:そう、世界にない。当時は不可能な技術だと言われていましたからね。時速200キロで走る鉄道なんて、第二次世界大戦の戦勝国だったアメリカもソ連も無理だと考えていました。それを戦争に負けてボロボロになった日本が戦後たったの19年で成し遂げたのだからすごい国です。
 話を戻すと、明治の初めに日本は驚くべき近代化を遂げました。それはもちろん明治政府が「富国強兵」と号令をかけたこともあります。科学技術は300年遅れていたわけで、追いつかなければ、欧米列強に勝てないと政府が周知したことも大きかった。でも明治政府がいくら号令をかけても、そんなもので「富国強兵」が成し遂げられるわけがありません。
 号令でなんとかなるのであれば、戦後のアジアの発展途上国はみんな日本と同じように近代化を遂げて、発展しているはずなのです。
 つまり、「富国強兵」を成し遂げた、あっという間に欧米に追いついたのは、無名のものすごい数の人が必死になって頑張ったからなのです。その一例として何人かの生き方を挙げています。
 もちろんその個人がすごかったということもあります。でも実はその個人は同時代の人々を象徴しているのですよ。同じような人が何人もいたということ。
 帝国大学の工科大学(現東大工学部)初代学長である古市公威は、内務省土木局長を兼務しました。つまりは、日本の近代土木行政や工学教育の基礎をつくった人ですね。彼が明治8(1875)年にフランスに留学したときの猛烈ぶりは有名です。土木工学を不眠不休で必死に勉強したわけです。その猛勉強ぶりを見たフランス人の下宿のおばさんが心配して「少しは休みなさい」と言ってくれた。そのときに古市が答えた有名な言葉があります。
 「自分か一日休むと、日本が一日遅れます」  震えるようなセリフです。でも、当時、こんなふうに頑張っていたのは古市だけではなかったのですよ。ものすごい数の「古市」がいたから、日本はあっという間に欧米に追いつけたのです。


戦国の強さがあつたから鎖国できた

百田:平和ボケに関係することですが、戦国時代で忘れてもらいたくないことがあります。ちょうど戦国時代のあたりから西洋人による有色人種の国の植民地化か始まるのです。ちょうど同じころに南アメリカのインカ帝国、アステカ国がスペイン人によって滅ぼされているんですよ。スペイン人の宣教師には純粋にキリスト教の布教という理想に燃えていた人もいますが、一方で植民地政策の先兵となっていた宣教師もたくさんいる。つまりキリスト教の布教によって、その国の文化と精神を粉々にし、その後、スペインの軍隊がやってきて征服するというわけです。そのような役目を担った宣教師が日本にもたくさん来ていたのです。
 でもその宣教師がスペイン国王に手紙を送っています。「この国を国王に与えたいけれども、強すぎるから無理だわ」とね。
 つまり、「この国は強い」と報告しているのです。国を守るのは「強さ」なんですよ。
 戦国時代の日本は、もしヨーロッパの国々と戦っても負けなかったと思います。戦国時代の日本の鉄砲保有数は、全ヨーロッパの鉄砲保有数より多かったと言われています。少なくとも日本は世界最大の鉄砲保有国だったということです。
 その後、戦国時代から徳川の時代になります。三代目将軍の家光が最終的に鎖国令を出しますが、当時は戦国の威風が残っていました。鎖国令を出したときに大人しく西洋人が来なかったのは、それだけ日本に力があったからなのです。力がなければ、鎖国もへったくれもないわけですよ。日本が強かったから鎖国ができたのです。

有本:本当にそうですね。抑止力があった。

百田:そうです。その後、鎖国状態で、西洋の科学文明を取り入れることを日本はしませんでした。その間にヨーロッパの科学技術はどんどん進歩し、260年の間に力関係が逆転した。だから幕末にヨーロッパはやって来たのです。当初幕府は異国船打払令を出し、外国船がやって来たら大砲で砲撃すると強気の姿勢に出ましたが、アヘン戦争で清が巻けたのを見て驚いた。「え? あの清が負けたの?」と打払令を止め、外国からやって来て困っている人には薪や水をあげましょうという薪水給与令を出した。まさに右往左往です。

有本:基本方針というものがないんですよね。

百田:そう。それも日本に「強さ」がなくなっていたからです。しかも幕府は間抜けで、「西洋はそんな強いのか、だったら西洋技術を取り入れよう」というのがなかった。 先はども言いましたが、ペリー来航の一年前から、とにかくもうこれ以上「来なかっ たらいいなあ」です。

有本:平安時代に続いての「来なかったらいいなあ」ですね。その次の「来なかった らいいなあ」はいつになるんでしょう。いまでしょうか。


「ことを荒立てるな」はそっくり

百田:こんなところもいまとそっくりですよ。ペリーの黒船は、江戸湾、いまの東京湾深くまでやってきて、東京湾の深さを測量しますね。そのとき東京湾の警護をしていた川越藩士が「許せん」と阻止しようとした。それを浦賀奉行が「幕府はことを荒立てるなと言っている」と押しとどめたのです。
 浦賀奉行が「おまえたちの気持ちはわかるが、がまんして堪えてくれ」。川越藩士は目の前でアメリカ人が悠々と測量をしているのを見て「くやしい!」と。アメリカは堂々と小舟に乗って測量し東京湾のどこまで入れるか全部調べているわけ。いまの尖閣諸島と一緒。

有本:そっくりですね。日本はいつだってそうなのです。

百田:そう。日本の排他的経済水域に中国の船が入ってくる。領海にも侵入し、退去を命じても体当たりまでしてくる。勝手に測量はするし、東シナ海でガス田開発にかこつけてプラットホームを建造するなどやりたい放題。海上保安庁の巡視船も海上自衛隊も屈辱的なのです。撃ちたい。でも政府から「撃つな」と言われる。

有本:昭和6(1931)年に満州事変が起こる前も同じです。当時、満州で日本人に対する排日運動や暴力事件がどんどん増えていました。現地の領事館にその被害を訴えても、日本政府は「中国人に嫌がらせを受けても反撃してはならない」という方針でした。そのため日本人は満州の治安維持を担う関東軍を頼り、直接、被害を訴えるようになっていたのです。このことが満州事変につながっていくわけですね。
 日本には常に「やられてもがまんしろ」と言う人がいますね。同じことを言っている人がいま、政治家にもメディアにも大勢いる。


「幣原外交」といまの政治家

百田:有名な「幣原外交」。

有本:幣原喜重郎は、なにはなくとも日支友好という人でしたからね。

百田:そう。現地の日本人はこんなにひどい目に遭っていると言っても、「がまんし ろ」と。

有本:中国人による乱暴狼籍もなかったことにされているんですよね。幣原喜重郎は日本に多大なマイナスを与えた人だと思います。大正10(1921)年からのワシントン会議では全権委員として、アメリカによる四力国条約の提案に乗って、日英同盟を破棄しました。愚の骨頂ですよ。

百田:アメリカはとにかく日本とイギリスの仲を裂きたかった。もしかしたらいずれ日本とことを構えるかもしれないからです。そのためにも日英同盟を破棄させようという策略。これを喜んで「わかりました、破棄します」と言ったのが幣原なんですね。

有本:「四力国平和条約でどう?」とアメリカが言ったら「素敵」とね。

百田:そうそう。

有本:いまの多くの政治家だちと同じですよ。「もう日米同盟じゃないんだ。世界は多極化している。みんなと仲良く」。これと同じオメデタさですよね。

百田:もし日本の近代の売国奴を何人か挙げるとすると幣原はトップクラス。

有本:幣原はトップですね。憲法9条は自分がマッカーサーに進言したとも言っています。

百田:よく平気でそんな嘘をつくよなあ。

有本:幣原を許せないと感じるのは、まずそれが嘘であるということ。もう一つは、当時、自分が首相であったにもかかわらず、日本人が自衛する権利まで奪ってさしだすつもりだったのですかということです。

百田:さらに幣原の悪口を一つ言うと、GHQは華族制度を廃止しましたね。そのとき幣原は自分が男爵なものだから、二代目、三代目は駄目だとしても、いま華族の人は死ぬまで華族でいられることにしてくれないかと粘ったんですよ。

有本:自分だけは爵位がほしいということでしょうか。

百田:いま特権を持っている人はいいじゃないかと言ってね。どこまでもクズみたいなやつですわ。


「朝鮮王宮を占領して、清との開戦へ」

百百田:この中学生の歴史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』(学び舎)は驚くべき記述に満ちあふれていますね。そもそも日本の歴史じゃなくて「人間の歴史」だし。

有本:数ある歴史教科書のなかでも、この学び舎の教科書は記述も成り立ちも、きわめて特異なものです。「子どもと学ぶ歴史教科書の会」が母体となってつくられているのですが、その会の趣意書にはこう書かれています。
 〈歴史の教科書は、子どもがそれをどう学ぶのか、子どもが学ぼうとする筋道を想定したものなのかが問われているのです。確かに教師は発展の筋道―歴史の流れへ目を向けたいのですが、子どもの側は、それ以前のところ―歴史事実の具体的な場面で立ち止まり、何らかの問いを発しようとしているはずです。  だとすれば、まず教科書は、子どもからそのような問いが発せられるような歴史事実を描くものであるべきでしょう〉
 この文章は実にトリッキーです。「子ども目線」を大事にしているように言いながら、 一方で、歴史の流れよりも歴史事実を重視し、歴史事実の具体的場面、この場面は執筆者が勝手に選ぶわけですが、その場面で子どもたちが立ち止まるように描いているというのです。一見もっともらしいのですが、これがむしろとんでもない。

百田:相当に偏向していますね。朝鮮・韓国についての記述が異様に多く、任那日本府は当然書かれていない。韓国目線で書かれた教科書という印象を受けます。

有本:歴史の流れよりも歴史事実を重視したと学び舎は言いますが、その問題点と、私の目から見たら好ましくない特徴が顕著で、驚くべき記述があるのは、〈(1)日本と清が、朝鮮で ― 日清戦争 ― 〉(第8章)とタイトルをつけられた次のくだりです。

百田:ページタイトルから驚きますけど。

有本:そうですよね。タイトルは物語調なんですが、内容は歴史の因果関係を無視したものとなっています。冒頭はこう書かれています。
 〈▼朝鮮王宮を占領して、清との開戦へ
 1894年7月23日の夜明け前、日本軍は、朝鮮王宮の門を破壊して突入し、占領しました。ここで国王らを監禁した日本軍は、清に従ってきた朝鮮政府を倒し、日本の言うことをきく政府をつくりました。この新しい政府は、すぐに、清と縁を切ると宣言し、朝鮮にいた清の軍隊を追い払ってほしいと日本車に頼みました。
 当時、朝鮮には日清両国の軍隊が出兵していました。朝鮮南部で起こった農民蜂起をおさえるため、朝鮮政府が清に出兵を求め、以前から清との戦争を準備していた日本も、朝鮮に出兵したからです〉(編集註/教科書は読点がカンマだが本書では以降もすべ て読点とする)

百田:いきなり、何を書いているのか、という感じです。どうしたらこんな書き方が できるのか神経を疑います。

有本:ここに至るいきさつが何も書かれていませんからね。この前の章はまったく別のテーマですから、いきなり「日本車は、朝鮮王宮の門を破壊して突入し、占領しました」です。これを読んだ子供たちは、日本がいきなり奇襲をかけて、王宮に侵入し破壊したことが、日清戦争のきっかけ、理由だと思ってしまうはずです。

百田:ちょ、ちょ、ちょっと待ってと。当時の朝鮮半島がいかにあやふやな政治状況だったかが書かれていない。この教科書を読むと、まるで極悪の日本車が突然に理由もなく踏み込んだように読めますよ。

有本:『日本国紀』ではこう書いていますね。
 〈日清戦争は明治27年(1894)に起こるが、これは突如勃発した戦争ではない〉 とし、続けて背景をきちんと書いています。
 〈維新以降、必死に近代化に邁進していた日本だったが、その間も対外的な危機が去ったわけではなかった。十九世紀の国際社会はいまだ弱肉強食の世界であった。アフリカ、南アメリカ、中東、インド、東南アジアと、地球上のほとんどを植民地とした欧米列強は、最後のフロンティアとして中国大陸に狙いを定めていた〉

百田:その後、重要なのはロシアが南下政策をとったことなので、それについて書いてありますね。

有本:はい。〈西ヨーロッパの国々に出遅れていたロシアが南下政策をとり、満州から朝鮮半島、そして日本を虎視耽々と狙っていたからだ〉
 こうきちんと書いてあります。


「ハングル」をわざわざアピール

百田百田:わざわざ朝鮮を「チョソン」と読ませる必要はあるの? 日本の教科書ですよ。そしてまるで李成桂が倭寇を鎮めたように書かれていますが、後期の倭寇は日本人ではないんですよ。前期は日本人でしたが、後期の倭寇は日本人ではなく、主体は中国人になります。そして倭寇が姿を消した理由は、明の海防の強化と、後に日本国内を統一した豊臣秀吉の海賊禁止今によります。

有本:これ、単に「対馬に攻め入りました」を書きたかったんじゃないの? という気もしますねえ。

百田:同じページに〈朝鮮の文字・ハングルがつくられる〉というコラムのようなものがあるけど、これも間違っていますね。
 〈15世紀半ば、朝鮮では独自の文字をつくる努力が重ねられた。国王の世宗(セジョン・せそう)は、『訓民正音(フンミンジョンウム・くんみんせいおん)(民を教える正しい音という意味)』をまとめさせた。ここに書かれた文字が、現在のハングルのもとになっ た。
 公式の文字は漢字であり、ハングルはいやしいものとされたが、民衆の問に広まっていった。(後略)〉(前掲教科書)
 ハングルは民衆の間でもまったく広まっていなかったのですよ。世宗がこの文字を広めようとしたときに、「漢字こそが文字であり、民族固有の文字などあり得ない」と保守派がハングルを馬鹿にしたので、仕方なく「これは文字ではない。発音記号だ」と誤魔化してつくったというのが本当のところです。
 そもそも朝鮮は長い間、清の属国だったので、公文書の類は漢文が使われていました。だから、古代の朝鮮語がどのようなものであったかも、よくわかっていないのです。
 日本人がハングルを普及させるまでは、ほとんど広まっていなかったのですよ。日本が韓国を併合した当時、文字を読める人が人口の10%以下だったのですからね。そこで日本は韓国の子供たちに文字を教えなければいけないと考えました。文字こそが教育の基本だからです。だから日本は、韓国の官僚である両班たちが「劣等文字」「下賤の者が使う文字」だと馬鹿にしてきたハングルを小学校の必修科目にして韓国の子供たちに習得させたのです。最初のハングルの教科書は東京で印刷されましたしね。

有本:そうした事実を曲げてまでこんなことを書く必要がどこにあるのでしょうか。


善良な人が自虐史観に侵されている

百田百田:『日本国紀』がたくさん売れることによって、多くの人が自分たちは何者であったかについて気づいてくれるといいなと思います。そうなると嬉しいなあ。

有本:本当にそう思いますね。
 いまの一部の歴史教科書はひどいと思いますが、そんな歴史教育や歴史教科書で学んできても、やはり日本人のアイデンティティは根こそぎ消されはしないのかなと、いまの若い人を見ると思います。時間はかかっても、本来の姿に戻ってくるんですね。悪いところも含めて。

百田:近年のネットの影響は大きいと思いますね。ここ10年くらい徐々に、やっと揺り戻しが来ています。

有本:10年以上前に多くの先生方が歴史について論戦をされていたときは大変だったと思います。当時は政治家、大臣が少しでも「自虐史観」から飛び出たことを言うと、クビを取られていたんですから。だけどいまは政治基盤さえしっかりしていれば、その種の発言一つでクビまでは取られなくなりました。政治基盤のしっかりしていない政治家が迂闊なことを言うと潰されますが、政治家としての基盤、足場のしっかりある人は大丈夫です。
 ここまでになったのは、インターネットの影響がものすごく大きいですね。

百田:大きいですね。でも、それだけでもなく、やはりいま自分たちについての本当のことを知りたいという思いをみんなが持っていたということでしょうね。いま教えられていることは嘘なんじゃないか、と。

有本:ひたひたと少しずつ、そうなってきましたね。それはやはり長年戦って来られた先生方の努力によるところが大きいと思います。

百田:でもいまの団塊の世代より上の世代はもう無理。洗脳が深すぎて、もう元には戻りません。

有本:戦争を知っている世代はどんどん亡くなっていますしね。

百田:第一章でアメリカ軍が戦後、日本人に自虐史観を植え付けたと述べました。でも、もしアメリカ軍が他の国で同じようにWGIPを施しても、こうはうまくできなかったかもしれないと思うことがあります。日本人には自ら反省する美徳が備わっているから、これが自虐史観と混ざり合ってしまったのですよ。

有本:日本人の潔さや裏表がないことも作用していると思いますね。

百田:これらがものすごく悪い形で化学反応を起こしたんですよ。日本人はもともと反省する、非を認めることに美徳を感じる民族で、そこにアメリカ軍が「反省しなさい」とやったもんだから化学反応が起こって効果抜群なんです。他の国にこれをやったら、逆に反発を食らう可能性がありますよ。何を言ってるんだ、私らは悪くない、と。
 他国でWGIPを実行したら、統治が難しかったかもしれない。
 そういう意味ですごく間が悪かったのです。だから一部マスコミに出てくるような筋金入りの売国奴的な人は別として、一般の善良な人が自虐史観に侵されてしまっています。

有本:むしろ、あまり政治性のないふつうの人に多いのではないでしょうか。

百田:話してみたらすごくいい人で、人を裏切ったり騙したりしないような人。でも「私たち悪かったもんねえ」と言うわけです。こういうのを見ると、本当に悲しくなります。

有本:日本人には「すみません」「ごめんなさい」でトラブル知らずみたいなところがあるでしょう。20年ぐらい昔、ベトナム人と話していて驚いたのは、団塊の世代の日本人がベトナムに来ていきなり謝るというのですよ。「昔は迷惑かけた」と謝る。でも、ベトナム人は何を謝られているのかわからない。彼らにとって「戦争」と聞けばペトナム戦争か、中越戦争。日本に迷惑をかけられたのは、はて? という感じで、何のことだかわからなかったというのです。「とりあえず謝っておけばいい」というところが日本人にはある。ひどい話ですが、それもこれも百田さんの言葉を借りれば、間が悪いのでしょうかね。

百田:そういう「ふつうの人たち」にこそ、この『日本国紀』をぜひ読んでほしいと思います。


国民を守らず、憲法を守る

有本有本:偶然が重なった結果ではありますが、その孫である安倍音三首相がいま、憲法改正をしようとしています。しかも副総理は、吉田茂の孫である麻生太郎氏です。吉田は晩年、憲法をあのままにしたことを悔いていたという話も聞かれます。吉田と岸の関係はあまり芳しいものではなかったとも伝え聞きますが、お孫さん同士は、ともに一度、短期間で首相の座を降りてから、同志となっているように見えますね。
 やや不謹慎な言い方になるのを承知で申せば、憲法を改正し、ようやく戦後の軛から脱するのに、これ以上ない役者が揃った現状だと思うのですが。

百田:日本国憲法の草案は、GHQのわずか二十数人のメンバーが一週間程度でつくりました。憲法学者の西修先生(駒澤大学名誉教授)が、1980年代にアメリカに行って、その当時、存命だった起草者8人に話を聞いているんですよ。すると彼らから「君らはまだあれを使っているのか」と逆に驚かれたと。彼らは憲法は改正されたと思っていたのです。つまり、日本国憲法の草案を作った彼ら白身が、暫定的なものだと考えていたのです。それは当たり前のことで、憲法の素人たちが一週間で作った憲法を、その後、30年以上も改正せずに使っているというのは異常なことだと思ったのも無理はありません。

有本:その憲法を金科玉条のごとく扱っている人が、法曹界にも文化人にも多いですね。憲法9条死守のためには国民が拉致されようが死のうが構わないとでも思っているのかというような、まさに「憲法守って、国守らず」という境地に達しているように見えますね。北朝鮮に国民が拉致されても、実力で取り戻せない、なぜなら日本国憲法の制約が、と言って憚らない。この異常で危険なところに私たちは住んでいるのですね。

百田:憲法学者は何をしているか。様々な事件が起こってその処理で法律の解釈が必要になったりすると、それが日本国憲法に照らし合わせて正しいかどうか、そればかりを考えているのです。つまり、彼らにとって日本国憲法というのは中世の神学者の聖書なんです。
 ダーウィンの進化論を聖書に照らし合わせて、「聖書にはそう書いてないから、間違 い」ってなもんですよ。
 本来、憲法学者なのであれば、いまの日本にとってどういう憲法が理想の憲法かということを研究すべきだと思うのです。憲法は物理学の法則とか数学の公式みたいに永久不滅のものじゃない。もし、憲法が永久不滅のもの、絶対的な真理だとすると、世界中の憲法が同じものになるはずですからね。国によって憲法が違うのは、絶対的な真理というものがないということなのです。国柄によって違うのは当然で、また同じ国でも時代によって、あるいは国際状況の変化によって、憲法を変えていくのが当たり前で、実際に世界の国はどんどん憲法を変えています。

有本:私たちは、よりよき国をつくって、そのよき国民として生きていかなければなりません。そのために平和の希求も、憲法の理念ももちろん大事ですが、だからといって憲法のために国民の命を粗末にしていいはずはない。国民の命や財産、領土、主権、こういう国家の基本中の基本をないがしろにしてでも守らなければならない憲法なんて、本末転倒もいいところ。もはやコントかという話なのですが、日本の憲法学者と言われる人たちは、そんな基本的なことを完全に取り違えているように見えるのです。

百田:憲法学者がなぜそうなってしまったかは、『日本国紀』にはっきり書いています。


あとがき

 「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」
 これは、日本列島が大阪万博に沸いていた昭和45(1970)年の夏、作家・三島由紀夫が、産経新聞(当時はサンケイ新聞)に寄稿したなかの一節である。その四ヵ月後、三島は、東京・市ケ谷の自衛隊駐屯地で割腹自決を遂げた。
 この年、百田尚樹さんは中学三年生、私は小学校二年だった。
 およそ半世紀が過ぎ、大阪に再び万国博覧会がやって来ると決まった今年、百田さんは還暦過ぎ、私は五〇代となっている。果たして今の私たちが、富裕で抜け目がないかどうかさえ自信がないが、この半世紀、日本が「無機質な、からっぽな、ニュートラルな」国への道を驀進してきたことだけは間違いないと言える。
 「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」  こう言って三島が腹を切り半世紀が経つというのに、私たちはその憲法を触ることはおろか、「国は自ら守るもの」という当然至極の合意さえできていない。それどころか、子供たちの歴史教科書を開けば、一体、どこの国の教科書かという内容だ。三島は草葉の陰で号泣していよう。
 これらを見ると、実質的に「日本はなくなって」いるようなものである。
 しかしそのからっぽな列島に、「私は日本という国が大好きです」と堂々言ってのけるユニークな作家が現れた。我らが、百田尚樹さんである。
 お笑い番組の放送作家出身で、「下品だ」という誹りも何のその。失言、失敗もしょっ ちゅうで、自分で自分を「アホ丸出し」と嗤って憚らない、大阪のおもろいオッチャン。文学やら教養とは縁遠く見え、三島とは対極にあるように見えながら、実は超人的博覧強記なこの作家が、近年、独特のやり方で「なくなった」日本を取り戻そうと奮闘している。
 百田さんがストレートすぎる言葉で「愛国」を語ると、途端に、からっぽ列島の「ええカッコしい」どもが涌き出る。彼らが群れて冷笑しながら「ニュートラルなからっぽ」言葉で小馬鹿にしても、百田さんはビクともしない。多くの読者を味方につけ、「ワハハ」と笑って舌を出し、「ええカッコしい」どもを一層イライラさせる。
 そんな百田さんが書いた『日本国紀』は、日本人を熱狂させた。
 発売から二週間足らずで45万部が発行され、三週間で30万部の実売を記録した。 「感動した」「泣いた」という声とともに、多くの「百田さん、ありがとう」という声、「学校時代、嫌いだった歴史を好きになりそう」という声が私たちのもとに押し寄せた。 出版不況と言われて久しい今日、これほど熱く求められた本があったのかと多くの出版人が驚嘆する一方で、この現象に「怒り」を滾らす人々もいた。
 近年稀に見るベストセラー本を、「歴史資料も読めない百田が書いた低俗な愛国ファンタジー」と罵る者や、「こんな低レベル本を喜ぶ読者がバカ」と数十万の日本人までバカ呼ばわりする者、そしてとうとう「百田の本を全頁コピーしてネットに公開しよう」と言い出す者まで出た。そんな彼らは、「日本は南京で40万の中国人を殺した」とトンデモ説を書く作家には不思議と寛容だ。
 この自称「史料が読める知的な方々」にとって、『日本国紀』および「百田尚樹」は、親の仇のごとき存在らしいが、猛り狂う人々に百田さんはこう言う。
 「『日本国紀』を異常に恐れる人たちへ。たかだか一冊の本やん。しかもホラーじゃないし。そこまで怖がらなくてもいいから、気になるんなら、読んでから、ここがおかしいよと言えばいいんじゃない?」
 なんと平和的で、リベラルな言葉だろうか。百田さんはこうも言う。
 「どこの家にも家族の物語があるでしょう。『あなたのお祖父さんはこんな人で、こんなふうに生きた素晴らしい人だったんだよ』と語り継ぐような。日本人共通のそんな物語が必要だ。そう思って書いたのが『日本国紀』です」
 父祖の偉業を語り継ぎ、同時に失敗談も語り継ぐこと。これは、良き家、良き社会、良き国をつくっていくための第一歩である。数十万の『日本国紀』読者は、その真理に気づいているのだ。「賢い俺様をバカなお前らの『家族』に括るな」と叫ぶ、拗らせ人種を尻目に、多くの賢明な日本人が百田さんの「日本」を取り戻す奮闘を支持し共感している。これが目下の希望の光。日本を、日本たらしめようとする力である。
 本書では、『日本国紀』の舞台裏を語ると同時に、学校で教えられる「歴史」と、「日本国紀』との違いを解説することで、今の日本の危機を明らかにしました。その作業は、産経新聞出版の編集長、瀬尾友子さんの奮迅の働きなくしてはできなかったことです。瀬尾さんとスタッフの皆さんに心から感謝申し上げます。
          有本 香




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