誰も書かなかった日韓併合の真実

日本国と日本国民を貶め被害を与えた「慰安婦問題」の発端になったと言える吉田清治とそれを利用した勢力の暗躍について、知っておくことは大切だと思う。

誰も書かなかった日韓併合の真実

 日韓関係や日韓の歴史について、百田尚樹さんの『今こそ、韓国に謝ろう ~そして、「さらば」と言おう~』を読了していました。
 他の方の著作も読んでみようと思い本書を手にしましたが、とても勉強になりました。

 「はじめに」で『本書では、日本が朝鮮半島を統治した35年間の歴史を、客観的に振り返ってみたいと思う』としています。
 客観的であって欲しいと思うのですが、「●興南工業地帯」では『韓国の教科書には、釜山紡績工場の実態が紹介されている。「農村から集められた15~20歳の女性は、暗い工場で、厳しい監視の中、長時間労働をさせられた。また食事も粗末であり栄養状態が悪く倒れる人が多数いた」』と書かれています。
 「 韓国の教科書に書かれたことは正しい」という前提で大丈夫なのだろうかと疑問も感じました。

 題名に「日韓併合の真実」とあり、「はじめに」でも「日韓併合とはなんだったのだろうか?」というように、他でも「日韓併合」と表記している一方で、「植民地支配」という記述もあります。どう使い分けているのかと思いました。
日本側から見たら「併合」だが朝鮮から見たらやはり「植民地化」だということなのだろうか・・・。
 

 「はじめに」で『細かい事実のみを拾い上げて、自分が望む結論に結びつけている』ことを戒めていらっしゃいますから、細かいことを持ち出してはいけませんね。

 豊田隆雄さんの「誰も書かなかった日韓併合の真実」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

誰も書かなかった日韓併合の真実 豊田隆雄

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

誰も書かなかった日韓併合の真実 [ 豊田隆雄 ]
価格:730円(税込、送料無料) (2019/12/27時点)



目次

 はじめに 2

 序・李朝崩壊から日韓併合まで 16
日本から見た日韓併合  /  朝鮮から見た日韓併合  /  初代統監・伊藤博文の考え  /  日韓併合条約は違法なのか?

 第1章 日本の植民地支配の目的は何か?
 1・各国の植民地事情 28
併合か植民地か?  /  フランスによるアジア統治  /  アメリカのフィリピン統治 / イギリスによるエジプトの保護国化 / 欧米列強の植民地支配との比較


 2・朝鮮総督府の実態 36
朝鮮総督府をめぐる議論 / 朝鮮総督府と総督 / 現実路線を選んだ朝鮮総督府 / 武断政治から文化政治へ

 3・李王朝の王族たちはどうなった? 43
琉球王尚家と朝鮮李王家 / 帝国主義のもとで / 併合後の李王家 / 終戦後の李王家

 4・王族の住んでいた宮殿はどうなった? 50
五大宮殿とは / 景福宮 / 総督府の都市計画 / 動物園になった昌慶宮と学校になった慶煕宮

 5・両班などの身分階級はどうなった? 58
宇垣一成の朝鮮観 / 併合前の身分制度 / 李朝による近代改革のゆくえ / 朝鮮総督府による身分改革と両班の取り込み

  第2章 三・一独立運動の衝撃と総督府の対応
 6・三・一独立運動はなぜ起きた? 66
三・一独立運動 / 海外の朝鮮人たちの動き / 原因はアメリカにある?

 7・文化政治とはなんだったのか? 72
斎藤実の文化政治 / 対日協力者の変化 / 御用新聞の役割 / 総督府のメディア対策


 8・団結できなかった大韓民国臨時政府 80
政治と民族主義 / 臨時政府の樹立と内紛 / 中国国民党への接近

 9・第二の「三・一独立運動」失敗の理由 87
社会運動の夜明け / 労働者・農民の運動 / 広がらなかった六・一〇運動 / 運動家の懐柔

 10・満州を足掛かりとした独立運動 95 満州の戦略的重要性 / 普天堡襲撃 / 満州の居留民保護

 第3章日本が実施した経済産業政策の功罪
 11・貨幣経済確立と日本経済との同化 102
朝鮮による貨幣制度確立の動き / 世界は金本位制 / 目賀田種太郎の貨幣改革

 12・日本のインフラ整備 鉄道篇 108
日本が鉄道を敷設したのは大陸侵略のため? / 朝鮮マーケットをつなぐ / 経済発展と鉄道

 13・在朝日本人の経済活動 115
チャンスを求めてやってきた日本人たち / 在朝日本人の増加 / 貿易港釜山と仁川が果たした役割 / 経済活動を通じた日本人コミュニティの形成


 14・日本のインフラ整備 工業地帯形成篇 123
八田與一と野口遵 / 工業立地論 / 会社令撤廃 / 興南工業地帯


 15・不況の打開策と経済圏の再編 131
世界恐慌勃発 / 電力事業への注力 / 不況時代の経済圏構想

 第4章 総督府が導入した諸制度の意味
 16・日本語が普及しなかったのはなぜか? 138
併合前後の教育制度 / 日韓併合後の教育 / 日本語が普及しなかったのはなぜか? / ハングルの普及と禁止

 17・土地の近代化と米の増殖 145
農業近代化の功罪 / 総督府による土地調査 / 総督府による農業指導 / 計画の不備

 18・衛生・医療制度を介した規律化 152
衛生・医療を通じた近代化の意味 / 李朝時代の衛生 / 総督府による衛生指導 / 衛生思想の普及

 19・創氏改名による日本の家制度導入 159
「制令十九号」および「二十号」 / 朝鮮人の名前 / 氏制度の導入 / 朝鮮民族による満州進出 / 創氏改名の真実


 第5章戦争と朝鮮半島
  20・オリンピック参加とメディア統制 168
植民地とスポーツ / ベルリンオリンピック開催 / 東亜日報の報道と規制の強化

 21・統治者と被統治者の内鮮一体 174
統治者から見た内鮮一体 / 内鮮一体は可能か? / 選挙権と徴兵制度

 22・国家総動員体制と植民地の矛盾 179
日中戦争勃発 / 朝鮮人動員計画 / 徴用されないことの意味

 23・朝鮮半島と軍隊 186
  活躍する朝鮮兵 / 朝鮮での徴兵制度 / 朝鮮人BC級戦犯


 24・終戦と分断国家誕生 191
終戦 / 呂運亨と建国準備委員会 / 終戦時の日本人 / 38度線で分断 / 分断国家誕生

 おわりに 200

 主要参考文献・論文 204  


はじめに

 日韓併合とはなんだったのだろうか?
 返ってくる答えは、立場によって大きく異なる。日本による統治を抑圧とみなして否定する向きもあれば、近代化が日本によってもたらされたことを強調して、肯定的に捉える向きもあるだろう。「日本は正しい歴史認識を持て」「歴史を歪曲せず勇気を持って向き合え」と追っていた韓国の前大統領朴槿恵は、明らかに前者の極端な例だ。
 しかし、人間が本来複雑なものである以上、歴史を単純化しすぎるのは、非常に危険だ。日本が韓国を統治した35年間、世界情勢は刻々と変化し、統治者は何人も入れ替わった。そんな中で敵味方に分かれ続けることなど、本当に可能なのだろうか?
 また、日本が近代化をもたらしたと言っても、それで朝鮮の人々は豊かになることができたのだろうか?
 こうした疑問に対する答えは、統治の時期によって異なるし、探そうと思えば異なる意見を見つけることもできる。しかし大事なのは、ベースとなる全体像をつかむことである。現在、日韓の近代史は政治的な影響のせいで、なかなか自由な議論が行えないのが実情だ。
 韓国では、民族主義的な歴史観が浸透し、最後は必ず「日本=悪」という視点に行きついてしまう。一方、そうした過激な論法に日本では反発の声が上がり、「日本は何も悪いことはしていない」という極論まで出るようになっている。
 こうした傾向に陥るのは、細かい事実のみを拾い上げて、自分が望む結論に結びつけているからである。そうした細部の探求は研究者に任せて、我々は感情論から抜け出すための知識を持たなければならない。
 そこで本書では、日本が朝鮮半島を統治した35年間の歴史を、客観的に振り返ってみたいと思う。私は社会科の教師という立場上、また、学生時代に日朝関係に関する勉強をしていた関係上、この時期の歴史書や史料を目にする機会が多少はある。そのため、イデオロギーに固執せずに客観的に日韓併合時代を解説できると考えている。
 韓国や北朝鮮にとって都合の悪いことも書いたが、日本にとって耳の痛いこともかなり書いている。それでも、「良いか悪いか」という二者択一ではなく、「何が起きたのか」という事実の探求を心がけて執筆したつもりなので、歴史と真摯に向き合いたい方には、ぜひ読んでいただきたい一冊だ。
 おおまかな内容は、以下のとおりである。
 まずは序章で朝鮮開国から日韓併合までの流れを追い、第1章「日本の植民地支配の目的は何か?」で、いわゆる武断政治期を中心とした総督府の政策について解説している。日本の植民地支配の目的、朝鮮の旧王族、旧支配層両班、宮殿などのその後などが本章のテーマだ。
 第2章「三・一独立運動の衝撃と総督府の対応」では、様々な要素が重なって起こった三・一独立運動と、それ以後の総督府の対応の変化について紹介している。日本の統治が35年間も続いた一因は、この頃の政策転換にある。その実態を知ってもらいたい。
 第3章「日本が実施した経済産業政策の功罪」では、日本が近代的な経済体制を朝鮮に持ち込んだ理由とその影響を考えてみたい。先に資本主義化した日本は、朝鮮に貨幣・鉄道・電力・工業を導入した。その結果、朝鮮経済は日本経済圏へと取り込まれるようになり、国家運営のうえで重要な地位を占めるようになる。
 第4章「総督府が導入した諸制度の意味」では、土地・衛生医療・家族制度の導入を通じて、朝鮮に「近代」という価値観が芽生えた過程をまとめている。これらの政策の一部は、図らずも、朝鮮人にアイデンティティを意識させることになる。朝鮮人の姓名を奪ったと議論になる創氏改名の背景についても、詳しく記述してある。
 最後の第5章「戦争と朝鮮半島」では、日中戦争、太平洋戦争に朝鮮人がどのように関わっていったのかを紹介する。兵役に関しては、徴兵という「義務」を課すことに対して「権利」はどうすべきか、という問題が浮かび上がってくる。ここから、日本による朝鮮統治がどのようなものだったのか、わかってくるはずだ。
 なぜ日本による植民地統治は可能だったのか? 当時の人々は日韓併合時代の政策をどう受け止めたのか? こうした疑問を抱きながら、本書の執筆を続けた。私なりの答えが少しでも読者の皆さんの参考になれば、筆者としてはうれしい限りである。


●日韓併合条約は違法なのか?

 以上が、日韓併合の大まかな流れである。こうしてみると、日本は自国の独立を守るためとはいえ、かなりの無茶をやってきたことがわかる。一進会も支持していたとはいえ、彼らが唱えたのはあくまで日本と朝鮮の対等な合併である。当時の国際状況でそれができたとは思えないが、日韓併合が一進会の予期せぬ方向に向かったのは確かだろう。
 ただし、併合までの流れが強引であることは否めないものの、日韓併合は国際法を守って実行され、諸外国の承認も得ていた。現在の韓国では日韓併合を国際法に反する行為だとし、これに基づく日本の植民地統治は違法であるという声が大きいが、日本政府が大韓帝国と外交文書を交わし、列強のコンセンサスを得ていたことを考えると、違法だと断定できるとは言い難い。ハーグ密使事件もそうだが、現在のような国際機関もなく、帝国主義が世界を席巻していた当時、朝鮮の後ろ盾になるような強国はなかったのである。
 こうして日本の一部となった朝鮮では、以降35年間、朝鮮総督府による統治が続けられることになる。時期によって統治方法は変わってくるが、総督府の建前は揺らいではいない。朝鮮統治の基本方針。すなわち、同化政策である。
 これを指して韓国人や日本の学者のなかには「朝鮮民族の抹殺を図った」という物騒な物言いをする人もいるが、そう単純な話ではない。当時の人たちにとって、日本の統治は決してすばらしいものではなかったが、苛斂誅求一辺倒だったわけではない。むしろ、後述するように、総督府は統治を安定させるために、朝鮮人の理解を得ようと配慮することが多くなっていくのだ。
 また、安全保障上の理由から日本政府は日韓併合に踏み切ったものの、次第に金融・工業・食糧などの面からも、朝鮮統治は日本にとって重要な地位を占めるようになっていく。その結果、朝鮮社会はどう変化したのか?
 次章からは、そんな日韓併合時代の事実を紹介していきたい。もちろん、記述の目的は日本の行動に免罪符を与えることでもなければ、韓国・北朝鮮の主張を鵜呑みにして日本を糾弾することでもない。感情に流されず、一面的な事実だけに依拠しないで日本の朝鮮半島統治を眺める。そうすることで、その実態が見えてくるはずだ。


1・各国の植民地事情


 ●併合か植民地か?
 植民地と聞いて何を連想するだろうか? スペインやポルトガルの中南米侵略か。はたまた、帝国主義における欧米列強諸国によるアジア・アフリカ侵略か。
 そうした西洋諸国の植民地では、先住民を無視した非合法な搾取が横行し、過酷な支配が行われていた。帝国主義の時代において、ヨーロッパでは「文明化の使命論」が唱えられ、「劣等なあるいは退化した人種の向上をはかることは、人類にとって神の摂理にかなった事業である」とされた。こうして侵略が肯定されたのである。
 では、日本による植民地支配はどうだったのだろう? 韓国の民族主義者からすれば、「日本による支配は欧米列強のそれ以上に過酷で、類を見ない残忍なものだった」ということになるのだろう。
 確かに、日韓併合の過程で朝鮮人の抵抗があったのは事実だし、併合後も規模の大小こそあれ独立運動を志向する動きはあった。しかし、統治全般を見渡せば、列強のような非合法な支配体制ではなかったことや、国際社会から逸脱したものではなかったことがわかってくる。
 欧米列強にとって、植民地とはどのようなものだったのか? まずはフランスを例に考えてみよう。

 ●フランスによるアジア統治
 アジアで絶大なる力を誇り、巨大帝国を形成していた清。朝鮮をはじめ、ベトナム、タイ、ミャンマーなどを属国とする冊封体制を築いていたが、アヘン戦争敗北以降、ヨーロッパ勢には負け続けで、まったく歯が立たない状態であった。
 この清国からベトナムを奪ったのが、フランスだ。1885年、清仏戦争に敗れた清はベトナムから撤退し、勝利したフランスはベトナムを保護国とする。これをきっかけに、フランスはインドシナ東部(ペトナム・カンボジア・ラオス)の支配を確立し、フランス領インドシナ連邦を形成していった。
 フランスの統治は、清のように貢物を届ければ安泰という生易しいものではなかった。人頭税をはじめ、土地税、結婚税、葬式税など、さまざまな税による支配を実施。塩、アルコール、アヘンなどにも税をかけ、鉄道などのインフラ整備にあてていた。フランス企業が資本を投下する基盤をつくるためであった。
 教育制度に関しても、フランスはまったくといっていいほど関心を持たなかった。植民地の人間は、従順な農民や労働者であったほうが都合がいい。それがフランスの本音だった。ベトナムが長年使用してきた漢字と中国にならった官人登用試験の科挙を廃止したのも、そうした思惑に基づいている。
 フランス領カンボジアでも、教育制度はあまり普及しなかった。総合大学は一枚もなく終戦間際の1944年でさえ、学齢に達していた男児の5分の1以下しか学校に行けなかった。
 カンボジア以上に悲惨だったのはラオスだ。1917年に小学校、1921年に中学校がつくられたが、高等中学校がラオスにつくられたのは、戦後の1947年だった。
 このような状態だったから、植民地支配が終わった頃、フランス領インドシナ全体で読み書きができたのは、わずか10%だったという。

 ●アメリカのフィリピン統治
 フランスとは対象的に、植民地の教育に力を入れたのがアメリカだ。しかし国民のためではなくあくまでもアメリカのためだった。
 アメリカは、米西戦争の勝利によって、スペインの植民地だったフィリピンの領有権を獲得した。しかし、それに反発するフィリピンとの間で戦争が起きる。米比戦争である。
 この戦争によって、フィリピンは大きな傷を負った。アメリカ軍によるフィリピン人虐殺事件が各地で発生し、犠牲者は20万人(全人口の3%)にも及んだと推定されている。また、水牛の90%が失われて農耕に影響を及ぼし、米の収穫量が四分の一にまで激減したという。
 ここまでやられてフィリピンの革命軍が黙っているわけもなく、アメリカは予想以上に抵抗に苦しんだ。そこで考えられたのが、教育の普及だった。早くも米比戦争中の1901年には無償の初等教育が、翌年には中等教育制度が成立。1908年には国立フィリピン大学が設立されたが、その目的は、フィリピン人エリート層を懐柔して植民地支配に協力させること、英語を浸透させて行政事務を円滑にすすめることだった。特に、当時のエリート層はスペイン語使用者たったため、その言語を英語に変えるために教育の普及は急務だった。
 学校ではアメリカ人用の教科書が使用され、授業は英語で実施された。担当したのは、退役軍人やアメリカから派遣された教師たち。その結果、監視の目が行き届くようになりフィリピンに暮らす人々は、教育を通してアメリカによる植民地化の正当性を植えつけられるようになっていった。

 ●イギリスによるエジプトの保護国化
 次に、イギリスによるエジプトの保誕国化のケースを見ていこう。
 ヨーロッパに近いエジプトは、オスマン帝国の属領時代から欧米の侵略に危機感を抱いており、19世紀初頭から近代化に着手して成果を挙げていた。
 しかし、支配者が贅沢三昧な暮らしを続けたことで国家財政は疲弊。そこで採られたのが、スエズ運河株の売却だ。エジプトは、17万6600株をイギリスに売却したのだが、これが破滅の一歩となる。大株主となったイギリスは、筆頭株主のフランスとともに主要債権国としてエジプトの財政を管理下に置いたのだ。
 1881年、エジプトの陸軍将校ウラービー・パシャは「エジプト人のエジプト」を掲げて政権を掌握するが、イギリスは軍隊を送ってウラービー軍を壊滅させ、カイロを占領。エジプトはイギリスの保護国となった。
 当然、エジプトからは反発の声が挙がったが、イギリスはあくまで「スエズ運河の安全と自国の債権者の利益を守るためエジプトが安定すれば撤退する」と主張。しかし、スエズ運河を擁するエジプトは交易上、そして防衛上の重要な地域だったため、イギリスは本音としては恒久的な支配を目指していた。
 他の列強と違うのは、エジプトの安定を図るため、イギリスが破綻状態にあるエジプトの経済と財政面を立て直したことだろう。責任者となったクローマー卿は1907年までの長期間エジプトに滞在し見事財政を再興したのだった。
 もちろん、イギリスによる保護国化は慈善事業ではない。その証拠に、第一次世界大戦後、紆余曲折を経て戦争協力の見返りとしてエジプトは独立するが、イギリス軍の駐留は継続されたまま。イギリスは権益を守ることを忘れなかった。

 ●欧米列強の植民地支配との比較
 欧米列強による植民地支配は、日韓併合が行われた1910年頃も継続していた。
 インドネシアでは、オランダによる強制栽培制度がかたちが変わりながら1917年まで続いたことで慢性的な食糧不足となり、定期的に飢餓が発生して多くの国民が命を落とした。
 ベルギーが支配するコンゴでも、国王レオポルド2世によるカカオやゴム、象牙の収奪は過酷を極め、1885年に2000万~3000万人いた人口は、1911年には850万人にまで減少している。
 他にもイギリスは、南アフリカで行われた「ボーア戦争」の際、オランダ系ボーア人を支援した原住民数万人を強制収容所送りにしており、およそ3万人が命を落としたとも言われている。
 日本の統治にも問題はあった。後述する通り、三・一独立運動が過熱したのは、日本による威圧的な統治への怒りが爆発したからだ。だが少なくとも、三・一独立運動以降、日本は欧米のようなあからさまな収奪は行わなかった。強制栽培制度を実施していないし、住民を奴隷化したり、国策として移住を強要したりしていない。教育に関しても、反発を受けたことで現場の事情を勘案するケースが多かった。35年間の日本統治すべてに間題があったと決めつけるのは、いくらなんでも強引ではないだろうか。


7・文化政治とはなんだったのか?


 ●斎藤実の文化政治
 三・一独立運動に直面し、既存の統治が通用しないことを痛感した総督府は、これまでの統治路線を大きく変化させた。
 1919年9月、朝鮮へやってきた斎藤実新総督は、教師らの制服・帯剣義務の廃止、朝鮮人官吏の給与改善、憲兵警察制度の廃止と普通警察制度の発足、朝鮮語新聞の発行許可など、融和的な政策を相次いで実施。内地延長主義に基づき、日本との差異をなくすことに努めた。
 なお、よく指摘されるように、憲兵警察制度に代わって普通警察制度が導入されたが、実際には警察力の強化も図っていた。警察署数は736から2746へ、警察官の人数は6387人から2万134人へと増加。一府(市にあたる行政単位)に一警察署、一面(村にあたる行政単位)に一駐在所を配置して、治安の維持を図った。このような警察力の強化が、のちに展開される民族運動への対応に活用されたことは間違いない。
 こうした総督府の対応を否定的にみる研究者は多いが、現実的に考えて、大規模な独立運動が起こった後に警察力を強化するのは、統治者の心理からすればさほど不思議なこととは思えない。
 さて、これ以降、1927年12月から1929年8月までの山梨半造陸軍大将の総督期間を除いて、1931年6月まで斎藤は朝鮮総督の地位に就いた。この斎藤の統治期間が、いわゆる「文化政治」だ。斎藤が「文化の発達と民力の充実」を掲げたことから、こう呼ばれる。10年間に及ぶ文化政治の評価はまちまちだが、総督府がこれまで以上に朝鮮人の動向に気を向けるようになったことは確かだ。
 それでは、具体的にどのような統治だったのだろうか? その特徴を探ってみよう。

●対日協力者の変化
 さて、数々の融和策を打ち出した斎藤総督だが、急務だったのは、対日協力者を見つけることだった。武断政治時代の旧エリート層の協力を得ても、民衆の不満を抑えることはできなかった。それに代わる民衆の代表でなければならない。
 そこで注目されたのが、近代化以降に勢力を伸ばしてきた旧郷吏層だ。
 もともとは両班の出身母体だったが、中央には進出できず、地域に密着して地方行政の実務官僚となっていた。彼らは両班から下に見られていたものの、近代化以降は土地の所有権を確立して財をなし、地主として、企業家として農村社会に影響力を持つ者も出ていた。総督府は、こうした新興層を道や府、面の議会に参加させ、地域の実情を把握できるネットワークを形成したのである。旧郷吏層からしても、総督府とパイプを持つことで朝鮮人の地位向上を直接訴えられるというメリットがあった。彼らは単発的な独立運動に頼るのではなく、長期的な視点に立って、生活の改善や朝鮮人による自治を実現しようとしたわけだ。
 この他にも、李朝時代に活躍できなかった諸階層の協力を得て、総督府は統治を安定させていく。朝鮮の社会運動というと、「日本への抵抗」という価値観から語られることが多かったが、教育問題、女性の権利、労働者の待遇改善、衛生環境の整備など、民族性とは関係しない運動もこの時期には展開されていた。そしてそれらの運動は、総督府への抵抗ではなく、社会環境の改善要求や、民衆への啓蒙活動として展開され、植民地における近代化を推進するのに寄与していた。その結果、啓蒙化された民衆は、対話や取引といった手段を通じて総督府に接するようになる。
 このように、両者の思惑は異なったものの、総督府は一方で独立運動や暴動に対処できるように警察機構を強化し、一方で対日協力者を地方政府レベルまで広げて統治の網を広げることをもって、治安の安定を図ろうとしたのである。

 ●御用新聞の役割
 また、斎藤は1920年1月、『東亜日報』『朝鮮日報』『時事新報』という3つの新聞創刊を許可し、朝鮮人による言論をある程度認めていたが、その一方で御用新聞である『京城日報』へのテコ入れも忘れなかった。
 前者三紙は朝鮮語新聞であるのに対し、『京城日報』は日本語新聞だった。つまり、読者層は在朝日本人だ。日本人向けに総督府の正当性を示し、朝鮮語新聞をけん制すること。それが『京城日報』には求められたが、反発を受けないように自由度も確保しなければならなかった。
 初代統監の伊藤博文の指示で創刊したということもあって、文化政治以前は機関新聞として総督府を肯定する記事ばかりだったが、斎藤が総督に就任すると社長も何度か代わり、朝鮮問題だけなく、国際問題や日本の政治に関する記事を載せるようになる。
 特に、大正デモクラシーの影響を受けた副島道正は、現実的な漸進主義改革の必要性を説いて穏健路線を目指すべきだと主張。当時としてはかなり自由な論調で持論を展開し、話題になった。
 ただし、結果的に見れば、副島による方針転換はうまくいかなかった。日本人にも朝鮮人にも副島の穏健路線は浸透せず、融和的な方針は総督府内から非難されることもあった。そのため、副島は社長就任からわずか3年で辞任。社長交代後の1931年には総督府寄りの論調が顕著になり、同化政策を理想化する記事が多くなる。ちょうど、斎藤による統治が終わりを迎えた時期だった。
 新総督となった山梨が汚職事件を起こして3年で総督の地位を追われ、ふたたび斎藤が総督となるが、『京城日報』は総督府支持の姿勢を変えなかった。むしろ、朝鮮語新聞への対抗意識から民族運動の過激化を警戒し、総督府の政策を支持する記事が増えていく。同時に、「国際的な支援を得られない朝鮮が独立できる可能性はない」と説き、むしろ日本のもとで民族の力を蓄えるべきだと説いて、白人への対抗意識を煽った。
 結果として、部数が安定的に伸びたことで総督府寄りの論調は定着することとなり、『京城日報』の姉妹紙で朝鮮語新聞の『毎日新報』とともに御用新聞としての機能を果たしていくことになったのだった。

 ●総督府のメディア対策
 こうして総督府の宣伝機関としての地位を固めた『京城日報』だったが、これに対して朝鮮人が発行した『東亜日報』『朝鮮日報』は、否定的な論調を強めていった。現在も両紙は韓国を代表する新聞紙として知られており、その論調は民族主義的色彩が非常に濃いが、それは創刊時の姿勢を受け継いでいると言えるだろう。「総督府や日本政府の圧政はここまでひどい」といった論調を展開し、『東亜日報』は発行部数を伸ばしていった。
 しかし、総督府はこれら民族新聞紙を発行禁止にまではしなかった。『東亜日報』の場合、戦時統制下にあった1940年8月に廃刊されることになるが、それまでは当局から削除命令や販売禁止処分を受けながらも存続し、むしろ総督府の目を盗んで批判的な紙面をつくることはよくあったようだ(『東亜日報』の記者は1948年に出た本において、紙面から日本の旗を消すことはよくあったと述懐している)。
 総督府からすれば、やろうと思えばいつでも発行禁止にすることはできたはずだが、それでも継続を許したのは、朝鮮人の不満を抑えるためだった。要は、不満のはけ口を民族新聞に代弁させたわけだ。
 しかしそれ以上に注目すべきなのは、不満のはけ口を与えた一方で、総督府が民族主義者をとりこんで、民族主義の穏健化に努めたことだ。この流れは1920年代にはじまり太平洋戦争が終わるまで続いていった。独立運動家だった李光洙や民族主義者の崔南善がその代表だ。1930年代には、『朝鮮日報』の主筆だった徐椿、親日派雑誌『緑旗』で筆をとった李泳根などがあげられる。
 細かい主張の違いはあれど、彼らは日本と協力しながら朝鮮民族の力を蓄えるべきだという「実力養成論」を展開して、人的金銭的コストのかかる抵抗運動を戒めた。また、御用新聞で日本の改革を強調し、「日本による近代化」を肯定させようとしたことも、そうした流れに影響を与えたはずだ。つまり総督府も、出版・新聞によって、自分たちの正当性を広めようとしたのである。
 簡単に言えば、文化政治という期間は、総督府にとっては民族主義の穏健化を目指した時期であり、朝鮮人からすれば、権利の拡大を目指す新興勢力と、独立を志向する勢力に分かれた時期だった。その結果、好むと好まざるとにかかわらず、総督府と朝鮮人の距離は近づいていったのである。


13・在朝日本人の経済活動


 ●チャンスを求めてやってきた日本人たち
 外務省の調査によると、韓国には2018年時点で約4万人の日本人が暮らしているという。ビジネスのために滞在している人がほとんどのようだ。
 アメリカ在住約42万人、中国在住約12万4000人と比べると決して多いとは言えない数字だが、戦前はこの両国に負けないほどの日本人が、朝鮮半島には住んでいた。
 その数は、終戦時点でなんと75万人以上。これは、台湾や満州の倍以上の数字である。これだけ多くの日本人が朝鮮半島に渡ったのはなぜなのだろう?
 アメリカや満州の場合は、困窮した農民が食い扶持を求めて集団で移住するケースが多かった。土地を耕し、農地を経営して生活基盤を築いた人々だ。
 それに対して朝鮮半島には、当時からビジネスのために移住する人が多かった。農民の移住も奨励されたものの、人件費が安いため、わざわざ朝鮮で農業をしようと思う日本人は少なかったようだ。朝鮮で成功したのは、貿易や不動産業、金融業などのビジネスマンたちで、なかには一獲千金を目指してやってきた者も少なくなかった。
 こうした名もなき人々が朝鮮半島に与えた影響は、無視できないほど大きい。
 在朝日本人の経済活動の多くは、日本政府や総督府が推進しようとした政策と関係していた。総督府が鉄道を造ろうとすれば、日本本土から募集された労働者がやってきたし、工場にも日本人が多く雇用された。それは本章の冒頭でも述べたように、朝鮮半島は後進資本主義国である日本にとって格好のマーケットであり、国内の余剰人口を移出できる労働市場でもあったからである。
 在朝日本人は、朝鮮半島にどのような影響を与えたのか? 順を追って見ていこう。

 ●在朝日本人の増加
 前述したように、開国当初から朝鮮半島へ日本人が押し寄せたわけではなかった。一部の商人が経済活動に従事していたものの、渡航者が急増するのは、日清日露戦争で日本が勝利し、朝鮮半島への影響力を強めてからである。
 日本人商人にとって最大のライバルだったのは、清国人商人だ。当初は日本がシェアを圧倒していたが、1890年代から清国人商人の進出が顕著になり、京城では兼業が多かった日本人商人よりも、規模の大きい清国人綿製品業者のほうが存在感を示していたようだ。仁川でも中国産の綿製品が市場を席巻するようになり、日本人商人としては、なんとかその勢いを削ぎたいところだった。
  そんなときに起きたのが、日清戦争だ。戦争を避けようと日本へ帰国する人が多かった一方、一部の日本人商人は、清国人商人の勢いを削ごうと日本軍への協力を惜しまなかった。宿舎の提供、通訳、物資調達、通貨の用意など、その活動は幅広い。
 こうして清国人商人は後退することになり、日本人商人は朝鮮における経済活動を有利に進めるようになる。そして日露戦争の頃には、敷設中だった鉄道の権益を守ろうと、商人をはじめとした居留民が日本軍の命令のもと食糧支援に回り、木材や紙の供給にも一役買った。
 こうして、戦争を通じてライバル商人を追い出し、軍需が急増したことで、朝鮮内の貿易商は規模の拡大に成功。経営を安定化させていった。それに伴い増えたのが、日本人労働者だ。彼らの多くは貧しい農民で、チャンスをつかもうとして朝鮮半島へ渡っていった。折しも、朝鮮半島では商館の建設や鉄道の敷設などで建築需要が高まりをみせ、大量の人出が必要だった。その結果、はじめは54人しかいなかった日本人は、1900年には1万5000人を超え、日韓併合の時点で約17万人にまで増えるに至ったのである。

 ●貿易港釜山と仁川が果たした役割
 前述した通り、日本にとって朝鮮半島は、綿織物の移出先として貴重なマーケットであり、それと同時に、米の供給基地という食料政策上の重要地域でもあった。貿易業者はこれらの商品の輸出入で財をなし、日本人居留民のコミュニティを形成していく。そうした日本人コミュニティの中心地となったのが、釜山と仁川だ。
 両都市とも在朝日本人の商業活動の中心地となったが、特に釜山は、江戸時代に対馬藩と交易を行っていたこともあり、日本とのつながりは深い。開港前は小さな漁村に過ぎなかったが、1876年、日本専管の居留地として開港されると、釜山には多くの日本人商人が移り住み、年々その数を増していった。日韓併合時には2万人を超える日本人が暮らし、貿易総額は1500万円にまで達していた。
 釜山がここまで巨大になったのには、もちろん理由がある。それは、釜山が日本と朝鮮を結ぶ中継地点に位置付けられたからだ。
 1905年に京城と釜山を結ぶ京釜鉄道が開通し、さらには釜山と下関を結ぶ海路が整備されたことで、釜山の地位は飛躍的に向上していく。日本から朝鮮へ渡る人の多くが京釜鉄道を利用するようになり、物流拠点として確固たる地位を築いたのである。1935年の釜山の貿易額は朝鮮全土の27%に及び、1944年には45%にまで拡大していた。
 なお、釜山は現在、韓国有数のビーチとして人気があるが、実はそのルーツは日本統治時代にあった。当時から釜山は観光業も盛んで、特にビーチは人気だったのだ。
 一方の仁川は、釜山のようにとんとん拍子で発展できたわけではなかった。
 当初は開港場として多くの日本人が住んでいたが、他国の居留地も設けられていたことから、日本以外の外国勢、特に清国人商人の規模が大きかった。日清戦争後に日本人商人が勢いを取り戻したが、20世紀に入ると京仁線が開通し、これまで船で7、8時間、陸路で一日かかっていた京城・仁川間の行程が100分足らずになってしまったため、貿易港としては勢いを失っていった。
 しかし仁川は、釜山にはないメリットがあった。それは、京城から約40キロという好立地にあったことだ。その結果、釜山が日本と京城を結ぶハブ都市として発展した一方、仁川は京城と一体となって工業都市圏を形成することができた。貿易業だけでなく、精米業や紡績業などの軽工業を中心に、仁川は工業都市として発達していく。その結果、仁川には多くの工場が立ち並び、京城の衛星都市としてなくてはならない存在となったのである。

 ●経済活動を通じた日本人コミュニティの形成
 このように、在朝日本人の経済活動の背景には、日本の官公庁のバックアップがあった日韓併合前から居留地には領事館の業務を行う理事庁が置かれており、各居留地において居留民の組織化に貢献していた(併合後に理事庁は廃止され、各行政機関に機能を譲渡)。
 それに伴い、官吏の数が増えていくが、その傾向が顕著だったのが、京城だ。
 京城では、1911年の段階で、官吏は2134人に及び、京城の日本人のなかで一番多い職業だった。2位の商店員が1478人だったことを鑑みると、いかに行政都市としての性格が強いかがわかる。
 政府としては、日本人が定着して住んでくれればそれだけ権益が増すことになるから、商人に保護を与えることは理にかなっていた。学校の建設や道路の整備、上下水道の完備などのインフラ政策が実現したのも、そうした事情による。
 こうして在朝日本人は、朝鮮と日本の経済をつなぐ役割を果たした。さらには安定したコミュニティを形成することで、日本の朝鮮における基盤を確かなものとすることにも貢献している。
 しかし一方で、経済とは別の問題も内在するようになる。
 日本人コミュニティは独立した自治を行っていたため、朝鮮人社会との接触が希薄で、同じ土地に住んでいても、互いが無関心であることが多かった。それはつまり、同化を掲げていた総督府の方針が、居留民の間に浸透していなかったことを意味している。
 もちろん、他国の植民地統治でも、宗主国と被宗主国の人々が別のコミュニティを作ることはよくあった。ただ、同化を説いた総督府がそれを黙認したことは、意味が異なってくる。後述するように、総督府は同化を説いて朝鮮人から統治上の協力を得ながら、日本人と朝鮮人との間の差異を完全にはなくさなかった。この矛盾が戦争を期に表面化し、日本の統治の問題点が明らかになっていくのである。


14・日本のインフラ整備 工業地帯形成篇


 ●八田興一(はったよいち)と野口遵(のぐちしたがう)
 いきなりだが、八田興一と野口遵という人物をご存知だろうか。二人とも日本の植民地でのダム建設に尽力した人だ。しかし、現地での扱いは天と地ほどの差がある。
 台湾総督の土木技師だった八田興一は、台湾南部嘉義(かぎ)から台南までに広がる嘉南(かなん)平野に烏山頭(うさんとう)ダムと数多くの給水路を建設し、15万ヘクタールもの土地を大農業地帯に変えた。その結果、約100万人の農家を支えたと言われている。
 現在でも、八田の功績は台湾の教科書で紹介されているため、台湾で一番有名な日本人と言っても過言ではない。烏山頭ダムのすぐそばには八田興一の銅像と墓が建っており、八田の命日の5月8日には、慰霊祭が毎年行われている。
 一方、野口遵は、現在の北朝鮮領の赴戦江(ふせんこう)や長津江(ちょうしんこう)などにダムや水力発電所を建設した実業家だ。日本窒素肥料、通称日窒(にっちつ)を経営した新興財閥で、朝鮮の電力事業に絶大な影響を及ぼしたことで知られる。
 中でも、野口が建造を指揮した水豊(すいほう)ダムは出力70万キロワットで当時東洋一のダムと言われ、建設時から話題になっていた。水豊ダムは本格稼働する前に終戦を迎えたが、その他の施設で用意した電力と工業用水をもとに、日窒は貧しい漁村だった興南地区を世界有数の工業地帯へと変化させている。
 しかし、韓国と北朝鮮で野口の功績が語られることはない。そればかりか韓国では、野口が朝鮮半島から水力資源を搾取し、日本政府や朝鮮総督府の手先になって悪をなしたかのように扱っている。
 興南地区に進出した朝鮮窒素肥料が朝鮮農業の発展に貢献したことは事実
なのだが、韓国では一切無視。これも、日本憎しという感情論が先行して経済的意味を軽視してきた弊害である。
 野口率いる企業家たちが朝鮮半島の工業の基盤づくりに貢献したことは、疑いようもない事実だ。しかもそれは、工業投資が限定的だった総督府の穴を埋める役割を果たした。結果として、1920年代前半から1930年代にかけて、朝鮮経済は著しい成長を遂げることができたのである。そうした全体像を、以下で見ていこう。

 ●工業立地論
 私は、現役の社会科教諭であり、教科を通じて「工業立地論」を毎年高校生に指導している。「なぜ、ここに工場が立地するのか」を生徒と共に考えるのだ。そこには必ず理由がある。
 では、なぜ朝鮮半島に多くの会社が進出したのか? 結論から言ってしまえば、工業立地論で説明ができる。
 「工業立地論」とは、1909年にドイツの社会学者アルフレッド・ウェーバーが発表した理論である。「原料産地と市場の位置関係を考え、輸送費や労働費などの生産にかかる費用が最も節約できる地点に工場を建てるのが一番良い」とするものだ。
 たとえば鉄鋼業の場合、工場は石炭産地のそばに造られた。1トンの鉄を製造するには、鉄鉱石の倍以上の石炭が必要となる。そうなると、鉄鉱石を石炭産地の近くへ運んだほうが、輸送費は安上がりだ。これを原材料指向型という。
 日本でも、明治後半から大正期に都市圏が形成され、貿易産業や軍需産業はそれに適した立地を形成するようになる。実際に、工業立地論の発表前から日本では、合理性を考えて工場を建設していた。1901年に開業した八幡製鉄所がその例だ。
 当時、日本で石炭が採れたのは北海道、九州、常磐のみ。九州の石炭(筑豊炭田や三池炭田など)と中国の鉄鉱石を結びつける必要性から、北九州の八幡に建設するのがベストの選択だった。1931年に京都大学教授の菊田太郎が「ウェーバーの工業立地論」についての論文を発表しているから、少なくともこの頃には、理論的な裏付けがある程度知られていたと考えていいだろう。
 話を朝鮮に戻そう。現在の北朝鮮では、石炭と石灰石が豊富に採れる。これらを原料に肥料をつくる日窒にとって、同地は商売のチャンスだった。つまり、野口が朝鮮に進出したのは、自分たちの利益を上げるための条件がそろっていたからである。政府や軍と結託して大陸を侵略しようとしていたと考えるのは、結論から都合よく解釈して過程を考え出していると言わざるを得ない。

 ●会社令撤廃
 イギリスのマンチェスターで興った産業革命に遅れること約100年。日本でも1880年後半以降、会社設立がブームとなって機械技術の導入が起こり、産業革命が始まった。日露戦争後、重工業部門の進展によって産業革命を達成し、工業化への動きが加速していく。
 日韓併合時、朝鮮人経営の会社はわずか21社のみ。いち早く資本主義化した日本の工場に太刀打ちできるはずがない。倒産や吸収合併が時間の問題となる。そこで朝鮮総督府は、日本の会社から乗っ取られないように「会社令」を出した。以前は会社令によって朝鮮の会社が活動を制限されていたと考えられていたが、実際には、総督府の許可を義務付けて会社や工場の設立を制限することで、朝鮮半島の会社を守っていたようだ。
 本土の企業から反発が大きくなったことで1920年には撤廃されたが、裏を返せば、この時期には朝鮮の企業がそれなりの力をつけていたことを意味する。
 ただ、会社法撤廃によって朝鮮半島に渡った日本企業は、百戦錬磨を勝ち抜いた大企業ばかり。日窒を皮切りに、セメント業界からは小野田セメント工場(三井財閥系)、朝鮮セメント(宇部興産系)。鉄鋼業界からは、日本製鉄所、三菱鉱業製鉄所。製紙業界からは、王子製紙。そうそうたる顔ぶれだ。これらはいずれも原料指向型工業で、北朝鮮で石炭・石灰石・木材が豊富に採れたことから進出したと考えられる。 一方、現在の韓国にあたる南部には、こうした燃料系の資源が乏しかったことから、重化学工業が進出することはなかった。進出したのは、キリンビールなどの飲料水メーカーや、カネボウをはじめとする紡績業界だ。 ビールの原料は水なので、東アジアなら環境が安定していればどこでも手に入る。なので、輸送費を考え大都市近郊に造られる。これを市場指向型という。紡績業界は、安くて豊富な労働力を求めることから大都市周辺に建設される。これを労働力指向型という。よって、ソウルや釜山に数多く建設された。
 こうした日本企業の進出によって、朝鮮経済の規模は格段に大きくなっていったのだ。

 ●興南工業地帯
 話を野口遵に戻そう。
 いかに立地が良くても、電力が供給できなければ工業は成り立たない。朝鮮での事業は、発電事業から取り掛かることになった。 野口は、1926年に赴戦江で水力発電所を建設。発電事業が軌道に乗った頃、朝鮮窒素肥料株式会社を1928年に設立し、興南の地を大工業地帯へと変えていく。
 日窒コンツェルンにとっては、熊本県水俣市、宮崎県延岡市に続いて3番目の企業城下町だった。
 興南地区は延岡市をモデルに造られたと言われており、工業地帯には、社宅や病院などの福利施設も数多く存在。社宅は社員・準社員・傭員・工員・独身とで分けられていた。共同浴場が設けられ、社員宅になると風呂が設置されていたという。わずか120~130軒ほどの漁村は、たちまち2万人を超える企業城下町となったのだった。

 しかし、近代化の流れの中で、過酷な労働環境に置かれた人々がいたことも、忘れてはならない。
 たとえば韓国の教科書には、釜山紡績工場の実態が紹介されている。「農村から集められた15~20歳の女性は、暗い工場で、厳しい監視の中、長時間労働をさせられた。また食事も粗末であり栄養状態が悪く倒れる人が多数いた」と。
 また、日窒は興南の工場に日本から監督者を派遣したが、仕込み杖を持ちながら労働者である朝鮮人・中国人を管理するといった具合で、さらには他の工場でも労働環境が劣悪だったことが、その場を目撃した日本人によって明らかにされている。日本国内の紡績工場や炭鉱で働く労働者と同じように、朝鮮でも下級労働者は厳しい環境に置かれていたのである。
 また、同じ労働者でも、日本人と朝鮮人の間には格差があった。日本人労働者は朝鮮手当をもらうことができ、社宅は別々の地区にあって、設備や間取りに差があった。終戦間際は標高が高い位置にあった日本人地区の方が悪臭や空気汚染に悩まされていたというが、これでおあいこだと楽観視すべきではない。のちに朝鮮では、資本家の打倒を目指す社会主義と民族感情が結びついて、日本への抵抗が展開されることになるからだ。
 重工業の導入という、日本独自の方針が朝鮮の工業化に影響を与え、朝鮮半島の電力供給に貢献したことは事実だが、厳しい労働環境が原因で、労働者が不満をくすぶらせることにもなったのである。


●総督府による土地調査

 日韓併合直後の1910年3月、総督府は土地調査事業に着手した。この事業の目的は朝鮮の人口と産業、土地の位置、所有関係を調査し、公平な課税をして正確に税金を徴収することだ。要は、近代的な土地制度の導入である。
 「日本は李朝による自主的近代化の芽を奪った」という意見があるが、それは李朝の改革を過大評価している。実際には、李朝時代は一度も全国規模の土地調査が行われず、郡守側には土地の権利を証明する資料がほとんどなかった。重税に苦しんだ農民が土地から逃げ出し、跡地は好き勝手に売買されていたため、近代化に欠かせない土地の所有者や面積、開墾状況などが、分かっていなかったのである。
 作業は難航したが、総督府は金と時間をかけてこの事業を継続した。費やした金額は約200万円、現在の貨幣価値に換算すると約1兆円にものぼり、期間は8年10ヵ月に及んだ。
 こうした苦労を経て土地の所有者が確定し、禁止されていた土地売買も自由化された。これにより、朝鮮半島の農業は近代的な土地制度に組み込まれていくことになる。
 なお、李朝時代の国有地と所有者がはっきりしない土地は日本の国有地として接収されたが、これをもって「総督府は強盗だ」というのは乱暴である。持主不在の土地は、どこの国でも国有地として扱われる。「土地の40%が日本によって収奪された」という非難もあるが、資料の裏付けや確かな根拠のない数字だ。実際には、国有地は土地の3%程度に過ぎなかった。


19・創氏改名による日本の家制度導入


 ●「制令十九号」および「二十号」
 「創氏改名」は、日中戦争の最中の1940年2月11日に実施された。
 これによって、朝鮮人の名前が日本風に「改姓改名」させられた、と思われることが多いが、それは誤解だ
 1939年に総督府から出された「制令十九号」および「二十号」によると、本籍を朝鮮に有する朝鮮人に対し、新たに「氏」を創設させ、また「名」を改めることを許可するとしている。つまり、氏の創設自体は強制だが、姓を変更する必要はなかったし、名前の変更は任意、ということになっていた。
 
この制度が導入されるまで、日本は同化を掲げながらも、実質的には朝鮮人と日本人の差異化を図って朝鮮を統治してきた。その政策を変えるような制度が制定されたのはなぜか? また、この制度はどのような影響を与えたのか? その内実を明らかにしよう。

 ●朝鮮人の名前
 日本人の名前は氏と名で構成されているが、朝鮮人の名前は、本貫(ほんがん)・姓・名の三要素で構成される。これは、今も日韓併合時代も同じだ。
 名は日本における使われ方と同じだが、姓は若干異なる。子どもは父親と同じ姓を名乗るが、この姓は一生変わることがないのだ。そのため、女性は結婚しても父親の姓を名乗り続ける。日本ではイメージしにくいが、家族の中で「祖父、父、子は同じ姓」だが、「祖母と母は違う姓を名乗る」、ということなる。
 では、本貫は何かといえば、宗族集団の始祖の出身地とされる地名のことである。これも日本人にはイメージしにくいが、血縁を重視する朝鮮半島では、この本貫と姓の組み合わせで、自分のコミュニティを確認している。「金」という同じ姓であっても、本貫が「金海」と「清州」と異なる場合、両者は異なる集団、というふうに考えるわけだ。
 ただし奴婢などの賤民階級には本員と姓はなく、あるのは名前のみ。また、両班の家に生まれた女性の場合は結婚すると名前が戸籍から消え、実生活でも名前を呼ばれなくなるのが普通だった。
 こうした名前に関する規定は、日韓併合前年の1909年、日本人官僚の指示のもと韓国政府が施行した「民籍法」によって変化する。民籍は日本の戸籍にあたるもので、朝鮮人のみが対象だ。
 この際、戸籍をハングルで登録することを禁じ、使用する漢字も制限するなどの処置がとられた。その一方で、1911年10月には、日本人風の名前を戸籍に登録することも禁止されている。
 総督府は併合直後から同化政策を唱えていたが、実際にはこのような差異化を図っていた。戸籍にしても、日本人と朝鮮人はずっと別々だったし、他の法的枠組みにおいても、日本人と朝鮮人は区別されることが多かった。
 その状態は創氏改名のときまで続くことになるのだが、実は1920年代の段階で、日本の家制度を示す「氏」の導入が、検討されるようになっていた。

 ●氏制度の導入
 戦前の日本は、天皇家を頂点にして、各家がその分家という立場で繋がりあうと考えられていた。一方で、朝鮮社会は宗族集団を基礎に置き、先祖への崇拝という観念が強かった。つまり、日本でいう「イエ」という価値観がなかったわけだ。
 このことは、朝鮮が日本の一部であるためには、不都合なことである。宗族集団による繋がりが強ければ、天皇の立場は不安定となり、植民地支配のイデオロギー面が弱体化してしまう。
 そこで総督府は、朝鮮を家制度の面から日本に同化できるか確認すべく、1924年には諮問機関である中枢院と協議している。具体的な法改正には至っていないが、朝鮮の家族制度が変更可能かどうかはその後も議論になった。
 また、時期を同じくして、言論界で朝鮮人に日本名を付与することを主張する日本人論者が現れていた。1918年に『朝鮮公論』に発表された「同化の第一義は鮮人の改名に在り ―― 朝鮮人の名前を日本式の姓名に改めよ」や、1924年に『日本及日本人』に発表された「朝鮮人の名を全部日本式に変ずべし」などだ。他にも日本名付与に関する主張は登場し、程度の差こそあれ、同化のためには名前も同じくしなければならない、という論調だった。総督府が考えていたのは「姓を氏にする」という案だったためにそれらを受け入れようとはしなかったが、民間においてもそうした意見が出ていたことは、注目に値する。

 ●朝鮮民族による満州進出
 こうした中、1930年頃より、満州において日本名を求める朝鮮人が出るようになる。いったいなぜなのだろう? それは、外国人によって在満朝鮮人の利権が収奪されていたからである。
 朝鮮北部は耕地に恵まれなかったため、生活の改善を求めて満州へ渡る朝鮮人は、日韓併合前から多かった。総督府の資料によれば、日韓併合時、満州には150万人の朝鮮人がいたという。
 そうした中で、最も多く朝鮮人が入植していたのが、白頭山北方の間島地方である。前述したように、間島は独立運動が盛んな地域としても知られており、一般の朝鮮人は肩身の狭い思いをすることが少なくなかったようだ。朝鮮人の開拓団は中国人馬賊から襲撃され、略奪・放火・殺害などの憂き目に遭っていた。
 このような背景から、生命財産の保護のために、満州の朝鮮人から「日本名を名乗らせてほしい」との要求が総督府に届くようになった。1931年に三姓堡(さんせいほ)の万宝山(まんぽうざん)で水利権をめぐった争いが起き、多数の朝鮮人が満州人に襲撃されると、満州だけでなく朝鮮半島からも要求が相次ぐようになった。
 日本側からしても、独立運動の鎮圧で満州は不安定になっていたから、不満を抑えるために朝鮮人の意見を入れることは、理にかなっていた。そのため、間島においては一部の朝鮮人が日本名を名乗るようになっていたのである。

 ●創氏改名の真実
 日中戦争を前後して皇民化政策が叫ばれるようになると、朝鮮人を日本の家族制度に導入しようという議論が本格化する。
 しかし、総督府内、特に警察からは、犯罪捜査に支障をきたすという理由から、創氏改名に対する反対意見が相次いだ。警察にとって、朝鮮人は取り締まりの対象であり、日本人とは異なる人種だった。そのため、朝鮮人を日本人と同列に扱う意識が希薄だったのである。
 しかし、結果的には朝鮮人に「日本名を名乗る権利を与える」ことを決め、1939年に朝鮮戸籍法の改正が行われた。
 その内容は、姓は戸籍簿上に残し、新たに家族名の氏を創設、戸籍簿上は「姓」と「氏」の両方が記載されるというものだ。氏は家族の名前であり、姓は一族の名前である。しかし、朝鮮人の中でも旧両班など特権階級だった者にとって、姓は血統の証明になっていた。そのため、「姓」が「氏」として各自で自由に変えられる制度には、強く反発する者も多くいた。
 そんななかで発表された氏の創設期間は、1940年2月11日から半年間に限られていた。氏の提出を希望しなかった人は、家長の姓がそのまま氏として記載されることになっていた。
 なお、名前に関しては任意とし
、本人が希望すれば裁判所に申請し、認められた場合のみ手数料を払って改名できた。そのため、改名まで実施した人は20%ほどだった。
 しかし問題は、南次郎総督が「氏の創設は自由 強制と誤解するな」と注意を促していたにもかかわらず、成果が出ないとみるや公務員や教員などに率先させたり、警察官を動員した半強制的な啓蒙活動を行ったりしたことだ。それによって、実施率は80%にまで及んでいる。
 内鮮一体を進めたい総督府としては、「朝鮮人が自発的に」という形式にしなければ、政策の意味がなくなると考えたのだろう。しかし、創氏改名が実施されたといっても、同化は表面上の変化にとどまり、具体的な待遇改善にまでは至らなかった。参政権や義務教育の実施などが検討されることはあったが、結局、実現をみないまま、終戦を迎えることになった。


23・朝鮮半島と軍隊


 ●活躍する朝鮮兵
 本稿では、朝鮮半島の人たちと軍隊について見ていきたい。
 意外に思うかもしれないが、朝鮮で徴兵制が採用されたのは、朝鮮統治末期の1942年になってから。戦況の悪化を受けて導入され、1944年に実施された。ただ、すぐに終戦を迎えて朝鮮人は戦場に出なかったため、知らない人がいるのも無理はない。
 
それではそれ以前に徴兵制を導入する動きがなかったかと言えば、そうではない。兵力の増強を望む朝鮮軍(朝鮮を管轄する陸軍の一つ)は、満州事変後の1932年ごろから朝鮮人が軍隊に動員可能かどうかを検討していた。日中戦争が起こると議論は本格化し、朝鮮軍は総督府とともに対策を考えていた。
 一方、併合から27年が経ったことで、朝鮮の若者は李朝時代を知らず、日本統治下の暮らしが日常になっていた。そのなかから、戦争が起こっていることを知って、「自分も戦いたい」と総督府に志願する者が現れた。折から志願兵制の検討を進めていた南次郎総督は、これを好機として「朝鮮人特別志願兵制度」を日本政府に提起。翌年から朝鮮人を対象に志願兵制が実施されることになった
 初年度は2948人の応募に対し、採用数は408人。志願者と採用者は年々増え続け、特に太平洋戦争勃発翌年の志願者数は25万4273人に及び、そのうち4077人が採用となった。
 しかし、こうした志願兵の多くは貧しい農民で学歴も低く、食い扶持を稼ぐために応募したというのが実情だった。日本語が話せない者が多く、軍事行動には不向きな人材ばかり。また、下級官吏が手柄を立てるために学校の校長や村長などに若者を紹介してもらうこともよくあり、地方では、署長や郡守が戸別訪問して呼びかけていたという。こうして朝鮮半島においても、一部の若者は半ば強引に戦場へと送られるようになり、日本人兵士として、太平洋戦争に参加するのである。
 なお、真珠湾攻撃以降、日本軍が勝利を重ねていくと、マレーシアやインドネシアでは連合軍の捕虜が増大し、彼らを監視する人員が不足した。仕事は捕虜収容所の監視員であるため、戦場に出る必要はない。そのため、軍に志願して不合格になった者はこの監視員への応募に殺到し、1942年8月には3000人が軍属(捕虜収容監視員)として徴用されていった。

 ●朝鮮での徴兵制度
 太平洋戦争開戦当初、真珠湾攻撃の成功を皮切りに、日本は戦闘を優位に進めていた。だが、ミッドウェー沖海戦後は敗北続きで、日本人の若者は次々と動員されていったため日本の大学には朝鮮と台湾出身者ばかりが残った。
 そこで導入されたのが「学徒特別志願兵制」、すなわち朝鮮人・台湾人学生の動員制度である。総督府の集計によると、応じた学生は4835名、拒否した学生は2800名と推定される。しかし、拒否した学生には徴用令が出されたというから、実態としては自由意志は制限されていたと言える。
 なぜ、日本政府は志願制にこだわり、徴兵制を導入しようとしなかったのだろうか? それは、前項でも触れたように、軍役という義務を課せば、権利である参政権などを与えなければいけないからだ。
 そのため、当局者はできるだけ志願兵で乗り切ろうとしていたが、戦況が悪化するとそうも言っていられず、1944年9月になって徴兵制は実施された。
 ただし、先述したように、徴兵された兵士たちが戦闘を経験することはなかった。
徴兵の一部は、1945年7月から内地部隊に配属されたが、実戦経験することなく、8月15日の終戦の日を迎えている。徴兵の大部分は、訓練中に終戦を迎えることになった。

 ●朝鮮人BC級戦犯
 このように、日本のために日本人として戦った朝鮮人だったが、戦後は過酷な運命が待ち受けていた。
 1945年9月以降、日本の施政権を得たGHQは、東条英機らを戦争犯罪人として逮捕。翌年5月に極東国際軍事裁判を開廷し、A級戦争犯罪(平和に対する罪)として28人を起訴した。そのなかで東条英機や広田弘毅ら総理大臣経験者を含む7名が死刑判決を受けた。
 こうした戦争指導者に対し、通常の戦争犯罪としてB級戦争犯罪者、人道に対する罪としてC級戦争犯罪者と規定され、世界各地で裁判が聞かれた。その結果、死刑判決を受けたのは、900人以上にも及んだが、日本人として戦った朝鮮出身者も、例外ではなかった。朝鮮人BC級戦犯の数は148人。死刑判決を受けた軍人は3人いたが、そのうちの一人は朝鮮出身の将校洪思翊(ホンサイク)中将たった。
 その後、朝鮮人BC級戦犯も刑期を満了して巣鴨プリズンから釈放されていったが、「対日協力者」というレッテルを貼られて、苦しい生活を送ることになる。こうした事態を改善しようと、「韓国BC級戦犯者遺族会」は長年にわたって名誉回復を韓国政府に展開。それが功を奏し、2006年になって「戦犯でなく被害者」と認定され、捕虜監視員でBC級戦犯となったものは、「強制動員の被害者」と認定された。BC級戦犯は、近年になってようやく名誉を回復することができたのである。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

誰も書かなかった日韓併合の真実 [ 豊田隆雄 ]
価格:730円(税込、送料無料) (2019/12/27時点)


PAGE TOP