論より詭弁 反論理的思考のすすめ

本書中の「社会では論理よりも常識が優先されるのである。」という指摘、「論理と詭弁・誤謬」の関係は「哲学と思想」の関係に似ているように感じました

論より詭弁 反論理的思考のすすめ

 私はこれまで論理的であることが良いことであり、特に議論ではそうあらねばならないと考えていました。
 しかし本書を読んで、そうとも言えないことに気づきました。

 過去に哲学の教授が「哲学は問い続けることであり、それは思想を吟味するためにも大切なことだ。しかし日常生活の中で哲学を持ち出すと敬遠されたり煙たがられる可能性がある。」という主旨のことを話していました。
 論理と詭弁・誤謬もそんな関係のように感じました。

  第四章の「論点をすり替えて何が悪い」という節では「社会では論理よりも常識が優先されるのである。」という一文がありますが、哲学の教授が話したことを要約すれば同じように「社会では哲学より思想や常識が優先されるのである。」ということになるんだと思いました。

 香西秀信さんの「論より詭弁 反論理的思考のすすめ」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

論より詭弁 反論理的思考のすすめ 香西秀信



目次

 序章 論理的思考批判 7
弱者の悲鳴 / 威嚇は詭弁ではない / われわれは偏った力関係の中で議論する / 動機の詮索 / 町を行く人の思考と思想家の思考

 第一章 言葉で何かを表現することは詭弁である 25
「事実」は並んでいない / 配列のもたらす効果 / 得になる場合と損になる場合 / 「事実」は連結されてもいない / 言葉の黒魔術 / 事実と意見は区別できない / 問いの詭弁

 第二章 正しい根拠が多すぎてはいけない 65
論証の厚み / 根拠のせめぎ合い / ラスコーリニコフの二つの議論 / 心の弱さと議論法

 第三章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと 85
詭弁の定義あるいは詭弁としての定義 / 勢力のない側の意見のみが詭弁として非難される / チョムスキーの不満 / ピンカーの言語決定論批判

 第四章 人と論とは別ではない 107
「人に訴える議論」 / 「人に訴える議論」の五分類 / 「関係がない」と「論点のすり替え」 / 論点をすり替えて何か悪い / 立証責任の移動 / 発話内容についても怪しい /レトリックの側からの説明 /空しい結論

 第五章 問いは、どんなに偏っていてもかまわない 155
先決問題要求の虚偽 / 循環論法 / 「名づけ」による先決問題要求の虚偽 / 君はもう、奥さんを殴ってはいないのか? / 糾弾する値打ちもない

 あとがきにかえて ―― Seinを知らないドイツ語教師―― 177

 【引用文献】 184


われわれは偏った力関係の中で議論する

 私は、論理的思考の研究と教育に、多少は関わってきた人間である。その私が、なぜ論理的思考にこんな憎まれ口ばかりきくのかといえば、それが、論者間の人間関係を考慮の埓外において成立しているように見えるからである。あるいは(結局は同じことなのであるが)、対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思えるからである。だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。が、その十分に機能しないことを、相手が詭弁を用いたからだと勘違いしてはいけない。文芸批評家のテリー・イーグルトンは、ある種の読者論的な自由なテクスト解釈を、「教室ですごす時間が長すぎた人間の頭に芽生えた妄想」と嘲笑った。議論において、対等な人間関係などというものを期待することもまた、「教室ですごす時間が長すぎた人間の頭に芽生えた妄想」と言えるだろう。実社会には、そのようなものは存在しない。
 私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。自分の生殺与奪を握る人を論破などできない。が、説得することは可能である。先ほど論理的思考力について、「弱者の当てにならない護身術」と揶揄したが、天に唾するとはこのことで、レトリックもまた弱者の武器にすぎない。強者はそれを必要としない。
 しかし、ここで忘れてはならないのは、われわれの立場の強弱は、それぞれの場によっていくらでも変化するということである。出入りの業者に剣突を食らわせた社員は、その上司の前では小さくなっている。そしてその上司もまた、親会社の人間にはぺこぺこするであろう。―― こんな単純な図式以外にも、例えば次のような場合を考えてみるとよい。ある有名な評論家が、初対面の聴衆を相手に講演をした。評論家は全国的に名の知れた著名人であり、聴衆の方は、言ってみれば「普通の」人たちである。が、この場合、聴衆が強者なのであり、講演をする評論家こそが弱者なのだ。もし彼が聴衆を気にせず、自分の思っていることを好き放題に喋ったなら、聴衆は退屈して私語や居眠りを始めるか、あるいは話題の展開によっては怒って反発し、会場から出て行く者もいるかもしれない。このような目に見える反応でなくても、講師にとって、講演が受けないということは何よりの「脅迫」である。だから彼はその「脅迫に屈し」、聴衆に受けるように、言い換えれば聴衆を説得するように自分の話を工夫するのだ。
 オリヴィエ・ルブールは、『レトリック入門』の中で、レトリックのもつ閉鎖性についてふれ、それを緩和するものとしての相互性の基準を提案している。例えば、講師と聴衆との不均衡な関係をなくし、聴衆に反論する権利を与えるなどである。だが、こんなことを心配する必要などまったくない。講師が一方的に喋り、聴衆はそれをおとなしく聞くという、表面上の光景に欺かれてはいけない。確かに、通常、聴衆は反論する権利はもっていないかもしれない。が、反応する権利はもっている。講師が力み返って何を言おうとも、それを嘘だと思い、鼻で笑い、まるで別様に考え、行動する権利である。つまり、ルブールが考えているのとはちょうど逆に、講師と聴衆との関係は不均衡なのだ。大人が言葉も満足に話せない幼児に何かを教えようとするとき、しばしば実質的に相手よりも弱い立場で行動させられるように、もしその講師が自分の考えを聴衆に受け入れてもらおうと願うならば、その「弱み」ゆえに、彼は、自分が正しいと思うことをそのまま述べるのとは違った物言いをしなくてはならない。
 このように、われわれの人間関係における力の不均衡がレトリックというものを必要とさせる。議論においても、論理的な思考によっていくら「正しい」認識が得られたとしても、それだけでは十分に用を足すことはできない。18世紀スコットランドの修辞学者ジョージ・キャンベルは、論理の仕事は譬えて言えば種々の武器や甲冑を作り出すことにあり、それぞれの使い方は教えてはくれないと言った。そのような様々な武器や防具の性格を見極め、いかなる場でどのように用いるかを教えるのはレトリックの仕事なのである。
 誤解のないように付け足しておけば、これは論理とレトリックが棲み分けて協力していることを意味しない。レトリックという技術体系は、その内部にトピカという論証部門をもち、論理(学)を内包したかたちで成り立っている。だからレトリックという技術はそれだけで自立し、もはや論理の助けをほとんど必要としない。


言葉の黒魔術

 今までA子について、その容姿しか語ってこなかった。ここでは、その性格についてもふれてみたい。A子の人柄に対し、次の二つの評価がある。

 a A子は物静かだ。
 b A子は陰気くさい。

 言うまでもなく、これはA子が、「物静か」と「陰気くさい」という二つの性格をもっていることを意味しない。ちょうど⊂という記号が、一方から見れば「突き出ている」が逆から見れば「凹んでいる」ように、同じA子の性格を、ある人は「物静か」と肯定的に評し、別の人は「陰気くさい」と否定的に形容したのである。では、この二人の評価のうち、一体どちらが正しいのだろうか。
 似たような例をもう一つあげてみよう。これは家庭裁判所の調査報告書(見本)の一部である。何か悪さをして家庭裁判所の厄介になった少年について、調査官は次のような所見を記した。

 頑固で柔軟性に欠け、融通がきかない。自分の思い通りにしていたいとの気持ちが強く、他人から干渉されることを嫌う。目下の者に対しては、ボス的で強圧的な態度に出るが、目上の者に対しては卑屈に振舞う。

 もちろん、この調査官は少年と実際に面接し、その性情を細密に観察し、また種々の資料を検討してこのような報告書を書き上げたのである。これを見る限り、この少年はあまりいい性格をもっていないようだ。だが、私か、少年を弁護したいという意図から、この所見を次のように書き換えたとしたらどうだろう。

 意志が強く、一途な性格で、曲がったことが嫌い。自立心旺盛で、自分のポリシーをもっており、周囲の意見に流されない。年下の者に対しては、親分肌なところを見せるが、年長者に対しては礼儀を守り、謙虚である。

 私が、こちらこそが少年の真の性格だと主張するとき、私は詭弁を弄していると見なされるのか。私は少年の性格について、何か明らかな嘘を書いたのか。
 私はこの第一章に、「言葉で何かを表現することは詭弁である」という題を掲げた。が、こんな法螺が吹けるのは、詭弁と、そうでない真っ当な物言いとを区別するのが、多くの場合、それほど簡単なことではないからである。すでに「順序」や「連結」の例で説明したように、ごく普通に言葉を使っているつもりのときでも、われわれはほとんど詭弁と違わないことをやっている。そして、今の例に見られるように、現実のモノ・コトと言葉とが、本来的に一対一で対応しているのでない以上、それを表現するのに、自分にとって最も都合のいい言葉を選択して使用することもできる。つまり、われわれは、表現しようとする対象を、ある程度は自由に「名づけ」ることができる。そしてその程度が度を越したとき、われわれはそれを詭弁と罵るのである。
 革命前ロシアの論理学者C・ポバルニンは、このような詭弁的な名づけ、詐称を「言葉の黒魔術」と呼んだ。われわれは何かを主張するときには根拠が必要であるということを知っている。とすれば「名づけるということもまた確実な根拠にもとづいたものでなくてはならない。」「にもかかわらず、人々は、思考の怠惰その他多くの原因から、とりわけこの種の隠された根拠については、特に点検もせず、そのまま信用してしまいがちである。」この「言葉の黒魔術」について、ポバルニンのあげる具体例を見てみよう(どうしてか、徴兵忌避者にやたら過酷なようである)。

 ……「こそ泥」や「刑事犯」という言葉は ―― 極めて不快なニュアンスを伴う。しかし、同じ人間を「収奪者」(プロレタリアのためにブルジョア階級の財産を没収する者)と名づければ ―― そこには高潔な響きがある。(中略)祖国のためにわが身を犠牲にすることを嫌がるのは、それがわれわれの義務となっているときには、あまり尊敬されるようなことではない。それでも、戦闘に行くことを拒否するのを「戦争に対する戦争」とでも名づければいいのだ。―― そうして、もっとも馬鹿で卑劣な犬畜生の腰抜けが、「イデオロギーの闘士」という見せかけを得るのである。

 皮肉なことに、こうした「言葉の黒魔術」―― 現実と背馳する恣意的な名づけ ―― は、その後のポバルニンの祖国、およびそれとイデオロギーを共有する国家および団体の得意技となった。人民政府、解放、民主共和国、反革命、帝国主義、民主教育、平和運動、市民団体……ほとんど枚挙に暇がないほどである。
 ところで、興味深いのは、アリストテレスが『弁論術』の中で、ほとんど同じような例を使って、それを詭弁ではなく、単なる表現の工夫の問題として論じていることである。

 またもし何かをほめたたえようと思えば、同じ種類のものの中で、よりすぐれたものから比喩を取らなければならないし、けなそうとすれば、より悪いものの中からそれを選ばなければならない。(中略)イピクラテスがカリアスを松明棒持者と呼ばずに乞食坊主と呼んだとき、カリアスは答えて、イピクラテスは秘儀にあずかっていないに違いない、さもなければ自分のことを乞食坊主とはいわずに松明棒持者と呼んだであろうと言った。この二つはどちらも神に仕えるものであるが、一方は名誉ある称号であり、他方は不名誉な呼び名である。またある人は俳優を河原乞食と呼ぶが、彼ら自身は自分のことを芸術家と呼ぶ。これはどちらも比喩であり、一方は悪口であり、他方はその反対である。また海賊は今日では自分たちのことを調達者と呼んでいる。こうして罪を犯した人を過ちを犯したといい、過ちを犯した人を罪を犯したということができるし、また盗人が盗んだとも調達したともいうことができる。

 アリストテレスは、他の箇所でも、私がこの節の最初でとりあげたのと同じような問題を扱っている。もちろんそれも表現技巧としてであり、詭弁として例をあげているのではない。

 ところでまた人を賞賛したり非難したりするときに、その人が実際にもっている性質とそれに近いものとは同じだとみなすべきである。例えば、注意深い人を冷酷で策謀的だとし、愚かな人を正直だとし、無感覚な人を穏やかだとみなす。そしてそれぞれの場合に似かよった性質のなかから常にいい方を選んで人を理想化することができる。例えば、怒りっぽくて興奮しやすい人は率直であり、傲慢な人は豪放で堂々としており、そしてそれぞれに過激な性質をもつ人はそれに応じた徳をもつものとみなされる。例えば、向うみずは勇敢であり、濫費は気前よさだとされる。

 アリストテレスにしても、ポバルニンのいう「言葉の黒魔術」の詭弁性をまったく無視しているわけではあるまい。が、あることを表現するとは、複数の可能な言葉から一つを選択することに他ならず、その際に、自分にとって最も都合よく、効果的な言葉を選ぶことは、説得を目的とするレトリックの立場から言えばむしろ当然の振る舞いである。虚偽は、可能な選択肢の中にない言葉を強引に選ぶことで発生すると考えられる。問題は、その言葉が果たして選択肢の中にあるのか否かが簡単には決められないことだ。
 しかし、「簡単には決められない」なら、そんなことは決めなければいいではないか。余計なことに悩まず、自分の発言の目的にとって最も効果的な「名づけ」を選択すればいい。そして、その結果については自分か責任を引き受けるのである。自分の言葉に責任をもつとはそういうことだ。たとえ、それがどんなに恣意的で自分勝手な「名づけ」であってもかまわない。そのときは、聞き手がすぐにその身勝手さに気づき、反論してくれるであろうからだ。
 むしろ、こうした場合にやってはならないのは、自分の本心 ―― 本当に感じていること ―― に反して、できるだけ中立的で、客観的な「名づけ」を選ぼうとすることである。例えば、先のA子の例で言えば、「物静か」と「陰気くさい」以外に、この二つのような偏った印象をもたらさない中立的な言葉があるとしよう。そして、自分はA子のことを「陰気くさい」と思っているが、その表現は聞き手に否定的な印象を与えてしまうので、そうした特定の色づけをもたない中立的な言葉でA子を「名づけ」ようとする。もちろんそれが、何らかの計算か配慮にもとづくものであれば、そうした「名づけ」には何の問題もない。だが、言語表現一般において、できるだけ自分の思想、価値観、嗜好等による断定を排した中立的な「名づけ」こそが正しいと考えるのであれば、それは人間の言葉の使い方として根本的に誤っている。それでは、自分が言葉をもっている甲斐がない。 こうしたものの見方を、私は米国の修辞学者リチャード・ウィーバーから教わった(ウィーバーは、私のレトリック研究の師匠である。私が5歳のとき亡くなったが)。ウィーバーは、言葉を使うことは、同時にレトリックを行使することだと言っている。言葉は何らかの断定を伴うがゆえに、語り手が説得を意識するしないにかかわらず、それはすべて 「説得的」なものとなる。言葉を喋る人はみな「説教師」(preacher)であり、言葉は「説教的」(sermonic)なのだ。「われわれが言葉を発するやいなや、われわれは聞き手に世界を、あるいはその一部を、われわれと同じように見るようにしむけているのである。」 ―― これは、われわれが、順序や、連結や、そして今の「名づけ」によって確認したとおりだ。
 ウィーバーはさらに、われわれは非人間的なthinking machinでは決してなく、言語表現によって自らの性向を伝達すると述べている。だから、聞き手もまた、何らかの「偏った」物言いにより強く反応する。「人々は、本能的に、性向を表すような言葉遣いをする人の言うことに耳を傾ける。これは、その性向がどちらに向かっているのかということはまるで問題ではなく、その性向が強ければ強いほど、それに対する好奇心や反応もまた強いものになると言うことができる。それゆえ、言葉に独自の“スタイル”があることは、いつでもその人を注目される人物とし、人々は ―― 少なくとも最初のうちは ―― 彼が自分たちに賛成か反対かということよりも、彼が“スタイル”をもっているという事実に、より強く印象づけられるのである。」もちろん私は、ウィーバーがこんなことを言っているから、無理をして極端な主張をしようとしているのではない。


根拠のせめぎ合い

 しかしながら、ではどんな場合でも、根拠は多い方がいいのかというと、そうは問屋が卸さない。一つ一つの根拠が、独立して見れば正しくても、それらが併せあげられることで、根拠間で不両立が生じてしまうからである。こうした事情については、もちろんペレルマンらも承知していて、次のようなコミカルな例で説明している。

 ……例えば、借りた壷を返さないといって非難された主婦が、次のように抗弁するようなものである。「そもそも、私はそんな壷は断じて見たこともない。次に、それを借りたこともない。さらに言えば、私はそれをとっくに返した。そのうえ、それには最初からひびが入っていた。」

 が、こんな例なら、それがおかしいことは馬鹿でもわかる。現実の議論はもっと巧妙にわれわれを騙す。例えば、このような議論はどうだろうか。日本の商業捕鯨再開に反対する人が、その根拠としてあげたものである。

 a 「鯨は高度の知能をもった高等な哺乳類である」
 b 「欧米の動物愛護団体の反発を招き、大規模な日本製品の不買運動が展開される恐れがある」

 レトリックでは、aの型の議論を「定義(類)からの議論」、bの型の議論を「因果関係からの議論」と呼ぶ。そして、同一の主題について、同一の論者が、同時にこの二つの議論型式を用いるとき、それはしばしばその論者の思想に不統一なものを感じさせる。
 具体的に説明しよう。aの議論では、何よりも、鯨が人間に近い高等な生き物であるからこそ、捕鯨に反対する。つまり、鯨とはどのような生物かという性格づけをその根拠としている。この場合、捕鯨再開がもたらす結果は、考慮の埓外にある。それが外国の非難を浴びようが、あるいは歓迎されようが、そんなことは関係ない。鯨が高等生物であるがゆえに、食料にする目的で捕獲してはいけないと言っているのである。
 これに対し、bの議論は、鯨のことなど問題にしてもいない。それはただ、商業捕鯨再開が招きかねない経済的制裁を憂慮しているにすぎない。だから、もし捕鯨再開に対して何の反発も起きないのであれば、鯨などいくら獲ってもかまわないということになる。
 このように、aの議論とbの議論の背後には、それぞれ独自の哲学・思想があり、それがお互いを否定し、また不必要なものとする。したがって、説得力を増す目的で、aの議論にbの議論を加えることは、かえってaの議論の真摯さに疑いをもたれる結果となろう。本質論に立つaからすれば、bのようなプラグマティックな考えはむしろ排斥しなければならないからだ。逆に、bの議論にaの議論を付け加えたとき、それはまったく無関係な、不必要なことをしているのである。bの議論にとって、捕鯨が正しいかどうかということは何の関係もない。これにaの議論が加われば、いかにも取って付けたような印象が残るだけである。
 別の例を見てみよう。

 (総理大臣の靖国神社参拝に反対する根拠として)
 a 「憲法で規定した政教分離の原則に違反する」
 b 「中国をはじめとするアジア諸国の反発を招き、良好な経済関係が損なわれる」

 わかりやすくするために、bから始めよう。bの議論では、首相が靖国神社を参拝することが本質的に正しいのかどうかは、まったく問題にしていない。ここでは、商売の都合だけが考えられている。だから、外国の反発さえなければ、首相はいくらでも靖国神社に参拝してかまわない。百回でも二百回でもお参りしてくれということになる。逆に、aの議論は、首相の靖国参拝は憲法に違反するから行ってはならないという本質論(原則論)である。この議論に、外国への配慮が介入する余地はない。仮に、首相の靖国参拝が外国から容認され、あるいは賞賛されるようなことがあったとしても、首相は断じて参拝してはならないのである。
 このような論者の思想の不統一は、次の例ではより鮮明になる。

 (自分の学生を奉仕活動に参加させるための根拠として)
  a 「社会奉仕は、現代社会に生きる者の義務である」
  b 「奉仕活動に参加したことが内申書に記録され、進学や就職に有利になる」

 もはや説明するまでもなかろうが、aの議論にbが加われば、それはaの議論の説得力を損壊させるだけの結果となる。誰も、aの議論が、真摯な態度で語られたものだとは信じない。bの議論のおかげで、「何だ、口先だけのきれいごとか」と思われてしまうのだ。
 だが、ここで、次のような弁護が可能になるかもしれない。議論は、聞き手がいて、初めて成立する。仮に、自分が説得しようとする学生が、自己の利益しか考えない究極のエゴイストだとしよう。そのような学生をも説き伏せて奉仕活動に参加させるには、とうていaだけでは不可能である。したがって、論者の本当の思想はaなのであるが、学生の性格を考え、説得のための方便としてbを援用したのだ、と。
 これは説得を旨とするレトリックの精神からすれば、十分に容認すべき態度のように思われる。が、一人の生身の人間として考えれば、aを本気で真剣に思っている人間が、方便とはいえ、bのような利益誘導の意見を口にするだろうか。それを口にした時点で、もはやaは本気でも真剣でもなくなりはしないか。「現代社会に生きる者の義務」などと崇高なことを語りながら、その舌の根も乾かぬうちに、ニヤツと笑い、指で丸をつくり、「奉仕活動に参加するとええことありまっせ!」とささやく。こんな人間の言うことを、一体誰が本気で聞くだろうか。エゴイストを説得したいのであればbの議論だけでやればよい。そうすれば、少なくとも語り手の誠実さは保たれる。もし、一人の論者が、本当にaもbも説得的だと思って並べたのであれば、そのときは彼の思想のどこかが壊れていると思って間違いない。


詭弁の定義あるいは詭弁としての定義

 今まで、「詭弁」という言葉を、特に定義せずに使ってきた。詭弁は、その使用者に騙しの意図があることを前提とした言葉なので、通常は、「虚偽」や「誤謬」のようなより中立的な用語が使用される。米国の非・形式論理学の学界でも、用いられるのはもっぱらfallacy(虚偽・誤謬)で、sophistry(詭弁)には滅多にお目にかかることはない。これについては、旧ソ連の論理学者П・Н・フェドセーエフその他も、『論争の技術について』の中で、Ошибка(虚偽・誤謬)とЛожностЬ(詭弁)とを区別することを主張し、次のように書いている。

 論争の進行中に、誤った応答と詭弁的応答とを見分けることは、必ずしも単純で容易なことではない。それゆえ、相手の応答を明らかな詭弁だと言って非難するには、それ相応の十分な根拠の存在を前提とすべきであり、単なる疑惑や直感的な憶測にもとづいてはならない。特別な証拠を欠くときには、そうした非難は、独断的な理由によるもののように見えてしまう。

 真っ当な意見であるが、フェドセーエフらは、いかにも旧ソ連の研究者らしく、この後にこう付け加えている。「詭弁的応答は、しばしば、政治的討論で、ブルジョア的活動家によって用いられる。」これもまた、真っ当な意見かもしれない。「ブルジョア的活動家」よりも「社会主義的活動家」により当てはまることではあるが。
 ところで、虚偽(誤謬)と言うにせよ、詭弁と言うにせよ、これらの言葉を正確に定義することは、実はそれほど簡単なことではない。歴史的に様々な言語現象が虚偽(fallacy)と呼ばれ、その屑籠に投げ込まれてきたので、そうしたものに過不足のない統一的な定義を与えることはほとんど不可能であるからだ。米国で出ている『レトリック百科事典』や『レトリックとコンポジション百科事典』のような大部な事典で“Fallacy”の項目を読んでみると、虚偽研究の歴史が、理論的な発展の歴史ではなく、定義の修正史であることを思い知らされる。つまり、ある研究者がfallacyについて一つの定義を提唱すると、別の研究者が襲いかかって例外を指摘し、また新たな定義が模索される ―― こうしたことの繰り返しなのだ。 最近では、誰にも尻尾をつかまれないように、できるだけ広い定義が好まれる傾向にあるという。例えば「マグロウヒル大学演習」シリーズの『現代論理学』の執筆者たちは、「論証中に現れて論証の適切さを損なう誤り」という広い定義を採用した後、こう開き直っている。「誰にも受け入れられている『誤謬』の定義はない。多くの著者がいま与えた定義よりも狭い定義を用いているが、その著者の実際の語法が本人の定義に反している場合が少なくない。」しかし、定義とは限定することなのであるから、広い定義などにほとんど意味はない。
 こういう次第なので、私は、自分の使う詭弁という言葉について、特別の定義を与えることはしない。読者の常識的な理解にしたがって読んでいただいて結構である。私の場合、従来虚偽と見なされてきた言語形式を、説得のための技術としてあえて用いるという意味から、詭弁という言葉をやや偽悪的に使用するのであるが、騙しの意図という通常の意味で解釈されてもかまわない。そもそも、「説得する」ことと「騙す」ことの間に、明確な線など引きようもないのであるから。
 何よりも、定義には、それを読む人に例外や矛盾を探させる衝動をもたらす妙な性質があるらしい。だから、私がうっかり詭弁を定義したりなどすると、全体の論旨などそっちのけで、私の詭弁の用法とその定義とが合わぬ箇所を見つけ出し、鬼の首を取ったかのように凱歌を上げたりする。こういうのに付き合うのはうんざりなので、だから、ここでは詭弁の定義も虚偽の定義もしない。
 これは、レトリックや論理(論理的思考)など、他の用語についても同様である。どちらの言葉もきわめて歴史が古く、様々な意味に用いられているので、通常、定義という操作で許容される形式と分量によって、そのすべての使われ方を統一するのは不可能なのである。自慢にもならないことだが、私があえてそれらを定義すれば必ず誤るだろう。
 だから質の悪い人は、相手に対する定義の要求を、論争での武器の一つとして使用することがある。論敵の発言から適当な言葉を拾い出し、「あなたは○○という言葉をどのような意味で用いられていますか」「あなたの使っている××という言葉を正確に定義してください」などと要求する。そして、相手が言葉に詰まったり、四苦八苦して杜撰な定義を口走ったりなどすると、喜び勇んで襲いかかり、その揚げ足を取って勝ち誇るのである。
 かつて、某文芸評論家が、国語教科書に掲載されている作品について、こんなものは文学ではない、詩ではないと、厳しく批判したことがあった。これに対し、国語教育の関係者で、それならお前の言う「文学」を定義してみろ、「詩」を定義してみろと反論した人がいた。この人は、「文学」や「詩」を定義すれば、ある作品が「文学」であるかどうか、「詩」であるかどうかが明確に区別できるとでも思っているのだろうか。要するに、定義を求めれば相手は困るはずだと予想しての、幼稚な反撃にすぎない。シャン=ジャック・ロブリューは、こうした定義を「相手を不安定にする問い」として、論争での技法の一つに数えている(「あなたにとって、“知的である”とは何を意味するのですか?」)。
 この手の似非論法は、定義の要求に限らない。例えば、髪を金色に染め、耳や鼻に奇怪な金具のようなものをぶら下げた女子高生に対し、教師が、「もっと高校生らしい格好をしなさい」と注意すると、「高校生らしいって、どんな格好ですか。“らしい”の規準を、明確に示してください」などと反撃したりする類である(どうしてか、いつもは教師にぞんざいな口のきき方をする生徒が、興奮して食ってかかるときには不思議と敬語体になるようである)。その生徒にしても、今までに何百回、何千回と「らしい」という言葉を口にしてきたであろう。その際に、「らしい」の規準を言葉で明示して用いたことなど一度もないはずだ(もし「ある」というなら例を出させてみるといい)。なぜ他人が「らしい」を使ったときだけ、居丈高にその規準の明示を要求できるのだろうか。
 プラトンは、『国家』の中で、こんな馬鹿を作らないためにも、子供に討論の仕方を教えてはいけないと言った(正確に言えば、ソクラテスに語らせた)。

 「では、そういう用心のための重要な一策は、そもそも若いときにはその味をおぼえさせないということではあるまいか。というのは、君も気づいていると思うが、年端も行かぬ者たちがはじめて議論の仕方の味をおぼえると、面白半分にそれを濫用して、いつももっぱら反論のための反論に用い彼らを論駁する人々のまねをして自分も他の人たちをやっつけ、そのときそのときにそばにいる人々を議論によって引っぱったり引き裂いたりしては、子犬のように歓ぶものだ」

 言葉の定義や規準の明示を要求することは、それだけを見れば、十分に正当で、論理的な行為である。相手が使った言葉について、その意味や使い方がわからないと言い、それについての正確な説明を求める。この行為のどこにも、非難すべきところはない。問題は、こうした正当な定義の要求と、相手を引っ掛けるための定義の要求とが、外見上はまったく区別がつかないことである。邪悪な動機は、もちろん外からは見えず、ただこちらの推測にすぎない。ある意味では、根拠のない決めつけである。しかし私は、議論の流れによって自分がそう感じたのであれば、証拠もなく決めつけてもかまわないと思っている。こちらを混乱させるために定義を求めているのだと思えば、まともに答えず、突き放せばいい。「あなたの使っている○○という言葉を定義せよ」などと詰め寄られたら、木で鼻をくくるように「あなたの○○の使い方と同じだと思ってくれてかまわない」とでも答えればいいのだ。もし使い方に違いがあれば、それを説明するのは相手の責任になる。
 こうしたやり方は、もちろん論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない。しかし、論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破され立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい。


「関係がない」と「論点のすり替え」

 だが、研究者がどのように評価しようとも、われわれ下々の者には、何となく釈然としないものが残る。この「われわれ」が迷惑なら「私」がでもいいが、私は普段の生活で、(一)から(五)まで(「人に訴える議論」の5分類のこと)の型を全部用いて、それが詭弁だなどとは露ほどにも思ったことがないからだ。
 では、論理的に考えると、「人に訴える議論」はなぜ詭弁となるのだろうか。ここでキーワードとなるのが、「関係がない」という言葉である。ある発話の内容が真であるかどうかは、それを発話した人間とは関係がない。嘘吐きで有名な男が「嘘はいけないことです」と言ったとしても、その言葉の正しさは、その男の嘘吐きという性格とは無関係に成り立つ。あるいは、私か咥え煙草で道を歩いているとき、同じく咥え煙草で歩いてきた男が、私に対し、「咥え煙草で道を歩いてはいけません」と注意したとしても、その注意の正当性は、男の行為とは関係なく成立する。
 要するに、論理的思考では、ただ発話の内容のみが問題となり、発話者は単に発話をなすための中身のない記号、装置にすぎない。「人に訴える議論」は、本来検討すべき発話内容の問題を、関係のない発話者の問題にすり替えている ―― 論点のすり替えという虚偽を犯している ―― のである。
 この、論点のすり替えについて、詭弁を扱った書物で、よく利用される例を使って説明してみよう。これは「外務省秘密漏洩事件」という名で知られており、毎日新聞の西山太吉記者が外務省の蓮見事務官と懇ろな関係になり、沖縄返還に関する日米両政府の密約を聞き出したというものである(注 蓮見事務官はもちろん女性である)。この事件の顛末について、野崎昭弘の『詭弁論理学』と阿刀田高の『詭弁の話術』は、それぞれ次のように記述している。

 ……すぐ思いだされるのは外務省秘密漏洩事件である。
 この事件のポイントは、「報道の自由」の解釈と、蓮見事務官から西山記者に手渡されたいわゆる「秘密」なるものが、どの程度の秘密だったのか、ということである。ところが起訴状の中に「情を通じ」などという古い言葉があって、ジャーナリズムがとびついたために、世間の受けとめ方はかなり感情的になってしまった。それが検察側のねらいだったのかどうかは知らないが、西山記者の評判は落ち、「太吉だなんて、名前からして太い野郎だ」と息まく人まであらわれる始末である。これは近来稀にみる、みごとな「論点のすりかえ」である。
 私は、(学生にいわせれば)かなりの右翼だから、女性を手玉にとることが許されるとは少しも思っていない。しかし、検察側か指摘している事柄は、「手玉にとる」とか男女関係をタネに「脅迫した」ということではなくて、単に「男女関係があった」ということだけである。「男女関係があったから悪い」というけれども、男女関係ぬきのスクープならさしつかえなかったのだろうか。余計なことはいわずに、「秘密を漏らさせたのが悪い」一本槍で押したほうが、論理的にはるかに明快である。

 これも古い話だが、記憶にある読者諸賢もおられることだろう。昭和47年に起きた外務省秘密漏えい事件、あれは盗まれた秘密が、秘密に値するものであったかどうかこそが一番肝心なところなのに、どこのどいつか知らないけれど、
「西山記者は、蓮見さんと情を通じて情報を盗んだらしい。けしからん」
なんて、事件とけっして無関係ではないが、当面の論点にはさして役に立たない理屈を持ち出し、世の中には外交上の秘密より、三面記事のほうが好きな人が大勢いるものだから、
「西山記者というのは、第一顔がふてぶてしいよ。名前も太吉なんていって、太い野郎だ。俺の田舎に太吉って男がいたが、あいつもひどい奴だった」
 いやはや、こうなっては、まともな議論なんかできるものではない。
 そういう効果を十分承知のうえで、ことさらに、「西山記者は蓮見さんと情を通じ」と喧伝する人がいるのだから、これはやっぱり詭弁の一種であろう。

 特に補足の必要はないだろうが、両氏によれば、この問題の本来の論点は「いわゆる『秘密』なるものが、どの程度の秘密だったのか」「盗まれた秘密が、秘密に値するものであったかどうか」にあった。しかしながら、検察が起訴状で「情を通じ」という言葉を用いたため、「世の中には外交上の秘密より、三面記事のほうが好きな人が大勢いるものだから」、世間の関心は西山記者が男女関係を利用して情報を獲得したことに集まり、その取材方法の是非に論点がすり替えられてしまったというのである。しかも、挙句の果てには、西山記者の顔や名前までもが槍玉にあがり、あんな顔や名前だからあいつのやったことはけしからんという、絵に描いたような「悪罵」型の「人に訴える議論」が登場する始末である。お二人とも、格好の例を提供してもらったからであろうか、「これは近来稀にみる、みごとな『論点のすりかえ』である」「いやはや、こうなっては、まともな議論なんかできるものではない」と、いかにも嬉しそうに嘆いている。


論点をすり替えて何が悪い

 このあたりで、そろそろ私の方も、反論したい気がする。まず、先ほどの例をもう一度引いてみよう。私か道路を咥え煙草で歩いていると、向こうから同じように咥え煙草の男が歩いて来て、私に向かって「咥え煙草で道を歩いてはいけません」と言った。このとき、私が、「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじやないか」と言い返したとしたら、それはきわめて非論理的な振る舞いということになる(「お前も同じ」型の詭弁である)。私が咥え煙草で歩いていたという事実およびそれが悪であるという評価は、その男もまた咥え煙草で歩いていたかどうかとは「関係なく」成り立つ。相手もまた咥え煙草で歩いていたという事実は、私が咥え煙草で道を歩いていた事実を帳消しにはしない。したがって、私に期待される論理的行動は、恥じ入って慌てて煙草を消し、それを携帯用の灰皿に収めることだ。そうしてこそ、初めてこちらも、その男に対して、「あなたも、咥え煙草で道を歩いてはいけません」と注意し返すことができるのである。
 いかにももっともらしい説明だが、惜しむらくは、誰もこの忠告に従って論理的に振る舞おうとはしないであろうことだ。おそらく、よほどの変わり者を除いたほとんどの人が、先の私のように「それじゃあ、あんたはなぜ煙草を咥えて歩いているんだ?」「あんたにそんなことを言う資格があるのか」と言い返すだろう。それでこそ、まともな人間の言動というものだ。
 だが、こうした言動は、論理的に考えると、発話内容の是非発話行為の適・不適とを混同しているということになる。「咥え煙草で道を歩いてはいけません」という発話内容の問題を、咥え煙草で道を歩いている人間にそんな発話をなす資格があるかという発話行為の問題にすり替えているというのだ。「人に訴える議論」(特に「お前も同じ」型)が、虚偽論でignoratio elenchi(イグノーラーツィオー・エーレンキ、ラテン語で「論点の無視、すり替え」)という項目に分類されてきたのもそのゆえである。
 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。
 われわれの実社会でも、様々な事情を慮ることにより、議論の論点が本来のものから変更された例などいくらでもある。例えば、ある天才的な数学者が、電車内で女子高生に痴漢をして捕まったとする。そのとき、誰かが、痴漢をするようなやつの論文など信用がおけぬなどと言い出したとしたら、その人は、「人に訴える議論」(「悪罵」型)の虚偽を犯していると言えよう。数学者の痴漢という行為と、彼が証明した定理の正しさとは、それこそ何の関係もない。
 ところで、ちょうどそのころ、数学の学会が、記念論文集を計画し、その数学者の論文を巻頭に置く予定であったとしよう。だが、彼が痴漢で捕まったことを知った学会の理事は、慌てて巻頭論文を他のものに置き換えた。これは学会理事が、その数学者が痴漢をしたから論文の価値も下がったと考えたからではない。学会という公的な組織の刊行物に、そのような破廉恥事件を起こした人間の論文を麗々しく巻頭に掲げることが不適切であると判断し、社会の反発を招かぬうちに先手を打っただけの話である。ここで、その数学者の論文が巻頭論文に選ばれた論点と、それが巻頭論文からはずされた論点とは、明らかに異なっている。つまり、論点の変更ないしは移行が行われたのである。これに対し、尻の青い若手数学者が、たとえ痴漢をしようが殺人をしようが、彼の論文の価値は不変なのだから最初の予定どおり巻頭に置くべきだと喚いたとしたら、その若手数学者は論理的かもしれないが、組織の中では彼の言葉は聞く耳をもたれない(偽悪的な ―― 悪を衒う ―― 文学者の組織なら、もしかすると別様の行動をとるかもしれないが)。社会では論理よりも常識が優先されるのである。
 もう少し、先の問題に近い例で、説明しなおしてみよう。あるアメリカ人が、「日本は捕鯨を(調査捕鯨も含めて)全面的にやめるべきだ」と言ってきたとしよう。これに対して、「アメリカの漁民も鯨(の一種)は捕獲しているでばないか」と言い返したとき、この反論は何を言わんとしているのだろうか。それは決して、「だから日本の捕鯨は正しい(認められるべきだ)」と言いたいのではない。自国の捕鯨については知らぬ顔の半兵衛を 決め込んでいながら、他国の捕鯨には舌鋒鋭く詰め寄る、その不公平で矛盾した態度(行為)を問題にしているのである。
 もちろん、相手が矛盾しているからといって、それと発言内容の是非とは直接的には関係がない。それは、先にも言ったように、ルソーが父親としては最低の男だったからといって彼の書いた『エミール』まで下らないと言うことはできないのと同様だ。『エミール』 の内容の評価は、ルソーの人格とは無関係である。が、ルソーのような男に、そもそもあんな「立派な」教育論をぶつ資格があるのかという問いは、十分に問題として成り立つ。もし彼がわれわれの同時代人だったとしたら、「自分の子供の養育も放棄した男が何をきれいごとを言うか」などと相当にやられたはずである。
 先ほどの、咥え煙草の事例も、同様に説明できるだろう。私は、相手もまた咥え煙草で歩いていることをもって、自分の咥え煙草を弁護しようとしているのではない。自分は平然と「悪」を犯しながら、他人の「悪」は厳しく糾弾するというその不公平さを攻撃しているのである。それは「咥え煙草で道を歩いてはいけない」という発話の是非よりも、私にとっては優先すべき論点である。その論点に移行して、なぜいけないのか。
 これは外務省秘密漏洩事件の事例においても同じである。世間の人々も、もちろん、漏洩された情報の重要性は認識していた。だが、彼らは、それ以上に、情報を獲得した手段に嫌悪感を抱いたのである(だから毎日新聞は購買数を激減させ、翌年には会社更生法の適用を申請せざるをえない破目に陥った)。これは単純に、論点が、自分たちがより関心のあるものに変更されただけの話である。それとも、議論過程の中で、特定の論者が好む論点を最後まで一貫させなければならないとでもいうのだろうか。ついでに言うと、西山太吉という名前に絡み、「太吉とは太い野郎だ」などと息巻いたというのは、単なる洒落の冗談である。西山氏が、細吉という名前だったら糾弾されなかったというものではない。こんなつまらぬ軽口をわざわざ取り上げ、強引に詭弁に仕立て上げるようなやり方こそ、むしろ詭弁的議論ではないだろうか。


「名づけ」による先決問題要求の虚偽

 「先決問題要求の虚偽」という詭弁を最初に認定したのは(本当に最初かどうかはわからないが、文献資料として残っている限りでは)、アリストテレスである(『詭弁論駁論』161b)。ジェレミー・ベンサムは『詭弁の本』(1824)の中でこの事実を確認し、次のように続けている。「しかしながら、アリストテレスは、この詭弁を最も効果的に、最も見破られる恐れのないように用いるあるやり方(それこそが本章のテーマなのであるが) ―― すなわち、一つの名称を採用すること、についてはふれることがなかった。」  ベンサムがここで問題にしているのは、第一章で取り上げた恣意的な「名づけ」(言葉の黒魔術)とほぼ同様の技巧のことである。すなわち、何かしらの行為や性質を表現するのに、自分にとって最も都合のいい言葉を選択してそれを名づけるやり方である。ベンサムはそのような恣意的な「名づけ」を、証明が必要とされる命題をそ知らぬ顔で前提として使用する詭弁と同じものと見なした。
 彼は色々と具体例をあげて説明しているが、それらは当然英語で、そのニュアンスの違いは(少なくとも私には)さっぱりわからないので、ここでは日本語の例を用いて説明しなおしてみよう。例えば、ある村の村会議員が、公費でヨーロッパ旅行に行ったとき、その行為を「視察」とも「見物」とも名づけることができる。

 a 村会議員がヨーロッパ視察に出かけた。
 b 村会議員がヨーロッパ見物に出かけた。

 もし私が村会議員連中の行為を苦々しく思い、その公私混同を糾弾したいのであれば、私は当然ながら、bの言い回しを選択する。「見物」という言葉を用いることで、仕事ではなく物見遊山に行くという印象を与え、揶揄の含みを伴わせるのだ。逆に、彼らを弁護したいときは、aのように表現することで、それはあくまでも公務の一環であってゆめ遊びと勘繰ってはならないと先手を打っておくのである。
 このような、「名づけ」による先決問題要求の虚偽は、それが問いの形式に組み込まれたときに最も詭弁的効果を発揮する。馬鹿正直にそれに答えることで、答えた側か、致命的とも言えるほどの譲歩を要求されてしまうのだ。しかし、その効果について説明するには、少し回り道をして別の問題の解説から始めなければならない。


君はもう、奥さんを殴ってはいないのか?

 伝統的虚偽論で、「多問の虚偽」(fallacy of many question)、あるいは「複問の虚偽」(fallacy of complex question)という名で呼ばれていた虚偽型式がある。これを、虚偽論の書物で必ず使われていた古典的な例文によって説明してみよう。

 「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」 (Have you stopped beating your wife?)

 奇怪な例文で、こんな内容にする何の必然性があるのかと疑問に思ってしまうが、幸か不幸か、最近の虚偽論の書物では、この例文にお目にかかることはまずない。PC(Political Correctness=「政治的に正しいこと」)の圧力で、Wife(だけが)「殴られる」という例文が使えなくなってしまったからである。だから、現在の虚偽論では、「あなたは、もう配偶者(spouse)を殴ってはいないのか?」という男女両性に適用可能な、より奇怪な例文に「改良」されている。確かに、殴られるのは妻だけとは限らない。虚偽研究の盛んなアメリカでは、夫が失神するほど殴る妻など、いくらでもいそうである。
 それはともかく、右の例文は、形式上、「はい」か「いいえ」という答えを要求する。もし、「はい」と答えたら、かつては殴っていたが、今はやめたということになる。「いいえ」と答えたら、今でも殴っているということになる。つまり、どちらで答えても、自分がwifebeaterであると認めたことになってしまう。これは、右の問いが、こちらがかつて妻を殴っていたということを前提にして組み立てられているためだ。伝統的虚偽論では、これを、外形的には一つに見える問いの中に、実際には、「君は奥さんを殴ったことがあるか?」と「今ではもう殴ってはいないのか?」という二つの問いが含まれていると解釈し、すでに述べたように「多問の虚偽」「複問の虚偽」と命名した。
 だが、ダグラス・ウォルトン(何度もこの人の名がでてくるが、とにかく第一人者なので)は、こうした伝統的虚偽論の解釈に疑問を呈している。
 第一に、この問いは、これだけでは虚偽であると判断することはできない。もし問われた相手がかつて妻を殴っていたという事実があり、しかもその事実を認めているならば、この問いはまったく正当なものだからである。
 第二に、この問いが時に虚偽となるにしても、その理由が、これが二つの問いを含んでいるからというのでは十分な説明にはならない。一つの問いの中に二つの問いが含まれていることがどうして虚偽なのか。
 ウォルトン自身は、この問いが虚偽となりうるゆえんは、むしろ次のように解釈すべきであろうと述べている。この問いは、形式上、必ず「はい」か「いいえ」のどちらかの答えを要求する。そしてそのどちらで答えても、事実の如何にかかわらず、問う側の設定した前提(君はかつて妻を殴っていた)を認めたことにされてしまうということである。
 要するに、このタイプの問いに答える者は、外形的な答え以上の言質を相手に取られてしまうことになる。逆に、問う側からすれば、これによって問うた以上のことを答えさせることができる。
 先の、恣意的な「名づけ」が問いに組み込まれたときも、これと同様の詭弁的効果が生じる。伝統的虚偽論では、このような問いを「不当予断の問い」(loaded question )と呼んだ。これについて、先ほど用いた例をもう一度使って説明してみよう。

 a あなたは、村会議員が公費でヨーロッパ視察に行くことに賛成ですか?
 b あなたは、村会議員が公費でヨーロッパ見物に行くことに賛成ですか?

 この場合、aで問うかbで問うかで、すなわち村会議員の行為を「視察」と表現するか「見物」と表現するかで、当然ながら「賛成」「反対」の割合は変わってくるだろう。だが、本当に問題なのは、実はそのことではない。aの問いに答えた人は、「賛成」と答えよう が「反対」と答えようが、自動的に村会議員の行為が「視察」であると認めたことにされてしまうのである。bの問いに答えた人も、「賛成」と答えようと「反対」と答えようと、同様に村会議員の行為を「見物」と認めたことになってしまうのだ。
 もう一つ例をあげよう。これは恣意的な「名づけ」というよりも、恣意的な「形容句」を伴った例である。

 「君は、K西の、あの下らない詭弁の本を最後まで読んだのか?」

 この問いも、「はい」か「いいえ」のどちらかで答えることを要求する。そして、答える側は、「はい」と答えても「いいえ」と答えても、K西の本が下らないことを認めたことにされてしまうのである。


糾弾する値打ちもない

 しかし、私は、本音を言えば、このような問いが問題だとは全然思っていない。第一章でも述べたように、発言する側は、自分に都合のいいようにいくらでも恣意的に「名づけ」、何でも好きな形容句をくっつければいい。それは、発言する者の責任による断定であり、発言者の当然の権利である。自分が「下らない」と思ったら、「下らない」と表現すればいい。これを詭弁などといって糾弾する人は、議論の相手を、よほどの木偶坊と考えているのだ。こちらの表現の恣意性が強ければ強いほど、相手にとってはそれを見破りやすくなり、また反論が容易になる。あからさまな詭弁は、それを用いる人間よりも、むしろそれが向けられた相手を有利にするのである。
 そもそも、「不当予断の問い」に、馬鹿正直に答える人などいるわけがない。言語学者のラス・マナーが、〈question〉に対応するものとして、〈answer〉以外に、〈retort〉(言い返し)という用語を立てている。例えば、「はい」か「いいえ」を要求する問いに対して「はい」か「いいえ」で答えるのが〈answer〉であるならば〈retort〉はそのような問いの妥当性を、あるいはそれを問うという行為の是非を問題とする。だが、こうした洒落た言葉を知らなくても、「不当予断の問い」を受けたら、誰だって実質的に〈retort〉しようとするだろう。「君は、もう奥さんを殴ってはいないのか?」と問われた人は、「馬鹿野郎! 俺は嚊ァを殴ったことなぞ一度もねえや!」と怒鳴り返す。「あなたは、村会議員が公費でヨーロッパ視察に行くことに賛成ですか?」と聞かれたら、「『視察』じゃなくて『見物』でしよ?」と、さも小馬鹿にしたように問い返せばいい。問いの型式が「はい」か「いいえ」を要求しているからといって、それに「はい」か「いいえ」で答えようとする人は、本当の馬鹿を除いて、誰もいない。こんな詭弁など、詭弁として糾弾するだけの値打ちもない。
 だが、この詭弁は、あまりにも簡単に見抜け、容易に反論できるものであるだけに、議論の素人は、往々にして余計なことをしてしまう。例えば、先ほどの「君は、K西の、あの下らない詭弁の本を最後まで読んだのか?」という問いで考えてみよう。
 ここに、K西の本をすばらしいものだと思っている、少なくとも下らないとは思っていない読者がいるとしよう(たくさんいるはずだ)。彼が普通の知力をもった人間であれば、この問いに馬鹿正直に「はい」か「いいえ」で答えるはずがない。彼は、マナーの用語で言えば、〈answer〉ではなく、〈retort〉しようとするであろう。だが、その〈retort〉のやり方が問題なのである。もし彼が、「私はK西の本が下らないとは思いません」などと答えたら、彼にとっては最悪の結果となる。そう答えることによって、彼には、K西の本が下らなくない理由を説明する責任が生じてしまうからだ。相手は、その説明に対し、色々とけちをつけ、揚げ足を取ってくるだろう。議論においては、責めるよりも守る方がはるかに難しい。こうして彼は、次第に窮地に追い込まれていくことになる。
 しかし、考えてみよう。K西の本に「下らない」という評価を与え、それを問いの前提としたのは、そもそも相手側なのだ。だから、相手側こそ、K西の本が下らない理由を先に説明する義務(立証責任)がある。したがって、正しい〈retort〉は、「K西の本のどこが下らないのですか?」のような、相手にその当然の義務を負わせるべきものでなくてはならない。そして相手の説明に対し、こちらは好きなだけ反論してやればよい。議論においては、何かを主張した側に、それを論証する責任がまず課せられる。これが立証責任ということだ。相手よりも先に、こちらがその主張の非なることを論証する義務はない。
 「不当予断の問い」の危険性は、それがあまりにも簡単に反論できるがゆえに、勢い込んで、相手にあるべき立証責任を買って出てしまいかねないところにある。日常議論の領域で立証責任という概念を確立したのは、例のウェイトリー大司教だが、彼は議論において絶対にやってはならないミスは、相手側に立証責任があるときに、勘違いしてこちらがそれを引きうけてしまうことだと述べている。それは議論の最も強力な武器を放棄し、無防備なまま相手側の攻撃にさらされることを意味するのである。だから、私の本はこれで終わりだが、「君は、K西の、あの下らない詭弁の本を最後まで読んだのか?」と問われたら、決して「私はK西の本が下らないとは思いません」と答えてはならない。

 * 議論における問いの問題については、拙著『「論理戦」に勝つ技術』(PHP研究所)で詳しく論じています。ただし絶版です。


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