新聞という病

題名は「新聞と」となっているが、ほとんどが朝日・毎日のことになっています。現実を見れば、むべなるかな・・・。

新聞という病

 数紙の全国紙があるなかで門田さんが病んでいると指摘するのは主に朝日と毎日です。
 私は新聞を購読していませんが、ネット番組などで紹介される両紙の記事をウェブサイトで確認すると、門田さんが主張していることが間違いではないことが理解されます。

 朝日の価値基準で門田さんは次のようにお書きですが私も同感です。

 熱心に今も朝日新聞を購読している読者以外には、根本的な疑問があるに違いない。それは、「あなたたちは、なぜ事実をねじ曲げてまで、日本を貶めたいのですか」ということだ。
 「どうして、朝日新聞はそこまで中国や韓国の味方をしたいのですか」
 「なぜ、そこまで両国の敵意を煽って日本との関係を破壊しようとするのですか」
 「朝日の報道によって、日中関係はよくなったのですか。そして、日韓関係はよくなったのですか」
 これらは、朝日の愛読者以外の日本国民の素朴な疑問だろう。
 そして、一般の国民は、こうも聞きたいだろう。あなたたちは、どの国の報道機関なのですか、と。私も実際に朝日新聞にこれを問うてみたい。

 門田隆将さんの「新聞という病」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、是非本書を手にしていただければと思います。

新聞という病 門田隆将

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

新聞という病 (産経セレクト) [ 門田隆将 ]
価格:950円(税込、送料無料) (2019/7/17時点)



目次

 

 はじめに 3
 「新聞記者」とはなにか 16

 第一章 朝鮮半島危機に何を報じたか 25
放棄された使命と責任 / 朝鮮半島危機と新聞 / 生存を賭けた「演説」の意味 / 平昌「政治ショー」が示すもの / 「歴史」に堪えられる報道とは  
 論点 韓国への制裁を発動せよ
チャンスが到来した日韓関係 / 事大主義と特殊な国民性 / 約束反故を支持する日本の政党 / レーダー照射の暴挙 / もはや嘘は通用しない / 韓国への十項目の公開質問

 第二章 報道は歴史を直視しているか 55
ワンパターンの陥穽 / 「中台トップ会談」報道の核心 / オバマ氏広島訪問の舞台裏 / なぜ「棄権」ではなかったのか / 終戦記念日“悪”は常に日本 / 主張なき「議員外交」など不要 / 知りたいことが報じられない日露交渉 / 「天皇制」を否定したい新聞
 論点 二二八事件 坂井徳章の「正義と勇気」
トランプ大統領の発言 / 国際社会の「壮大な虚構」 / 「二二八事件」とは / 徳章の苦難の人生 / 「正義と勇気の日」

 第三章 「謝罪」の後の主義主張 93
朝日の描いたシナリオ / 記者教育の「失敗」はなぜ? / 本当に「右傾化」なのか / 安保法制報道と“不安商法” / 常識から乖離した「角度」 / もはや「笛吹けど」誰も踊らず / 朝日は国際社会に向けて訂正を
 論点 「吉田調書」報道 朝日新聞の悪意
「吉田調書」報道と慰安婦報道 / 「チェルノブイリ事故の10倍」 / 「命令に従って」待避した / 世界のメディアを動かした / 当事者たちの証言 / 吉田所長が危惧したこと / 朝日は当事者に取材したのか

 第四章 命より憲法という観念論 133 尖閣報道で抜け落ちた視点 / 新聞への痛烈なしっぺ返し / 「命」と「憲法」どっちが重いのか / 担ぎ出された「亡霊」 / 「無罪判決」報道に異議あり / “真夏の紙面”が教えてくれるもの
 論点 現実と憲法 邦人の命を守れない日本
自国民の救出をなぜできないか / エルトゥールルの奇跡 / 「ノー・ジャパニーズ」 / 迷走する自国民の救出 / 倒錯した法理 / それでも救えない日本 / 「大きな犠牲が必要」

 第五章 なぜ「現実」を報道できないか 169
少年実名報道の「今昔」 / 「新聞離れ」と「地震報道」 / 都知事選報道でも敗北 / ファクトか、論点のすり替えか / 政治記事のダイナミズム / 「単純正義」が新聞を滅ぼす / 国際常識に背を向け続けるな
 論点 少年Aは「更生していない」という事実
人間の行為とは思えない / 「祖母の死」と冒涜の儀式 / “核心”には触れず

 第六章 “ビラ”になった新聞 201 都合の悪い情報は報じない / 「政治運動体」の機関紙に / それでも「民意」は揺るがず / 若者に見捨てられた新聞 / 「クレーマー国会」のなれの果て / 恥ずべき「二重基準」
 論点 朝日的手法による日本の損害
「絶対謝らない朝日」の謝罪 / 「法的措置を検討する」 / 「パンドラの箱」が開いた / 「国民の目」が怖かった朝日 / 既存メディアが敗れ去った日 / 朝日の価値基準

 第七章 自ら放棄する言論の自由 241 表現の自由と「節度」 / 新聞は「福島の復興」を望まないのか / もはや活動家になり果てた / 虐待死事件と「嘆き記事」 / 「オウム報道」と新聞の劣化 / 「就活ルール廃止」で見識を示せ / もはやその「論法」は通用しない / 「差別」を振りかざす新聞
 論点 『新潮45』休刊と日本のジャーナリズム
百人いれば百人の読み方がある / 少子化政策への言及 / 切り取り「炎上」手法 / 出版社が「使命」を捨てた / 97年にもあった新潮大批判 / 言論圧殺に白旗

 おわりに 281  


はじめに

 令和の時代が始まり、昭和生まれの私は、昭和、平成、令和という「三代の御代」を生きることになった。国民に祝福された一連の行事が終わり、新たな歴史が始まることに深い感慨を覚えた国民は多いだろう。
 まもなく高速・大容量の新移動通信システム「5G」時代を世界は迎える。世界がイノペーションに向かって貪欲かつ果敢な試行を繰り返す中で、令和は、世界に伍して日本がどんな着実な歩みを進められるか、という時代になる。
 私は、そのスタートにあたって、長く日本のジャーナリズムに君臨してきた「新聞」というメディアを取り上げさせてもらった。
 新聞は、日本はいうにおよばず、主な国々にも特派員を送り、その日に起こった世界中の出来事を、翌朝には日本全国の家庭のお茶の間に届けるという役割を担ってきた。
 その形は一貫して変わらず、今もジャーナリズムの最前線に立っていると言っていいだろう。しかし、本文で記すように、そこにはさまざまな病巣や問題点が存在する。
 私は平成から令和に移る過程で、多くのことを考えた。ジャーナリズムに関することもそのひとつである。
 新元号がこれまでの「漢籍」(中国の古典)からではなく、初めて「和書」からの採用になったことに対して、世界のメディアの報じ方は興味深いものだった。
 アメリカのAP通信は、「中国古典に依拠する伝続から決別することは、中国に度々、強硬になる保守的な安倍政権で予測されていた」と報じ、同じくCNNは、「国書を選択したのは、安倍首相による保守的政治基盤へのアピールにほかならない」と論評し、イギリスのデーリー・メール紙は、「新元号の語源は、国家の威信の増強を狙う安倍首相の保守的な行動計画を映し出している」とレポートした。
 一面的といえばそのとおりだが、外国メディアを構成する記者たちのスタンスが透けてみえる気がした。
 彼らは、なにも青い目の人間ばかりではない。黒い目の“立派な日本人”がその仕事を担っている場合もある。日本の元新聞記者だったり、通信社の記者、あるいはフリーランスの記者などがそのまま外国メディアに転籍したり、雇われたりするケースは少なくない。
 だから外国メディアの報道といっても、必ずしも外国人の見方であるとはかぎらない。
 だが、青い目であろうと黒い目であろうと、彼らは、なぜか「反日」という点で共通している。多くの場合、彼らは「日本が嫌い」なのだ。
 では、新元号に対して、日本の新聞はどう報じたのだろうか。
 これらの外国メディアと同調することが多い朝日新聞や毎日新聞の報道を見てみると、これがまた実にわかりやすい。両紙とも、やはり先の外国メディアと同じく新元号が「漢籍に由来」しなかったことがお気に召さなかったようだ。
 たとえば、4月2日付の朝日新聞はこう書いている。
 〈首相がこだわる国書を選び、談話も自ら発表した。そんな姿勢に元政府関係者は眉をひそめる。「時の首相の思いが強調される形になるのは避けた方がいい。元号は時の政権のものじゃなくて国民のものなんだから」〉
 また、毎日新聞は選定手続きについて批判を展開し、新元号について十分な議論がなされたとは思えなかったとして同日付の社説で、〈政府は懇談会のメンバーを知名度の高い作家や学者らに委嘱し、国民に聞かれた選定だと印象づけようとしたとみられるが、結論ありきの印象を残した〉と記し、翌3日の紙面でも〈新元号 紙開けば両端に国書 事務方説明 にじむ「令和」推し〉という見出しのもとに、〈6案の提示の仕方や、事務方による説明の内容からは、「国書を典拠とした初の元号」を目指した形跡もみえる〉と報じた。
 要は、先に紹介した外国メディアと同様、国書が典拠にされたのが不快なのである。両紙はかねて日本を愛すること、すなわち「愛国」や「祖国愛」といったものを毛嫌いする傾向が強い。
 世界で元号を使用するのは、もはや日本だけであり、世界に誇るその文化遺産の典拠を「和書に求める」のは当然だと思えるが、これに異を唱えるメディアの根本には、やはり「反日」があるのだろう。
 日本そのものを「貶めたい」人々の基本構造がそこには見てとれる。だが、ネット時代は彼ら反日勢力のこともすでに炙り出しており、「ああ、まだそんなことをやっているのか」と、多くの日本人を呆れさせてもいる。
 私は、平成とは、新聞のこうした「正体」が明らかにされた時代だったと考えている。同時に、平成ほど新聞が栄光と衰退を経験した時代もまた、かつてなかっただろうと思う。
 平成が始まった頃、わが世の春を謳歌していた新聞は、やがてインターネットの登場により、次第に窮地に追い込まれていった。
 記者クラブに記者を潤沢に配置して情報を独占し、恣意的にこれを加工して大衆に“下げ渡していた”新聞が、個人が情報発信のツールを待ったネット時代の到来に対応できなかったのだ。
 わかりやすくいうなら、一般の個人がブログやフェイスブック、ツイッターなど、さまざまな手段で情報や論評、さらには映像さえ発信できる時代が来たのである。マスコミだけが情報を独占できた時代は、「過去のもの」となったのだ。
 個人が情報を発信できるということは、メディアによる情報自体が当事者や大衆によって「チェック」され、「論評」の対象になるという意味でもある。
 その過程で、プロであるはずの記者たちが、ひとりよがりで、狭い観念論の世界に閉じこもり、自分の思いや主義主張によって、「情報自体を歪めている」ことが暴き出されてきた。変革の時代の中で、新聞の実像が浮き彫りにされていったのだ。
 本書は、産経新聞に連載している『新聞に喝!』と、月刊『正論』に寄稿した原稿をベースに、変貌するジャーナリズムの姿や、本質を見失いつつある世の中のありようをできるだけわかりやすく切り取り、指摘させてもらった論評集である。
 私白身がさまざまな出来事やニュースに接した際に、率直に抱いた感想や見解をそのまま綴ったものと表現した方が正確かもしれない。
 私自身の論評が読者にどう届くのかは、興味深いし、同時に怖くもある。どうか本書を読みながら、それぞれの感想や思いを私にぶつけて欲しいと思う。
 それは、きっとジャーナリストとしての私を、あらためて成長させてくれるだろう。本書が世に問える楽しみはそこにある。
 この中で紹介させてもらった事実が、たとえ些細であっても読者の皆さんの小さな気づきになってもらえれば、これほど嬉しいことはない。それが、もし「新聞という病」から日本が救われる「きっかけ」となるなら、望外の喜びである。
  


朝鮮半島危機と新聞

 この1ヵ月ほど、新聞が日本にとって「不可欠なもの」ではなくなったことを見せつけられた日々は、かつてなかったのではないか。
 高齢の「新聞世代」と若年の「ネット世代」とでは、情報を取得する手段やツールがどんどん「乖離」してきていることは今更、指摘するまでもない。
 それを踏まえながら、この1ヵ月 ―― つまり、北朝鮮「四月危機」(2017年)を振り返ると、日本の新聞離れは、もはや、止めようがないことを嫌でも再認識させられる。わかりやすく言えば、もう新聞は「要らない」ということである。
 これからも続く朝鮮半島危機は、長く太平の眠りを貪ってきた私たち戦後日本人の意識をあざ笑うかのように深刻な事態へと進んでいる。
 平和ボケした日本人は、自衛とは、「国民の命を守ること」であるという世界の常識 にすら背を向けて過ごしてきた。
 それは、朝鮮半島危機に際して、韓国にいる約三万八千人におよぶ在留邦人は、ソウルをはじめ、各都市が火の海になったとしても、自衛隊が「救出に行くことはできない」という驚くべき「現実」として、私たちに突きつけられているのである。
 日本は、目と鼻の先にいる邦人を救いに行けない。しかし、そのことすら新聞は読者の前に提示できない。いや、それどころか、そういう法整備の「壁」となってきたのが新聞だった。
 安保法制では、自衛隊法の改正によって、〈在外邦人等の保護措置〉の項目が新設され、在外邦人が危機に陥ったとき、それまでの「輸送」だけでなく、「救出・保護」を自衛隊ができるようになった。だが、それを行うためには相手国(ここでは「韓国」)が公共の安全と秩序を維持しており(つまり戦争状態にないこと)、また、相手国の同意があり、さらには、相手国の関連当局との連携が見込まれるという「三条件」がつけられているのだ。当然、これらの厳しい要件をクリアできず、実際には、自衛隊は邦人救出に行けないのである。
 なぜそんな足枷がつけられたのか。それは、助けを待つ国民を救出に行くという「究極の自衛」が「憲法違反になる」という倒錯した法理を説く政治勢力や学者、新聞が、日本では大きな力を持ってきたからである。
 私がこの実態を指摘した本(『日本、遥かなり』2015年、PHP研究所)を上梓した際、取材に応じてくれた元外務省幹部は、「自国民を救出することを自ら縛っているのは、世界で日本だけです。しかし、ほかの国と同じように、自国民を救出できるような法整備は、また“戦争法案”といわれてしまう。日本は“大きな犠牲”が生まれるまでは、その愚かさに気づかないでしょう」と嘆いた。
 国民の命を蔑ろにした空虚な言論が大手を振った時代は、やがて終わるだろう。それは、同時に「新聞の時代」の終焉を告げるものになるのは間違いない。   (2017年5月14日)


終戦記念日“悪”は常に日本

 終戦記念日の新聞を読むと、毎年、あることを思う。  一体、「いつ戦争が始まるのか」ということである。2017年もそうだった。
  〈嫌な流れ止めねば あの時代と似た空気〉(毎日)
  〈誰が戦争を止めるのか 終戦の日に考える〉(東京)
  〈72年目の8月15日 色あせぬ歴史の教訓〉(朝日)
 新聞は、盛んに「戦争の危険性」を説いてくれた。確かに弾道ミサイル発射実験によって米国への挑発を止めず、一触即発の状態を続ける北朝鮮や、尖閣諸島への領土的野心を剥き出しに領海侵入をくり返す中国との間で、いつ日本が危機的状況に追い込まれるか分からない。だが、新聞が懸念するのは、そんな“世界の脅威”北朝鮮や中国のことではない。  あくまで戦争を始めるのは、この「日本」なのである。朝日の社説(2017年8月15日付)によれば、〈歴史に通じた人々から「戦前と似た空気」を指摘する声が相次ぐ。安保法制や「共謀罪」法が象徴のように言われるが、それだけではない。もっと奥底にあるもの、いきすぎた自国第一主義、他国や他民族を蔑視する言動、「個」よりも「公の秩序」を優先すべきだという考え、権力が設定した国益や価値観に異を唱えることを許さない風潮など、危うさが社会を覆う〉とのことだ。新聞が主張するのは、この平和国家日本が「戦前」にあるということである。
 しかし、何十年も新聞はそう書き続けたのに、日本は戦争を起こさなかった。
 〈「新しい戦前始まった」と靖国公式参拝で社党委員長〉
 〈首相の靖国神社公式参拝に「今後」を危ぶむ声も〉
 〈各国の反応は? 内外に広がる警戒・懸念〉
 これは、30年以上も前の1985(昭和60)年、当時の中曽根康弘首相の靖国公式参拝が話題になったときの朝日の紙面である。
 近づく戦争の足音。戦争をいかに防ぐか。平和を蔑ろにする政府とどう闘うか ―― 私たちは毎年、終戦記念日にそんな記事を読まされてきた。
 だが、どう不安を煽ろうと、日本は揺るぎなく平和の道を歩んできた。そして平和を脅かすようになったのは、新聞が“地上の楽園”と囃し、“悠久の大国”と讃えてきた北朝鮮や中国の方だった。それでも新聞にとっての“悪”は日本だった。なぜだろうか。
 「私たちは、戦争をしたい人たちとペンで闘っている」。そこには新聞特有のそんな自己陶酔がある。それは、刻々と変わる内外の情勢に対して、平和を守るための「現実的対応」を懸命にとろうとする現実的平和主義者たちを勝手に「戦争に向かう人たち」と決めつける傲慢さに支えられたものにほかならない。
 現実を見ようとせず、自己陶酔した視野狭窄の中にいる新聞のことを考えさせてくれる日 ―― それが終戦記念日である。
 だが、彼らの視点からたとえ欠落してはいても、日本の礎となった戦没者たちの無念だけは、私たち後世の日本人は決して忘れまい。   (2017年8月27日)  


「天皇制」を否定したい新聞

 平成から今和にかけての洪水のような皇室報道の中で、朝日新聞の2019年4月25日付「天声人語」には、言葉を失った。
 〈敗戦の年の夏のことを、作家の坂口安吾が苦々しく書いている。「国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」。われら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったではないかと(「続堕落論」)▼日本人のそんな振るまいを安吾は、「歴史的大欺瞞」と呼んだ〉
 そんな書き出しで始まる天声人語は、安吾の言葉に託す形で、国民が自分たちでは何も言えず、権威の行動と価値観に身をゆだねてきたのは、自らを欺く行為に等しいと説く。
 そして天皇が元首でなくなり、象徴となった今もその精神構造を〈引きずって〉いると指摘するのである。 また天皇の第二次大戦の戦地への訪問を勝手に、
 〈日本の加害の歴史を忘れないようにという試みだったのだろう〉
 と類推し、その上で、
 〈「おまかせ民主主義」という言葉がある。投票にも行かず政治家や官僚に従うことを指す。同じようにすごく大事なことを「象徴の務め」にまかせて、考えるのを怠ってこなかったか。天皇制という、民主主義とはやや異質な仕組みを介して▼世襲に由来する権威を何となくありがたがり、ときに、よりどころにする。そんな姿勢を少しずつ変えていく時期が、来ているのではないか〉
 と国民を糾弾してのけた。ああ、ここまで書くのか、と私は思った。
 平成の間、天皇皇后両陛下は確かに先の大戦の激戦の地を訪ね歩き、深く頭を垂れられた。国民は、そこで命を落とした人々の無念を思い、追悼のお気持ちをその背中から感じとったものである。
 しかし、天声人語子の解釈では、それが、〈加害の歴史を忘れないように〉するためだったのだそうだ。
 また「天皇制」という「世襲」に由来する権威をありがたがり、よりどころにするのはもうやめようともいう。これほど痛烈な皇室批判を昨今、私は目にしたことがない。

 国民の安寧と幸せを祈る務めを果たされてきた天皇。伝統と秩序を重んじる日本人は、その天皇制を二千年の長きにわたって守り抜き、いつの間にか、日本は“世界最古の国”となった。
 だが、朝日は「もうありがたがるな」というのだ。考えてみれば、元号の典拠を「漢籍」ではなく、初めて「和書」に求めたことに対しても、最も異を唱えたのが朝日だった。ひたすら中国に寄り添ってきた新聞らしいと、納得する向きも少なくあるまい。
 逆に私は朝日に問いたいと思う。それほど日本がお嫌いなら、なぜいつまでも日本にいるのですか、と。   (2019年5月19日)  


朝日の描いたシナリオ

  新聞とは何だろう。この夏以降、そんな根本的なことを考える国民が増えているのではないだろうか。
 朝日が2014(平成26)年8月5、6日付で「慰安婦報道」の検証を行い、そのことへの不満が噴き出し、さらに9月11日には、所長命令に「違反」して原発所員の9割が撤退したという「吉田調書」報道も全面的に撤回し、謝罪した。
 朝日には慰安婦報道に対して第三者委員会が設置され、初会合も行われた。新聞の存在意義そのものを問う事態が進行しているのである。
 しかし、私は2014年10月10日付の朝日の紙面を見て、思わず笑いがこみあげてしまった。そこには、〈本紙の慰安婦報道第三者委初会合〉という特大の記事があり、トップに〈忌憚ない批判と提言を〉と題して、木村伊量(ただかず)社長のあいさつが出ていた。
 「いかなる前提もつけず、忌憚のないご批判、ご意見、具体的なご提言を賜りたい」
 「朝日新聞が信頼を取り戻し、ジャーナリズムとしての責務を今後も果たしていくためにも、厳しく、かつ前向きなご議論をしていただきたくお願い申し上げます」
 木村社長は一方で、「いかなる前提もつけず」と言いながら、責務を「今後も果たしていくために」と、しっかり「注文」をつけていたのである。少なくとも「廃刊」や「解体」などの提言ではなく、「前向きな結論」への注文である。
 そもそも第三者委員会とは、お役所や不祥事を起こした大企業などが、世間の非難をかわすために設置するものだ。いわば“ガス抜き”のための委員会である。
 ある程度厳しい意見を出してもらい、“真摯”に反省する態度を示して国民の怒りを和らげ、「再出発」するためのものだ。設置の時点でシナリオと着地点は決まっている。そのことを木村社長は冒頭からバラしてしまったのである。
 違和感と怒りを待ったのは、私だけではないだろう。なにも第三者に聞かなくても、問題の本質は明らかだからだ。
 「慰安婦」が強制的に戦場に連行された女性たちであるとして、事実に基づかないまま「慰安婦=性奴隷」を世界に広めた朝日。なぜ事実をねじ曲げてまで日本を貶めなければならないのか。なぜそんな偏向報道を自分たちはつづけてきたのか。そのことを自分白身の「胸に問えばいいだけのこと」だからだ。
 私事で恐縮だが、私は「吉田調書」問題で朝日の「誤報」を指摘し「法的措置を検討する」という抗議書を複数回、送られた(のちに朝日が謝罪・撤回)。自由な言論を重んじるべき報道機関が、逆にそれを圧殺しようとしたのである。
 そして、今度はお役所と同じく第三者委員会を設置して、そこに「注文」をつけて結論を誘導する ―― 私は朝日が描くシナリオのために引っ張り出された委員の方々に深く同情すると共に、朝日には報道機関としての「根本」をあらためて問いたい。   (2014年10月19日)  


“真夏の紙面”が教えてくれるもの

  毎年8月の紙面は、各紙の特徴が出るので興味が尽きない。2016年は8月17日付紙面に目が留まった。仕事柄、毎日、全紙に目を通している私も、朝日の報道に驚きを禁じ得なかった。
 一面の題字下の目次欄に〈SEALDsが残したもの〉という見出しのもとに〈街頭デモから新しい政治のあり方を模索してきた学生団体「SEALDs」が解散した。彼らが残したものを追った〉という紹介文があったので、朝日がずっと支援してきたあの学生たちの組織が解散したことを知った。ページを繰ってみると、二面に、これでもかというほどの礼讃記事が並んでいた。
 〈市民が争点作る 種まいた〉〈国会デモ・野党共闘・・・シールズ解散〉〈東アジアで先行 若者連携〉といった見出しが躍り、さらに、10面の社説では、〈個人の連帯これからも〉と銘打って、その意義を謳い、解散を惜しんだ。朝日がシールズ解散を報じた行数は、社説も含め、実に総計285行に及んだのだ。
 私には、特に台湾の「ひまわり学生運動」や香港の「雨傘運動」の若者だちと同列視し、記事をシールズの奥田愛基氏の〈「香港だって台湾だって、実際に政治を動かすまで数年かかっている。日本の動きは始まったばかりだ」〉とのコメントで締めていたのには、二の句が継げなかった。
 目前に迫った中国による人権抑圧と必死に闘う台湾と香港の学生たちの運動と、逆に、1992年に定めた「領海法」によって日本領の尖閣を「自国の領土」とし、紛争を前提に挑発を繰り返す中国の側を喜ばす主張を展開するシールズ「同列に位置づける」神経に言葉を失ったのだ。
 尖閣を守るため、つまり、「戦争を防ぐ」ためには、当該海域での日米の連携を強化し、中国に「手を出させない」体制を構築することは急務だ。
 そのために18年ぶりに改定された日米ガイドライン協議があり、安全保障法制があった。だが、シールズには、そんな安全保障上の危機感もなければ、昔ながらの左翼陣営の主張に丸乗りした現実無視の「観念論」しかなかった。
 彼らの主張は若者にさえ受け入れられず、逆に参院選では、二十代の若者の43%が比例投票先が自民党となる結果を生んだのではなかったのか。
 一方、同じ日の産経紙面には、尖閣に押し寄せた400隻もの中国漁船に、100人以上の中国民兵が乗り込み、漁船には、貢献の度合いに応じて数万から十数万元の手当てが出ていることがすっぱ抜かれていた。
 新聞には、世の中の出来事を正確に伝え、警鐘を鳴らす役割がある。しかし、日本には悲しむべきことに、相手国に“ご注進”を続けて外交カードを与え、自国を決定的に不利な立場に追い込む新聞が存在する。
 
8月は、そんな日本の新聞の有様を国民に示してくれる貴重な時期である。今年も、そのことをじっくり考えさせられた夏となった。    (2016年8月28日)  


ファクトか、論点のすり替えか

  新聞は、ファクト(事実)を正確に伝えているだろうか。それとも論点をすり替えることに加担しているのか。  久々に、そんな興味深い考察をさせてくれたのが、ネットから発信されて広がった蓮肪氏の二重国籍問題だ。国会が開会となり、与野党の論戦が始まった今、その視点でもう一度、この問題を振り返ってみたい。
 言うまでもないが、日本の国籍選択は、国籍法第14条によって規定されており、「二重国籍」は認められていない。また、外務公務員法には「外務公務員の欠格事由」の項目があり、二重国籍は厳しく戒められている。
 しかし、蓮肪氏は、二重国籍を隠したまま、参院議員に三度当選し、2010年には、行政刷新担当大臣という閣僚の座にもついていた。2004年の参院選の選挙公報には「1985年、台湾籍から帰化」と書かれており、これは公職選挙法の経歴詐称にあたる。また、ネットの告発を契機に過去の蓮肪氏の発言も次々と明らかになった。
 「(日本の)赤いパスポートになるのがいやで、寂しかった」(朝日 1992年6月25日付夕刊)
 「そうです。父は台湾で、私は二重国籍なんです」(『週刊現代』 93年2月6日号)
 「在日の中国国籍の者としてアジアからの視点にこだわりたい」(朝日 同年3月16日付夕刊)
 「だから自分の国籍は台湾なんですが、父のいた大陸というものを一度この目で見てみたい、言葉を覚えたいと考えていました」(『CREA』 97年2月号)
 ……等々、かつて、蓮肪氏は、二重国籍を隠すことはなく、堂々とこれを表明していた。つまり、蓮肪氏は、「うっかり手続きを怠っていた」のではなく二重国籍を認識し、その上で国会議員となり、閣僚になっていたのである。
 そして今回の告発がなければ、二重国籍のまま自衛隊の最高指揮官であり、外交責任者たる「総理」を目指す野党第一党党首となっていたのだ。問題の核心は、ここにある。
 では、新聞はこれをどう伝えただろうか。この核心をきちんと報じていたのは、読売と産経二紙だけで、ほかはこれらの重要なファクトを隠した上で、〈「純粋な日本人」であることは、それほど大切なのだろうか?〉(朝日 2016年9月25日付)〈根底には純血主義や排外主義、民族差別意識があると感じる〉(毎日 同21日付)といった具合に論点はすり替えられた。
 過去の蓮肪氏の発言を紹介し、二転三転する同氏の発言を正確に報じなければ、読者に論点は見えてこない。今回もそれらを補い、本質的な論争は、すべてネット上で繰り広げられた。
 そこに生じたのは、ネットでも情報を取得する層と、新聞やテレビのみにこれを頼る層との圧倒的な意識の乖離である。
 国民にとって、新聞は、もはや必要不可欠な存在ではないのか。そんなことまで考えさせてくれた蓮肪氏の二重国籍問題だった。   (2016年10月2日)  


「政治運動体」の機関紙に

  好き嫌いは、人間だれしもある。人々の好みや趣味が全て一致したら、これほど気味の悪い世の中はない。
 しかし、昨今の新聞は、単に自らの好き嫌いに基づき、それに都合のよい情報と意見を表明する場になり果てていることに気づく。
 安倍音三内閣が好きか、嫌いか。安倍内閣を倒すか、倒さないか。その目的を実現するためには、事実(ファクト)など「関係ない」という露骨な姿勢である。
 私は、レベルが低下する一方のそういう新聞を「政治運動体」の機関紙という見方で毎朝読んでいる。すなわち倒閣運動の“ビラ”である。
  
新聞には、ストレートニュースを掲載する報道面と、さまざまな事象に対する論評面とがある。前者では、正確な情報を、後者では、その新聞の意見や社論に接して、読者は「考える」ことができるのである。だが、昨今の新聞には、そんなことは望むべくもない。
 ストレートニュースである報道面からして、既に「歪められている」からだ。さらに詳しく加計学園問題を見てみよう。
 首相の友人が理事長を務める加計学園に便宜をはかるために国家戦略特区がつくられ、獣医学部の新設が認められたとされる疑惑を新聞は報じ続けた。
 では、そのためのファクトとは何だったのか。
 天下り問題で辞任した文部科学省の前川喜平前事務次官によって「行政が歪められた」という告発がおこなわれたが、抽象論ばかりで具体的な指摘はなく、文科省内の「総理のご意向」や「官邸の最高レベルが言っている」という文言を書いた内部文書がその“根拠”とされた。
 しかし、現実には公開されている国家戦略特区の諮問会議議事録でも、文科官僚は獣医学部新設は必要がないという理由を「述べられなかったこと」が明らかになっている。
 だが、新聞は議論に敗れた官僚が、文科省内で上司に弁明する内部文書の内容をあたかも事実であるかのように報道し、テレビのワイドショーがこれに丸乗りした。ファクトはどこかに置き去られ、「疑惑は深まった」「首相の関与濃厚に」という抽象的な言葉で、国民の不信感を煽り続けた。
 一方で都合の悪い情報は黙殺された。2017(平成29)年7月10日の国会閉会中審査に登場した“当事者”の加戸守行・愛媛県前知事が、鳥インフルエンザやBSE、口蹄疫問題など、公務員獣医師の不足から四国への獣医学部の新設を要請し続けたが、岩盤規制にはね返され、やっと国家戦略特区によって「歪められた行政が正された」と語った。
 しかも、加計学園が手を挙げたのが12年前の小泉純一郎内閣の構造改革特区時代で、今治の県議と加計学園事務局長が友達だったからだ、と詳細に証言した。だが、多くの新聞がこの重要証言を報じなかった。
 どうしても新聞を読みたい向きには、これからは「倒閣運動体」の機関紙として、割り切って購読することをお勧めする。    (2017年7月23日)  


朝日の価値基準

  熱心に今も朝日新聞を購読している読者以外には、根本的な疑問があるに違いない。
 それは、「あなたたちは、なぜ事実をねじ曲げてまで、日本を貶めたいのですか」ということだ。 「どうして、朝日新聞はそこまで中国や韓国の味方をしたいのですか」 「なぜ、そこまで両国の敵意を煽って日本との関係を破壊しようとするのですか」 「朝日の報道によって、日中関係はよくなったのですか。そして、日韓関係はよくなったのですか」
 これらは、朝日の愛読者以外の日本国民の素朴な疑問だろう。

 そして、一般の国民は、こうも聞きたいだろう。あなたたちは、どの国の報道機関なのですか、と。私も実際に朝日新聞にこれを問うてみたい。
 朝日には友人も多いので、私はたまに彼らと議論することがある。
 その時に気づくのは、彼らに「自分たちが日本を貶めている」という意識は全くないことだ。
 もちろん、なかには「貶めたい」という人もいるだろうが、その数は実際には少ない。では、なぜ彼らは、このような報道をするのか。
 私か問うと、彼らはだいたいこう答えることが多い。 「朝日新聞はリベラルであり、権力と対峙し、これを監視している。その使命を負っているのが朝日新聞だ」
 いつもその答えに私は苦笑する。そして、こう言う。
 「朝日がリベラル? 単なる“反日”だよ」と。私か驚くのは、彼らには、日本を貶めている意識はなく、むしろ国家権力に対して厳しい記事を書いていると思い込んでいる点だ。
 中国や韓国を喜ばせるというような意識よりも、むしろ過去の日本を糾弾することで、「平和を愛する自分」に陶酔感を抱いているようなタイプが多いのだ。
 すなわち、朝日の記者は、「日本を貶めることを、権力と戦っているものと勘違いしている」としか、説明できないのである。そして、その根底にあるのは、朝日新聞が持つ歪んだ価値基準だ。
 それによって、どれほど日本と日本人が大きな損害を被ってきたのかを思うと、私には溜息しか出てこない。
 果たして、朝日新聞が日本にもたらしてきた「損害」は、いったいどれほどのものなのだろうか。
 朝日の報道によって、日本人が被った「不利益」と、失われた「名誉と信用」は、金銭で補償できるようなものではないが、もしそれをするなら、天文学的な損害額となるだろう。
 中国や韓国の報道機関ならいざ知らず、繰り返されてきた朝日新聞による「日本人を貶める」報道が今後、懸命に働き、真面目にこつこつ努力してきた大多数の日本人に、受け入れられるはずはない。
 ひとたび失われた名誉を回復するのは容易ではない。
 世界中に流布された「原発現場の人間が逃げた」という内容は、なかなか払拭されないだろう。同時に、朝日の慰安婦強制連行報道で徹底的に破壊された「日韓関係」もまた、世界のあちこちに建つ慰安婦像が撤去されないのと同じく、これまた回復は難しいだろう。
 朝日によって失われた日本人の信用を取り戻すためには、途方もない苦労と努力が必要だ。私は、朝日新聞が自分たちでつくった第三者委員会で、この問題の検証ができるとは思っていない。
 それは国民が自らやるべきことだろう、と思う。そのために必要なのは、朝日新聞社長の国会招致である。
 国民が自分たち白身の問題として「朝日問題」を考え、これまで発信してきた朝日の「慰安婦=性奴隷」の原型となった報道を検証し、その結果を世界に発信しなければならない。そのくらいの覚悟が求められているのである。
 本当の意味で、その解明が成された時、おそらく朝日新聞は「終焉を迎える」に違いない。   (『正論』2014年11月号)  


「差別」を振りかざす新聞

 日本には、いつから恥すべき“揚げ足とり文化”が定着してしまったのだろうか。国会やマスコミの報道を見ていると、誰しもそんな感想を抱かざるを得ないだろう。
 国の根本政策や外交、あるいは法案について熱い議論を戦わせる国権の最高機関たる国会では、相手の言い間違いや、知識の欠如をあげつらうような、絶対に子供には見せたくないレベルのやりとりが続いている。
 野党やマスコミに、そもそも「見識」がないのだから、本質的な議論ができるはずもなく、国民もこれに我慢して付き合わなければならない。何かといえば、そんな揚げ足とりをし、「差別だ」「ヘイトだ」と、実に由々しきレベルの議論をする人が増えているのである。
 2018年11月14日付の朝日新聞に〈「薬物依存症女性、奇声あげ殺人」ドラマ波紋〉という記事が出ていた。
 なんでも、テレビ朝日系の人気刑事ドラマ『相棒』で、覚醒剤中毒の女性が刑事を後ろからハンマーで殴り殺すシーンがあり、それに対して、「侮辱的で差別をあおっている」との非難が巻き起こっているというのだ。
 遅ればせながら、私もそのシーンを見てみた。なかなかの迫真の演技で、覚醒剤の怖さを端的に表すものだった。だが、朝日新聞によれば、それが「中毒患者への差別を助長するもの」なのだそうだ。
 思わず「えっ?」と声を上げた向きも少なくないだろう。私などは、小さい頃から正気を失って異常行動に出る覚醒剤の怖さを繰り返し教えられ、絶対にこんなものには手を出してはいけない、と思ってきたものだ。
 実際に、四人を包丁で刺し殺した深川の通り魔殺人事件や、同じく、これも四人を包丁やハンマーで殺害した大阪・西成の麻薬中毒殺人事件をはじめ、多くの覚醒剤犯罪が記憶に刻み込まれている。これらは、いずれも弁護側か覚醒剤による心神喪失や心神耗弱を訴え、刑罰を逃れようとしたり、減軽させたりするのが定番となってきた。
 だが、朝日は専門家の意見として、彼らは〈精神的な病を抱えた障害者〉であり、〈依存症の人に対する差別意識だけを強めることになる〉と主張した。
 覚醒剤とは、そもそも取引も、あるいは使用も、いずれも犯罪である。人間の体を蝕み、暴力団などの反社会的勢力の資金源ともなっているのは周知のとおりだ。その覚醒剤の恐怖の実態をドラマで描いただけで、「差別だ」と抗議し、その批判を囃し立てるのである。
 昨今、一部の新聞は、自分への批判は「ヘイトだ」と糾弾し、自分が批判するときは、「差別だ」と言えば、世の中に通用するとでも思っているらしい。映画やテレビの制作者は、こんなレベルの低い新聞の批判など気にする必要はない。社会に問題を提起するシーンを、怖れずどんどんつくってもらいたい。国民は、新聞ではなく、あなたたちの方を応援している。    (2018年11月25日)  

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

新聞という病 (産経セレクト) [ 門田隆将 ]
価格:950円(税込、送料無料) (2019/7/17時点)


PAGE TOP