宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作

よど号ハイジャック事件、それに付随して発生した拉致事件、北朝鮮の主体思想(チュチェ思想)・・・、お勧めの一冊です。

宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作

 よど号ハイジャック事件の犯人たちは、言わせてもらえばちょっとした冒険気分で北朝鮮へ渡り、身が危うくなると保身のために主体思想に転換することで裕福な暮らしを手に入れる。さらには結婚相手が欲しいと言って日本から呼び寄せ、一部は拉致したという・・・、身勝手すぎる。
 よど号ハイジャックの犯人たちは自らの思い通りの行動をして満足だったろうがその一方で、彼らの欲望のために北朝鮮に拉致された人たちやその家族を始めとしてどれだけ多くの人々を苦しめ不幸にしてきたのか。その言わば悪行が克明に記されています。

 また彼らなりの共産主義思想を捨てて主体思想(チュチェ思想)にすり寄って言った理由を示しながら、北朝鮮という国家体制と主体思想(チュチェ思想)についても解説されている。
 その思想をお勧めしたくない立場からも、ぜひお読みいただきたいと思います。

 高沢皓司さんの『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。お勧めの一冊です。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
 市販されていなかったら図書館で探してみましょう。

宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作 高沢皓司 著

 


目次

プロローグ 9
1 名曲喫茶 15
2 空 賊 32
3 偽装空港 48
4 闇への亡命 68
5 平 壌 85
6 思想改造 110
7 金の卵 132
8 秘密の招待状 152
9 潜入渡航 163
10 妻たちの北朝鮮 182
11 結婚作戦の真実 205
12 日本人革命村 223
13 マドリッドの失踪者 252
14 生存の証明 277
15 ロンドンの罠 303
16 チボリの夏 328
17 密輸シンジケート 348
18 双面のヤヌス 365
19 接線 388
20 ウィーンエ作 403
21 背後の影 421
22 消息不明 442
23 山桃の家 456
24 思想対立 472
25 海上への脱出 487
26 破綻した虚構 501
27 日本潜入 517
28 密告 532
29 国内工作 551
30 撤収 576
31 祖国喪失 593
32 時間の迷路 617
33 黙契 647   
エピローグ 670   
あとがき 673   
地図 675   
文庫版刊行に際して 676   
解説


あとがき

 「よど号」事件という数奇な物語のほぽ全貌を、わたしはこの本を書くことによって、ようやく歴史の脈絡にしたがって語り終えたことになる。つけ加えておかねばならないのは、この本に語られている内容が、あくまでも「よど号」の亡命者たちという特殊なケースの物語である、ということだけである。
 この本に語られている物語は、それぞれ典拠した文献や調書、法廷書類、さらに膨大な取材資料(ノートやテープ)による裏付けを持っている。本文中にそれぞれ注を付すことも考えたが、あまりにも繁雑になるのでやむを得ず取りやめた。 出典や引用資料については必要不可欠と思われるものだけを本文中に記すにとどめた。
 「よど号」事件のリーダーだった田宮高麿が、1995年、冬のピョンヤンで突然のように死んでから、わたしは事件をめぐる巡礼の旅に出かけた。北京~延吉~長春~モスクワ~ロンドン~コペンハーゲン~マドリッド~パリ~ウィーン~ベオグラード~サラエボ~スプリット~ザグレブ~ブカレスト~バンコク……。この本の多くの部分は、これらの旅の途上で書き継がれた。この旅とこの本を書くことは、わたしに1970年代という時代の意識と経験の意味を、あらためて問い直させる体験になったようである。  1998年7月  著 者



文庫版刊行に際して

 高沢皓司氏の『宿命』は、いわゆる「よど号」事件に関する、最も深い、そして最も優れた作品である。
 1998年に上梓されたこの作品は、各紙誌の書評で絶賛され、「第二十一回講談社ノンフィクション賞」を満場一致で受賞するという栄誉を博した。だが、高沢氏が誇るべきは、むしろ次のようなエピソードであろう。
 『宿命』の内容に衝撃を受けたある新聞社の社会部長、そして高名な週刊誌の編集長が、「これがジャーナリズムの仕事だ」と前置きして、編集部の全ての記者編集者にこの作品を読むようにと奨励したのである。取材者として、また書き手として、恐らくこれ以上に名誉なこともないだろう。もっとも、企業ジャーナリズムがいかに金と人員を割いたところで、これほどの達成を得ることは容易なことではない。なぜならば、この作品は胸が掻きむしられるような内部告発の書でもあるからだ。
 六〇年安保闘争と、その高揚の中から生まれた新左翼運動。その最盛期に青春時代を過ごした高沢皓司氏は、「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」の活動家だった。「ブントの鬼っ子」といわれた赤軍派、その中でも過激なことで知られた「関西ブント」の武闘派たちこそが、1970年3月31日、羽田から日航機をハイジャックして北朝鮮に飛んだ「よど号赤軍」なのである。
 リーダーの田宮高麿は高沢氏の友人だった。だからこそ高沢氏は、「よど号」が飛び立った直後から9人のメンバーの消息を追い求めた。しかし、日本と国交のない北朝鮮の闇は深く、たまに届く便りも、メンバーたちが「主体思想」をおっかなびっくり翻訳しただけの代物に過ぎなかった。72年「連合赤軍」による一連の事件が発覚し、新左翼運動が急速に退潮してからも、高沢氏は北朝鮮にいるメンバーたちとコンタクトを取ろうとし続けた。こう した長期間にわたる努力の末、90年、高沢氏はようやく訪朝を果たす。「よど号」事件か ら実に二十年目のことである。
 冬の平壌で田宮らとの再会を果たした高沢氏は、ともに酒を酌み交わし、旧交を温め、そ の後も東京と平壌を行き来する。だが、訪朝を重ねるごとに、高沢氏の中に生じた疑問はど うしようもなく膨らんでいく。
 メンバーの一人である岡本武は、あのテルアビブ事件の岡本公三の兄は、どうして一度も 姿を見せないのだろう? 田中義三も常に「出張中」だし、病死を伝えられた吉田金太郎の ことに誰も触れたがらないのはなぜなんだ? ともに革命を夢見たかつての同志たちが、二 十年目のいま、言うに言えない秘密と苦悩を抱えているのは明らかなように思えた。高沢氏はこの謎を解き明かすべく、リーダーの田宮高麿を人気のない場所に誘い出す。『宿命』は、ここに始まるのである。
 平壌郊外の公園や、メンバーが住む「日本人革命村」の運動場などで、田宮は少しずつ話し始めた。「日本人革命村」で受けた思想改造。金日成との謁見。小西隆裕の恋人の訪朝により、メンバー間に嫉妬と動揺が生まれたこと。その結果、提起された「結婚作戦」という名の日本人女性獲得計画と、それに続くヨーロッパでの一連の日本人獲得工作。驚いたことに、北朝鮮に留まっていると思われていた「よど号」のメンバーたちは、パリやウィーン、マドリッド、あるいはコペンハーゲンといった街で、かなり自在な活動を展開していたので ある。
 田宮は「拉致」という言葉を使おうとはしなかったが、その内実はヨーロッパを経由した日本人拉致工作以外の何物でもなかった。しかし、ここで重要なことは、国外での一連の工作活動は、決して彼らの自由意志によるものではないということである。それらは全て朝鮮労働党の、ひいては金日成と金正日親子の指示によるものであり、ここにこそ「よど号赤軍」の悲劇があるのである。
 そんな工作などやめて、逮捕覚悟で日本に戻ってくればよいではないか。読者の中にはそう思われる方もいるだろう。しかし、「結婚作戦」によって、すでに妻子持ちになっていた彼らは、血の繋がった我が子を常に平壌に残している。子供たちは一種の「人質」であり、外遊中のメンバーにも常時監視の目がついて回る。それゆえ子供たちの人道的な帰国が果たされない以上、悲劇が悲劇を生むという構図は崩れそうにない。カンボジアで逮捕され、日本に送還された田中義三は、「よど号」のメンバーの中で最も謎の多い人物であるが、彼もまた年頃の娘三人を平壌に残している。田中義三は、いわば二重の意味で囚われの身なのであり、彼の口から北朝鮮の真実が語られることなどほとんど期待できない。
 「よど号」の全てを知る男、田宮高麿は、それでも高沢氏に真相を語っていた。いや、語ろうとしていた。「よど号」のリーダーとしての重い責任と深い悩みを二つながらに感じ、田宮は根気よく高沢氏の質問に答え続けた。その田宮も、95年、冬の平壌で急死する。東京で訃報に接した高沢氏は、田宮の死因に強い疑念を抱いたという。晩年の田宮は、確かに危険な賭けに打って出ようとしていたのかもしれない。
 田宮高麿の死後、高沢氏は「よど号」グループによる海外工作の実態を解明するため、一人、ヨーロッパヘと旅立つ。
 「よど号」の妻たちによる、マドリッドでの色仕掛けの日本人男性拉致。それに続くコペンハーゲンでの日本人女性の拉致。高沢氏は複数の目撃者から事件の証言を引き出し、平壌から届いた手紙を引用し、ヨーロッパでの工作の実態をあぶり出して田宮の発言の裏を取っていく。やがて日本に、ヨーロッパで拉致されたこの男女二人と、彼らの赤ん坊の写真が送られてくる ―― 「衣服と本がなく、困っております」という悲痛な手紙に添えて。
 高沢皓司氏は書いている。
 「ふたりを結婚させ子どもをつくらせることは、金日成思想のいつものやり方でもあった。子どもは、次の世代の革命要員、そして人質だった
 これが朝鮮労働党の手先になった「よど号赤軍」の実態なのである。  『宿命』を上梓した高沢氏は、北朝鮮に残るメンバーとその妻、あるいは国内の「よど号」の支援者だちから「裏切り者」のレッテルを貼られ、手ひどい攻撃を受けることになった。 だが、裏切り者はどちらなのだろう? 蛮勇を奮って玄界灘を渡ったものの、理想も志も捨 てて朝鮮労働党の手先になり下がり、ヨーロッパやアジア、さらには密入国した日本で工作活動を続けていたことこそが最大の裏切り行為ではないのか。
 「田宮が死ぬことがなければ、僕はこの本を書き出すことはしなかった」
 高沢皓司氏は、いま、そう言う。『宿命』はかつての同志と袂を分かった一ジャーナリス トの、血のにじむような内部告発の書であり、盟友田宮高麿への悲痛な鎮魂歌なのである。
   新潮社『宿命』担当編集班   (2000年7月)


P203(「妻たちの北朝鮮」の一部)

 これで、福井夕力子、金子恵美子、黒田佐喜子、森順子、水谷協子、魚本民子という「よ ど号」の妻たちのプロフィールを、簡単にだがようやく伝え終えたことになる。彼女たちの事情はさまざまだが、残念なことにここで語られている彼女たちの渡航の経緯や「よど号」 のメンバーとの出会い、北朝鮮に入った時期などは、福井夕力子が恋人小西を追って秘密に 渡航したことを唯一の例外として、すべて真実ではない。
 彼女たちが自ら語るヨーロッパで の出会いも、うまく創作された架空の物語である。架空の物語ではあるが実際に彼女たちの 語りを聞いていると、つい信じこまされてしまうほどである。ただ、そのことを語る彼女たちの言葉の端々には、架空の物語を彼女たちに語らせている背景の思考、つまり金日成主義 の用語でいう“領導芸術”や“忠誠心”だけではない何か、彼女たちの心の奥の願望のようなものも、ほのかに透けて見てとれる。
 こうした虚構の物語が彼女たちの口から語られなければならなかった背景には、彼女たちがどうしても隠し通さねばならない、ある深い事情が秘められていた。北朝鮮では、真実の物語はいつでも架空の物語の背後に隠されている。  


P223(「日本人革命村」の一部)

 ピョンヤン郊外の「よど号」の宿舎に何度目かの冬がやってきた。夕刻から降りだした雪 は、ますます勢いを増している。このまま一晩中、降り続けば明日は銀色の世界だろう。この雪は、春まで根雪になってしまいそうな気がする。《村》にまた長い冬が来る。今朝はひどい濃霧だった。昼夜の温度差が激しくなると決まって大同江(テドンガン)から大量の霧が発生する。 《村》は大同江の上流、大きく大河が蛇行する辺りの丘の上に位置していたから霧が発生す ると《村》全体が乳白色に覆われた。大同江はピョンヤンでいちばんの大河である。その大 河もやがてこれから本格的な冬を迎え、凍結をはじめる。すると氷の上に雪が降り積み、大 河と大地は境をなくす。これで何度目の冬になるのだろうか。ピョンヤンに到着した70年 の4月、「よど号」のタラップを降りると春だというのに思わず寒さに震え上がった。寒い国に来た、とそのとき感じた。そうこうするうちに、この国に寒いという表現はないのでは ないか、と思った。この国では暖かいか冷たいか、そのどちらかだ。田宮高麿は、闇の中か ら湧き出るように降りつづく雪を見上げながら、仲間に言った。
 「明日は、みんなで雪かきをしよう」 それは、彼らがこの国に来て、毎年、冬になると必ずやらねばならない日課になっていた。
 いつの頃からか「よど号」の宿舎となった招侍所は人々から《村》と呼ばれるようになっていた。《村》は広大な敷地を持っていた。この招侍所が彼らに宛てがわれて以来、敷地の管理にはつねづね手を焼いていた。はじめのころ、林を切り拓いて小さな運動場をつくった。 軍事訓練ができないのならば、せめて体力を鍛えようとみんなで必死になっていた。森のなかにマラソン・コースもつくった。しかし管理となると何から手をつけていいのか分からなかった。いまでは、そのころから比べると招待所の中もずいぷんと様変わりしている。新しい建物も増えたし、設備も一層充実してきた。従事する服務員の数も急激に増えていた。それだけに、彼らにしてみれば招侍所の「主人」としての振る舞いも必要だったのである。 《村》には専任の管理服務員がおかれていたが雪だけは話が別だった。服務員だけではお手上げになってしまう。それに、ここは山沿いに位置しているので市街より、余程、雪が多かった。油断をすると招侍所区域全体の機能が麻痺してしまうのである。だから雪に対してだけは率先してやっておかねばならない。もっとも、いまではこの《村》の管理で彼らが率先してやらなければならないのは、この、冬の雪かきくらいしか残っていなかった。あとはすべて《村》に常駐勤務する服務員たちがやってくれる。雪かきは服務員だちとの交流の機会としても必要な仕事だったのである。その点が最初のころとはずいぶん違ってきていた。
 《村》は、それ自体ひとつの別世界だった。周辺の農村とは隔離された《特殊区域》を形づくっていた。
建物も風景も何もかもが違った。森と林が周囲を取り囲んでたから外側から内部を窺うことはできなかったが、事情を知らない人間が偶然にでも迷い込んだら 《村》の光景は異様とも映っただろう。《村》の周囲には柵が張りめぐらされていた。柵は《村》と外界を遮断していた。もっとも、敷地が広大であったので柵のことを気にする人間はいなかった。《村》の入口には歩哨の兵隊が立っていた。許可証を持たない者は一歩も《村》の敷地内に踏み込むことはできなかった。柵の周辺は警邏の兵士たちが見回りを義務づけられており、ときおり農民たちが誤って敷地の周辺に近づくと、銃を待った兵士たちにただちに誰何を受けた。柵が張りめぐらされていなかったのは、唯一、大同江に面した河縁だけである。
 しかしこの《村》が周辺の人々から隔絶されていたのは立地環境の問題だけではない。柵の外と内では言葉も生活も、食べ物も着る物も、何から何までが違っていた。《村》は、そのまま小さな「日本」だったのである。
 《村》のなかでは、新しい建物の建設がどんどん進んでいた。はじめは二棟にすぎなかった招侍所も、いまでは彼らのために専用の外貨商店や管理棟、集会室や講義室も建造された。彼ら自身の住居も新築され、それぞれ独立した家庭生活が営めるようにとの配慮から、広い部屋が与えられた。彼らの住居棟だけで二棟、それぞれの階ごとに一世帯が住んでいる。間取りは4LDKから5LDKの広さがあり、寝室、居間、食堂、学習が能率よくできるように本棚と基本書が設備された書斎、大型の冷蔵庫が完備したキッチン、ベランダなどがありすぺて温突(オンドル)や冷暖が完備していた。共用ではあったが豪華なサウナ風呂も建設された。
 《村》の人口も増大の一途を辿った。彼らのために党から派遣されて常駐している指導員や教官たちの宿舎も《村》内に設けられた。彼らにしても妻子を持つことによって、最初は9人から始まったメンバーも倍以上の数になっていた。《村》の運営をさまざまな面で維持していくために多くの服務員と労働者も役人された。部屋には常に湯が供給されていたから専任のボイラーマンも必要だったし、商店には販売員も必要だった。停電に備えて自家発電の設備と管理技術者も整えられた。子どもたちが生まれてからは専用の診療所、保育施設も完備された。医者と看護婦、保母たちが常駐した。《村》からの交通手段として、彼らには数台のベンツが労働党中央より支給されていた。このベンツは必要に応じていつでも使えるように待機している。もちろん、一台ごとに専任の運転手が付けられていた。
 食堂には数人の料理人のほかに若い接待員の女性たちがいた。彼女たちはテーブルに料理を取り分け、「主人」たちの豪華な食事がはじまると後ろに退いて静かに次の命令を待った。酒やビールが足りないと見ると彼女たちは素早く新しい酒を運んできたし、かわりの碗をよそった。接待員の女性たちは食堂だけではなかった。洗濯、掃除、ペッド・メイクにいたるまで女性たちが接待員として配置されていた。さながら、小さな「宮廷」だった。
 《村》の仕事に従事する人間の数は数十人を数える。服務員や指導員、運転手のなかには家族とともに常駐している者もいたから、いきおい《村》の人口は100人に近い数になっていた。「よど号」のメンバーたちは、その「宮廷」、すなわち《村》の「主人」として彼らの上に君臨していた。
 《宮廷》の建設は、その後もすすんだ。現在では、国旗の掲揚台や映画室、図書館や貴賓室も建造されている。北朝鮮では、実際、種々の施設に「宮殿」という言葉を冠して呼ぶことがある。ピョンヤンにある二つの「学生少年宮殿」や「人民文化宮殿」なども、その例である。「学生少年宮殿」は体育館や英才教育施設を備えた青少年の課外学習施設に過ぎないが、ここでは麗々しく「宮殿」と呼ばれている。このひそみに習えば《村》も、やはり《宮殿》と呼ばれるのがふさわしかろう。
 《宮殿》、すなわち《村》の中の生活の仕組みは、これもまたユニークで贅沢なものだった。専用商店では外貨も使うことができたが、貨幣を持たないでも買い物ができた。なぜなら、必要なものがあれば販売員にリクエストしておくだけで、数日後にはそれらの品々は配給品とともに丁重に届けられたからである。米や野菜、牛肉、豚肉、鶏肉、卵、塩や砂糖などの基本的な食料はリクエストによらず毎週決まって配給されてきた。米は戦前の植民地時代、天皇家に献上されていたとされる選りすぐりの極上米で金日成の食べているものと同じだった。牛肉や豚肉は10キロ単位で巨大な固まりのまま配給されるのが常だったし、鶏肉は羽毛を落とし首を刎ねただけの丸ごとで届くのが普通だった。後年、そのために肉の解体作業には熟練したと彼らは語っている。また、子どもたちも焼き肉やステーキを自分で料理することがうまくなったと話して、聞いていたわたしを驚かせた。しかし、こうした調理も日常的に毎日のこととして行われていたわけではない。妻たちが料理の腕を振るわねばならなかったのは、週末や休日、自分たちの楽しみのためにケーキやパン、クッキー、アイスクリームなどを作るときに限られていた。平日は専任の料理人による食事が常に用意されていたからである。
 配給以外の日用品や食料品、あるいは調味料などの生活必需品や、コーヒー、タバコ、日用雑貨も《村》で揃わないものはなかった。専用商店ができて以来、日本の各種の製品も手軽に手に入った。インスタント食品や日本の調味料、菓子や嗜好品などである。
 《村》は、品物、商品の面からみても「日本」そのものだった。手に入らないので困ったという話は、日本の羊糞、コンニャク、梅干し、日本の生理用品とコンドームくらいしか聞いたことがない。彼らは訪朝した日本の昔の仲間に、日本からの土産品や商品を懐かしがってみせつづけたが、もちろんそれは、こうした《宮廷》での生活ぶりを明かせないがための演技だった。
 また、彼らは労働による対価としてではなく、国家から経済的な保証と支給を受けていた。 これは、あえていえば、彼ら自身の理論学習と政治活動に対して給料が出されていたという ことになる。彼らの手記の中でも、「われわれは仕事をする以前から生活費を貰っていた。それもチョソンの平均水準以上のものだった。一か月分で相当な額を貯金にまわせる」と書かれている。  医療費や住居費、交通費、教育費、食費などすべては不要だった。個人的な嗜好品などの消費を除いて、現金を必要とすることはあまりなかった。生活費は貯金にまわせて当然だった。
 彼らは自分たちの暮らしぶりについて、公的なところでは日本語の教師や翻訳をして生計を立てている、とこれまで語りつづけてきた。しかし、実際、彼らがそうした仕事につくことはほとんどなかった。政治的な任務として、ネイティブな発音で特殊な対象者のために日本語を教育することはあった。また、日本からさまざまな事情で北朝鮮にくることになった日本人に初歩の朝鮮語と思想教育を行うことはあった。翻訳は日常的な活動としていちばん多くやった。朝鮮語から日本語への翻訳では、すでに翻訳されている日本語が適切かどうかをチェックする仕事、また、日本語の記事や資料などを朝鮮語に翻訳し、要約をつくることである。これらの作業は党の情報部門で活用されていた。
 《村》には一種、奇妙な経済原則が貫かれていた。その原則とは「需要による供給」である。ひらたく言えば、望みさえすれば必要なことはなんでも党がかなえてくれた。努力なしに手に入れることができたのである。「求めよ、さらば与えられん」の世界だった。この「需要による供給」の仕組みは、身の回りの品や食料品だけではなかった。たとえば、住居や事務所、活動費や工作資金などにもすべて貫かれていた。「結婚作戦」においては「女性」すらが、その対象に含まれたとも言えるこの奇妙で不自然な環境を、彼らは自ら「共産主義的社会」と賛美した。党の配慮は「共産主義」の実践である、と。「朝鮮社会主義」の「共産主義的理想」が、この《村》では実践されているのだ、と。彼らにとって《村=宮廷》の生活は、北朝鮮国家が対外的に政治宣伝している通り、「地上の楽園」そのものだった。
 しかし、彼らは「需要による供給」という特権を受けているのが自分たちだけであることは自覚しなかった。かりに気がついたとしても「自分たちは選ばれた者」であり、「人民のため」に任務を行っているのだから当然のことだ、と考えた。倒錯した思考が彼らを支配していた。ところが、不思議なことに、この《宮廷》での生活ぶりが「共産主義的社会の実現」や「地上の楽園」として、彼らの口から政治宣伝されたことは一度もない。なぜか《村》の生活は完全に秘密にされつづけてきたのである。
 ではなぜ、宣伝されてしかるべき「楽園」が逆に秘密にされつづけてこなければならなかったのか。また、なぜ彼らはそんなように特殊な階層としてあつかわれ、優遇された生活を保証されることになったのか。そのすべての答は“偉大なる首領”金日成の「信任」と「教示」の内容に求められる。
 ほかならぬ金日成が信任したのは、彼らを中核として日本に「革命」を起こすことだった。「よど号」グループは「日本を金日成主義化する者」としてのみ、金日成によって直接に信任されたのである。彼らが朝鮮労働党の旗の下に「日本革命を起こす者」である以上、彼らの日常生活は北朝鮮式ではなく、あたかも「日本」に生活しているように、日本式の日常環境と発想が必要だ、と“首領様”は教示した。やがて彼らが日本に潜入し、国内での工作活動を行うためには、そのすべてが日本の実情に合致した同じレベルの生活感覚のなかで鍛えられ、訓練されることが必要だとされたのである。この「教示」があって以来、《村》はもはや、単に「よど号」グループの宿舎としてだけでなく、対「日本」工作にむけた拠点とし ての意味を付与され、一切が極秘裏に建設、運営されることになった。この目的が明確にさ れた以上、あくまでも《村》の秘密は外部に洩らされてはならなかった。
 ピョンヤン郊外に位置するこの《日本人村》のことは、党の工作関係者の間で《日本革命 村》と呼ばれている。もちろん、北朝鮮で市販されているどんな地図にも、この《村》と 《宮殿》の存在は記載されたことがない。


P296(「生存の証明」の一部)  Iさん、Mさん、有本さんの拉致

 「よど号」メンバーによる日本人獲得工作は、このように最初から《騙し》の構造を内包したものだった。彼らに他の方法は存在しなかった。だから、日本で活動していた時のように、政治的議論や自分の考えをはっきりと述べて相手を組織的に獲得する(オルグする)という経験を持っていたメンバーにとっては、どうにも違和感を感じさせる獲得方法であるように見えたのである。それが彼らの政治討論の場で出された少数意見である「そんなことをしてもいいのだろうか」という疑問の意味だった。もちろん、こうした疑問を持つことは「発言者は金日成主義を真に自分のものとして血肉化していない」という批判しか生み出さない。
 そして、こうした《騙し》による日本人の獲得工作だったが故に、連れていった人間との間にも必然的に、さまざまな軋轢が生じた。マドリッドから連れていったIさん、Mさんの場合でも、ピョンヤン到着後に激しい口論が起こった。
 彼らはピョンヤンに着いてすぐに洗脳教育のための党施設である招侍所に隔離された。最初は旅行気分であったかも知れないIさん、Mさんも奇妙な雰囲気と不自然な状態に次第に不信感を募らせていっただろう。ピョンヤンまで同行した女性たちも到着直後に姿を消して いた。もらろん、自由な外出など認められるわけもなかった。 彼らへの思想教育は、当初、労働党の指導員と妻たちを含む「よど号」のメンバーの何人かがあたった。この洗脳のための教育は、彼らの《日本人村》で行われるのではなかった。 《村》は秘密の特殊区域であり、連れてきたばかりの人間をそこに入れるわけにはいかなかったからである。教育担当者は《村》からIさんたちの招侍所に毎日通って、そこで“偉大なる首領”金日成の素晴らしさとチュチェ思想の講義をつづけたのである。
 Iさん、Mさんのほうには不満と不信が鬱積していた。最初は、自分の置かれた状況が正確には認識できなかったはずである。まさか、という信じられない思いが渦を巻いていた。 暴力による「拉致」事件ではなかったから、本人たちにしても状況を把握するのに多少の時 間が必要だった。マドリッドで連日のように会い、談笑し、食事をともにした女性たちのことを信じたい気持ちもあった。そして、あえて書いておけば、このときのMさんには森順子に対する恋愛感情があった。
 ある日、招侍所で事件が起こった。森順子が「よど号」のほかの妻たちと一緒に、Iさんたちの前に姿を見せたときである。
 「騙したんだな!」Mさんは彼女を見るなり、そう叫んだ。
 激昂したMさんは森順子に飛びかかった。胸元をつかむと、頬にむけて平手打ちをくわせ た。森順子はもんどりうって床に倒れた。一瞬のことだった。
 「色じかけで騙しやがって……!
 騒ぎを聞きつけて「よど号」のメンバーが駆けつけてきた。
 「騙された、だと! 騙される方が悪いんだろう!」 Mさんは妻たちから切り離されて、メンバーたちに殴り倒された。口元から血があふれていた。このときになって、はじめてMさんは彼女も「よど号」の妻のひとりであったことをはっきりと知る。この事件があってすぐに、Mさんは招侍所の一室に監禁され、以後、彼の思想教育担当者は男性メンバーに変更された。
 マドリッドからの留学生拉致工作については、幾人かの証言者によってかなりのディティ ールが明らかにされている。そのやり方は何度、検証してみても「色じかけで騙した」と言われても仕方のないものだったろう。
 Iさん、Mさんのブレーン・ウオッシングと思想教育は遅々として進まなかった。背の高 い方、と、背の低い方、と彼らは呼ばれていたようである“背の高い方”、つまりMさんの方が、反抗的だった、という。
 「よど号」の総括会議でも、この問題はたびたび討議に取り上げられた。いかにすればIさん、Mさんの思想教育をうまく成功させることができるか、ということである。あるとき、妻たちのひとりがこんな意見を出した。
 「IもMも、男性ふたりだけで、独身だからうまくいかないのではないか
 それを聞いていた妻のひとりが、言い放った。 「男だけだからうまくいかないというのなら、女も連れてくればいい」 このときから、あらたに日本人の女性を獲得しピョンヤンに連れてくることが、彼らの具体的な次のプログラムになった。つづいて起きる有本恵子さんの「拉致」事件は、このとき に準備された、といっても言い過ぎではない。もはや歯止めはきかなかった。まるで、因果はめぐる糸車、のように事態は進行する。
 Iさんから送られてきた有本恵子さんの旅行傷害保険証書には三枚の写真が貼りつけられ ている。一枚はIさん、もう一枚は有本恵子さん、そしてもう一枚は、この写真の実物を見るまで分からなかったのだが、赤ちゃんの写真だった。この手紙と保険証書が公表されたと きには、いずれもコピーであったため、赤ちゃんの写真は真っ黒く潰れてしまい誰の写真と も分からなかったのである。Mさんを含む三人の名前と三枚の写真ということから誰もが、もう一枚の写真をMさんの写真と信じて疑わなかった。しかし、実際に現物を手にしてみる と、目の前にあるのはベッドの上にようやく起き上がれるようになったばかりの赤ちゃんの、写真だった。この写真を見たとき、わたしは愕然とした。Iさんと有本さんの間に子どもがいるかもしれないということは、ピョンヤンでの「よど号」との会話から薄々わたしも察知していたことだったからである。「よど号」グループに妻子がいることが判明した直後、わたしは何度か彼らや妻たちに、子どもたちの数を尋ねていた。しかし、不思議なことに答える相手によって微妙にその人数が違っていたのだった。自分たちの子どもの数を、どうして間違えたり分からなかったりするのだろう、と不可思議な印象をぬぐい切れなかった。  


P379(「双面のヤヌス」の一部) 金日成主義とチュチエ思想について

ここに1974年、朝鮮労働党中央委員会が採択決定したひとつの文書がある。『党の唯一思想体系確立の十大原則』という金日成主義のもっとも基本的な原典のひとつである。「党」は朝鮮労働党、「唯一思想体系」とは金日成思想のことを指す。いわば金日成主義者にとってのハウ・ツー、そして規約であり行動指針、さらになによりもこの『原則』はすべてに優先する「綱領」だった。しかし、この文書がこれまで表だって彼らから喧伝されたことや論議にさらされたことは、一度もない。金日成主義とチュチエ思想の信奉者の間でのみ、美しくも秘めやかな忠誠の書として諳んじられてきたからである。
 なぜか。
 まずは、内容を先に見てみる必要があるだろう。ここにいう「十大原則」とは次のような項目を指している。
1、偉大な首領金日成同志の革命思想で、全社会を一色化するために命を捧げて闘争しなければならない。
2、偉大な首領金日成同志を忠誠をもって仰ぎ奉らなければならない。
3、偉大な首領金日成同志の権威を絶対化しなければならない。
4、偉大な首領金日成同志の革命思想を信念とし、首領の教示を信条としなければならな い。
5、偉大な首領金日成同志の教示を執り行うについて無条件性の原則を徹底して守らなけ ればならない。
6、偉大な首領金日成同志を中心とする全党の思想的意志的統一と革命的団結を強化しなければならない。
7、偉大な首領金日成同志に学び、共産主義的風貌と革命的事業の方法、人民的事業の作風を所有しなければならない。
8、偉大な首領金日成同志から授けられた政治的生命を大切にし、首領の大きな政治的信 任と配慮に高い政治的自覚と技術により忠誠をもって報いなければならない。
9、偉大な首領金日成同志の唯一の領導のもと、全党、全国、全軍が終始変わることなく 活動する強固な組織規律を確立しなければならない。
10、偉大な首領金日成同志が切り拓かれた革命事業を代を継いで最後まで継承し、完成さ せなければならない。
 つまり、チュチェ思想で全世界・全社会を一色化すること、これこそが金日成主義の「最高の綱領」(朝鮮労働党「十大原則」の細則、以下「細則」とする)であり、目的だった。そのためには「代を継いで」(子ども、その子孫まで)金日成に忠誠を誓い「全世界においてチュチエ思想の勝利のために最後まで闘わなければならない」(「細則」)。忠誠とは「ひたすら首領のために生き、青春も命も喜んで捧げ」(「細則」)ること、首領の絶対化とは「金日成同志以外はどこの誰も知らないという確固たる立場」であり、その「肖像画、石膏像、銅像、徽章、肖像画を掲載した出版物、首領を形象した美術作品……などは鄭重に取り扱う」(「細則」)ことである。また、文章を書いたり講演をするときは必ず金日成の言葉を引用しなければならない。さらに、金日成の革命思想の学習は「一日二時間以上」(「細則」)徹底して行わなければならない。
 まだまだつづく。
 無条件性とは「首領に対する忠実性の基本要求」(「細則」)であり、金日成の教示は、即ち、「法として、至上の命令として受け止め、どのような些細な理由も口実も」(「細則」)許されない。もちろん批判をすることなどもってのほかである。
 「政治的生命」とは生物学的生命に優先して(!)首領が人々に与えたもので、この政治的生命を失うことは肉体的生命を失うよりも北朝鮮社会では悲惨で不名誉なことである。そしてこの政治的生命を失った人間は、人間としての生命も保障されない。なぜならそんな人間は生きている意味のない存在となるからである。北朝鮮ではわたしたちがふつうに考えるような「人権」という概念は存在していない。「政治的生命を第一の生命と認識し……、政治的生命のためには肉体的生命を塵芥のように」(「細則」)捨てる覚悟を持たねばならないのである。
 この『唯一思想体系確立の十大原則』こそは、朝鮮労働党と金日成主義の秘められた「綱領」であり、最高規範だった。誰もこれに逆らうことはできなかった。このことは「よど号」のハイジャッカーたちにとっても事情は同じだった。この「十大原則」とその細則を日々研鑽、学習することによって彼らは忠誠心と無条件性を自らのものとしていったのである。
 この「十大原則」が労働党中央委貝会で決定されたのが1974年、ハイジャッカーたちの思想改造も、これらのハウ・ツーが決定され北朝鮮社会に徹底化されていくプロセスと軌道を同じにしていた。彼らが“チュチェの戦士”として転生したということは、じつはこの『原則』に忠実かつ無条件に従う“人間改造”が完了したということを意味していたのである。
 では、「自主」といい、「主体」という彼らの言葉と、この「無条件性」や「忠実性」はどこで折り合いがつくのか。彼らの思考の回路をわたしなりに辿ってみるとこういうことだ。
 金日成思想の「国家有機体論」(社会政治的生命体論)は、考える頭脳は“偉大なる首領”ただひとりでよく、「人民」は手足であり、血液であり、細胞であることを教えている。このことから考えれば「主体思想」とは“金日成の思想”の別名であり、一種の固有名詞と考えれば分かりやすいだろう。
 「主体思想」の意味は一般の人々によく誤解されるように、「人民」がそれぞれ個の主体をもって、ということでは決してない。集団としての「主体」の意味で使われている。「自主」や「主体」という同じ言葉を使いながらも、その意味は通常の日本語の意味とはまったく正反対の、異なる言葉として使われている。つまり、意志(主体)を待った集団こそが必要だ、ということだろう。そこでイメージされているのは「ひとつの(ひとりの首領の)思想を集団(国民)の意志とする」ということである。個の「主体」や「思想」などは害悪にすぎないし、集団の統率と団結を乱すものだ、と。この思想こそが“「主体」思想”と名づけられたものの内容である。
 だとすれば、彼らが「主体」をなのり「自主」を言うためには彼ら自身が一分の口実も疑問も持たず“首領の思想”に同化し得てはじめて可能になる。そのことが必然的に求められる。これが可能になってはじめて“首領の「主体」”は、同時に彼らの「主体」でもあった。
 そこで導き出されるのがまさに「無条件性」という言葉の意味だった。自らの「主体」と“首領の「主体」”の意味するものが同じであれば、そこに条件をつける必要がなくなるからである。いいかえれば「無条件」に受け入れることが可能になる。
 このことが金日成主義における「無条件性」と「忠誠」の意味だった。それゆえ彼らの“忠誠心”は、“首領”と同化するエクスタシーの表現であったように思われる。「ああ、父なる首領様! 万年長寿なさいませ! われらは父なる首領の愛のなか 忠誠のひと道 進みます!」  そして、そんなふうに考えてくると(『十大原則』にもみられるように)どうやらこれは“社会主義”でもなんでもないもののようである。比較できるものがあるとすれば戦前天皇制の換骨奪胎というべきだろう。実際、日本を金日成思想(=主体思想)一色にするという彼らの企てからすれば、戦前の日本のように、あるいは現在の北朝鮮のように、家庭の各部屋ごとに“御真影”を掲げることが義務づけられることにもなろう。額縁の中の“御真影”はそのとき、もちろん金日成と金正日に替えられている。この企ては出来の悪い近未来小説の読後のようにわたしを消化不良にさせるが、彼らが北朝鮮国家を後ろ盾に、生真面目な面持ちで対日「主体思想」化工作を考えはじめたという事実の前で思わず戸惑いと身震いを禁じ得ない。
 こうした「主体思想」のもっとも高度な思想的表現としてよく例にあげられるのが、数万人規模で演じられるマスーゲームである。少年少女たちは一糸乱れぬ統率のとれた行動で“偉大なる首領”への賛辞と忠誠を謳いあげる。たしかに見事というほかはなかった。いつだったか、モランボン・スタジアムで演じられる少年少女たちのマス・ゲームを観ていた訪朝団のメンバーが、子どもたちの掲げる色板でつくられる背景画をしばらくのあいだ電光掲示板と勘違いしていた、という笑えぬ話もあった・・・。


P481(「思想対立」の一部)  思想対立から、岡本夫妻は別々にして「日本人村」から招待所に移され、「総括」作業と党の指導員による思想再教育が始められた。 岡本武はその後漁船で脱北を試みるが巡視艇に見つかり連れ戻され収容所に入れられたという。

 岡本は鬱々とした日々を《村》で過ごしていた。
 ある日、そんな岡本の日常を咎めたメンバーの一人と口論になった。つかみ合いから、殴り合いになり、岡本は手もとにあったビール瓶をたたき割って格闘しようとした。あわてて駆けつけたほかのメンバーたちに岡本は、その場であっけなく取り押さえられた。
 岡本の顔は血と涙でどろどろになっていた。岡本は泣いていた。
 仲間たちは、岡本をロープで縛った。抵抗するすべを失った岡本は、そのまま地面にしば らく放置された。トイレに行くことを要求した岡本に対しても、ロープがほどかれることはなかった。
 岡本の妻は、ちょうどそのとき《村》にいた。彼女は見かねて止めに入った。仲間の仕打ちに対して抗議の声もあげた。
 こうしたとき糾弾されている人間を擁護することは、擁護した人間も相手からは同罪と見なされる。それは妻でも同じである。現在の北朝鮮社会では、夫婦であっても“もっとも近い同志”と呼び慣わされるように、人間的関係よりも政治的関係がつねに優先される。妻であることよりも政治的な関係で同志として発言するのでなければ、妻は自分の政治的生命(この言葉が日本で語られる“政治生命”と同じ意味ではないことはすでにみてきた)を喪失する。
 彼らは、岡本の妻をやはりロープで縛った。
 岡本を擁護したことだけに止まらず、もうひとつの理由が加わった。岡本をそんなふうにそそのかしたのは、妻の責任ではないか、というのがその理由だった。金日成主義の原則はこんなところにも顔をだす。成功すれば“首領”のおかげ、失敗すれば自己のいたらなさ、という例のあの考え方である。夫婦間ではこの原則は次のように翻訳される。成功は主人(男性)がしっかりしていたから、失敗や悪いことはすべて妻(女性)のせい、いたらなさ、という具合にである。北朝鮮の日常社会に広く浸透している儒教的思考である。気丈だった岡本の妻は、やはりしばらく抵抗したが、もはや言い訳も言葉も通じることがなかった。
 「岡本には狂気が宿っていた」と、メンバーのひとりが近年言ったが、狂気が宿っていたのはむしろほかの仲間の方だった。「逃げたら困る」と、仲間のひとりが言った。その言葉を受けて、岡本のロープは、その場で締め直された。最後には、グルグル巻きに なっていた。
 「こんな親と一緒にいたら、子どもたちにもよくない!」と、言い放ったのは妻たちのひとりだった。その意見で子どもたちは親から引き離された。このとき岡本のふたりの子どもたちは、ま だ五つか六つになったばかりの幼女だった。
 岡本は仲間から隔離された。ロープで縛られた岡本武は仲間たちの手によって引き立てられて行ったのである。子どもたちから引き離された岡本夫妻は労働党の手に委ねられた。指導員の運転する車に、縛られたまま乗せられた彼らは《村》から別の場所に移された。主を失った岡本夫妻の部屋からは、切り刻まれた田宮の写真と、「よど号」のメンバーたちを糾弾する落書きが見つかった、という。

 
P499(「海上への脱出」の終わり部分)
 岡本武の事件とそれをめぐる一連の問題は、ようやく秘密のベールを剥がされ、明るみに出つつあった。そのもうひとつ裏側に隠された真実、「妻」の存在が明らかにされるまでは、である。「妻」の存在が明らかになると同時に、彼らはふたたび「事実」を捏造し事態の収拾に狂奔しはじめた。
 国内から「拉致」された失踪女性、福留貴美子さんが岡本の「妻」であったという事実は、「よど号」と北朝鮮がこれまで積みあげてきた虚構のストーリーが、ここにきて明白に破綻したことを意味していた。


P510 (「破綻した虚構」の一部) 

 「よど号」グループと国内の支援者たちは、岡本夫妻の問題について彼ら自ら「最近も岡本とは会った」とか「北朝鮮の女性と結婚して幸せに暮らしている」と宣伝しつづけてきたことに、現在も、何ら説明も釈明もしていない。しかし、岡本の「妻」が北朝鮮の女性ではなく、国内から「拉致」された女性であったことはすでに明白な事実となった。また死亡説に至っても事故を1988年としつつ、このときまで8年間にわたって家族にも支援者にも伝えてこなかった理由については説明をしていない。
 「よど号」グループ(自主革命党)がこれまでに語りつづけたいくつもの虚構の物語は、すでに破綻した。これまでの例でも、結婚を否定しつづけたこと、妻子の存在が明らかになってからは一転してヨーロッパでの「革命的・運命的な出会い」とウェディング・ストーリーの創作、岡本の北朝鮮女性との結婚説、そして朝鮮帰化説、ヨーロッパ「拉致」工作の偽装、子どもたちの「人道」を理由にした帰国問題の訴えと実際の不履行、いずれもすべて彼らの語ってきたことは虚構の政治的言辞にすぎなかったことが明らかになっている。しかし、彼らはこうした《嘘》を語ることそのものが政治的な活動だと信じ、「革命」のためだと信じ、正しいことをやっていると信じ、いまも信じつづける。これでは、彼らの語る「革命」もまた《嘘》で塗り固められた「革命」に過ぎない、ということにしかならないだろう。
 
「よど号」のハイジャック事件が起きてから、すでに30年近い歳月が流れた。異貌の思想の徒なった彼らの《嘘》が、ひどく虚しく、ひどぐ悲しい。
 そして、こうして見てくると岡本武が国内に送ってきた唐突な内容の手紙、北朝鮮の女性と結婚し幸せに暮らしております、という文面の手紙ももはや彼が自発的に書いたものとは、とても考えられないだろう。岡本は何らかの方法で、あのような文面の手紙を書くことを強要された。それも生半可なやり方ではなかったはずだ。このことを考える上ではかつてレバノンから北朝鮮に拉致された女性たちのケースが参考になる。彼女たちは家族に自分たちの無事を伝える電話を、銃を突きつけられた状態でかけさせられている。これはレバノン政府の抗議のあと解放された彼女たちが証言していることだ。岡本の場合も似たような事情がなかったとは言えないだろう。あるいは妻子の命と引き替えに強要を受けたということも考えられる。手紙による偽装工作はヨーロッパから「拉致」した留学生の場合と同じだが岡本の場合には《騙し》が利かなかったことだけは確かだからである。
 ところで最近(1998)、岡本武問題について朝鮮労働党筋からある情報が非公式に伝わってきている。日本のマスコミでこの問題が取り上げられて以降、初めての反応だろう。
 「『よど号』メンバーの事件については、労働党は一切関与していない。彼らの扱いについては彼らの自主的なやり方にまかせており、『よど号』メンバーの行動について党が干渉したことはこれまでにも一度もない。メンバーのひとり、岡本の問題も彼ら『よど号』の組織内部で起こった問題であって、彼らが直接、手を下したものである。実際のところこれまで彼らの世話をみてきた労働党としても、こうした彼らの行動については大変に迷惑をしている」
  コメントは差し控える。


P663(「黙契」の一部)  岡本武さんは1980年代後半に上記のようになったが、吉田金太郎さんはもっと早い段階(最後に写真で確認されたのは1973年だとのこと)で、一人よど号メンバーの中から別にされたのだそうです・・・。

 吉田金太郎は、孤立無援だった。
 このあとに何が起こったのか、それはその場に居合わせた人間にしか分からないことである。ある日、吉田金太郎の姿が忽然と《村》から消えた。このとき彼らの《革命村》で、何かが、語ることのできない異変が起きたのである。彼らがそのとき、その、何ごとかに積極的に加担したのか、そうではなかったのかは分からない。分かることは、その日を境にして吉田金太郎の姿は《村》から消え、「よど号」の組織にある強固な禁忌が存在するようにな った、ということだけである。
 この事件は、ほかのハイジャツカーたちの気持ちの深層にも暗い影を投げかけた。空洞のような虚しさと、断崖のような恐怖をまざまざと見せつけたことである。「……だんだんむ なしくなってきた。……われわれは一体なんのために闘ってきたのか、自分の存在理由がすべて崩壊してしまうような気がした。……」。思想改造のプロセス(第6章「思想改造」)で彼らが思い知らされたとする虚しさは、この事件を体験してからの感慨であっだろう。彼らは我先に金日成讃美とチュチェ思想讃美に、雪崩をうって身を投じていった。8人の思想改造の全き完結のためには、ひとりの不運なスケープ・ゴートが必要とされたのである。一方での贅沢な暮らしと特権、それと、この無残なスケープ・ゴートの構造は、使い古された 「飴と鞭」という言葉を、わたしに思い起こさせる。
 そして、この事件を黙契として共有したときから、彼らは引き返すことのできない“チュ チェの戦士”の途を歩み始めることになった。
 秘められつづけたこの事件の真相こそが、彼らが“金の卵”から“チュチェの戦士”へ完璧な転生をなし遂げた秘密だった。そして、この秘密を黙契とすることによってのみ、彼ら はいまも“首領様”の選ばれた戦士でありつづける。

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