父の謝罪碑を撤去します

日本国と日本国民を貶め被害を与えた「慰安婦問題」の発端になったと言える吉田清治とそれを利用した勢力の暗躍について、知っておくことは大切だと思う。

父の謝罪碑を撤去します

 ペテン師のウソ話が一国を追い詰めることがあるんだな・・・。
「従軍慰安婦問題」とは、「売春婦を制奴隷に仕立てて、日本国から金を取り、日本を貶めようとする詐欺事件だった。」と言っても良いと思います。

 吉田清治のウソ話を朝日新聞が煽ったことによってこの問題が起こったのだと思うが、この本を読むと役者はそれだけではないことが分かる。
 本書の「慰安婦問題でつなかっている」では「旧社会党と北朝鮮、旧社会党と挺対協、挺対協と北朝鮮、挺対協と朝対委は慰安婦問題でつながっている」と解説しています。
 さらに、つながっているのは組織だけではなく、サハリン問題と徴用工問題と慰安婦問題も繋がっていた・・・。

 この「父の謝罪碑を撤去します」は、とても勉強になりました。

 大高未貴さんの「父の謝罪碑を撤去します」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。吉田清治とそれを利用した勢力の繋がりを示す部分を紹介したかったので、多めになってしまいましたが・・・。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

父の謝罪碑を撤去します 大高未貴



目次

 プロローグ「父の謝罪碑を撤去します」  

 第一章 終わらせる
韓国警察から電話が / 朝目のお説に従って「取り消し」 / 「地獄の韓国」へ / 独立記念館の虚偽模 / 「謝罪碑」に「慰安婦」の文字がない / 碑文を書き換える / 書き換えの権限 / 「慰霊碑 吉田雄兎」 / 「謝罪碑」が「慰霊碑」に

 第二章 父・吉田清治
止まらない日本バッシング / 吉田清治とは何者か / 謎の生い立ち / 「李禎郁」を養子に / 吉田清治の戦後 / 懸賞マニア / 長男次男のソ連留学

 第三章 「語り部」にされた男
公安警察と吉田家 / 土下座事件 / 全駐労と元朝鮮人 / 「ヒントを出した」 / 慰安婦問題の「語り部」誕生 / 「父は済州島には行ってない」  / 使われなくなった / 寂しき晩年

 第四章 社会党、挺対協、北朝鮮
「従軍慰安婦」に騙された / 尹貞玉氏の豹変 / 土井たか子氏の秘書が札束を / 91年から92年に何か起こったか / 親北、挺対協と一心同体の議員 /戸塚悦朗氏を国連に送り込んだ / 挺対協と朝対委 / 慰安婦問題と北側鮮 / 尹貞玉氏も金学順氏も北出身 / 慰安婦問題でつながっている

 第五章 誰が「吉田清治」をつくったか
吉田証言の役割 / 吉田清治氏を参考人要請 / 「女子挺身隊の名で」 / 朝日の戦後補償キャンペーン / 朝日と挺対協、北朝鮮 / 慰安婦問題の原点はサハリン問題 / 朝日が「取り消せない」という記事 / 大根役者

 エピローグ リアリズム

 あとがき

 慰安婦問題の主な経緯


「父は済州島には行ってない」 P99

 その頃、長男は東洋共同海運を辞めて、新橋にある翻訳会社に勤めていた。 住民票も東京に移し、父とともに東京都文京区に越してきた。
 その長男が衝撃的な証言をする。
 「父は済州島には行っていません。それは父から聞いています。それで父は、済州島の地 図を見ながら、原稿用紙に原稿を書いていました」。

 ではなぜあれほど克明に書けたのか。
 「材料はなかったはずです。ですからそれは、出版社や周りにいた人たちに発言をしてい ただきたいんです」


土井たか子氏の秘書が札束を P115

  東丘さんは、いまになって冷静に考えれば、尹氏には不可解な行動があったという。
 「あれは確か1991年、衆議院議員会館の1階の応接室で、尹氏と私、大杉実生氏(元政治家の秘書で東丘さんの署名活動に協力していた)と3人で、打ち合わせをしていた時のこと、いきなり土井たか子氏の秘書の女性が現れ、我々の目の前で尹氏に、”いつものです。活動費に使ってくたさい”と封筒に入った札束を渡したのです。 5万や10万の薄っぺらいものではなく、厚みがあったのでおそらく数十万から数百万円単位だったと思います。 尹氏はその札束を領収証を書くわけでもなく、手慣れた手つきで、スムーズにカバンにし まったのです」。
 その揚に居合わせた大杉氏もこう証言する。
 「その様子を見て現金の授受は初めてではないことがわかりました。もし初めてなら”いえいえ、このようなものはいただけません”とか何らかのリアクションがあってしかるべ きでしょう。それに土井たか子氏の秘書もずいぶん杜撰というか脇が甘いという印象を受けました。そういった領収証を切らない大金の受け渡しを第三者の前でしますかね?」
 東丘さんは前述のもののほかにも、尹氏からの手紙を何通か見せてくれた。ここでは尹氏の態度が豹変した直後に書かれた手紙の一部を紹介する。
〈この度は成田までお出迎い下さりまことに有難とうございました。でも東丘さんが計画 なさったのに私が14目の夕方一緒にできなくてほんとうに申し訳ございません。清水議員と本岡議員とお会いしなければなりませんでしたので、この方達との約束を東丘さんに前もって私がお知せしなかったので14日にはまことに失礼いたしました。〉
 ここに書かれている清水議員と本岡議員とは、おそらく旧社会党の議員で清水澄子氏、 本岡昭次氏だろう。
 手紙は次のように締めくくられている。
〈挺対協では東丘さんのこれまでの協力をあつく感謝いたしております。日本政府が元従 軍慰安婦の方達の生活基金を設けるとの話が報道されてから、私達はこれに対して反対す ることを日本政府に公開書簡で表明しました。それで韓国内で私達が従軍慰安婦の方達の 生活は責任もつことにし募金運動に手をだしています。  募金をするとき、署名も一緒に戴くことになっています。
 日本の署名はすでに立派な成績ですから、これからはストップなさって戴きとうござい ます。これまでもあまりにお世話になっておりますので。
 もう一度、成田までお出迎い下さって、有難とうございました。そして東丘さんの計画 を狂わせたことに対しておわび申します。では、お元気で。 1992・10・22 尹貞玉〉
 つまり、1991年(平成3)年11月に東丘さんが尹氏に会った時から、1992(平成4)年10月の再会までの間に、何らかの理由で、募金も署名も必要なくなった。受け取ってはならなくなった。
 あるいは、91年11月に会った後、92年1月9日には署名紙を同封した手紙が送ら れてきていることを考えると、92年1月から92年10月までの間に何かが起こり、募金や署名が必要なくなったということだ。


慰安婦問題でつなかっている P134

 これまで見てきたように、旧社会党と北朝鮮、旧社会党と挺対協、挺対協と北朝鮮、挺対協と朝対委は慰安婦問題でつながっている。なぜ彼らは慰安婦問題でつながっているのか。
 1991(平成3)から92年にかけて、東丘さんが巻き込まれた尹氏の“豹変”が起こったこの時、共産陣営は大きく揺らいでいた。1989年11月にはベルリンの壁、91年12月にはソ連が崩壊した。共産主義国家の親玉が倒れていく中で、北朝鮮と社会党は何を思ったのか。
 社会党はソ連共産党から多額の資分援助を受けていたことが判明しているが、その援助は当然ながら受けられなくなっただろう。
 東丘さんの言う“日本国家の謝罪”が欲しい、つまり国家補償を取りにいくということで、旧1社会党、挺対協、北朝鮮、朝対委の思惑は一致している。国家補償こそが「尹氏の豹変」の理由だと推測する。
 国家補償をもぎ取るためには、中途半端に日本人の寄付を受け取ってはならず、寄付を受け取らないのなら署名は必要ないというわけだ。 1991年11月、前述した社会党のシンポジウムに参加した尹氏の次の言葉は、いみじくもその理由を明かしているようだ。
 尹氏はアジアの平和における問題点について、半島の「分断」を指摘し、〈韓半島は統一せねばならないのだ、そしてその分断の責任は日本にあるのだという考え方で「アジアの平和と女性の役割」の第1回のセミナーが東京で今年5月に開かれました〉と発言している(前掲書『日本の戦後責任と従車慰安婦問題』)
 東丘さんも指摘したように、挺対協を中心につながる彼らの行動は「慰安婦」の存在などそっちのけで、ともかく日本を押さえつけ、日本国家の謝罪、国家補償を取ることこそが重要なのである。事実、挺対協は東丘さんへの手紙に書いているように生活基金に反対していた。また、アジア女性基金の受け取りについても反対したのである。
 日本の活動団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会「ハッキリ会」代表の臼杵敬子氏は、1997年7月から99年9月まで韓国政府から入国禁止の措置をとられた。これについて同会はホームページ上で次のように述べている。
 〈この措置は、韓国・挺身隊問題対策協議会(挺対協)が韓国政府に対して申し入れしたことを契機にとられていた。同年1月、アジア女性基金が韓国の元「慰安婦」に「償い金」などを届けるにあたって、介在し誘導したとして挺対協が「入国禁止」に動いた〉
 また、臼杵氏は、「『基金』受け取り7人を差別した韓国『市民連帯』の人権感覚を疑う」(「ハッキリニュース」No55 1997年6月1日)とも批判。
〈1月以降、7人のところに押し寄せ「いくら受け取った?」「通帳を見せろ!」といった脅迫的な言動に始まり、一方で受取拒否するハルモニたちは政府の生活援助金を7人に対し打ち切るように働きかけた(挺身隊問題対策活動便り11号)(中略)
 「日本からの汚れた金を受け取れば、本当の娼婦になる。7人は娼婦だ!」とまで侮蔑され、金田さんらは怒りの気持ちを電話口の向こうでこの間何度も訴えた。あらゆる活動、行事から7人を疎外する韓国運動体の制裁は、被害当事者の人権を無視した行動で「慰安婦」被害者をさらなる被害者とするものだ〉
 これが「慰安婦問題」の実態なのだ。


 吉田証言の役割 P140

 ここで吉田証言に話を戻す。
 先の1991(平成2年)年から92(平成3年)にかけての出来事、挺対協や北朝鮮の動きに朝日新聞の記事を加えると、次のような経緯になる。
・1990(平成2年)年
11月16日 韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協、尹貞玉代表)結成
・1991(平成3)年
5月22日 朝日「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 木剣ふるい無理やり動員」(吉田証言、取消記事)
5月31日 東京のシンポジウムで北朝鮮側が挺対協に共闘を打診
8月11日 朝日新聞の植村降記者が「元慰安婦」の証言をソウル発で報告
8月14日 「元慰安婦」金学順氏が名乗り出て実名で証言
10月10日 朝日「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 乳飲み子から母引き裂いた」  (吉田証言、取消記事)
12月6日 「元慰安婦」3人らが日本政府を相手に補償や謝罪を求めて東京地裁に提訴
12月10日 韓国政府が日本政府に慰安婦問題の実態究明を求める
・1992(平成4)年
1月 挺対協が在韓日本大使館前で「水曜デモ」を開始。日朝国交正常化交渉で北朝鮮側が慰安婦問題に初言及
1月11日 朝日朝刊1面「慰安所 軍関与示す資料」報道。吉見義明中央大学教授が防衛庁防衛研究所図書館で発見した資料
1月13日 加藤紘一官房長官が慰安婦の募集などに日本軍の関与があったとして謝罪
1月16日から18日 宮澤喜一首相が訪韓。盧泰愚大統領との首脳会談で8回謝罪
1月22日 挺対協が国連人権委員会に提訴の方針を発表
1月23日 朝日「窓 論説委員室から 従軍慰安婦」(吉田証言、取消記事)
2月20日 南北首相級会談で慰安婦問題について北朝鮮が韓国との共同対処を提唱
2月 戸塚悦朗弁護士が国連人権委員会で慰安婦問題を提起。慰安婦を「性奴隷」と主張
3月3日 朝日「窓 論説委員室から 歴史のために」(吉田証言、取消記事)
4月30日 現代史家・秦郁彦氏が韓国・済州島での取材に基づき、産経新聞で吉田清治氏の「慰安婦狩り」証言に疑問を提起
5月24日 朝日「今こそ 自ら謝りたい 連行の証言者、7月訪韓」(吉田証言、取消記事)
7月6日 政府が慰安所の設置・運営などについての調査結果を発表、経営・監督・衛生管理などで政府の関与を認めたが強制連行は認めず。補償に代わる新たな措置を検訂と表明
8月 北朝鮮で朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会(朝対委)が発足
8月13日 朝日「元慰安婦に謝罪 ソウルで吉田さん」(吉田証言、取消記事)
・1993(平成五)年
8月4日 河野談話(宮澤内閣 官房長官談話)
 じつに「いい感じ」で吉田証言が使われていることがわかる。
 慰安婦問題が政治問題化し、“補償”が検討されるようになったわけだから吉田証言様々だが、いかに吉田証言が影響力を持っていたか、その一端を次に見ていく。


吉田清治氏を参考人要請 P143

 先に紹介した旧社会党の議員、清水澄子氏、本岡昭次氏は、共に国会で吉田証言を取り 上げている。
 清水氏は、平成2(1990)年12月18目の参議院外務委員会において政府答弁に 対して次のような質問を行っている。政府答弁は軍も国家も慰安婦には関係がなく、慰安 婦は民間業者が連れてきたというものだ。
〈従軍慰安婦という、強制連行の中で女子挺身隊として強制連行された朝鮮の女性たちの問題は国家も軍も関与していなかったという、それをそのままお認めになるわけですね〉
 清水氏は、いわゆる「従車慰安婦」について「女子挺身隊として強制連行された朝鮮の女性たち」と述べている。これについては朝日新聞が記事を取り消し、誤報を認めたのはご存じの通りだ。
 さらに清水氏は、平成4(1992)年3月21日には予算委貝会の参考人として吉田清治氏の出席を要請してこう述べている。
〈私はきょう、朝鮮女性を強制的に駆り出す役割を果たした元山口県労務報国会動員部長だった方を、こちらでその実態をお聞きしたいと思って参考人として要請しましたけれども、それが実現しなかったことは非常に残念です〉
〈きょう参考人としてお願いをした元山口県労務報国会動員部長の吉田清治さんなどは、本当に非常に具体的な体験を持っていらっしゃるわけです。(中略)ですから、そういう実際に体験した方から事実関係のヒアリングを私は積極的に行っていく、そういう姿勢がなければ本当の実態は解明できないと思うわけです〉
 加害者として名乗り出た吉田清治氏の証言がいかに慰安婦問題にとって重要だったかがわかる。
 一方、本岡氏は平成3(1991)年4月1日の参議院予算委員会において、尹貞玉氏について次のように述べている。
〈本岡 その女子挺身隊に朝鮮人女子挺身隊というふうなものがありましたか。 政府委員 私ども、そのような名称は聞いておりません。 本岡 今、韓国の梨花女子大学の教諭であります尹貞玉さんという方がこういう一文を残されております。現在生きておられますが。
 1944年12月、梨花女子専門学校1年の時、南北朝鮮半島全土の各地で、未婚の若い女性を手当り次第に挺身隊に狩り出す惨たらしい出来事が繰り広げられた。このことで、多くの学生が結婚を急ぎ、退学し始めると、慌てた学校当局は「学校が責任をもって言う。あなた方には絶対そのようなことはない」と公言した。
 しかし、しばらく後、私たちは国民総動員令を応じるという書式に捺印しなければならなかった。
 私は父母の言葉に従い学校を退学し、挺身隊を免れたが、その頃、私と同世代の多くの女たちが、日帝によって狩り出されていったのだ。
 こういう文書もあるんですが、本当になかったんですか〉
 これについて政府委員は、調査をし、動員業務を担当した厚生省の勤労局や国民勤労動員署に当時、勤務をしていた人から事情を聴取したが、両者ともに朝鮮人従軍慰安婦という問題にはまったく関与していなかったということだと述べた。
 調査をしても事実がないという政府委員に対して本岡氏はこう述べている。
〈関与していなかったということと、その実態があったのかどうかというのは別問題なんですよ。私は女子挺身隊というものの実態は何であったのかということを改めて調査を要求します〉
〈政府が関与し軍がかかわって、女子挺身隊という名前によって朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だというふうに思います。その裏づけができないので、今ああして逃げているわけでありますけれども、やがてこの事実が明らかになったときにどうするかということを思うと、本当に背筋が寒くなる思いがするわけでございます〉   


慰安婦問題の原点はサハリン問題 P155

  じつは慰安婦問題の前には、樺太残留韓国人帰還請求裁判(1957年から1989年、通称「サハリン訴訟」)があった
 平成27年に、「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか 帰還運動にかけたある夫婦の40年」(1997年、草思社)の著者、新井佐和子さんに取材させて頂いた。新井さん は元サハリン再開支援会代表で樺太残留韓国人問題に詳しい。
 日韓合意がなされた平成27年末、私の電話に新井さんは、次のような悲痛な声を挙げた。
 「こんな理不尽な合意、私は死ぬに死ねません。なぜ日本政府は同じ過ちを繰り返すので しょうか。10億円は外務省の無為無策を糊塗するためのものでしょうか。我々の先人と 子孫の名誉と尊厳も踏みにじったまま…」
 新井さんの指摘を整理すると、樺太残留韓国人帰還請求裁判終結の2年後、91年に突 如として慰安婦訴訟が始まる。日本政府は樺太残留韓国人帰還問題で約80億円以上(本来、日本政府が支払う義務はない)、慰安婦問題のアジア女性基金では設立から解散までの問に外務省の概算によると約48億円も国庫から拠出した。国民からの浄財は約6億円だ。
 平成17年、神本美恵子議員は、参議院の決算委員会でアジア女性基金について、17 年の時点で日本政府の拠出が合計41億円にもなるが、「実際にその方たち(編集註/元慰安婦)に渡っているお金は10億ちょっとしかない」と指摘している。いったい残り 30億はどこへ消えたのか。さらに神本議貝は、「平成15年度には4億4500万の前年度繰越金があるにもかかわらず、2億9300万円の国庫補助金が出ている」と不可解な基金の状況について疑問を呈している。
 ちなみに新井さんの取材によれば、「サハリン支援金」はいまだに払い続けており、2017年度は1億1100万円だという(16年度は1億1000万円)。毎年定期的に予算を付けるお役所仕事に呆れるしかない。
 ともかく、樺太・慰安婦問題では莫大なカネが動いた。
 「これでは戦後補償産業ですよ」と新井さんは憤る。
 また新井さんは次のようにも指摘した。
 「慰安婦問題は仕組まれたものです。日本政府から国家補償を引き出すため、サハリン訴 訟に関係した面々が、次の題材として慰安婦問題を用意したのです
 なるほど、昭和57(1982)年9月2目の朝日新聞「朝鮮の女性 私も連行 暴行加え無理やり」(取消記事)という吉田清治氏の証言は、樺太残留韓国人帰還請求裁判の真っ直中に報じられたものだ。そして清治氏は昭和57年9月と11月に樺太裁判で証言した
 昭和57年9月30日、清治氏は樺太我判の法廷に出廷し、「済州島へ行って204人 の若い女性を連行し、サハリンにも送った」と証言しているのだ。
 朝日新聞の「たった一人の謝罪」(昭和58年12月24目、取消記事)には、本書冒頭で触れたように吉田清治氏の写真と共に「サハリン残留韓国人の遺家族を前に土下座する吉田清治さん=韓国忠清南道大安巾の望郷の丘で清田特派員写す」とキャプションがついてい る。
 つまり、慰安婦問題の原点はサハリン問題に通底しているということだ。
 今回、清治氏の長男が書き換えた碑だが、もとの「謝罪碑」に「慰安婦」の文字がない理由もこのあたりにあるのではないか。まだサハリン訴訟は終わっておらず、清治氏の当時の”役割”は「強制連行」について証言、謝罪することだったのだろう。
 サハリン訴訟は高水健一弁護士が原告弁護団事務局長となって日本政府を相手に起こされた。弁護団は「日本は4万3000人もの朝鮮人をサハリンに強制連行し、戦後、朝鮮人だけを置き去りにした。この責任を目本政府はとるべきだ」と主張した。本来、この問題は日ソ不可侵条約を破って樺太を占領したソ連、そして南北に分断された朝鮮半島の複雑な事情が絡む問題であり、日本の責任は問えない。  戦中・戦後の複雑な事情を棚上げし、日本の戦後補償問題を追及する訴訟だった。
 前出の三一書房の三角氏は、「うちで吉田さんの本を出した後、高木弁護士から”吉田さんを紹介して欲しい”と連絡があり、私か両者を引き合わせました」という。つまり清治氏は高本弁護士の目にとまり、まず、サハリン訴訟にかりだされたというわけだ。


朝日が「取り消せない」という記事 P159p

 朝日新聞が「取り消せないので断りを入れる」としている記事がある。
 「朝鮮人こうして連行 樺大裁判で体験を証言」(朝日新聞、昭和57年10月1日)だ。
 朝日新聞社によるとこの記事は、
〈東京地裁に証人として出廷した。吉田氏が朝鮮人の連行に加わったとの証言を採録し、「朝鮮人徴用業務に直接携わった「労務報国会」の元幹部が初めて証人として出廷、「朝鮮人狩り出し」と呼んでいた強制連行の実態を証言した」などと記しています。
 これまでの取材から、吉田氏の証言に信用性はなく虚偽と考えられます。ただ、裁判という司法手続きでの証言の内容は取り消しや訂正になじまないと考え、この記事にはデータベース上で「吉田氏の証言に信用性はなく、虚偽だと考えられます」とのおことわりを つけます〉
 ということらしい。
 この記事は次のように報じられたものだ。朝日が担ったサハリン訴訟での、”役割”を理解するために全文を引く。
〈朝鮮人こうして連行「樺太裁判」で体験を証言  「壮年男子根こそぎ 集落包囲、殴りつけ」元徴用隊幹部  「あらかじめ朝鮮人の集落を包囲し、一挙に襲い、殴りながら男たちを連行した」―第2次大戦中、日本の手で朝鮮半島から樺太(サハリン)へ強制連行されたまま同地に取り残されている朝鮮人が、わが国を相手に帰還を求めている「樺太裁判」で30日、朝鮮人徴用業務に直接携わった「労務報国会」の元幹部が初めて証人として出廷、「朝鮮人狩り出し」と呼んでいた強制連行の実態を証言した。
 この裁判は、樺太へ強制連行され、終戦後は「日本国籍を失った」との理由で40年近く取り残されている多数の朝鮮人のうち4人が、日本弁護士連合会などの協力を得て50年に提訴、東京地裁民事3部(泉徳治裁判長)での口頭弁論はすでに37回を数えている。
 この日証言に立ったのは、東京都文京区千石4丁目、著述業吉田清治さん(68)。吉田さんは昭和17年から20年にかけて「山口県労務報国会」と「同会下関支部」の動員部長の任にあった。 証言によると、17年の同会の設立は、現職の各警察署長が支部長となり、警察主導で行われた。当初は内地の徴用が任務だったが、県内からの「狩り出し」が底をついたため、朝鮮半島からの強制連行が始まり、18年夏から20年2月ごろまでにかけ、毎月のように続いた。陸軍命令の形で、そのつど軍の尉官と吉田さんたちが地図上で対象地を決定。あらかじめ軍用電話で朝鮮の現地部隊に協力要請をし、県内各支部が回り持ちで10~15人の「徴用隊」を編成、朝鮮現地へ派遣した。
 到着するとまず現地警察の特高課員と「狩り出し」計画を練った。目ざす村の周辺を同行の警官隊が完全包囲した後、木剣や木刀を待った徴用隊員が数班に分かれて駆け込んだ。 木刀で殴りつけ、「コラ、表に出ろ」と、男を全員道路にたたき出した。その中から20~40歳に見える男だけをホロでおおったトラックに乗せ、着のみ着のままで連行した。
 この男たちは留置場か刑務所へ収容して名簿を作成、まとまったところで監視つきの列車、関釜連絡船で下関へ護送してきた。これが徴用の実態だった。吉田さんが指揮した限りでも、こうして推定六千人弱を「労務動員」した。慶尚南、北道、全羅南、北道の四道からか主で、ほとんどが農民だった。吉田さんは19年秋に県知事表彰を受けたという。
 吉田さんの証言は、次回11月30日も午後1時から、同部で続けられる。
 吉田さんがこうした経験を公に語り始めたのは7、8年前から。その動機については、「もっと早く言うべきだった。だが保身やひきょうさから、30年間隠してきた、それだけです」と語っている〉
 これはもちろん、虚偽である。しかし、サハリン訴訟でもいまだに巨額のカネが支払われているのだ。
 サハリン訴訟から慰安婦訴訟の流れをこのように見ていくと、吉田清治氏の証言が見事にはまったというほかない。清治氏は、「日本国家の謝罪」「国家補償」を求める者たちの 大きな流れの中に巻き込まれてしまったようにも見える。


あとがき

 この原稿を書き終えたとき、こんなニユースが飛び込んできた。
〈韓国の市民団体がソウルの日本大使館前に違法に設置された慰安婦像の横に、日本の朝鮮半島統治時代に「強制された」という徴用工の像を設置する計画を進めている。(中略)
 韓国では釜山でも、日本総領事館前に違法設置された慰安婦像に加え、来年5月の設置を目指して徴用工像を設置する計画が労働組合によって検討、進められている。こちらは日本政府に謝罪と賠償を求めるのが目的という〉(産経新聞、2017年4月27日)
 徴用工像(「強制徴用」)のニユースに、とっさに清治氏の長男のことが頭をよぎり、感想を聞こうと電話を手にしたのだが、発信ボタンを押せなかった。
 長男はやるだけのことをやったのだ。
 彼が「望郷の丘」から「強制連行」にまつわる虚偽の原点を消し去ったいま、これ以上、何を長男に聞けばいいというのだろう……。
 ところが以心伝心とはよくいったもので、タイミングよく長男の方から電話をくれた。
 「どうやら書き換えた父の慰霊碑が黒いビニールシートで覆われてしまい、文面がまった く読めない状態になっているそうです」―それは本当ですか!?。 誰がそんなことをしたのでしょう?。望郷の丘の管理事務所 でしょうか?。
 「さあ……詳しいことはわかりませんが、韓国政府の判断なのだとしたら、私は韓国政府に感謝します。朝日新聞に虚偽と認定された父の証言を、韓国政府自らの手で黒いビニー ルで梱包し、この世から葬り去ってくれたわけですから……。慰安婦像を含め、虚偽の建造物の撤去は手間暇かかりますけど、黒いビニール袋で梱包するのは簡単だからいいアイデアだと思います」
 平成29(2017)年5月9日、韓国大統領選で、「共に民主党」の文在寅氏が新大統領に決まった。文在寅氏は慰安婦問題に関して「日本には慰安婦合意は間違いだったと堂々という!」と発言。日韓合意の見直しを主張している。
 さらに、左派である文在寅氏は、「強制徴用」の歴史カードを日本に突きつけてくることは容易に予想がつく。
 ここで「強制徴用」について、かつて朝鮮総連に属したノンフィクション作家、金賛汀氏の興味深い指摘を紹介する。戦後に発足した朝連(=在日本朝鮮人連盟 後の朝鮮総連。日本共産党の別働部隊といっても過言ではない)の豊富な資金源についてだ。
〈最大の財源になったのは帰還していく強制労働者の未払い賃金等であった。 1946年末までに朝連中央労働部長名で強制連行者を雇用していた日本の各企業に未払い賃金の請求が出された。その請求額は4,366万円(註5)に達し、朝連はかなりの金額を企業から徴収し、それらのほとんどは強制連行者の手には渡らず朝連の活動資金に廻された〉(『朝鮮総連』金賛汀著、新潮新書)
 歴史認識をめぐる韓国政府との交渉で失敗を重ね続けてきた日本政府は今後、韓国政府に対してこう言えばいいと思う。
 「以後、強制徴用についての補償請求は、すべて朝鮮総連にしていただきたい」と。
 新大統領である文在寅氏はちょうど南北統一実現に向けて大きく踏み出そうというのだ から、この際、しっかりと朝鮮総連にも向き合って歴史の真相究明にいそしみ、南北問で建設的な交渉を進めるべきだ。
 長男は私に、念押しするようにこう言った。
 「”日韓双方の皆様方に、父の虚偽証言を再度、謹んでお詫び申し上げます”と、謝意を書きしるしておいてください」
 最後に、この場を借りて、吉田清治氏についての収材に応じてくださった長男、「謝罪碑」の、”撤去”に関する情報提供をしてくださった長男の代理人・奥茂治氏に感謝の意を伝えたい。また、平成28年、長男への最初の取材記事掲載にあたりお力添え頂いた『新潮45』編集長・若杉良作氏、本書執筆にあたり大変お世話になった産経新聞出版編集長・瀬尾友子氏にもお礼を申し上げる。ありがとうございました。
             平成29年5月9 大高来貴


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