閉された言語空間

敗戦による米軍の占領政策、検閲と洗脳によって日本は変な国になってしまった・・・

閉された言語空間

 「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」の主要目的は、戦争の責任は軍部にあり日本国民も犠牲者だという分断統治を行いながら、日本を二度と米国に楯突くことのない属国にすることだったのでしょうね。

 米軍による戦後検閲は日本だけでなくドイツでも行われ、ドイツでは公然と行われたが日本では秘匿のうちに進められたのだそうです。
 両国では降伏までの経緯が異なったし、ポツダム宣言第10項には「(日本国民の)言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」と明記されているので、米軍も日本(むしろ日本などどうでも良かったか)や米国内や国際世論を考慮する必要があったということだと思います。
 検閲が秘密裏に行われ、巧みな洗脳が行われたために、「戦前戦中は日本軍等による酷い検閲が行われた、許せない。アメリカは自由をもたらしてくれた」と思い込まされてしまった。米軍にも日本軍以上の検閲を受けていながら・・・。

 米国は日本における検閲の準備を早い段階から始めていたそうです。当初はポツダム宣言受諾による停戦・武装解除ではなく、米軍の日本上陸作戦による戦争終結のシナリオを描いていたそうで、展開が変わったことに対応する必要があったものの“見事”にやってのけました。

 敗戦後日本における米国の「検閲」と「洗脳」は2つの部署によって分担して行われたそうです。
 同じ部署で2つのことを行うと怪しまれるからであり、特に検閲は秘匿する必要があったから・・・。
 検閲は「CCD(民間検閲支隊 Civil Censorship Detachment)」が、洗脳工作は「CI&E(民間情報教育局 Civil Information and Educational Section)」が行ったのだそうです。

 江藤淳さんの「閉された言語空間」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

閉された言語空間 江藤淳



目次

 第一部 アメリカは日本での検閲をいかに準備していたか 7
第一章 8  / 第二章 27  / 第三章 52  / 第四章 76  / 第五章 99  / 第六章 125

 第二部 アメリカは日本での検閲をいかに実行したか 159
第一章 161  / 第二章 186  / 第三章 212  / 第四章 244  / 第五章 261  / 第六章 279  / 第七章 294  / 第八章 313  / 第九章 330  / 第十章 347

 あとがき 367

 文庫版へのあとがき 370


第二部 第五章

 当然のことながら、これだけ広汎かつ精密な情報収集をおこない、日本の世論動向の把握につとめていたCCD(民間検閲支隊 Civil Censorship Detachment)当局が、特に注目しつづけていたのは、戦犯容疑者と戦犯裁判に対する国民感情の動きであった。
 「極東軍事裁判批判」が、三十項目にのぼるCCDの検閲指針のなかで、「削除または掲載発行禁止」に相当する事項の第三番目<三ではなく二かも Aべ注>にあげられていたことについては、すでに記したが、ここで特筆して置かなければならないのは、CCDの提供する確度の高い情報にもとづいて、CI&E(民間情報教育局 Civil Information and Educational Section)が、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」なるものを、数次にわたって極めて強力に展開していたという事実である。
 ここに、CI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・Civil Intelligence Section 参謀第二部民間諜報局)に宛てて発せられた、一通の文書がある。文書の表題は、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」、日付は昭和二十三年(一九四八)二月六日、同年二月十一日から市谷法廷で開始されたキーナン首席検事の最終論告に先立つこと僅かに五日である。この文書は、冒頭でこう述べている。

《一、CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付されているが、この勧告は、同局が、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の続行に当り、かつまたこの「プログラム」を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものにまで拡大するに当って、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている》

 さらにつづいて、この文書は、「占領の初期においてCI&Eが、民間情報の分野で一連の『ウォー・ギルト』活動を開始」した事実に触れ、それが一般命令第四号(SCAP・昭和二十年〈一九四五〉十月二日)第二項“a”(3)にもとづくものであることを明らかにしている。一般命令第四号の、この条項の文言は次の通りである。

《“a”左の如く勧告する。(中略)
 (3) 各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難とに対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること

 この勧告を受けて開始されたCI&Eの、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の「第一段階」は、昭和二十一年(一九四六)初頭から同年六月にかけての時期であったと、前記の文書は記している。しかし、新聞に関していえば、この「プログラム」は、すでにいちはやく昭和二十年のうちから開始されていた。

《一、戦争の真相を叙述した『太平洋戦争史』(約一万五千語)と題する連載企画は、CI&Eが準備し、G-3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たものである。この企画の第一回は一九四五年十二月八日に掲載され、以後ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載された。この『太平洋戦争史』は、戦争をはじめた罪とこれまで日本人に知らされていなかった歴史の真相を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している。
 二、この連載がはじまる前に、マニラにおける山下裁判、横浜法廷で裁かれているB・C級戦犯容疑者のリストの発表と関連して、戦時中の残虐行為を強調した日本の新聞向けの「インフォーメーション・プログラム」が実施された。この「プログラム」は、十二月八日以降は『太平洋戦争史』の連載と相呼応することとなった。(下略)》

 この「プログラム」が、以後正確に戦犯容疑者の逮捕や、戦犯裁判の節目々々に時期を合せて展開されて行ったという事実は、軽々に看過すことができない。つまりそれは、日本の敗北を、「一時的かつ一過性のものとしか受け取っていない」大方の国民感情に対する、執拗な挑戦であった。前掲のCI&E文書の昭和二十三年(一九四八)二月六日という日付は、それにもかかわらずCCDの収集した情報によれば、この時期になってもなお、依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着していなかったことを示す、有力な証拠といわなければならない。
 ところで、CI&E文書が言及している『太平洋戦争史』なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖したという意味で、ほとんどCCDの検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝文書である。「聯合軍司令部提供」というクレジットのはいったこの連載の第一回を、見開き二頁に組み込むために、マッカーサー司令部は各新聞社に用紙を特配した。その前書には、こう記されている。

《日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されてゐるものの、その多くは未だ白日の下に曝されてをらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によって発表されて行くことにならう。
 これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜および非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取扱ひ等であるがこれらのうち何といっても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の隠蔽であらう。この真実の「管制」は一九二五年(大正十四年)治安維持法が議会を通過した瞬間に始ったものである。この法律が国民の言論圧迫を目的として約二十年にわたり益々その苛酷の度を増し政治犯人がいかに非道なる取扱を受け人権を蹂躙せられたかは既に世人のよく知るところである。
 一九三〇年(昭和五年)の初頭日本の政治史は政治的陰謀、粛清、そしてその頃漸く擡頭しつつあった軍閥の専制的政策に反対した政府の高官の暗殺とによって一大転換期を劃したのであった。
 一九三三年(昭和八年)から一九三六年(昭和十一年)の間に、所謂「危険思想」の抱懐者、主張者、実行者といふ「嫌疑」で検挙されたものの数は五万九千を超えるに至った。荒木大将の下では思想取締中枢部組織網が厳重な統率下に編成せられ、国民に対し、その指導者の言に盲従することと一切の批判を許さぬことを教へることになった。
  この時期が軍国主義の上昇期であったことは重要な意義を持つものである。一九三六年(昭和十一年)二月二千四百名以上の陸軍々人は叛乱を起し、斎藤内府、高橋蔵相、渡辺教育総監を暗殺し時の侍従長鈴本貫太郎大将に重傷を負はしめた。軍国主義者の支配力が増大するに伴ひ検閲の法規を強化し、言論の自由を剥奪するための新しい法律が制定された。そしてこの制度こそは支那事変より聯合国との戦争遂行中継続された。
 日米、日英戦争の初期においては日本の勝利は比較的国民の反駁を受けずに宣伝することが出来たが、戦局が進み軍部の地位が次第に維持し得なくなってくるにつれて当局の公表は全く真実から違いものに変って行った。日本が多くの戦線において敗退しその海軍が最早存在しなくなってからも、その真実の情勢は決して公表されなかった。最近においても天皇御自身が仰せられてゐる通り日本が警告なしに真珠湾を攻撃したことは陛下御自身の御意思ではなかったのだ。憲兵はこの情報が国民に知られることを極力防止したのだ。
 聯合国最高司令官は一九四五年(昭和二十年)十月五日治安維持法の撤廃を命令し、新聞に対するこの制度を破壊する方法をとり戦争に関する完全な情報を日本国民に与へるやう布告した。今や日本国民が今次戦争の完全なる歴史を知ることは絶対に必要である。日本国民はこれによって如何にして敗れたか、又何故に軍国主義によってかかる悲惨な目に遭はねばならぬかを理解することが出来よう。これによってのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し国際平和社会の一員としての国家を再建するための知識と気力を持ち得るのである。かかる観点から米軍司令部当局は日本及び日本国民を今日の運命に導いた事件を取扱った特別記事を提供するものである》

 この宣伝文書は、まず、「太平洋戦争」という呼称を日本語の言語空間に導入したという意味で、歴史的な役割を果している。新しい呼称の導入は、当然それまでの呼称の禁止を伴い、正確に一週間後の昭和二十年(一九四五)十二月十五日、「大東亜戦争」という呼称は、次の指令によって禁止を命じられた。

《公文書二於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテノソノ意味ノ聯想が国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ即刻停止ヲ命令スル》(所謂「神道指令」・昭和二十年十二月十五日聯合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号〔民間情報教育部〕終戦連絡中央事務局経由日本政府二対スル覚書)

 つまり、昭和二十年暮の、八日から十五日にいたる僅か一週間のあいだに、日本人が戦った戦争、「大東亜戦争」はその存在と意義を抹殺され、その欠落の跡に米国人の戦った戦争、「太平洋戦争」が嵌め込まれた。これはもとより、単なる用語の入れ替えにとどまらない。戦争の呼称が入れ替えられるのと同時に、その戦争に託されていた一切の意味と価値観もまた、その儘入れ替えられずにはいないからである。すなわち、用語の入れ替えは、必然的に歴史記述のパラダイムの組み替えを伴わずには措かない。しかし、このパラダイムの組み替えは、決して日本人の自発的な意志によって成就したものではなく、外国占領権力の強制と禁止によって強行されたものだったのである。
 『太平洋戦争史』は、新聞連載が終了したのち、昭和二十一年(一九四六)三月と六月に高山書院から刊行されて、十万部を完売したが、「訳者はこの邦訳に際して、極めて原文に忠実ならんことを期し、訳文は総司令部民間情報教育局当局の厳密なる校閲を仰いだ」という、周到な配慮を示した言葉が記されているにもかかわらず、この「訳者のことば」は二ヵ所がCCDの検閲によって削除され、書き替えられた。それは、次の部分である。

《……この一文によって始めて、われわれは今次戦争の責任乃至原因が『大東亜戦争』のみに在るのではなくして、遠く満洲事変に溯るものであることを訓へられ、又『大東亜戦争』が如何に日本にとって無理な戦争であったかを知ることが出来た》(傍点引用者)

 削除されたのが、傍点の部分であることはいうまでもない。それはもちろん、「太平洋戦争」と書き替えられたのである。「聯合軍総司令部民間情報教育局述」として世に出たこの本の訳者は、共同通信渉外部長(当時)の中屋健弌氏であった。
 ところで、この本が十万部も売れたのは、一つにはこれが学校の教材として使用を命じられたためと思われる。昭和二十一年(一九四六)四月九日付、文部省学校教育局長、教科書局長発地方長官各学校長宛の「新学期授業実施ニ関スル件」という「依命通牒」を一見すると、その四のイには次のように記されている。

《四、修身国史及地理科教科書
 修身国史及地理科ノ授業ハ現二停止セラレ之が教科書ノ回収ヲ進行中ナルモ之が授業再開二関シテハ目下左ノ準備ヲ進メツツアリ。
 イ、修身国史及地理科ノ授業再開二至ル迄ノ代行教育計画教師用指導書(仮称新教育指針)ヲ編纂中ニシテ聯合国軍総司令部ノ許可アリ次第発行供給ス
 本書ハ内容ヲ二部ニ分ケ第一部ニ於テハ教育ノ一般方針ヲ内容トシ第二部ニ於テハ具体的教育方法例ヘバ討論法ニ依ル授業ノ方法及其ノ資料、実例等ヲ登載セルモノナリ  尚聯合国軍総司令部提供ニ係ル「太平洋戦史」ハ高山書院ニ於テ近ク発行、日本出版配給統制株式会社ヲ通ジテ供給セラルル予定ニ付各学校ハ夫々之ヲ購入ノ上国史等授業停止中ノ教材トシテ適宜利用セラルベキモノトス》(傍点引用者)

 因みに、これより先昭和二十年(一九四五)十二月三十一日、CI&Eは、「修身、日本歴史及ビ地理ノ総テノ課程」の即時中止を指令し、これを受けて昭和二十一年(一九四六)一月十一日、文部次官は、地方長官と各学校長宛に、「修身、国史、地理科授業停止二関スル件」と題する「依命通牒」を発していた。つまり、一面における禁止と他面における強制の原則が、ここでも拡大されて効果的に併用された結果、『太平洋戦争史』と題されたCI&E製作の宣伝文書は、日本の学校教育の現場深くにまで浸透させられることになったのである。
 
それは、とりもなおさず、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の浸透であった。『太平洋戦争史』は、まさにその「プログラム」の嚆矢として作成された文書にほかならないからである。歴史記述をよそおってはいるが、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、前掲の前書を一読しただけでも明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。
 これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。
 そして、もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから。
 CI&Eが、このような対立の図式を仮構するに当って、どの程度マルクス主義的思考の影響を受けていたかは、さだかではない。しかし、「これらのうち何といっても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の隠蔽であらう」という、前書の一節が、グロテスクな響きを発せざるを得ないのは、この宣伝文書が、戦争とは国家間の争いにほかならないという自明な「真実」を「隠蔽」したまま、いわゆる「真相」の暴露に終始しているためというほかない。しかも、この宣伝文書が発表されたとき、日本の言語空間は、すでにその存在を秘匿し、「隠蔽」していたCCDの検閲によって、ほぼ完璧に近いかたちに閉され、監視されていたのである。
 前掲のCI&E文書が自認する通り、占領初期の昭和二十年から昭和二十三年にいたる段階では、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、かならずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるにはいたっていなかった。しかし、その効果は、占領が終了して一世代以上を経過した近年になってから、次第に顕著なものとなりつつあるように思われる。
 なぜなら、教科書論争も、昭和五十七年(一九八二)夏の中・韓両国に対する鈴木内閣の屈辱的な土下座外交も、『おしん』も、『山河燃ゆ』も、本多勝一記者の“南京虐殺”に対する異常な熱中ぶりもそのすべてが、昭和二十年(一九四五)十二月八日を期して各紙に連載を命じられた、『太平洋戦争史』と題するCI&E製の宣伝文書に端を発する空騒ぎだと、いわざるを得ないからである。そして、騒ぎが大きい割には、そのいずれもが不思議に空虚な響きを発するのは、おそらく淵源となっている文書そのものが、一片の宣伝文書に過ぎないためにちがいない。
 占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうむ返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生れの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。
 つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を被占領国に及ぼし得る。そのことを、CCDの検閲とCI&Eによる「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、表裏一体となって例証しているのである。
 さて、ところで、この「プログラム」の「第一段階」は、単に『太平洋戦争史』の新聞連載と教材採用にとどまっていたわけではない。CI&Eはこれと並行して、精力的なラジオのキャンペーンを展開していた。現在四十代後半以上の日本人なら、記憶の片隅にとどめているはずの、『真相はこうだ』がそれである。前掲のCI&E文書は記している。

《d、ラジオ
 (一)『真相はこうだ』 ―― これは『太平洋戦争史』を劇化したものであるが ―― という番組が、一九四五年十二月九日から一九四六年二月十日まで、十週間にわたって週一回放送された。
 (二)それと同時に、CI&Eは、日本の放送ネットワークに『真相はこうだ』の質問箱の番組を設けた。これは『真相はこうだ』の聴取者に、質問の機会をあたえて番組に参加させようとする意図によるものである。『真相はこうだ』の放送が終了した時点で、この質問箱は『真相箱』となった。この番組は四十一週つづき、一九四六年十二月四日に終了した。この番組には、毎週平均九百通から千二百通の聴取者からの投書が寄せられた》

 つまり、当然のことながら、CI&Eは、学校教育に「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」を浸透させるのと同時に、ラジオというメディアを、社会教育のために最大限に活用しようとしたのである。ベートーヴェンの『第五交響曲』の、第一楽章の“運命”の主題からはじまる『真相はこうだ』の異様な印象を、私は今日にいたるまで忘れることができない。つい半年前まで「東部軍管区情報」を伝え、玉音放送を伝えていた同じラジオの受信機から、『真相はこうだ』のどぎつい阿鼻叫喚が聴えて来るのが、奇妙といえば奇妙でならなかったからである。
 「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」に関するCI&E文書は、さらにつづけてこの「プログラム」の「第二段階」について、次のように述べている。

《四、この「インフォーメーション・プログラム」の第二段階は、一九四六年初頭から開始された。この第二段階においては、民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできろような将米の日本への希望に力点を置く方法が採用された。しかしながら、時としてきわめて峻厳に、繰返し一貫して戦争の原因、戦争を起こした日本人の罪、および戦争犯罪への言及がおこなわれた。第二段階の活動としては、次のようなものがあげられる。
 a、新聞
 (一)週三回の記者会見、毎日の報道提供、新聞社幹部と記者の教化等、活動の大部分は民主化を強調するプログラムにあてられている。かくして日本のあらゆる新聞は、全国的にはCI&Eを、府県別には軍政部を通じて、毎日占領政策の達成を周知徹底させられている。政治、行政、社会の風潮、経済、公衆衛生、福祉、海外貿易等、占領のあらゆる面に関する詳細な説明と質疑応答が、このメディアを通じて処理されている。SCAPは、このメディアを通じて、何を日本人に助言し援助しつつあるかを示している。CI&Eはまた、日本の民主化達成のみならず、経済的、社会的自立のために必要な、詳細な理念と方法を保有している。
 (二)民主化の過程を進行させる一方で、日本の戦争に関する罪や、破滅をもたらした超国家主義に直接言及し、罪悪感を扶植する努力もなおざりにされていない。一九四六年六月に東京裁判が開廷されるに先立って、CI&Eは国際検事局のために二回の記者会見、弁護団のために一回の記者会見を開催した。この記者会見には、共同通信と全国の代表的な新聞の記者たちが出席した。国際法廷の目的と手続きについて入念な解説が行われ、同様に入念な報道が行われた。横浜では、同地で裁かれるB級戦犯を目的とする「インフォーメーション・プログラム」が開始され、これに関連して一連の記者会見が開かれた。A級およびB級戦犯裁判開始以来、CI&Eは、B級裁判については毎日情報将校提供の広報資料を配布し、A級裁判については全面的な「インフォーメーション・プログラム」を遂行中である。市谷法廷で取村中の日本人記者団との連絡事務に当るために、連絡将校が毎日派遣されている。
 (三)裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるために、特に注意が払われているが、とりわけ検察側の論点と検察側証人の証言については、細大洩らさず伝えられるよう努力している。(下略)
 (四)CIC(対敵諜報部隊)およびCI&Eの新聞出版班の活動を通じて、新聞や雑誌の幹部に対し、公式の席上や日常の記者会見の席上で、戦前戦中の日本の報道機関の腐敗ぶりを指摘する試みが、繰返しておこなわれている。日本の侵略と、軍国主義政府のお先棒をかついだ新聞の役割との関係は、動かしがたいものだと力説することにしている。
 一九四七年七月に開催された、日本新聞協会年次総会で、主賓のD・C・インボデン少佐(CI&E新聞課長)は、次のように語った。
 「二、三の日本の新聞編集者と会談したところ、この人々は、新聞が政治上の議論に容喙する責務はないと思うと語った。私は不同意を表明しなければならない。私は確信するが、もし戦前に日本の新聞が政治上の議綸に影響力を行使していたならば、東條とその一味徒党は、日本を今日のような悲惨な状況に陥し入れようとはせず、またしようとしてもできなかったであろう……」
 「われわれの務めは、……日本に、いつの日か自由な新聞となるべき責任ある新聞を創り出す手伝いをすることである。マッカーサー元帥は、降伏後も日本の新聞に引続いて発刊を許可したが、これは前例を見ないことだ。それまでの歴史の示すところによれば、占領軍の司令官は敵国の新聞に停刊を命じるのが常道である。……」(下略)》(傍点引用者)

 CI&E文書は、このあとでラジオと映画の分野でおこなわれた「第二段階」の「プログラム」について述べているが、これら「第一段階」および「第二段階」の経験にもとづいて、この文書が「第三段階」の措置として提起している「プログラム」については、次章以下で述べることにしたい。


第二部 第六章

 さて、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」実施の経緯について、以上の諸点を指摘して来たCI&E文書は、この「プログラム」の「第三段階」開始に当って、留意すべき問題を次の通り列挙している。
 前述の通り、この「第三段階」が、昭和二十三年(一九四八)二月六日現在、市谷法廷における極東国際軍事裁判での、最終論告と最終弁論を目前に控えた、緊迫した情勢を反映していることはいうまでもない。

《五、G-2(CIS・参謀第二部民間諜報局)のみから得られる口頭の報告にもとづき、当CI&Eは左のごとく諒解する。
 a、合衆国内の一部の科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび職業的社会運動家たちの論説や公式発言に示唆されて、日本の一部の個人ないしはグループが、広島と長崎への原爆投下に“残虐行為”の烙印を押しはじめている。さらにこれらアメリカ人のあいだには、一部の日本の国民感情を反映して、将来広島でアメリカの基金によって行われるべき教育的・人道主義的運動は、何であろうとすべてこのいわゆる“残虐行為”に対する“贖罪”の精神で行われるべきだという感情が、次第に高まりつつある。
 b、一部の日本人、特に世界と同胞に対して、日本の侵略と超国家主義を正当化しようとしている分子のあいだに、東條は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない。
 c、このニ点は、両々相俟って、現在なりを潜めている超国家主義者たちが、占領終了後に再び地歩を固めようとするに当って恰好の証拠となるものである。
 六、これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に極東において日本軍の行った残虐行為について自覚させるべきだという提案が、非公式にCI&Eに対してなされている。なかんずく“マニラの掠奪”のごとき日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきであり、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきであるという示唆が行われている。
 七、当民間情報教育局は、これまでの本件に関する研究およびG-2(CIS)ならびに局内のメディア担当責任者との協議の結果、本キャンペーンの「第三段階」は、左記のごとき基本方針および方法によって実施されるのを相当と思料する。
 a、基本方針
 (一) 直接かつ正面からの攻撃を目的とする宣伝計画は、双刃の刃となりかねず、大多数の世論を激昂させ、日本人を一致団結させることにもなりかねないので、極度の注意が肝要である。一方、現在入手可能な文書類は、“超国家主義者”と“残虐行為”的思考が、一部少数の分子に限定されていることを示している。
 (二) 全面的な宣伝計画実施との関連において、それがわが方の政策と矛盾しないかどうかという問題についても、考慮しなければならない。現在の政策は、日本の安上りな再建をめざしており、そのためには早期講和が望ましいと考えられている。一方、問題の諸点について“正面攻撃”を開始した場合、占領軍当局はアメリカ国民に対して、日本人は信頼に価せず、経済援助継続には問題があり、講和条約は望ましくないと、黙示的に認めることになる。
 (三) 東條裁判と広島・長崎への“残虐行為”はいずれも“ウォー・ギルト”のうちに分類されてしかるべきものだという点については、大方の見解が一致している。しかしながら、その処理は、左記の計画中に略述されている個々の方法によって多様化することができる。
 b、一般的方法
 (一) 超国家主義に対する解毒剤としての政治的情報・教育の強調。(現在までに大規模に実施され、現に実施されつつあるが、さらに一層集中化された「プログラム」を展開中であり、承認を待っている)
 (二) 超国家主義運動の復活を示すあらゆる具体的な動きを暴露し、細大洩らさず報道すること。そして、そのことによってそれらの動きを支える誤った思想を指摘し、その不可避な結果を明らかにすること。
 (三) 影響力のある編集者、労働界、教育界および政界等々の指導者とつねに連絡を密にすること。その際、全体主義国家に対する自由社会の長所を強調すること。
 (四) 進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。
 c、特定の方法
 (一) 新聞
 (a) CI&Eの新聞出版班は、特別任務に当る新聞係将校(単数)を任命したが、その任務は、日本人編集者との連携を維持し、前記b(三)に示されたイデオロギーを鼓吹するとともに、東條および他の戦争犯罪人裁判の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるよう指導することにある。広島に関する報道もまた、任務のうちに含まれる。
 (b) 極東国際軍事法廷に常駐する新聞出版係連絡将校(女性)は、東條の最終弁論と評決の段階に特に留意して、引続き自由な新聞の目的と義務に関する広報活動を行うものとする。
 (c) 新聞出版班は、一九四八年(昭和二十三年)四月に予定されている広島での原爆の碑献呈式に代表を派遣し、日本の新聞関係者がこの行事を正しく解釈するよう指導する。
 (d) 東條と広島の双方について、SCAP各部局より新聞発表用に適切な材料を求められることになるものと思われるが、その材料は、パラグラフ五において指摘されている印象に対抗し得るものでなければならない。(マッカーサー元帥の声明が発表されれば、はなはだ有効と思料される)
 (二) ラジオ
 (a) CI&Eラジオ班は、戦犯裁判の継続中、パラグラフ四b(一)および(二)に略述されている線に沿って、引続き定期番組において「ウォー・ギルト」の主題を強調するものとする。また、パラグラフ四b(四)に略述されているその他の番組においても、常時「ウォー・ギルト」の主題に言及するものとする。
 (b) 裁判での東條の最終弁論と評決の段階においては、大々的な取材および報道が計画されている。
 (c) CI&Eラジオ班特別代表一名が、日本の放送関係者に助言と指導をあたえる目的で、四月の献呈式の際広島に派遣される。
 (三) 展示
 (a) CI&E展示班は、すでに戦犯裁判に関するポスター・シリーズの概要を準備し、関係SCAP各部局の承認を待っている。その主題は、何故に戦犯裁判が開かれているか……いかに少数のグループが、国家と全世界を渾沌のなかに投げ込んだか……にある。……平均的市民は自分の生活の問題についての真の発言権を持てなかった……誤った情報を鵜呑みにしたあげくの因果応報……軍艦、軍用機、弾薬等に費やされた金と、それが平和な目的のために用いられた場合、どれだけの家が建ち、電力の余裕が生じ、近代化が進んだかの比較等々……戦犯裁判から学ぶべき教訓の数々》(傍点引用者)

 この「宣伝計画」文書のなかに、被告団の中心的人物東條元首相の名がしばしば現れるのは、「東條口供書」が市谷法廷に提出されたのが前年、昭和二十二年(一九四七)十二月十九日、東條大将自身が証言台に上ったのが十二月二十六日、キーナン首席検事の反対尋問とウエッブ裁判長の尋問が終了したのが昭和二十三年(一九四八)一月七日のことで、その余波が依然として大きくうねりつづけていたからにほかならない。
 全文二百二十ページ、ブルウエット弁護人による英訳の朗読に三日間を要したこの「口供書」の末尾で、東條元首相は次のように断じていた。

《終りに臨み ―― 恐らくこれが当法廷の規則の上において許さるる最後の機会であろうが ―― 私はここに重ねて申し上げる。日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもなかった。一歩は一歩より進み、又適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続に従い、事を処理して行ったが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのである。当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つということがただ一つ残された途であった。我々は国家の運命を賭した。しかして敗れた。しかして眼前に見るが如き事態を惹起したのである。戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題である。第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはない。
 第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するものである》

 さらに、東條元首相は、
 「ジェネラル東條」と呼びかけ、相当の敬意を以て弁護側尋問を行ったブルウエット弁護人を明らかに意識して、「被告東條!」と呼びかけ、
 「被告東條、私はあなたに対し大将とは呼ばない。それはあなたも知っての通り日本にはすでに陸軍はないからである」
 という挑戦的な言葉から反対尋問を開始したキーナン首席検事との、四日間にわたる応酬を通じても、全くその主張を翻さなかった。
 たとえば、キーナンが、昭和十六年(一九四一)十一月五日の御前会議で決定された日米交渉日本側最終案、乙案について、「もし米国が乙案の条件をうけ入れたならば真珠湾攻撃にはじまった開戦はなかったろうか」
 と、質したとき、東條は即座に答えた。
 「乙案をきいていただければ勿論起りません。その半分でもきいていただければ起らなかったでしょう。……もし米国が太平洋の平和ということを真に望んでおりますならば……それだけ付け加えます」
 「一寸待ちなさい」
 と、キーナンが反問した。
 「乙案のうちのどの条件を受諾したならば……それを指摘されたい」
 「どの項目もです……あなたのお国が、真に太平洋の平和を欲し、譲歩をもってのぞんでくるならば ―― 」
 と東條はいった。
 「それは面白い、乙案のどの項目でも一項目でもアメリカが受諾したなら戦争は起らなかったというのか」
 「そういう意味です。米国が互譲の意思をもってのぞんでくるならば、条件の緩和は出来ると思っていた」
 「この甲、乙両案を決定したとき、あなたはいたか」
 「勿論、居合わせただけではなく、最高の責任者です」
 と、東條は昂然と応じた。
 さらに、
 「乙案は本問題に関する日本のアメリカに対する最後の言葉ではなかったか」
 というキーナンの尋問を反駁して、東條はいった。
 「米国に対する最後の言葉は、十二月七日手交したものがそうである。その中間の十一月二十六日にあなたの国からハル・ノートというものを叩きつけられたのです」
 「問題はこの交渉において日本が示しうる最後の条件という意味にこれを使ったかどうかだ」
 「外交的にはそうです」
 「私は外交辞令をきいているのではない。私の訊かんとするのは真理である。それは交渉における最後の窮極の条件ではなかったか?」
 「その真実を答えているのです」
 東條元首相は、動じる素振りも見せなかった。
 「では訊く」
 と、キーナン首席検事は鋒先を転じた。
 「……十一月五日、日本政府が甲乙案を決めた意図は、もしアメリカがこれを受諾しなければ西欧諸国と戦争に入る決心を持っていたかどうか、イエスかノーで答えよ」
 「そう簡単には答えられぬ。交渉は相手のあることです」
 と一蹴されて、キーナンがさらに重ねて反問すると、東條は一段と声を高めていった。
 「説明しますが、一国が戦争に入ろうか、生きぬいてゆけるかという国家の興亡を賭けるという場合、そのように簡単な言葉をもっては決心できないので。外相は外相として一応の措置はとる。一国の興亡に関することは、首相としてはまた別に肚を持っとります。……かりにあなたの御国からルーズヴェルト大統領の意図でつくられたという仮取決策、アレを出されたら事態はよほどかわってきています。あれは乙案と要点はちがっているが、そこは肚の問題です。一度きめたからといってそれに固定して無理矢理に戦争に持ってゆくということは、一国を主宰する総理としては考えられません」
 「私はできるだけ我慢して聞いているが、……」
 と、キーナンはいった。
 「私の質問は簡単なもので、外相としての東郷が、両案は日本が譲歩し得る最大限のものとして云ってやったならば、それはあんたの意図にもとづいたものかどうかである」
 「私の意図によって打った外交上の措置として承認するのである」
 「責任も取るのだね」
 「当然です」
 そして昭和二十三年(一九四八)一月六日午後三時過ぎ、反対尋問を終了するにあたって、キーナン首席検事がかたちをあらためて東條と正面から対峙し、
 「首相として戦争を起したことを、道徳的にも法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか、ここに被告としての心境を聞きたい」
 と問い質したとき、東條元首相は、左手を証言台の上につき、胸を張った姿勢でキーナンに屹と向い合い、「間違ったことはない、正しいことをしたと思う」
 と、声高らかにいい切った。
 これに対して、さらに追いかけて、
 「それでは無罪放免されたら、同僚とともに同じことを繰り返す用意があるのか」
 と口走ったキーナンの発言は、すかさず発言台に馳け寄ったブルウェット弁護人の、
 「これは妥当な反対尋問ではない」
 という異議が採択されて、却下されたのであった。
 証言台に上った東條元首相に対するウェッブ裁判長の尋問と、弁護人側の再尋問は、一月七日午前十一時十五分をもってすべて終了したが、翌一月八日付「朝日新聞」の「天声人語」欄は、東條証言について次のように記した。

《キーナン検事の尋問に対して東條被告は『首相として戦争を起したことは道徳的にも法律的にも正しかった』と答えている▲東條が法廷で何を言おうとそれはかまわぬ。思った通りをそのまま言えばよい。東條一人が前非を悔いてしおらしいことを言ってみても今さら何の足しにもならぬ。われわれもまた東條の言辞を相手に論争しようとも思わぬ▲問題は、東條の陳述に国民がどんな反応を起すかである。アルカリ反応をするか酸性反応を示すかである。諸外国の注意もそこにある▲外人記者も言っておる。『世界は東條の口許を見てはいけない。東條の言を聞いた国民の表情を注視しているのだ』と▲このごろ電車の中などで『東條は人気を取りもどしたね』などと言うのを耳にすることがある。本社への投書などにも東條礼賛のものを時に見受ける。沈黙している大部分の国民は、今さら東條のカストリ的、爾光様的迷句に酔うとは思われない。が一部に東條陳述共鳴の気分が隠見していることは見のがしてはならない▲それは歴史のフィルムを速く回すことだ。民主主義のプールに飛込んだはずの水泳選手が、開戦前の侵略的飛込台に逆もどりするにひとしい。それはまた、美しいワイマール憲法を作ったドイツ国民が、ナチスの毒虫にむしばまれてしまったことを連想させる》(傍点引用者)

 一方でCCD(民間検閲支隊 Civil Censorship Detachment)の事前検閲の拘束を受け、他方「影響力のある」ジャーナリストの一人として、「つねに」CI&E(民間情報教育局 Civil Information and Educational Section)の連絡将校と接触し、「宣伝計画」の一翼を担わされていたに相違ない「天声人語」の当時の筆者が、ここで一目瞭然な“奴隷の言葉”を用いて語っていることは、何ら驚くにあたらない。
 それよりもむしろ、注目すべきことは、そのような“奴隷の言葉”を用いて書かれたこの「天声人語」が、なおかつ「東條は人気を取りもどしたね」という車中の声を紹介し、「一部に東條陳述共鳴の気分が隠見している」という事実を指摘している点である。
 いうまでもなく、この事実は、前掲CI&E文書中の、「東條は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない」という認識と、正確に照応している。「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の「第三段階」は、ほかならぬこの危機感をバネとして展開されるにいたったのである。
 いや、「宣伝計画」というなら、そもそも市谷法廷における極東国際軍事裁判そのものが、もっとも大規模な「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」と目されるべきものであった。その宣伝効果をより一層完璧ならしめるために、CI&Eの「第三段階」が計画され、CCDの検閲と相呼応して、あるいは「客観的」報道の名の下に裁判の真の姿を隠蔽し、あるいは日本の報道機関を「指導」して、被告団の生命を賭した陳述に罵声を投げつづけさせたのであった。


あとがき

 これは昭和五十四年(一九七九)十月から昭和五十五年(一九八〇)六月までの九ヶ月間、私がウィルソン研究所で行った検閲研究の集大成ともいうべき仕事である。
 当時私は、国際交流基金の派遣研究員として、米国ワシントン市に在るこの研究所に赴き、日夜米占領軍が日本で実施した検閲に関わる文書の検索と通読に没頭していた。僅々九ヶ月間とはいえ、このときの滞米生活から生れた成果は少くなく、既に『一九四六年憲法 ―― その拘束』と『落葉の掃き寄せ』(いずれも文藝春秋刊・現行版は合本)の二冊の本に結実しているが、なんといっても主眼となるべきものは、検閲それ自体の実態を明らかにする研究でなければならない。私は、帰国後間もなくそのまとめに着手し、昭和五十六年(一九八一)の夏休みから執筆に取りかかった。
 本書の第一部を構成しているその原稿が、「諸君!」に掲載されたのは、昭和五十七年(一九八二)二月であった。つづいて私は、同年十二月から昭和六十一年(一九八六)二月にかけて、五回に分けて本書の第二部に収められている部分を書き、同じ「諸君!」に断続的に発表した。
 それを、実にそれから三年有半を経過した今日、あらためて一本にまとめて世に問うことにしたのは、著者である私が、ひたすら刊行の好機を待っていたためにほかならない。敢えていえばこの本は、この世の中に類書というものの存在しない本である。日本はもとよりアメリカにも、米占領軍が日本で実施した秘匿された検閲の全貌を、一次史料によって跡付けようと試みた研究は、知見の及ぶ限り今日まで一つも発表されていないからである。
 正確にいえば、昭和五十七年(一九八二)にニューヨークのプレーガー社から刊行されたJ・L・カリー、ジョーン・R・ダッシン編のPress Control Around the Worldの第十章に、私自身の執筆した The Censorship Operation in Occupied Japanという論文が唯一の例外ともいうべきものだが、紙幅の制約のためにこの本の詳細さとは比べるべくもない。ダッシン女史は前掲書の序文で拙論に言及して、「合衆国内では事実上全く知られていない検閲システムについての実証的研究」と評しているけれども、私はむしろこの本を、日本の読者のみならずアメリカの知的読者にも読んでもらいたいものだと考えている。米占領軍が戦後日本で実施した隠微な検閲の苛烈さは、所謂“言論の自由”について深刻に反省する材料を、少からず彼らに提供するに違いないからである。
 日本の読者に対して私か望みたいことは、次の一事を措いてほかにない。即ち人が言葉によって考えるほかない以上、人は自らの思惟を拘束し、条件付けている言語空間の真の性質を知ることなしには、到底自由にものを考えることができない、という、至極簡明な原則がそれである。
 この研究を可能にしてくれた国際交流基金とウィルソン研究所には、あらためて謝意を表したい。「諸君!」連載当時は堤尭編集長(当時)と担当の斎藤禎氏のお世話になり、出版に当っては高橋一清氏の緻密な仕事振りに扶けられた。特に記して心から感謝したいと思う。
   平成元年七月四日 鎌倉西御門の寓居にて
                             江藤淳


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