嘘だらけの日中近現代史

本書によって、日中近現代史の嘘だけでなく、中国の行動パターンのようなものを知ることが出来たと思います。

嘘だらけの日中近現代史

 「はじめに」では日本人と中国人の違いを解説しています。
 これまで読んだ本やネット番組などを踏まえると、倉山さんの解説が的を射たものであると感じます。

 「はじめに」に書かれている『19世紀まで「世界史」などという野蛮な世界とほとんど無縁で暮らすことができた日本人には、ユーラシア大陸の激烈な生存競争は想像の外というしかありません。そのユーラシア大陸で最も生存競争が激しいのが中国です。』や『もし中国が崩壊したとき、隣国の草食系国家ともいうべき日本が餌食にされないと誰が言えるでしょうか。』は、先行き長くない私自身は良いにしても、その後の日本人が心配になります。

 中国は尖閣だけでなく沖縄本島にも、さらには北海道にも触手を伸ばしているようですが、手を拱いていてよいのでしょうか?
 本書によって、その答えや中国とどう向き合っていけばいいのかについても考えてみましょう。

 倉山満さんの「嘘だらけの日中近現代史」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。


嘘だらけの日中近現代史 倉山満


目次

 はじめに  6

 第一章 嘘だらけの古代「中国」史 13
第一節 中国史は繰り返す 14
第二節 孔子は建前、本音は韓非子の「余計な奴は殺せ」 28
第三節 「インテリヤクザ」諸葛孔明の真実 34
第四節 「中国五千年一というコケおどし 43

 第二章 欧州に翻弄された「清」と抗った「日本」 55
第一節 民族問題は「明」に答えあり 56
第二節 アヘン戦争で眠り続けた清と目覚めた日本 64
第三節 明治政府の凄腕外交と朝鮮の悲劇 71
第四節 決着としての日清戦争 81

 第三章 動乱大陸「中華民国」 93
第一節 『ラストエンペラー』の大嘘と孫文のインチキ革命 94
第二節 帝国主義者にして愛国者・石井菊次郎に学べ 101
第三節 「二十一か条」というプロパガンダに騙されるな 110
第四節 アメリカに振り回される日本 116

 第四章 満洲事変で騙される日本 127
第一節 「排英排ソ」のち「排日」 128
第二節 中華民国の無軌道が満洲事変を引き起こした 142
第三節 嘘つきチャイニーズのプロパガンダの手□ 153
第四節 最強だった帝国陸海軍は日本外交に敗北した 160

 第五章 お人よしすぎる日本人 173
第一節 わがまま放題の溥儀と満洲国 174
第二節 暗躍する中国共産党 182
第三節 支那事変が「日中戦争」ではない理由 195
第四節 「大」「虐殺」を定義する 199

 第五節 「夷を以て夷を制する」の精髄 207

 第六章 究極の中華皇帝! 毛沢東の野望 215
稀代の暴君・毛沢東 216

 第七章 中国の悪あがき 237
第一節 敗戦後の「媚米」と「親ソ」の行方 238
第二節 三角大福のマヌケな死闘 244
第三節 中国の資金源と化した日本銀行 251

終 章 アペノミクスと中国崩壊の予兆 259
 日本の未来はあなたが決める 260

 おわりに 264  


はじめに 歴史に学ぶ中国人のあしらい方

 本書『嘘だらけの日中近現代史』を手に取っていただきありがとうございます。ところで、最初にお断りしなければなりません。この本の題名がいきなり嘘です。
 まず、中国に「近代」などありません。あるのは、独裁の古代と殺戮の中世だけです。中国大陸では古代と中世が繰り返されてきただけで、中国はいまだに近代国家ではないのです。その意味で、模範的近代国家である日本とはまるで異質の国です。「古代」「中世」「近代」は、世界中の学者の間で議論が分かれるような非常に難しい言葉です。だから、「これが古代だ」「これが中世だ」と軽々しく結論を言うことはできません。しかし、これだけは明確に断言できます。中国はいかなる意味でも「近代」国家ではありません。
 その意味は、本書を読み終えたら、おわかりいただけると思います。
 次に「中国」という名前が嘘です。せいぜい「中華人民共和国の略称」くらいの意味しかありません。1949年に成立したこの国は、たかだか建国60年です。よく「中国何千年の歴史」などと言われますが、それは「支那(チャイナ)大陸」という土地に人が住んでいたという記録が何千年か残っている、くらいの意味でしかありません。
 ここで「中国人=漢民族」という単純な図式で考えてはいけません。「支那(チャイナ)」という何の変哲もない語と違い、中国という言葉には恐ろしい意味が込められています。そもそも「中国」とは「中華帝国」の略です。「中華」とは、「我こそは文明であり、ほかは野蛮である」という差別意識丸出しの言葉です。日本人はよく「支那という言葉は中国人が嫌がる差別語だから、使ってはいけないのだ」と価値観が倒錯したようなことを言いますが、むしろ「中国」「中国人」という言葉こそ不用意に使うと、「差別者」「民族弾圧者」になるかもしれないくらい危険な用語です。だから、まじめな学者は「中国」とか「中国人」という言葉を使う場合は、慎重を期すのです。
 しかし、チャイナ問題の専門家ではない読者の皆さんに、言葉狩りのようなまねを強要しても仕方がないので、お気になさらないでください。どうぞ「中国」「中国人」という言葉に目くじらを立てないようにしてください。世の中には、「犯罪者を相手にするときは、本人が自称する肩書を使えばよい」との原則がありますから。
 ちなみに現在の中国大陸を支配する中国共産党は、「マフィア兼盗賊」のようなものから出発し、今に至っています。日本政府の関係者や公人が彼らのことを「犯罪者」と呼んだら大問題になるでしょうが、個々の日本国民が中国あるいは中国共産党を「犯罪者」と呼んでも何ら問題はありませんし、遠慮することはありません。気兼ねする必要がないのは、当の中国人が小学生のときから「日本人は中国に対して悪いことをした極悪非道の人間だ」と教わっているからです。
 それにしても日本人は中国人に騙されることが多すぎます。沖縄県の尖閣諸島に中国の艦船が押し寄せて挑発しても、中国で単に働いているだけの日本人がいきなり警察に拘束監禁されても、汗水流して働いた財産を暴動で破壊されても、毒入りギョーザを食べさせられても、そのときだけは「日本人は目覚めた」「もう中国を許さない」と言いながら、しばらくたつとすぐに「十億の市場」などと企業をはじめとして大量の人とお金を大陸に注ぎ込む、はっきり言えば貢ぎ続けています。
 いったい何なのでしょうか。意味不明な感情移入としか言いようがありません。
 本書は、たかだか60年の、アメリカよりも歴史が浅い国に意味不明な感情移入をしてしまって、莫大な損害を被っている日本人に対する、「歴史療法」のつもりです。中国コンプレックスはなくしてしまいましょう。
 「どうしても中国が好きだ」「どんなに殴られても、カネを巻き上げられても中国が好きなんだ」「日本人は中国人に何をされてもいいのだ」という被虐趣味の方は仕方ありませんが、それ以外の健全な日本人の方には、厄介な隣国のあしらい方を身につけていただきたいと思います。
 ということで手始めに、中国を理解する三つの法則を覚えてください。
1.力がすべて
2.陰謀でごまかす
3.かわいそうな人たち
 つまり、ただひたすら殺伐としているのが中国なのです。
 徹頭徹尾、暴力や金銭、あるいは社会的立場など、自分と相手のどちらが強いかだけを計算して行動します。この点で、世界一の冷徹さを持つ民族です。日本人など到底、及びもつきません。弱肉強食、万人の万人に対する闘争こそが中国大陸の本質です。
 ホッブズというイギリスの政治思想家は、「人間は放置すれば、何をしでかすかわからない。永遠に混沌が続くだけだ」と語ります。さらに、混沌が続く理由を「どんなに弱い人間でも、どんなに強い人間をも殺すことができるからだ」と喝破します。
 不老不死の人間はいません。秦の始皇帝は本気で不老不死の薬を探し回りましたが、この法則から逃れられませんでした。いかなる支配者も、全人民を凌駕する力は持てないのです。すべての独裁者には権力基盤があります。巧妙な独裁者は、この権力基盤を基に多数の人民を支配し、自分の地位を脅かそうとする者を抑えこむのです。獅子の力に加え、狐のような悪知恵を身につけているものなのです。
 この悪知恵という点においても、日本人は中国人に比べると、大人と子供、いや赤ん坊くらいの差があるでしょう。
 19世紀まで「世界史」などという野蛮な世界とほとんど無縁で暮らすことができた日本人には、ユーラシア大陸の激烈な生存競争は想像の外というしかありません。そのユーラシア大陸で最も生存競争が激しいのが中国です。中国人は、相手の力が強いからといって生きることをあきらめたりしません。日本人のような散り際の美学など皆無です。あらゆるきれいごとと言い訳を並べ、強い相手を騙します。命乞いをして時間を稼ぎ、自分のほうが強くなったら、隙をついて裏切ります。相手を怖いと思ったらつぶす、利用価値があると思ったら飼い慣らす。
 恐ろしく殺伐とした世界です。
 ある意味で、中国人というだけで尊敬したくなります。普通の日本人が中国に放り込まれたら、3日と生きていけないでしょう。つくづく日本人に生まれてよかった、中国人とはなんとかわいそうな人たちだ、と思います。
 共産党に支配された中華人民共和国の寿命があとどれくらいなのかわかりません。ただ彼ら中国人は絶対に生きることをあきらめないでしょう。肉食動物は、より弱い生き物を食べて生き抜きます。もし中国が崩壊したとき、隣国の草食系国家ともいうべき日本が餌食にされないと誰が言えるでしょうか。
 中国に殴られても騙されても「日中友好」のかけ声がやまない日本をたとえるなら、年増の性悪女の美人局とハニートラップと援助交際にはまっているお人よしな中年オヤジとでも言えばいいのでしょうか。DV女から抜け出せない情けない男 ―― これこそが今の日本の状態です。本書が「歴史療法」というのは、「悪女から抜け出すには、そいつのスッピンを見ろ」ということにつきます。「恋は盲目」のダメ人間でも、厚化粧を落とした素顔を見て、過去の真実を知れば夢から覚めるものです。本書で中国という、腐れ縁の悪女から抜け出しましょう。


中国史は繰り返す

 歴史の基本は政治史です。歴史とは人間の営みの記録である以上、最初にその国やその時代を理解するには、社会の在り方を規定する「政治」から入るのが基本です。
 というと、意外に思う方もいるかもしれません。なぜなら、日本の「世界史」教科書は無味乾燥で面白くもおかしくもない用語と年号の暗記に終始しているからです。多くの人は受験が終わると歴史から離れてしまいます。逆に、「受験マニア」の人や、「中国オタク」のような東洋史好きの人たちは、まじめな歴史学とはそういうものだと思っています。
 しかし、ここに中国理解を妨げる最初の落とし穴があります。日本の「世界史」教科書にはやたらと土地制度史の記述が続くのですが、それには理由があるのです。あれは漢文しか読めない人が書いています。まじめに中国の政治史を書こうとしたら、モンゴル語や満洲語ができなければ話になりません。しかし、日本で東洋史・中国史の権威とされる人のほとんどはモンゴル語や満洲語ができません。
 だから、漢文だけで語ることができる土地制度の話を、さも歴史の中心であるかのように記述し、歴史とはそういうものだ、と言い張っているのです。歴史の基本は政治史です。人間同士の生々しい営みのほうが重要なのです。
 中国を理解するにもやはり「政治」を理解しなければなりません。というか、中国では個人レベルでも人間関係が壮絶なのですから、彼らにとっての「政治」が何たるかを知らなければ、話は始まりません。また中国には司馬遷の『史記』以来、多くの歴史書が残されています。その記述の仕方は皇帝の歴史です。中国の歴史とは、「宇宙の中心に存在する皇帝とその周辺に起きた出来事」なのです。彼らの歴史観は基本的に「大根切り」で、かなり簡単にパターン化できます。
 中国史のパターンを図式化してみましょう。

 1.新王朝、成立
  ↓
  2.功臣の粛清
  ↓
  3.対外侵略戦争
  ↓
  4. 漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成
  ↓
 5. 閨閥、宦官、官僚など皇帝側近の跳梁
  ↓
 6. 秘密結社の乱立と農民反乱の全国化
  ↓
 7. 地方軍閥の中央侵入
  ↓
 8. 1へ戻る

 時々、逆行したり順番を飛ばしたりしますが、基本的にこのパターンを数千年問繰り返して今に至っています。はっきり言えば、秦の始皇帝も漢の劉邦も中華人民共和国の毛沢東も同じです。 まずは古代の始皇帝と劉邦を見ていきましょう。

 第1段階。新王朝、成立。
 短くて数十年、長ければ数百年の殺し合いを経て新王朝が成立します。
 始皇帝の場合は、秦の国王に即位して以来の25年間、ひたすら戦いと陰謀を繰り広げ、約130年に及んだ戦国時代を終息させ、秦帝国を建国しました。
 劉邦の場合は、始皇帝が打ち立てた秦をわずか15年の寿命で滅ぼし、さらに項羽との5年に及ぶ闘争に勝って、漢を建国しました。彼の場合は短くて、7年間の動乱の末に皇帝に即位しました。
 ただし、これで平和になったと考えてはいけません。

 第2段階。功臣の粛清。
 新しい王朝を打ち建てた皇帝がまっ先にすることは、功臣の粛清です。それまでの功労者を殺すのです。しかも一族皆殺しです。なぜならば、自分の地位を脅かす能力があるからです。
 始皇帝は、秦帝国建国の前に宰相の呂不韋を粛清しています。
 劉邦は、建国直後に最強の将軍といわれた韓信を殺してしまいます。
 ただし、粛清も失敗すると皇帝のほうが取って代わられます。「これまで一緒に苦労した仲ではないか」といった人情をあてにしたら、中国大陸では生き残れません。中国人の間では力がすべてなので、「自分より強くなりそうな相手は弱いうちにつぶしておけ」が掟なのです。

 第3段階。対外侵略戦争。
 どこでもいいので外国に喧嘩を売ります。勝ったら領土拡張、皇帝の権威は高まります。負けても兵隊が死んで口減らしです。皇帝は、反対派や自分の敵になりそうな勢力を最前線に出して死なせます。どっちに転んでも皇帝にとって損はありません。都に外国の軍勢が攻めてきて自分の安全を脅かすようなことさえしなければ、それでいいのです。
 6つの国を滅ぼした始皇帝も、北方騎馬民族の匈奴には何とか侵略を防ぐ程度で、万里の長城を築いて、「ここから先は私のモノだ。入ってくるなよ、いや、入ってこないでくださいね」と一方的に宣言をしました。
 劉邦も、匈奴に戦争を仕掛けました。そして大敗し、大量の貢物を毎年差し出すことで許してもらいました。
 とにかく、万里の長城の内側での権力闘争に勝てれば、国家全体のメンツや人民の命など皇帝にとって関係ないのです。

 第4段階。漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成。
 中国文明の強みであり弱みでもあるのは、文字を持っていることです。古代世界では、文字を使う民族は北方騎馬民族に蹂躙される弱い集団なのです。陰で好き放題なことを書いて、はるかのちの時代にも好き放題書いて伝えているだけです。たとえば、「匈奴」という文字は「騒乱を起こす連中」といった意味です。しかし、そういううさ晴らしくらいしかできないのが当時の力関係です。リアルな世界では不良にカツアゲされているいじめられっ子が、学校裏サイトに悪口を書き込んで「ネット番長」を気取っているようなものです。要するに、喧嘩で勝てないから相手に聞こえないところで陰口を言っているだけな のです。
 このあたり、ヨーロッパ人がペルシャ人と戦争をするたびに大敗しているのに、たまに勝つとそれがすべてであったかのように記述するのに似ています(ペロポネソス戦争とアレクサンダー大王とローマの五賢帝の三つだけを並べると、白人はアジア人より常にすぐれていたかのような錯覚に陥ります)。
 始皇帝の場合は、焚書坑儒と言って、自分に都合が悪い本を焼き、書いた学者を生き埋めにし皆殺しにしたと伝えられています。彼の場合は「未来永劫続く中華帝国の最初の皇帝」だから、「正しい基準を示さなければいけない」と社会のグレートリセットを行ったのです。
 中国の歴史を習うと「皇帝は辞典の編纂を行った」とする記述がありますが、あれは本当に言葉を変えているのです。たとえば「北京」の発音ですが、「ペキン」と読むのは明の時代の発音で、現在は「ベージン」が標準語です。中国では方言が外国語のように違うので、文字や発音を標準語として統一するということは、偉大な権力者の証しでもあるのです。
 劉邦の場合は、まさに漢字を決めました。東アジアで最初の歴史書である『史記』が編纂されたのも漢帝国の時代です。
 それ以後、新しくできた王朝は『漢書』『後漢書』『三国志(魏書、呉書、蜀書)』……と、前の時代の歴史を好き勝手書いていくのが通例になります。その記述も平板で、「最初の皇帝には天命が下った。のちに治世が乱れ、最後の皇帝は最悪の人物で、次の人物に天命が下り新しい王朝が建国された」の繰り返しで『明史』まで続きます。『清史』は中華民国と中華人民共和国の双方で編纂中です。

 第5段階。閨閥、宦官、官僚など皇帝側近の跳梁。
 時々、名君が登場して束の間の平安を得ることがあります。最長は、清朝の康煕・雍正・乾隆帝の百年です。日本だと百年の安定など短いほうに分類されますが、中国では「安定期ゼロ」という王朝のほうが多いくらいなので、日本人の感覚を持ち込んではいけません。
 中国は、強力なコネ社会です。能力よりも情実が優先します。知り合いの「質と量」こそが、その人の能力です。どこの国でも多かれ少なかれそういう面はありますが、中国の人脈競争は世界一苛烈です。
 婚姻によって権力強化を図るのは政治の世界の常ですが、中国では最強の権力者である皇帝に取り入ることに成功した后の一族も強力な権力を持ちます。閨閥です。后が皇太子となる男の子を生めば外戚となります。こうなれば怖いものなしです。あわよくば旦那である皇帝を暗殺してでも、早く皇太子を皇帝に就けようとしかねません。
 そして権力者の奥さんは一人ではありません。皇帝の寵愛を巡り、熾烈な蹴落とし合いが日常的に行われます。女も命がけです。もし皇帝の寵愛がほかの女に移ったら、自分たちは一族ごと殺されかねないのが中華宮廷なのですから、必死の色仕掛けを行います。毎日がハニートラップです。かくして、外戚の座をめぐる権力闘争は熾烈を極めます。
 古今東西、美女をはべらすのは権力の象徴ですが、歴代中華皇帝はこの欲望に忠実です。「後宮三千人」などといわれますが、もちろんそのすべての女性を相手にできるわけではありません。特に、バックに閨閥がついている女性をないがしろにしたら、自分の命すら危ない。
 しかし、相手にされない圧倒的多数の女性が、自分以外の男性と密通することを許さないのが皇帝です。そこで、後宮の世話係として、宦官を必要としたのです。
 宦官とは、男根を切断した男性のことです。男性機能を失うわけですから、ナヨナヨとした性格になり、体はブクブクと太っていきます。生物としての三大欲求の一つを自ら捨ててしまった人たちは別の方向に欲求を向けます。権力欲と金銭欲です。要するに賄賂を取ってため込み、パワーゲームに明け暮れるのです。彼らは、常に皇帝のそばにいるので、このゲームを有利に展開できます。皇帝に取り入ろうとすると、この宦官たちにせっせと賄賂を贈ることになります。宦官が皇帝にいつまでも忠誠を誓うという保証はどこにもありません。
 歴代皇帝は、自らに忠実な側近を能力によって取り立て、権力基盤にしようとしました。これが官僚です。官僚は科挙と呼ばれる超難関試験で、最終試験では皇帝自らの面接により選抜されます。科挙とは、要するに暗記に次ぐ暗記です。儒教の聖典とされる四書五経のひたすら暗記です。何十年受験勉強しても受からない人などザラです。この試験に合格すると言語オペレーターになれます。中国語は発音が難しいうえに、前述の通り方言がひどすぎるので、文字でやり取りするしかコミュニケーションの方法がないのです。
 そこで言語オペレーターとしての科挙官僚が必要とされたのですが、彼らはひとたび科挙に合格すると孫の代までの栄達が約束されます。しかも、その約束の仕方が独特です。官僚の給料が高いわけではありません。「清官三代」という言葉があり、これは「どんな清廉な官僚でも、賄賂をためこむことによって孫の代まで贅沢ができる」という意味です。「賄賂を取る清廉な官僚」は誤植ではありませんので、あしからず。
 本当にそういう意味なのです。賄賂が報酬の一部として組み込まれているのです。ということは、因縁をつけられて犯罪者にされかねません。むしろ皇帝としては、官僚が裏切ればいつでも犯罪者として抹殺できるので安心して使うことができるのです。
 司馬遷の『史記』の中の「列伝」は「歴史に残したい官僚」のエピソード集です。お読みいただければわかりますが、やっていることは秘密警察です。つまり、密告・騙し討ち・粛清の連続です。秘密警察と言っても日本人にはなじみがありませんが、個人の日常生活を監視して、権力者に反抗的な人間を逮捕していくのが仕事です。現代だと旧ソ連のKGBやアメリカのFBI(の一部)が秘密警察として有名ですが、中国だと普通の官僚が秘密警察員というすごい世界なのです。
 さて、話しが長くなりましたが、こうした壮絶な権力抗争は根本的には今も昔も変わりません。中国の政治は閨閥・宦官・官僚らの派閥抗争と対立のうえに皇帝が君臨して均衡が保たれるのです。こんな体制は長くは安定しません。
 秦は、二世皇帝の時代にはもう腐敗と動乱が始まり、三世皇帝の時代に始皇帝の死後3年で滅んだのは既述の通りです。「馬鹿」という言葉が生まれるのもこの時代です。つまり皇帝が馬を見せて「これは鹿だ」と宣言し、「いえ陛下、これは馬です」と間違いを正した家臣を殺したという逸話に由来します。
 日本の漢文の授業では「このように正しい発言が通らなくなると国は滅ぶのだ。まさにバカだ」という教訓話として教えてしまうので、中国人も日本人と同じ価値観の人たちなのだという問違いのもとになってしまいます。中国人にとっては逆で、殺されるかもしれないのに正しいことを言う人間こそバカなのです。生き残るためには平気で嘘をつく、真実・正義・良心の呵責などという何の役にも立たない世迷いごとは捨ててしまう。このリアリズムこそが中国人の真骨頂です。
 漢はもっと凄惨です。劉邦が死ぬや否や、皇后だった呂后一族が血の大粛清を開始します。特に血祭りにあげられたのが劉邦の愛妾だった戚夫人です。呂后は戚夫人の両手両足を切断し、目をつぶし耳をふさぎ喉をつぶしたうえで、「人豚」の看板を首から掲げさせて便所の中に放り込んであざ笑ったと伝えられます。さすがにこれを見た息子の恵帝は、自分の母親のあまりの所業に精神を病んでしまい、程なくして病死します。これを皮切りに呂一族の粛清が始まり、あやうく皇帝一族が全滅しかけるほどの大抗争に発展したのです。すんでのところで劉家は持ちこたえましたが、呂后がもう一年長生きしていたら皇帝一族は皆殺しにされかねないところだったのです。

 第6段階。秘密結社の乱立と農民反乱の全国化。
 秘密結社の流行と農民反乱の頻発で統治のタガが緩みます。皇帝は、秘密警察的な官僚を地方に派遣して統治するのが常ですが、皇帝の権力が弱まると地方官は言うことを聞かなくなります。特に、中央に税金を送らずに着服するようになります。そうなると人民の生活は困窮の極みに至ります。民衆は精神的な救いを求め、宗教などに走ります。少しでも反権力的な言動を示せば役人に殺されかねませんから、彼らの集まりは秘密結社と化すのです。
 中国には「政治的言動は即死刑」という伝統がありますから、一般庶民は政治のことに関心を持ちませんが、もはや最低限度の生活が維持できないと悟るや武器を持って立ち上がります。当然、素人の農民がプロの軍人と戦って勝てるはずなどないのですが、数が大きくなれば話は別です。何せ中国はいつの時代も世界最多の人口を誇ります。反乱に参加する農民の数が一定数を超えれば「波」のようになります。「波」は食料を求めて、途中の村々を略奪と虐殺によって消滅させながら都を目指します。ここまでくると、襲われた村の農民が殺されない方法はただ一つ。自分もその「波」の中に入り、加害者側に回ることです。こうして「波」は大きくなり続けます。
 秦の陳勝呉広の乱は代表的な農民反乱ですし、後漢末の黄巾の乱もやはり宗教結社から出発した農民反乱です。

 第7段階。地方軍閥の中央侵入。
 いよいよ最終段階です。何といっても中国では力がすべてです。中央の皇帝や宮廷の権力が強いときはともかく、「勝てば取って代われる!」と思われたら容赦なく戦いを挑んできます。軍閥とは「自分の兵隊を持っている勢力」のことです。中華帝国では「すべての兵士は皇帝の持ち物であり、軍の高級幹部は兵を皇帝から預かっているにすぎない」という建前がありますが、そんなものは力関係次第です。
 秦は項羽や劉邦、漢は董卓や曹操といった軍閥に蹂躙されて滅びます。劉邦や曹操が新王朝を建てますが、パターンの1に戻るだけでやっていることは同じです。ちなみに曹操の息子が建てた魏は実質的には7の段階を抜け出せず、呉や蜀の抵抗に悩まされ続けます。
 以上で、中国の政治というか世の中の流れ、社会がどのようなものかおわかりいただけたでしょうか。始皇帝の秦と劉邦の漢でやめてしまいましたが、その後の歴代中華王朝もこれと同じです。時々、ステップを飛ばしたり戻ったりもしますが、同じことを繰り返します。「はじめに」で「独裁の古代と殺戮の中世を繰り返すだけである」と言った意味がおわかりになったと思います。
 また、固有名詞を入れ替えると、まったく同じ文章で意味が通じることにお気づきでしょう。このパターンは、なんと毛沢東も同じなのです(そのあたりは、第六章で改めてご紹介します)。


嘘つきチャイニーズのプロパガンダの手口

 日本の歴史学界で絶対に使えない学術用語があります。「中国のプロパガンダ」です。
 自分の見聞きした範囲ではっきり断言しますが、中国を研究している平成の日本人で、中国共産党に遠慮なくモノが言える人など数えるほどしかいません。理由は三つあります。
 一つめは、中国の悪口を言うと、基本的に入国させてくれませんし、必要な資料を見せてくれないなど研究にさまざまな支障が出ます。二つめは、戦後の中国研究者のほとんどが親中派だったので、弟子や孫弟子は先生・先輩の業績を否定するような研究は許されなかったのです。三つめは、さまざまな名目の「日中共同研究プロジェクト」に依存している研究者が多いので、研究資金を打ち切られる恐怖に打ち勝てる人は少数です。
 日本国内では博士号を取っても非常勤講師の職すらなかったところ、中国では語学教師として雇ってくれたので最低限の生活は大丈夫だったなどという話を聞くと泣きたくなります。まともな国ならばとっくに大学教授になれる実力のある研究者が食うや食わずのフリーター生活をしているのが、今の日本という国です。そのような環境に置かれている人が親中派になったとして責められるでしょうか。
 甘いと思われるかもしれませんが、私のように一度も筋を曲げず、自由に信じていることを書き続けるなど、例外中の例外です。ましてや、その内容を一般に広く知れ渡るかたちで出版できるなど、奇跡です(あなたが今、読んでいる本のことです)。
 かくして、日本の歴史学界では「中国のプロパガンダ」を研究することはタブーです。だから、同じ手口で何度も負けるのです。
 さて、満洲事変に戻りましょう。
 とにかく、満洲事変は日本の一方的な侵略だという固定観念があります。

<通説>
関東軍が侵略をしたので、全世界から批判された。特に、発端の柳条湖事件は自作自演だった。こんなことをしていたから、外務省は国際連盟で立ち往生して困った。

 このような具合に、何を言われても「自作自演」一つを錦の御旗のごとく押し立てて、日本の「侵略」を認めない人間は学術的な議論をしてはいない、と冷静な検証を一切させないのですから、手がつけられません。
 まず、柳条湖事件とは、満洲事変の契機となった1931年(昭和6年)9月18日の事件です。日本は南満洲鉄道という国策企業を展開させていましたが、関東軍は張学良軍がこの満鉄線路を爆破したのでその対応として出動し、交戦状態に入り、必要な敵拠点と奉天城を奪取するという作戦を立てたのです。関東軍の工作隊は列車通過直前に線路を爆破し、しかもそのまま通過できるような爆破具合だったので死傷者ゼロだったという、神業的な自作自演テロでした。
 これが道徳的に問題だというなら、中国大陸では一瞬たりとも生きていけないでしょう。もしわからなければ、本書を最初から読み返してください。
 本題の「侵略」です。「侵略」とは、国際法用語です。Aggressionの訳語なので正確には「侵略」ではなく、「侵攻」です。漢語の「侵略」には「残虐に掠め取る」という意味がありますが、Aggressionに「残虐」などというニュアンスは存在しません。
 では「侵攻」とはどういう意味でしょうか。「先に手を出すこと」でも「先制武力攻撃」を仕掛けることでもありません。「挑発もされないのに、先に攻撃を仕掛けること」です。大事なのは「挑発」の有無です。
 本章を読んできた方で、中華民国(あるいは満洲の張学良)が日本に対して一切の挑発をしていないと証明できる方がいるでしょうか。そのような能力をお持ちの方は、間違いなく優秀な中国共産党御用学者か中華人民共和国の外交官が務まるでしょう。
 歴史学者や外交官が国際社会で振る舞うべき二つの鉄則があります。
 1.疑わしきは自国に有利に
 2.本当に悪いことをしたなら自己正当化せよ
 歴史学者はよその国にお呼ばれした時にはこっそりと本音を漏らす場合もあるのですが、中国の外交官が公式の場でこれら2つの鉄則を踏み外したという話を聞いたことかありません。羨ましい限りです。
 一方、日本の歴史学者や外交官には、3つめの鉄則を叩きこむ必要がありそうです。
 3.やってもいない悪いことを謝るなど、論外
 書いていて、情けなくなりました。
 とはいうものの、グチはともかく、本題に移りましょう。
 満洲事変期における中国のプロパガンダは世界史に残る傑作でしょう。何しろ、軍事的には全戦全敗でありながら、口先だけで状況をひっくり返したのですから。
 そこで、子細に検討してみたのですが、やり方は意外に単純です。実は、中国が、昭和の「中華民国」だろうが、現在の「中華人民共和国」だろうが、やっていることは同じなのです。歴史に学べば、これほど対処しやすい相手はいません。行動様式がワンパターンな民族なのです。ただし、日本人とあまりにも違うからとまどうだけです。
 たとえば、夫婦喧嘩でも日中の国民性は違うと言われます。
 日本人の場合は、相手と罵り合います。もちろん、家の中で。
 中国人の場合は、家の外に出て、相手の非を第三者に訴えます。夫と妻のどちらが「観客」の支持を得るかで勝者が決まるのが中国の夫婦喧嘩です。
 両国外務省の国際宣伝にしても、この通りです。幣原喜重郎に代表される典型的日本人は相手と直接話し合って解決しようとします。一方の中国人は国際社会に日本の非道を徹底的に訴えますから、日本は常に出遅れます。かくして、「日本悪魔化」が完了し、国際世論は日本の敵となるのです。
 中国人にとって根拠や事実関係は問題ではなく、第三者を説得できるか否かが問題です。満洲事変が起こるや、「古い封建的軍国主義の日本が、若い成長期の民主主義国である中国を侵略している」といった類いの宣伝がばら撒かれました。これを知っていながら外務省は一笑に付したので宣伝戦でやりたい放題やられました。現に当時のアメリカ世論は信じてしまったのですから、「こんなデタラメを信じるバカはいないはずだ」では通らないのです。明らかに国益を損ねました。
 慣れてしまうと中国人の手口も意外と簡単なのですが。四つほど挙げましょう。
 第一にステレオタイプの情報を豊富に迅速に散布しました。この速さはすさまじいものがあります。第二に情報の単純化と反復を行います。特にわかりやすいスローガンで日本人の非人道性を強調しました。第三に事実の誇張と捏造により自国を有利にしようとしました。第四に宣伝事項の象徴化と権威付与による効果増大を行いました。やたらと記念日を設定したり、歌を作ってみたりです。
 すさまじいのは、算数教育の段階でもうプロパガンダを始めていることです。
 たとえば、「日本人が5人いました。勇敢な張作霖様の軍が2人射殺しました。さて、あと何人の日本人を殺さなければいけないでしょうか」と6歳のときから習っていて日本が嫌いにならないはずがありません。よく歴史教科書の問題を取り上げる論者がいるのですが、歴史は自国の主張を教え込むのがグローバルスタンダードです。その過程で嫌いな国が登場しないわけがありません。国際社会では「お互いさま」の精神で干渉し合わないものです。
 問題は、「反○○主義」がこのような算数教育にまで及んだときです。これは最低百年は民族憎悪を続けるぞという意思表示にほかなりません。
 もし日本の外交官が国際連盟にこのような排日教科書を持ち込んで訴えたら、バルカン半島や中東で深刻な民族問題を抱える欧州諸国などは戦慄したでしょう。そして中国人の凶暴さに気づき、日本の味方をしたはずです。
 以上、過去の話にとどまりません。今後も反日暴動が起きるかもしれませんので、そのときはテレビの画面に注目してください。
 明らかに官製のポスターやプラカード、おそろいのTシャツなど、冷静に観察すれば底が割れるのも中国の特徴です。そもそも独裁国のデモなど政府の指令以外で許されるはずがありません。
 どうやら問題は、その程度の宣伝に負けてしまう、情報リテラシーが低すぎるわが外務省にも問題があるのです。昔も ―― 残念ながら ―― 今もです。


稀代の暴君・毛沢東

 1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は大国の地位から滑り落ちました。日本が国名から地名になった瞬間です。
 代わりに、それまで地名にすぎなかった中国が国名になります。ただし、実質を伴うのはそれから4年後、1949年の中華人民共和国の建国からです。
 アメリカは連合国の仲間として中華民国を、日本に代わる大国として扱いました。国際連合の常任理事国にします。しかし、それは形式的なことです。結局、蒋介石は大国としての発言権を得るどころか、自分の国すらまとめることができませんでした。
 毛沢東率いる中国共産党との国共内戦に敗北し、台湾に逃げます。中国が名実ともに大国となるのは、毛沢東が中国大陸を支配してからです。
 最近でこそ毛沢東の悪行三昧が知られていますので極端に一方的な評価はされませんが、まだまだ日本の歴史学界では批判が許されません。

<通説>
 近代中国の偉大な革命家、毛沢東が抗日戦争と国共内戦を勝ち抜き、中華人民共和国を建国した。

 1957年11月、恐怖政治をしている独裁者がモスクワに集まった共産主義国サミットで「核戦争を起こそう! 人類の三分の一か半分が死ぬことは世界にとっていいことなのだ!」などと嬉々として提案し、出席者全員を唖然とさせたという世界最“恐”の独裁者が毛沢東です。ソ連のフルシチョフは「絶対に中国に核武装させてはならない」と決意しました。残念ながら、それは叶わず不幸な結果となりました。
 近現代史で人物像が最も研究されているのはヒトラーでしょうが、毛沢東も負けず劣らず興味深い人物です。1893年に生まれた毛沢東の生涯をたどると現代中国がどういうものかわかります。
 湖南省の地主の息子として生まれた毛沢東は、かなりのインテリに育ちます。一日中図書館で読書をしながら合間に肉まんを頬張り、疲れたら世界地図を眺めながら世界征服する方法を本気で考えていたという逸話が残っています。学歴こそ北京大学の聴講生どまりですが、単なる詩人にとどまらない“詞人”の域に達していました。詞とは、複雑に韻を踏んだ詩のことで、これを自由自在に創作できるというのは、相当の知性を必要とするそうです。このような毛沢東を考察する際、学者政治家としての側面を見落としてはいけません。
 学者政治家というのは、えてして90点以上か10点以下になりがちです。20世紀の政治家ですと、李登輝とウッドロー・ウィルソンが典型例でしょう。
 小国台湾を大陸の脅威から守り抜き、蒋介石一族の独裁から民主化へと移行させた李登輝は文句なしに90点以上の評価を与えていいでしょう。世界中のあらゆる過激派テロリストと民族主義分離独立運動と共産主義者を支援し、現在に至る人類にあらゆる不幸をもたらしたウィルソンは10点以下の政治家でしょう。
 毛沢東は後者の意味での学者政治家であり、極端な凶暴性を内包していました。
 テロに関しては、自分の手を汚すことはありませんでした。その意味で中国の「良い鉄は釘にしない」式を徹底していました。共産主義者であるだけでなく、中華ナショナリストでもありました。毛沢東がやったことは、秦の始皇帝や明の洪武帝とまったく同じです。
 そもそも、中国に近代など存在しないのです。中国史のパターンを思い出してくたさい。

 1.新王朝、成立
  ↓
  2.功臣の粛清
  ↓
  3.対外侵略戦争
  ↓
  4. 漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成
  ↓
 5. 閨閥、宦官、官僚など皇帝側近の跳梁
  ↓
 6. 秘密結社の乱立と農民反乱の全国化
  ↓
 7. 地方軍閥の中央侵入
  ↓
 8. 1へ戻る

 20世紀だろうが21世紀だろうが、同じです。ひたすら独裁の古代と殺戮の中世を繰り返しているだけです。清朝崩壊で帝政が終わったから近代だ、と早とちりすると中国のことがわからなくなります。中華民国期の動乱は五胡十六国や五代十国と同じような中世です。中華人民共和国は歴代王朝と同じ独裁の古代です。独裁のタガが緩むとまた殺戮の中世に戻るだけです。
 毛沢東の人生は第6段階から始まりました。当てはめてみましょう。

 第6段階、秘密結社の乱立と農民反乱の全国化。
 清朝末期、太平天国のような怪しげな宗教が蔓延し、漢民族やイスラム教徒の反乱が続発しました。孫文などは性懲りもなく10回も革命に失敗しています。

 第7段階、地方軍閥の中央侵入。
 李鴻章や袁世凱ら軍閥がやりたい放題です。とうとう辛亥革命で清朝は転覆します。ところが、新王朝の覇権確立とはいきません。
 形式的には中華民国が建国されますが、誰も国をまとめることができません。
 そうしたなか、蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党が国共内戦を繰り広げます。毛沢東は、自分が一つの軍閥の地位に成り上がりました。ただし、マフィアに毛が生えたような当時の共産党では、巨大な財力と暴力装置を持つ国民党にはかなわず、「長征」と称して逃げ回る羽目になります。「長征」は貧しい人民を引き連れて逃げたので多くの犠牲者を出した苦難の道だったといわれますが、毛沢東自身は愛人とともに優雅な読書生活でした。人民の解放を言いながら自分は富裕な生活を手放さないのが職業革命家の特徴です。
 また、「いついかなるときも、外敵より内部の権力闘争」の法則を思い出してください。毛沢東の最大の関心は中国共産党でのし上がることにあります。そもそも中国共産党は毛沢東がつくったのではありません。ソ連のレーニンが世界征服工作の一環として、陳独秀や李大釧ら北京大学の教授に組織させたのが最初です。毛沢東は結成第2回大会からの参加ですが、のちになって第1回大会を歴史上存在しなかったことにしたのです。中国では歴史の書き換えや抹消は、政治で勝った者の特権です。陳独秀や李大釧と毛沢東の関係は、大学教授とセミナー参加者くらいの格の差ですが、そんな都合の悪い過去はタブーです。
 中国共産党の実態はコミンテルン中国支部であり、完全にソ連の指導下にありました。毛沢東は中国共産党内部でのし上がり、政敵を粛清し、党内での独裁権を確立します。
 毛沢東が活動家として優れていたのは、中国の実情をまったく知らないのに作戦の方法論にまで口を出してくるモスクワの共産党官僚の方針を無視したことです。モスクワのコミンテルン本部は、都市の労働者を組織して革命を起こし、農村に波及させるという方法論に固執していました。しかし毛沢東はこのやり方は中国には合わないと一蹴し、農村に地盤を扶植してエネルギーがたまったところで革命を起こして都市に突入する、という方法論を編み出します。毛沢東はモスクワの方針を適当に受け流しながら、自分の基盤養成にだけ専念します。この頃の毛沢東は、モスクワでも名前が知られていない存在だったので、こういうことが許されました。
 陳独秀や李大釧は、資金をモスクワに握られ、ことあるごとにモスクワに呼び出されて査問され、時には命さえ奪われかねないという環境に臆病になっていました。毛沢東は他人を盾に言い逃れることに長けており、いつの間にか共産党での指導権を確立しています(監視社会で生き残る方法論を身につけたことは、後に毛沢東が独裁者になったとき、生き残らせないためのマニュアルとして使うことになります)。
 周恩来や朱徳といった人たちは、強烈な人材がそろった中国共産党の中でも只者ではない革命家ですが、毛沢東にかかればいいように扱われるだけです。インテリだが度胸のない周恩来は、部下だったはずの毛沢東に顎で使われ、いつの間にか面倒くさい交渉は全部押し付けられる役回りになっています。朱徳は自分で軍隊を率いていたのですが頭が弱く、政治将校という監視役だった毛沢東はいつの間にか朱徳の名前で軍隊を動かすようになっていました。「毛周」「朱毛」と並べられるのはこの二人くらいなのですが、その二人すらこのザマですから、いかに毛沢東が強烈な個性の持ち主だったかがわかろうというものです。ついでに言っておきますが、周恩来が喧嘩に弱いとか、朱徳の頭が悪いとかは中国共産党基準です。常人の感覚からすれば二人とも只者ではありません。
 近代政治学の祖であるマキャペリは政治指導者に必要な資質は「獅子の腕力と狐の知恵だ」と述べましたが、毛沢東は暴力と悪知恵の塊のような政治家でした。
 1936年の国共合作で国民党との和解が成立し、翌年からは支那事変に突入します。蒋介石が日本と戦っている間、毛沢東はひたすら軍隊の温存を図ります。日本軍が蒋介石軍を叩きのめしながら疲弊していく、理想の展開が8年間も続きました。日本の統治によって治安がうまくいくと、テロを仕掛ける。中国人民に犠牲が出ようが知ったことではありません。下手人が国民党だと思わせればなおいいのです。手をくだすのは、国民党に入り込ませているスパイです。
 
8年間、日本が中国の主要都市を占領し、蒋介石が重慶の山奥に立てこもって徹底抗戦している間、毛沢東は北西の延安に引きこもり、延々と「整風運動」という反対派の粛清をしていました。古参党員を分断し、お互いに公衆の面前で批判することを強要したのです。
 実は毛沢東は、頭は切れるが度を越えて凶暴なので、「いつかみんなの反感を買って引きずり下ろされるだろう。いつでも引きずり下ろせるだろう」とナメられていたので共産党内の派閥均衡人事、いわば妥協の産物としてトップに据えられていたにすぎません。ところが、その「みんな」がお互いにつぶし合いを強要されました。密告も奨励かつ強要されます。
 毛沢東には、優秀な用心棒であらゆる汚れ仕事をやってくれる康生という秘密警察の長官がいました。康生は「中国のベリア」と称されます。スターリン独裁下にはラブレンチー・ベリアのような秘密警察長官が必要だったのですが、「整風運動」により毛沢東と康生の独裁が確率しました。毛沢東は共産党と紅軍を完全に掌握します。
 共産党は一党独裁のファシズム政党ですが、そのために軍との関係に腐心します。ソ連のスターリンもそうでしたが、KGBという秘密警察を使って赤軍の将軍や将校を監視・粛清を行い、逆らえないようにしました。毛沢東はさらに一歩進めて、紅軍そのものを「党の軍隊」、もっと言えば「毛沢東個人に忠誠を誓う軍隊」につくり変えていきました。
 はっきり言えば、自身が卓越した戦略家であり、兵たちとともに野を越え、谷に潜り、山を越えた毛沢東のカリスマはスターリンを上回ります(毛沢東は、いくら優雅な生活をしていたとはいえ、苦しい旅路をともにしています)。
 能力にしても、軍事に素人のスターリンは独ソ戦でことあるごとに介入して作戦を混乱させました。ヒトラーが最後に悪手を連発したので最終的に勝利は得ましたが、軍事に関してはお粗末だったのです。ドイツ国防軍のグデリアン将軍は「ヒトラーが余計な口出しをしなければソ連を滅ぼせた」と悔しがったと言いますが、ソ連赤軍のジューコフも似たような立場でした。
 その点、毛沢東は「持久戦」論の理論と実践の双方における専門家です。自分よりはるかに強力な蒋介石の国民党軍を最強の日本陸軍と噛み合わせ、最終的にすべてをもらう。実際にその通りになりました。
 日本が周辺諸国すべてを敵に回し、敗色濃厚になったころ、毛沢東は手を打っていました。アメリカヘの工作です。F・ルーズペルト大統領は極端な親中派でしたが、現実の国民党政府は汚職で腐敗しきっています。アメリカ人の間に失望感が広がります。そうした時期をとらえて、「中国共産党は共産党を名乗っているが、実際は貧しい農民の味方だ」というイメージを広げたのです。エドガー・スノウやアグネス・スメドレーといった共産党に忠誠を誓うアメリカ人ジャーナリストが大活躍をしました。形式的には中華民国が大国として認知されるのに比例して、中国共産党の名声が高まるという奇妙な現象が起きます。アメリカ人にとっての「チャイナ」は、「腐敗した国民党」ではなく「清廉な共産党」でもよくなるのです。
 蒋介石は「共産党など戦争には弱いくせに宣伝だけは達者だ。嘘でも何でも信じさせれば勝ちという態度だ」と嘆いています。かつて満洲事変で日本にやったことを、そのままやられる立場になったのです。
 そして1945年、日本は敗戦を受け入れ、中国大陸にいた日本人は本国に引き揚げます。アメリカは、中国情勢には静観・不介人の姿勢を示します。ソ連のスターリンは蒋介石と同盟条約を結びます。蒋介石とも仲良くしておき、どっちが勝ってもいいようにしておこうとの算段です。自分の飼っている毛沢東を信じていなかったのです。スターリンは毛沢東に、蒋介石を訪ねて国共合作の継続を確認するよう命令しました。暴力団が「兄弟の盃」をもう一度交わすようなものです。蒋介石は、スターリンの仲介で毛沢東の舎兄扱いになったことになります。
 毛沢東はこの状況を逆用します。蒋介石は油断している。後ろ盾のアメリカは介入してこない。時間を稼げる。毛沢東は、スターリンに武器支援を要請し、一年間かけて紅軍の戦力を整えます。
 そしてモンゴルを通って、一目散に満洲を目指します。満洲国は大日本帝国の崩壊とともに消滅しましたが、日本人が残した重工業地帯は残存しています。毛沢東は日本軍の遺産を使って、一進一退を繰り返しながらも、蒋介石軍を各個撃破していきます。そして、蒋介石を台湾に叩き落としました。
 絶体絶命の蒋介石は、何の役にも立たないアメリカ軍ではなく、自分を負かし続けた旧日本陸軍の岡村寧次大将と根本博中将を頼りました。岡村は病気だったので自身では渡航できませんでしたが、部下たちは軍事顧問団「白団」を組織し、中華民国軍を近代化しています。根本はアメリカ占頷下にもかかわらず台湾に渡り、金門島に攻めてきた人民解放軍を殲滅しました。白団や根本の大活躍により、蒋介石は生きながらえたのです。
 ただし、蒋介石ら大量の漢人が台湾に逃げてきたとき、現地台湾人(本省人)を大量虐殺する二・二八事件を起こしています。蒋介石は死ぬまで台湾で独裁政治を敷くことになりますが、今でも漢人(外省人)優位社会で、本省人との対立は根深いものがあります。
 それはさておき、蒋介石を台湾に逃したものの、中国大陸は毛沢東のものになりました。

 第1段階、新王朝、成立。
 1949年、中華人民共和国が建国されました。
 毛沢東は、中国共産党中央軍事委員会主席と中国共産党主席と中華人民共和国主席を兼ねます。肩書は大事な順に並べました。国家を支配するのは共産党、共産党の中核は軍事力を持つ軍です。毛沢東は現代の皇帝となりました。
 毛沢東と中国共産党は、旧軍閥を蒋介石と一緒に台湾に叩き出し、大陸を独占します。
 さっそく行うことは何でしょうか。

 第2段階、功臣の粛清。
 中国共産党と紅軍の歴戦の闘士は、中国史では何が起きるかを熟知しています。スケープゴートが見つかりました。満洲に陣取っていた高崗です。
 第二次大戦の末期、日本が敗色濃厚になるのを見て取ったスターリンは、日本との中立条約を破って満洲に侵攻し、火事場泥棒的に朝鮮半島北部まで奪取しました。この北朝鮮にソ連軍の将校(一説には中佐)だった朝鮮人の金日成を連れてきて、強制的に独裁者にさせます。これが朝鮮民主主義人民共和国(略して北朝鮮、北鮮と略すと怒る。産経新聞は単に「北」とすることもある)を建国させます。同じように、満洲を中華人民共和国から切り離して高崗に独立国を建国させようとしていたのです。
 スターリンは猜疑心の塊です。疑わしきは滅ぼせ!とばかりにコミンテルンをつぶしてしまうほどです。毛沢東などまったく信じていませんから、力を持ちすぎるのを警戒していたのです。
 毛沢東はこれに先手を打って高崗を北京に呼び出し、幹部全員で罵り続け自殺に追い込みました。毛沢東としては、満洲を奪われるわけにはいきません。

 第3段階、対外侵略戦争。
 1950年、金日成の北朝鮮は突如として南下し、あっという間に韓国のほとんどを制圧しました。慌てたアメリカは国連軍を組織し、日清・日露戦争の通りのルートで北上し、あっという間に平壌を攻略します。国連軍は中朝国境に迫ります。
 ここで毛沢東は参戦を決断し、人民解放軍(紅軍)を南下させます。地球の半分を味方につけたに等しいアメリカ相手に、中国軍は善戦します。
 人民解放軍の兵士は、地雷原をものともせずに突撃を繰り返します。全滅するとさらにまた突撃を繰り返し、地雷が爆発しなくなると戦車がやってくる。これに発狂するアメリカ兵が続発しました。最も錯乱したのは総司令官のダグラス・マッカーサーで、「満洲に原爆を落とせ」「アジアで地上戦を行おうとする者は誰であろうと精神鑑定をかけるべきである」などと発言して、トルーマン大統領に解任されてしまいました。
 その後は小競り合いを繰り返しますが、開戦前の国境に押し戻しました。1953年のスターリンの死を機に休戦協定が結ばれます。
 犠牲者は多かったものの、アメリカ相手に勝ちに等しい引き分けでした。実際に毛沢東は戦争目的を達成しているのです。
 毛沢東には三つの戦争目的がありました。
 第一は、権力確立のために反対派を粛清することです。
 スターリンは、常に蒋介石や高崗を使って毛沢東を牽制しようとしていました。毛沢東から見れば、おもしろいはずがありません。そこへ朝鮮戦争でチャンス到来です。命を捨てて戦ってくる中国軍にアメリカ軍は発狂したのですが、毛沢東としてはていのいい口減らしです。この毛沢東のもくろみは見事に成功しました。
 本書で何度も強調しましたが、中国人は常に「外敵より内部の権力闘争」です。毛沢東は高崗との権力闘争に完勝しました。
 第二は、スターリンに満洲の支配権を認めさせることです。
 1945年、満洲から日本軍を追い払ったのはソ連軍で、毛沢東は何もしていません。「満洲は中国固有の領土である」といっても、ソ連には通じません。むしろ、スターリンは高崗を育てて、毛沢東と張り合わせようとしたくらいです。しかし、実際に国民党を武力で倒しだのは毛沢東です。この事実をスターリンに認めさせるべく、モスクワに飛んでスターリンと直談判しますが、話し合いでは決着がつきません。満洲も含めて中国である と、朝鮮戦争で血をもって認めさせるしかなかったのです。
 さすがのスターリンも、自らの血を流して満洲と北朝鮮を守った毛沢東の発言を認めないわけにはいきませんでした。
 第三は、アメリカを鴨緑江に寄せ付けないことです。
 日本やその立場に取って代わったアメリカなど海洋国家にとって朝鮮半島の39度線より南に敵対的な大陸勢力が侵入してくることは脅威です。逆の立場で言えば、中国など大陸国家にとっては、鴨緑江まで海洋国家が迫ることが怖くて仕方がないのです。鴨緑江とは現在の中朝国境、正確には満洲と北朝鮮の境を流れる川です。ここを破られると、満洲を守れないということになります。だから、どうしても朝鮮半島の39度線まではアメリカ軍を押し返さねばならなかったのです。38度線までアメリカ率いる国連軍を押し返した朝鮮戦争は、毛沢東の大勝利でした。
 以上、3つの目的は戦闘に勝つ限り矛盾しません。「満洲を自分のものにする」という目的の3つの政治的側面と捉えたほうが正確でしょう。優れた戦術家であった毛沢東は補給に関する判断も正確で、38度線まで押し返したらそれ以上は深入りしませんでした。米軍が少しでも国境線を北に進めようと必死なのに対して、満洲を守るのが戦争目的である毛沢東は戦略的に負けようがない余裕のある戦いをしているのです。

 第4段階、漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成。
 目の上のタンコブだったスターリンの死後、毛沢東はソ連から離れます。ソ連を継いだフルシチョフとは中ソ論争を繰り広げます。どちらの共産主義理論が正しいのかというのが口実ですが、本音のところは、いつまでも兄貴面してロシア帝国以来の専制君主と変わらないソ連に対して、中華皇帝を気取る毛沢東が我慢できなくなってイチャモンをつけたということです。フルシチョフは「スターリン批判」を行いましたので、スターリンが死ぬまで表向きの友好関係を続けた毛沢東は、これを口実として喧嘩を売ったのです。
 ところで話は変わりますが、金日成と金正日の経済思想の違いは何でしょうか。金日成はスターリン主義で、金正日は毛沢東主義です。スターリンの経済思想は、「ものすごく賢い共産党のエリートが人民を指導してその通りにやらせればうまくいく」というものです。経済活動全体を人為的に動かすなど不可能ですし、完璧な計画を立てられるエリートなど存在するはずがありません。極めて稚拙ではありますが、経済という概念はあります。
 一方、毛沢東思想に経済という概念はありません。あるのは、ひたすら政治です。富は政治の道具ですし、人民の命など消耗品です。経済の前提が成立していません。
 日本人やその他まともな資本主義国の感覚だと、人民を大量に餓死させて核武装をするなど、北朝鮮の政策は失敗に思えます。ところが、金正日にかかると、これは大成功なのです。核兵器を持つという政治目的のためならば、人民の大量餓死など、むしろ口減らしになったくらいしか考えていません。
 毛沢東もまったく同じです。ただし、毛沢東による人民の死なせ方は何百万、何千万単位でした。アメリカやソ連と核戦争になれば大量に人が死ぬことも想定されますが、毛沢東は「一億死んでもまだ十億」とうそぶきました。核戦争が起これば、自分は安全な核シェルターに逃げ込む。その間に敵国が死に絶えれば、人口で勝る中国が最後の勝者となる、という考えです。
 毛沢東は、自分を秦の始皇帝になぞらえていましたが、「自分は始皇帝より多くの人を殺しているから偉い」という発言も残っています。
 革命による建国までは毛沢東の強烈なカリスマは必要でしたが、国づくりには最も適さないタイプの人間です。農民に農具を捨てさせて家庭で製鉄させるという大躍進政策が7千万の餓死者を出した際、国家主席を劉少奇に譲り、事実上の棚上げのような状態になりました。
 そこで奪権のために起こしたのが、文化大革命です。
 劉少奇や鄧小平ら実権派に不満を抱いた毛沢東と林彪は、『毛沢東語録』をばら撒き、毛沢東を崇拝する少年少女たちに紅衛兵と称する親衛隊を組織させ、知識階級に対する「自己批判」と称する吊るし上げを開かせ、時にリンチにまで至りました。教師や医師といった知識人たちは自己批判を強要され、「私は反革命分子です」などと書いたプラカードをぶら下げて街中をさらし者のように歩かされるという拷問です。
 最後は、劉少奇が「自己批判」の対象になってしまいました。劉少奇は監禁生活の末、病気の治療も許されないまま、最期は冬の倉庫に放置されるという死にざまでした。毛沢東と林彪は権力奪回に成功しました。
 そうなると、毛沢東は林彪を攻撃し始めます。そのときのスローガンが「批林批孔」です。孔子以来の中国文化を全面否定し、毛沢東思想で中国を埋めようというのです。それと林彪との政争がどうつながるのかよくわかりませんが、とにかく勢いに負けた林彪は逃亡中に飛行機事故で死亡します。

 第5段階、閨閥、宦官、官僚など皇帝側近の跳梁。
 劉少奇を支えたのは鄧小平です。鄧小平は革命以来の軍人であるだけでなく、資本主義経済にも理解がありました。内心は共産主義に懐疑的だったのでしょう、「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを獲るのがよい猫」と、共産主義の方法論によらなくても経済発展をすればいいとの姿勢を打ち出します。周恩来や、軍出身の葉剣英は鄧小平と徒党を組みます。
 毛沢東の妻である江青は、張春橋、姚文元、王洪文と幇を組みます(四人組)。
 「四人組対鄧小平」という派閥対立の流れは、今にも続いています。現在の国家主席である習近平は四人組の、李克強首相は鄧小平の流れを汲んでいます。
 被害者が一千万人とも一億人ともいわれる国をひっくり返しての権力闘争は、1976年の毛沢東の死まで続きます。

 所詮、モノの限度を知らない相手とはわかり合えないのです。
 問題は、こんな毛沢東の中国と仲良くしたがる日本人がいたことです。

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