【 一乗谷復原町並 】


一乗谷は足羽川に注ぐ一乗谷川によって形成された場所ですが、合流地点から約5Kmの所にある朝倉氏遺跡の辺りは、まだ谷というほどの狭隘(狭くゆとりが無いこと)感はありません。

一乗谷は、戦国時代に朝倉氏が城と館を構えて、その周りに家来や職人・商人をよび集めて住まわせた城下町であったところです。
朝倉氏は孝景(たかかげ)−氏景(うしかげ)−貞景(さだかげ)−孝景(たかかげ)−義景(よしかげ)の5代、約100年間一乗谷を本拠地にして越前国を支配していました。しかし、天正元年(1573)朝倉氏は織田信長に滅ぼされ、一乗谷は火災によって失われてしまいました。
その後、武家屋敷や町屋の跡は多や畑となって土に埋もれていましたが、400年たった今、発掘調査によって朝倉館をはじめ当時の城下町が再びよみがえりました。
また、東の山上には山城があって、いざという時に備えていました。
朝倉館や武家屋敷・町屋の跡などは発掘された状態で整備してありますが、一部は発掘調査に基づいて建物を復元しています。(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館のパンフレットから)

特別史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」では、戦国時代を伝える遺構が各所に整備されています。
ここ「復原町並」では、塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に作られた道路をはさんで武家屋敷や庶民の町屋が形成されていた様子が再現されています。
(一乗谷朝倉氏遺跡管理事務所のパンフレットから)
 
<画像1>
「復原町並」入口。
<画像2>武家屋敷跡
上の画像の入口を入って左前方に見える風景です。
<画像3>上の画像に写っているプレートにあった、この武家屋敷跡の案内図。
<画像4>門の跡。(画像2にも写っている門の跡です)
この場所は、画像14で確認していただけます。
<画像5>復原された町屋。この道をさらに進むと・・・、
<画像6>武家屋敷。
右側の塀の所々に門がありますが、一番手前の門が次の画像、その向こうが画像8〜12でご案内している門です。
一番向こうの門は「ガイダンス棟(復原模型などが展示してある)」があるところ。
<画像7>そのうちの1つを見ると、武家屋敷の跡です。
<画像8>ここは、復原された武家屋敷がある門です。
<画像9>復原された武家屋敷の平面図。
<画像10>門付近から、井戸と納屋。
<画像11>門付近から便所、塀中門、主殿の画像。
<画像12>主殿内部。
<画像13>ガイダンス棟にあった模型。復元した町並の南北約250m、東西約100mの地区全体を、50分の1の縮尺で現したものです。

画像8〜12で案内した復原武家屋敷は、この模型では左下に写っている一区画のものです。
また、画像7の「武家屋敷跡」は、その上に写っている区画のものです。
そのさらに上に並んでいるのが画像5の「町屋」です。
つまり、この模型に見える通りの向こう側からこちら側に向かって歩いてきたことになります。

また、この画像の右上に写っているところを向こう側から見ると次の画像です。
<画像14>この場所は、画像2・3・4に写っている場所です。
画像1・4の「門の跡」をこの画像で確認できます。どこだか分かりますか?
<画像15>
ガイダンス棟を出て、この出口から画像中央に写っている「朝倉氏館跡の西門」に向かいます。


PAGE TOP