【 本与板城(もとよいたじょう)跡 】


本与板城は与板城の北方2Kmの地点にあり、戦国時代の典型的な山城でした。
城主は、建武年間(1334)、新田義顕(にったよしあき)一族の籠沢入道(こもりさわにゅうどう)が最初と言われています。
その後、南北朝時代には中条与次郎景宗が居城とし、室町時代には越後の守護・上杉家家老の飯沼氏などが居城としました。
その後天文15年頃には上杉謙信の重将である直江景綱(はじめ実綱)の居城となり、信綱・兼続と直江家三代にわたり使用されました。
その後兼続は天正年間に与板城を築き、居城としました。(観光協会のパンフレットから)

(2009年3月11日訪問)

駐車場に車を入れて、画像右方向に100mほど進むと、

本与板城跡登り口があります。
「散策道工事中」の看板がありますが、3月15日放送の「天地人」は「御館の乱」を取り上げています。
早くしないと、ドラマが展開して兼続が与板に来てしまいます(つまり、観光客がやってきます)よ。

ここかたら散策道の始まりです。本丸跡まで10分くらいだったと思います。

散策道を進んで、実城まで100mの地点です。本丸のことを「実城(みじょう)」と言うようです。
「万歳閣旧跡まで40m」と書かれていましたので、そちらに行ってみました。

万歳閣旧跡

ここには昭和の始め頃まで、万歳閣・護国殿をはじめ七堂伽藍が建っていました。
万歳閣は、日清戦争における戦死者の慰霊仏二体が安置されていましたが、火災により昭和6年に焼失してしまいました。
護国殿は日露戦争における戦死者の慰霊仏二体が安置されていました。特に高さ14mの阿弥陀仏座像は与板大仏と称されていました。昭和7年風雪害のために倒壊してしまいました。
仏像は全て乾漆仏(かんしつぶつ)ですが、共に本与板光西寺住職藤井界雄が地元民の献身的な奉仕と、全国からの協賛を仰いで約30年の歳月をかけて造営したものです。
<画像に写っている案内板から>
 

散策道に戻り、実城まで40mの所まできました。

「一ノ郭二ノ郭間の大空壕跡」とあります。
散策道の先にある段を上って、画像右方向が本丸跡です。そうすると、画像左方向が二ノ郭だと思います。

上の画像にも写っていた段です。これを上ると、2つ下の画像の景色です。
その前に、30mほど直進したところに杭が見えるのでそこに行ってみます。それが下の画像です

井戸跡と書かれた杭でした。

2つ上の画像の段を上るとここ、「(コンクリート製だと思われる)本与板城址の碑」があります。

碑の裏側です。

碑の所から5つ上の画像の「大空壕跡」をはさんで、(たぶん)二ノ郭方向

本丸跡には、この石碑も建っていました。

上の画像を写した所から、「(コンクリート製だと思われる)本与板城址の碑」方向(白い杭のところ)の画像です。

2つ上の画像に写っている案内板です。

本丸跡からの眺め、信濃川の流れと与板橋です。

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