【 鮫ヶ尾城跡 】


天文19年(1550)に越後国主となった上杉謙信は、その生涯の大半を越後の内紛平定、北陸・北信濃・関東への遠征で費やしました。
武田信玄との5回にわたる川中島の戦いで、特に軍事的緊張が高まっていた信越国境付近の拠点として築かれたのが鮫ヶ尾城(さめがおじょう」)でした。謙信が築いた代表的な山城の一つで、険しい尾根や急斜面を削って築いた数十の郭や、要所に空掘、たて掘、よこ掘を配置し、土塁を構築した堅固な守りの城郭です。
鮫ヶ尾城に関する記録は乏しく、築城年代がはっきりしていませんが、謙信没後に勃発(天正6年〜)した「御館の乱(おたてのらん)」で焼き討ちにあって廃城になったことが古文書に記されています。
御館の乱は景勝と景虎の跡目争いで、天正7年(1579)に敗走する景虎が鮫ヶ尾城主の堀江宗親(ほりえむねちか)の謀反にあい、鮫ヶ尾城で自刃したことによって幕がおろされました。
最近の発掘調査では、御館の乱の存在を示す被熱した陶磁器片や炭化米が多量に出土しています。
(妙高市教育委員会の資料・案内板から)
昭和39年3月21日県指定史跡
平成20年7月28日国指定史跡

下の方にある2枚の画像は御館公園の画像です。

2008年7月30日訪問

管理棟。

鳥瞰図に本丸まで向かう道(登山道)が描かれています。
この道を登っていき、本丸の下の三叉路を右に進みました。
西の丸と米蔵の間の堀切、本丸と米蔵の間の堀切、米蔵、本丸を辿って、その三叉路に戻り、登山道を下って帰りました。

管理棟から本丸跡方向。本丸跡に設置されている東屋が見えるのですが、画像でははっきりしませんね。

・・・で、ズームです。これからあそこまで行ってみます。

管理棟の脇から続く登山道を歩いて25分ほどかかります。
 

汗をかきながら登ってきましたが、あと5分のようです・・・・。

画像にするとそうでもないように見えますが、けっこう急斜面を登ります。

本丸の下の三叉路の所まで来ました。ここを右に行きます。

西の丸跡と米蔵跡の間の堀切。
山麓(管理棟側)を背にしていますが、右側が西の丸跡で左側が米蔵跡です。

本丸跡と米蔵跡の間の堀切。
山麓(管理棟側)を背にしていますが、右側が米蔵跡で、左側が本丸跡です。

米蔵跡です。現在も米蔵跡からはその乱の時に焼けた米『焼き米』が出土するそうです。
文化財指定されている為、持ち出し禁止だそうですが、見つけてみたい!。

米蔵跡から堀切をはさんだ本丸跡を写しました。

米蔵跡の地面を小枝で少し掘ってみると・・・、米らしきものがありました!!!。
紙の上に乗せてみました。

接写してみましたが、米みたいでしょう!。

写真を写した後はまた元の所に戻して、土を被せておきました。

米蔵跡側から本丸跡。
画像左端の建物が管理棟から見えた東屋です。

本丸跡から米蔵後。

標高183mの本丸跡からは、高田平野を眼下に日本海や米山までを一望することができるそうですが、当日は見通しが良くなかったので日本海(この画像の左方向)は確認できませんでした。

米蔵跡側と反対側から本丸跡。

直江津駅の南西約600m(直線距離)の所にある御館公園。
「史跡御館」の石碑が立っている。でも、国か県の史跡なのかな・・・?。
御館は、謙信公を頼って越後に来た関東管領・上杉憲政の住居としても使われていた屋敷だそうです。

別角度で御館公園。
上の画像に写っている碑は、この画像の左上側「一時停止」の標識が写っているところ。

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