【 北墳丘墓 】

吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓(きたふんきゅうぼ」には、発掘された本物の甕棺が展示されています。

往時の北墳丘墓の規模は南北約40m、東西約27m以上で平面形が長方形に近い形になるものと推定されます。
北墳丘墓は黒色土を1.2mに盛った上に幾層にも様々な土を突き固めた版築(はんちく)技法で築かれています。現存高2.5mですが元来4.5m以上の高さを持った墓であった可能性があります。
これまでの調査で、弥生時代中期前半から中頃にかけての14基の大型成人甕棺が墳丘内から発掘されています。このうち、8基の甕棺からは、把頭飾付き有柄(ゆうへい)細形銅剣や中細形銅剣を含む銅剣8本やガラス製管玉79個など、被葬者の身分を示すと考えられる貴重な副葬品が出土しています。また、埋葬されていたのは成人だけであったため、おそらく特定の身分、それも歴代の首長および祭事をつかさどる身分の人の墓ではないかと思われます。

外観は往時の墳丘墓のままの姿形をしていますが、内部は発掘時の本物の遺構と甕棺が見られるように鉄筋コンクリート造で空洞になっており、遺構展示空間を確保しています。
内部構造は、遺構面を保護するために、地面に触れる部分は30cm以上の盛土を行なったうえオクタゴン形状(八角形)の平面形状を持つお椀をひっくり返したような、基礎のない特殊な構造になっています。

本物の遺構を露出展示するために、ポリシロキサン系樹脂を遺構麺に撒布し、ヒビ、カビ、コケの発生を防いでいます。また遺構面の湿度を80%に保つために専用の空調も整備されています。
(パンフレットから)

版築:中国式の土壇・土壁の築造法で、板枠の中に土を入れて突き固め、層を重ねてつくるもの。古代から現代まで行われている。


2008年8月19日訪問
 
吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓1
北墳丘墓展示館入口。
北墳丘墓の内部が展示室となっていて、発掘された状態の遺構面と甕棺を見学することが出来ます。
北墳丘墓の発掘当時の写真。

北墳丘墓の墓は、弥生時代の中頃、吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられています。
中からは14基の甕棺が見つかっており、一般の墓とは違い、ガラス製の管玉や青銅の剣など、貴重な副葬品が納められていました。北墳丘墓に葬られている人々の身分の高さを示しています。
(展示室の案内板から)
吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓内部
館内に入りました。(ほぼ南側を向いて写しています)

発掘によって明らかになった遺構面と甕棺で弥生時代への思いが高まります。
遺構面と甕棺

縄文時代には、人が亡くなると地面に穴を掘って、直接遺体を埋めていた土坑墓(どこうぼ)が、弥生時代になると、石棺(せっかん)や木棺(もっかん)や甕棺(かめかん)などに遺体を入れて埋葬することが始まりました。
(館内の案内板から)
北墳丘墓の甕棺配置図(どの甕棺から銅剣が発見されたかも記されています)。

吉野ヶ里遺跡の中には、墳丘墓の他に列状に甕棺が埋葬されていた墓地「甕棺墓列(かめかんぼれつ)」が見つかっています。しかし北墳丘墓の甕棺は、甕棺墓列のものと比べてサイズが大きいこと、銅剣や管玉など数々の副葬品をともなっていたこと等から、身分の高い人物を埋葬した墓であると考えられています。
また、北墳丘墓では14基の甕棺が発見されたのに対し、甕棺墓列の場合、同じ面積で比較すると100基以上の甕棺が見つかっています。さらに北墳丘墓の近くにも列墓が見つかっていますが、その分布を見ると、北墳丘墓の周りには空白があり、北墳丘墓が隔絶されていることがわかります。
このように一般の人々が埋葬されていたと見られる列埋葬とは際立った違いを見せる大型墳丘墓(北墳丘墓)の出現は、この時代の社会が大きく二つに階層分化していたこと、つまり、首長・祭事者といった特定身分によって統括・指導される政治的社会(クニ)が成立していたことを裏付けています。(管内の案内板から)
遺構面と甕棺

北墳丘墓では、大型甕棺を2個合わせて、そこに大人の遺体をおさめるという葬法「大型合口甕棺(おおがたあわせぐちかめかん)」が用いられた棺が14基出土しています。こらら甕棺による埋葬方法は、現在の所、日本では佐賀や福岡を中心とする北部九州でしか発見されていない特徴的な方法です。こうして組み合わされた甕棺の大きさは、長さ約2mにもなります。(館内の案内板から)
吉野ヶ里遺跡 北墳丘墓 甕棺
甕が2つ合わさっていた状況がわかります。


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