【 稲荷山古墳(いなりやまこふん) 】

行田市の「さきたま古墳公園」にある稲荷山古墳(いなりやまこふん)です。同じ名前の古墳は各地にあるようで、埼玉稲荷山古墳と呼ばれることもあるそうです。
前方後円墳で、1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設(礫槨と粘土槨)が発見されました。そのうちの、礫槨(れきかく)は良く残っていて、多くの副葬品が出土しました。
その一つである「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」からは1978年に115文字の金象嵌の銘文が見出され、他の埋葬品とともに1981年に国宝に指定されています。
<案内板から>

「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」などの出土品は、さきたま古墳公園内にある「埼玉県立さきたま史跡の博物館」に展示されています。

2008年11月12日訪問

「さきたま史跡の博物館」の入場券に印刷されている、鉄剣の銘文の一部。
「獲加多支鹵大王」は「ワカタケルダイオウ」と読み雄略天皇をさすとするのが一般論ですが、「獲」を別の意味と捉えて「加多支鹵大王」を人名として「カタシロダイオウ」と読む説もあるようです。
さきたま古墳公園の案内図です。
埼玉いなりやまこふん
将軍山古墳側から見た「稲荷山古墳(いなりやまこふん)」です。
稲荷山古墳
丸墓山古墳の上から見た「稲荷山古墳(いなりやまこふん)」です。
稲荷山古墳(いなりやまこふん)の上には昇ることができます。
こちらは、前方側からの階段です。
案内板にあった復原図。
全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤(ちゅうてい)をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には「造出し(つくりだし)」と呼ばれる張出しがあります。古墳が作られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に作られた古墳です。前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復原されました。<案内板から>
前方部から後円方向の画像です。
後円部の頂上にあった礫槨(れきかく)の埋葬想定図。
1968年の発掘調査で、後円部の頂上から二つの埋葬施設が発見されました。一つは素掘りの竪穴で、粘土を敷いた上に棺を置いた粘土槨(ねんどかく)、もう一つは船形に掘った竪穴に川原石を貼り付けて並べた上に棺を置いた礫槨(れきかく)です。
粘土槨は掘り荒らされていて遺物は僅かでしたが、礫槨からは「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」をはじめとする豊富な副葬品が出土しました。それらは「埼玉県立さきたま史跡の博物館」に展示されています。<案内板から>
後円部の頂上に復元された埋葬施設。
手前が礫槨(れきかく)、向こう側が粘土槨(ねんどかく)です。


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