【 安土城跡(あづちじょうあと) 】

35年ぶりに特別史跡「安土城跡(あづちじょうあと)」を訪問しました。
再度とはいえ、当時の様子は全く覚えていないので初めての訪問と同じようなものでした。
大手道(急な石段)を上り、「大手道周辺」「天主跡周辺」「三重塔周辺」の順で巡りました。

安土城は、織田信長が天下統一を目標に天正4年(1576)1月17日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行にして、標高199mの安土山に築城させた平山城です。
岐阜城よりも京に近い利便性があるとともに、北陸・東海の要所でした。
現在は、干拓によって四方とも陸地になっていますが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ、南方だけが開けた地形でした。
そのわずか3年後の天正7年5月、わが国で初めて天守閣(天主閣)をもつ安土城が一応の完成をみせました。
ところが天主完成から3年目の天正10年(1582)6月2日未明、中国毛利へ出陣途中の明智光秀の謀反により、信長は本能寺で自刃(49歳)しました。混乱の中6月15日、天主などを焼失、一夜のうちに落城しました。
原因は織田信雄が誤って焼き払ったという説や、敗走する明智光秀軍による放火という説などが有力です。
<パンフレットから>

(2009年11月23日訪問)
 
8:05頃、ハ見寺(そうけんじ)の受付で入場料を支払って、この大手道を上ります。
ハ見寺は滋賀県蒲生郡安土町安土城跡にある臨済宗妙心寺派の寺院で、天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって城郭内に建立された。
ところで、入場料を徴収しているってことは、安土城跡は総見寺の所有地なんだろうか?。
伝羽柴秀吉邸跡(下段の郭)です。
ここは、織田信長の家来であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝えられる屋敷の跡です。
大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭(くるわ)で構成されています。
この画像は下段の郭です。
伝羽柴秀吉邸跡の平面図です。
大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭(くるわ)で構成されています。
下段郭の入口には壮大な櫓門が建っていました。1階を門2階を渡櫓とする櫓門は近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。
門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍(とおさむらい)と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。

下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場になっています。背面の石垣裾に設けられた幅2mほどの石段は上段郭の裏手に通じています。

上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手道に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち防備を固めています。
門を入ると右手に台所があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。さらにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366平米あり、この屋敷では最大の規模を持っています。

戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにた羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる貴重なものといえます。<案内板から>
上の案内板があった場所です。
上の画像の場所から、大手道を挟んで「伝前田利家邸跡」方向です。
大手道の手前は櫓門が建っていた、下段郭の入口です。
大手道から見た、伝羽柴秀吉邸上段郭跡です。
この下4枚の画像は、この画像に写っている案内板のものです。
伝羽柴秀吉邸復元図です。
崩壊した石垣隅部の状況。
修復後の石垣隅部です。
伝羽柴秀吉邸主殿
安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人の生活のために使われていた中心的な建物を主殿といいます。
この屋敷では主殿の手前に式台・遠侍、奥に内台所が接続して複雑な構成になっています。主殿入口は、建物東部に設けられた玄関です。
「玄関」を入ると「式台」の間があり、ここで来客は送迎の挨拶を受けます。その背後には、武士が控える「遠侍」の間が置かれています。式台を左に進むと主殿に出ます。畳を敷いた幅1間の廊下の西は、2間続きの座敷になっています。西奥の部屋が床を背に主人あるいは上客が着座する「上段の間」です。
上段の間の南には主人が執務を行なう「付書院」が付属しています。南側の「広縁」は吹き放しで、その東端に「中門」が突出しています。広縁の途中にある「車寄」は、最も大事な客(例えば秀吉邸を訪れた信長)が直接上段の間に入るための入口で、上には立派な軒唐破風が架けられています。
主殿のさらに奥には、簡単な配膳を行なう「内台所」や「遠侍」が接続しています。
伝羽柴秀吉邸の上段郭跡(画像右側がその入口)付近から大手道下部方向(大手門方向)です。
画像左側の石橋は伝徳川家康邸跡(現:ハ見寺(そうけんじ)ハ見寺(そうけんじ)仮本堂)へ続きます。
大手道から見た、伝徳川家康邸跡(現:ハ見寺仮本堂)方向です。
ほぼ直線に石段を上ってきた大手道が、左にほぼ直角に折れます。
大手道跡の石仏。
本丸・天主に到る先は、同じように険しい石段が2〜3折れ続いています。
伝武井夕庵邸跡。
上の画像を写した辺りから大手道方向です。
長く続いた石段を上りました。
この先が天主・本丸跡方向です。
黒金門跡です。
黒金門跡付近にあった本丸・天主跡付近の平面図です。
黒金門跡と本丸跡の間にあった仏足石(室町時代中期)。
築城当時、単なる石材として集められ石垣に使われていてと思われる。
昭和初期の登山道整備の時、この付近の崩れた石垣の中から発見されました。<案内板から>
二の丸跡で、この先に信長廟があります。
信長廟の門です。
信長廟です。
本丸跡です。
天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50m南北約34mに細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。
<案内板から>
この下2枚の画像は、この画像に写っている案内板のものです。
本丸遺構平面図です。
昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西役34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。
7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。4〜6寸(12〜18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。<案内板から>
本丸跡建物復元図

礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常に良く似ていることが分かりました。豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復元したのが上の図です。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。
なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか?。『信長公記』には、天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。
信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか?。<案内板から>
天主台跡です。
安土城の天主は、完成してからかずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失しています。その後は訪れるもの者もなく、長い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。
この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在に到っています。
安土城天主は、記録から地上6階、地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。
画像に写っている場所は地階部分ですが、天主台の大きさは、これよりはるかに大きく2倍半近くあります。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることは出来ません。
<画像に写っている案内板の記述>
建設当時の天主台を復元した図です。<案内板から>
案内板がある方向から、入口の石段方向です。
織田信雄四代供養塔(左から二代高長、三代長頼、四代信武、初代信雄)です。
ハ見寺(そうけんじ)跡
ハ見寺は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。
天主と城下町を結ぶ百々橋口(とどばしぐち)道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長の所へ参上したことが数々の記録に残されています。
本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼を免れましたが、江戸時代末期の嘉永7年(1854)に、伽藍の中枢部を焼失してしまいました。
その後大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に到っています。
ハ見寺(そうけんじ)跡、復元平面図です。<案内板から>
ハ見寺(そうけんじ)跡と三重塔です。<案内板の画像>
三重塔です。
三重塔の一層屋根です。
三重塔付近から二王門方向の画像です。
三重塔側から見た二王門です。
二王門は重要文化財です。
正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を「三間一戸(さんげんいっこ)楼門」といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け、金剛力士の像をまつるため二王門と名付けている。
この門は棟木に元亀2年(1571)の建立を示す墨書銘があるが、織田信長が天正4年(1576)築城に着手し、あわせてハ見寺を建てるに際し甲賀郡から移築したと伝えられています。
木造金剛力士立像は応仁元年(1467)の作で、重要文化財に指定されています。
二王門付近から麓方向です。

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