【 足利学校 】


日本最古の学校、国指定史跡の足利学校です。

足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁(おののたかむら)説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(しょうしゅ:学長)制度を設けるなどして学校を再興した頃からです。
また、天文19年(1550)にはフランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになりました。
江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年をもって廃校になりました。
その後、昭和57年に着手された「史跡足利学校跡保存整備事業」により、平成2年12月江戸中期の姿に蘇りました。
<パンフレットから>

2008年9月23日訪問
 
8:58頃、足利学校への入口、入徳門(にゅうとくもん)です。奥のほうに見えている門は「学校門(がっこうもん)」です。
寛文8年(1668)の創建で、天保11年(1840)に「入徳」の額が掲げられました。<パンフレットから>
入徳門を入り、参観券売り場の前から「学校門」方向を写しました。
学校門に向かう途中にある孔子像です。
学校門に向かう途中にある稲荷社です。
学校門(がっこうもん)です。
奥に見えるのは杏壇門(きょうだんもん)です。
学校門の創建も寛文8年(1668)の創建です。<パンフレットから>
学校門をくぐったところから、杏壇門(きょうだんもん)です。
旧足利学校遺蹟図書館(いせきとしょかん)です。
足利学校が廃校になった以後、明治36年(1903)に遺蹟図書館(いせきとしょかん)が開設され、書物を継承し現在に引き継がれています。<パンフレットから>
現在の建物は大正4年8月に建設されたもので、屋根は入母屋造桟瓦葺で、基礎及び外壁はレンガ積みをした上にそれぞれ石材や漆喰で仕上げてあります。和風の屋根、洋風の外壁・内装など和洋折衷の様式やポーチの懸魚(げぎょ)・蟇股(かえるまた)・格天井(ごうてんじょう)などの造りや、飾り瓦などに意匠的特長の見られる大正時代の建造物として貴重な存在です。
足利学校保存整備事業の一環として、平成6年度県の「輝くまちづくり事業」により屋根を中心に改修しました。<案内板から>
杏壇門(きょうだんもん)です。
明治25年(1892)に町の大火の飛び火により屋根門扉が焼け、同30年代に再建したものです。杏壇は孔子が弟子たちを教えたところに、杏の木が植えられていたことに由来しています。<パンフレットから>
門の額(複製されたもの)です
孔子廟の大成殿です。
儒学の祖の孔子をまつる廟で、大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門(きょうだんもん)を開いています。
大成殿は寛文8年(1668)に建てられました。正面5間、側面6間、屋根は数寄屋造で本瓦葺、周囲に裳階(もこし)と呼ぶ庇を付けています。内部の正面中央に孔子像、右に小野篁(おののたかむら)像、左に徳川家康の神位などを安置しています。杏壇門は、明治25年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて5年後に再建されました。<案内板から>
孔子坐像。
小野篁(おののたかむら)は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、三蹟の一人である小野道風は孫だそうです。
復元された方丈です。
方丈は学生の講義や学校行事、また来客のための座敷として使用されたところです。<パンフレットから>
復元された裏門です。
学生や一般の人の通用門として使用されました。<パンフレットから>
方丈の中にあった、足利学校の模型です。
紅白の花(梅かな?)の所にあるのが学校門、その上方が杏壇門と孔子廟、その右側が復元方丈です。
方丈にあった、保存整備事業終了後の航空写真。
方丈にあった、保存整備事業前の航空写真。
石祠
これは弁財天を祀った祠で、昭和57年(1982)から行なわれた足利学校跡の発掘調査の際北庭園から出土したものです。往時は(下の)絵図面にあるように池の中島に祀られたいました。祠には「奉造営 弁天宮 當処 内田文右衛門平勝 元文三戊午天(一七三八)十一月吉日」と文字が彫られています。現在中島にあるものは複製です。
<案内板から>
北庭園の池の中島を描いた絵図面
絵図面など元に復元された北庭園と中島です。
方丈に展示してあった 扁額「學校」
寛文八年(一六六八)
 蒋竜渓(しょうりゅうけい)筆
 上左兵衛尉狛高康(じょうさびょうえのじょうこまたかやす) 縮模
 土井能登守利房(どいのとのかみとしふさ)  寄進

寛文8年以来のもので、孔子廟と共に現存する最も古いものの一つです。当時足利学校には蒋竜漢(一説には明の公使)による「學校」の書があったのですが、新しい門に掛けるには大きすぎたため、、書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に縮小模写を依頼し、この扁額が完成しました。現在の門にかかっているいる扁額はこれを元に複製されたものです。以来、扁額の掛けられている中門は學校門と呼ばれ人々に親しまれています。<案内板から>
方丈に展示してあった 篇額「杏壇(きょうだん)」

天保14年(1843)徳川治宝(とくがわはるとみ)筆

篇額「杏壇」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(きい じゅいちい ぜんだいなごん とくがわはるとみ:和歌山藩十代藩主)の筆によるものであって、天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治25年、足利町に起きた大火の折黒こげとなってしまいました。現在の門にある扁額はこれをもとに複製されたものです。「杏壇」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所を指すようになり、さらには広く学問・研究をする所を意味するようになりました。<案内板から>
国道293号の陸橋の上から足利学校の眺めです。


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