【 鑁阿寺ばんなじ足利氏宅跡) 】



鑁阿寺ばんなじ)境内は面積12300坪、四周に壕と土塁をめぐらし4門があります。
元は、開基足利義兼の祖父源義国(源義家の子、足利・新田両家の祖)が別業として平安時代末に構築したもので、上古の豪族の居館を原形のまま今日に残したものです。近世城郭の原始を示しており、足利氏宅跡として大正11年に国の史跡に指定されました。
その後、足利義兼(よしかね:尊氏から7代前)が鎌倉時代初期(1190年代)に邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗金剛山鑁阿寺を設立しました。
鎌倉時代の建物本堂、鐘楼、東門、西門
室町時代の建物一切経堂、山門(仁王門)
江戸時代の建物多宝塔(再建)、御霊屋(おたまや:再建)、校倉(大黒堂)
<案内板から>

別業(べつぎょう):1 別の職業・事業。2 別荘

2008年9月23日訪問
 
境内にあった案内図です。
@から西門の前を通り、A経由山門から境内に入りました。
7:43頃、案内図の@地点です。
案内図@から、西門・A方向の画像です。
鑁阿寺(ばんなじ) 西門
西門です。

向こう側の東門と共に栃木県指定の文化財です。
本瓦葺、切妻造り、四脚門、開基足利義兼の創建といわれるが、永享4年(1432)公文所奉行の再修になる。
昭和32年国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。<案内板から>
重厚感のある四脚。
A地点から西門方向です。
A地点から山門方向です。
鑁阿寺(ばんなじ) 山門
山門と反橋は栃木県指定の文化財です。
鑁阿寺(ばんなじ) 山門
山門(仁王門):栃木県指定の文化財
開基足利義兼公が建久7年(1196)創建したが、室町時代に兵火にあい、永禄7年(1564)足利幕府13代将軍足利義輝の再建です。<案内板から>
鑁阿寺(ばんなじ) 反橋
反橋(そりばし)は江戸時代安政年間の再修です。
正面から見た、反橋と山門です。
鑁阿寺(ばんなじ)の反橋
別角度で反橋です。
反橋の上から、(案内図)B方向です。
反橋を渡って、(案内図の)A方向からの画像です。
鑁阿寺(ばんなじ) 本堂
本堂(大御堂)です。
鎌倉時代初期、建久7年(1196)足利義兼の建立で、本尊は源氏相伝の守本尊である大日如来です。
明治41年に国宝に指定され、昭和8年から2年間解体修理を実施しました。
戦後文化財保護法の改正によって重要文化財の指定になりました。<案内板から>
本堂内部です。
本堂前から山門方向です。
別角度で本堂です。
鑁阿寺(ばんなじ) 鐘楼
鐘楼です。
鎌倉時代初期、建久7年(1196)足利義兼の建立で、明治41年に国宝に指定され、大正5年に解体修理を実施しました。
戦後文化財保護法の改正によって、昭和26年に重要文化財の指定になりました。
昭和36年と平成4.5年に半解体修理を実施しました。<案内板から>
鑁阿寺(ばんなじ) 大銀杏
天然記念物、大銀杏です。
開基足利義兼のお手植えと称しているが、鎌倉時代末期正和年間(1310)の当山の古地図には載っていない。
故三好学博士の鑑定によれば樹齢約550年といわれる。
目通りの周囲約9m、高さ約30mで、往古から避雷針の役目を果たし、諸堂の災厄を守護した。<案内板から>
鑁阿寺(ばんなじ) 多宝塔
多宝塔(県指定文化財)
足利義兼の創建と伝えられ、現在の塔は元禄5年徳川綱吉の母桂昌院の再建と伝えられていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629)銘のものが発見され、塔の再建年代が遡ることが判明した。
徳川氏は新田氏の後裔と少子、新田氏は足利の庄から新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以ってこの宝塔を祖先の菩提供養のために再建寄進した。
本尊は金剛界大日如来、本尊前に勢至菩薩両側に十六羅漢像を祀り、奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍の位牌を祀る。平成7・8年に半解体修理を実施した。<案内板から>
不動堂
本堂が明治41年に国宝に指定(後に、法の改正により重文)されるまでは、この不動堂と廊下でつながっていて四度加行(しどけぎょう)の護摩法の道場として使用した堂宇である。<案内板から>
北門です。門を通して見えているのは本堂の背面です。
東門(向こう側が境内方向)です。
鑁阿寺(ばんなじ) 東門
東門も 向こう側の西門と共に栃木県指定の文化財で、開基足利義兼の創建といわれるが、永享4年(1432)公文所奉行の再修になる。
本瓦葺、切妻造り、四脚門で形状は簡古、手法稚朴であり鎌倉時代の武家造りの剛健な風格がしのばれる。正和年間(1310年代)の当山伽藍配置図にも東西の両門が描かれている。
昭和32年国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。<案内板から>
迫力のある四脚。
鑁阿寺(ばんなじ) 一切経蔵
国指定重文の経堂
開基足利義兼が鎌倉時代に創建したといわれるが、現在の建物は応永14年(1407)関東管領足利満兼により再建された。<案内板から>
御霊屋
創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川11代将軍家斉の寄進によって再建された。本殿に源氏の祖を祀り拝殿に足利15代将軍を祀る。<案内板から>
大酉堂(おおとりどう)
足利尊氏を祀るお堂として室町時代に建立された。当山に残る寛政2年及び明治5年の伽藍配置図には足利尊氏公霊屋と現在地に記載されている。明治中期から足利尊氏逆賊の皇国史観が台頭し、41世忍禅上人は甲冑姿の尊氏公木像を本坊に移し、当山伝来の大酉大権現(俗におとり様といわれている)を本尊とした。<案内板から>
校倉(大黒堂)。
庚申と刻まれた石がたくさん並んでいます。その向こうに分福観音と標記された像が立っています。
蛭子堂(ひるこどう)
時姫堂とも称し、足利義兼の妻北條時子(源頼朝の妻北條政子の妹)を祀り、時子の法名から智願寺殿ともいう。創建年代は不詳。<案内板から>
御霊屋、大酉堂、校倉、庚申石の位置関係です。


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