【 下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと) 】


下野市(旧河内郡南河内町)の下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)を訪問しました。

下野薬師寺は、奈良時代には、東大寺・観世音寺とともに三戒壇の一つに数えられました。
また、道鏡が宇佐八幡宮神託事件により左遷されたのも下野薬師寺です。

2008年9月22日訪問
 
下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)は、国指定史跡です。
講堂跡付近の案内板にあった復元図です。
下野薬師寺 講堂跡
講堂跡(上の画像は、この案内板のものです)
上の画像を写したところで振り返ると、復元された回廊建物があります。
講堂から西回廊に繋がる部分です。
下野薬師寺 復元された回廊建物
講堂跡と復元回廊建物の中間点付近です。
上の画像を写した場所で振り返って、講堂跡方向です。
復元回廊建物から西回廊跡方向です。
復元設計図(梁間断面図)です。<案内板から>
西回廊跡の中間付近まで進みました。
上の画像を写した場所で振り返って、復元回廊建物の画像です。
上の画像を写した付近で回廊跡の内側を見ると、六角堂があります。
下野薬師寺 戒壇跡
六角堂は、かつての下野薬師寺戒壇跡と伝えられる場所に建てられています。
江戸時代には、釈迦堂と呼ばれ、その姿は文化2年(1805)に刊行された『木曽路名所図会』によっても確認できます。
現存する建物は、近年に修繕された部分も少なくありませんが、部分的に江戸時代後期の様式をとどめています。また、その名のとおり、建物の形、さらに屋根・外回りの柱・礎石までが正六角形造りの県内でも珍しい仏堂です。
現在では、下野薬師寺跡のシンボル的な存在にもなっています。内部中央には、鑑真和上の画像を収めた厨子が安置されており、両脇には木造の不動明王像・韋駄天像などが祀られています。平成7年10月南河内町教育委員会<案内板から>
西回廊跡の南端です。
振り返って、復元回廊建物方向です。
上の画像を写した場所の復元図です。

回廊は、金堂など寺院の中心となる建築群を囲み聖的空間を構成します。通路や、儀式における僧侶の座としても使われました。
南西角の調査で屋根に葺かれていた大量の瓦が発見されました。男瓦(おがわら)と女瓦(めがわら)が屋根上に葺かれていたままの状態のものもありました。これは回廊が倒壊した状況を示すものです。倒壊原因は不明ですが、倒壊時期は、出土した土器から10〜11世紀頃と考えられます。
瓦葺き屋根の回廊には水道山瓦窯(すいどうやまがよう:宇都宮市)で生産した瓦が供給されました。
回廊のやや南側からは瓦の廃棄穴である瓦溜り(かわらだまり)が発見され、多量の瓦とともに焼土・木炭・焼けた壁土などが出土しました。
この出土遺物から、下野薬師寺の主要建物が焼失を受けたことが考えられます。
<案内板から>
中門跡はあの竹林の辺りでしょうか・・・。
2つ上の案内図で、「外郭施設」の南西角から西門跡方向。
上の画像を写したのと同じ場所から、「外郭施設」の南門跡方向です。
そちら(東方向)に歩いていきます。
一番最初に掲載した画像のこの案内板は、案内図では南門跡付近にあります。
さらに東に進むと「安国寺」があります。
安国寺山門とその向こうに本堂です。

安国寺(あんこくじ)は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならって全国に安国寺を建立した際、下野国には薬師寺が存在することから安国寺を建てることなく、そのまま安国寺と寺名改称したと伝えられています。
当時はまだ下野薬師寺の伽藍配置が姿を留めていたと考えられますが、元亀元年(1570)に北条氏政の兵火によりその大半が焼失したと伝えられています。
現在は、真言宗の寺院で薬師如来を本尊としています。境内は、七世紀後半に創建された日本三戒壇の一つとして知られる史跡下野薬師寺跡の中枢部に位置しており、白鳳文化の香りを現在に伝えています。現在の本堂は明治38年に再建されたもので、近世以前の建物は六角堂と山門の一部を残すのみです。
平成8年3月南河内町教育委員会<案内板から>
別角度で、安国寺山門です。


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