【 妻木晩田遺跡 】

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、大山町から米子市淀江町に所在する国内最大級の弥生集落遺跡です。
遺跡の面積は156ヘクタールにもなり、発掘当時国内最大級とされた吉野ヶ里遺跡(当時32ヘクタールですが、現在は調査が進み約2倍の面積になっています。)の2.5倍にも及ぶ大規模なものです。
大山山系から続く「晩田山」上にあって、美保湾を一望できます。
この妻木晩田遺跡から島根県安来市に続く地域は、弥生後期に栄えた古代出雲の中心地であったと考えられます。
<パンフレットから>

(2009年9月24日訪問)
 
9:00頃、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)展示室に着きました。
妻木晩田遺跡全景です。<展示室にあった案内板から>
展示室前にあった案内図です。
訪問当時公開されていたのは妻木山地区と洞ノ原地区の2箇所でした。
少し高台になっている、妻木山地区のこの場所では、覆屋で保存された3棟の竪穴住居跡が見学できます。
<案内板から>
覆屋内の竪穴住居跡です。
竪穴住居跡復元図です。<案内板から>
第119竪穴住居跡出土鏡、全体の半分ほどの破片です。<案内板から>
第117竪穴住居跡出土土器、9固体の壺や甕・器台(きだい)が出土しました。<案内板から>
高台から眺めた妻木山地区、復元建物の建設中でした。
ここから下は「洞ノ原(とうのはら)地区」です。
上の画像の案内板があったところから骨格復元竪穴住居方向。
上の画像の左側。
上の画像の左側、復元土屋根竪穴住居です。
骨格復元竪穴住居です。
洞ノ原(とうのはら)10号掘立柱建物
この建物は東西方向に2本南北方向に3本、併せて6本の柱が不揃いに並ぶほぼ正方形の建物です。倉庫と推定される建物とは柱配置が異なることと、墳丘墓群に向かって建てられていることから、先祖の墓を祀る建物ではないかと推定されます。
ここでは棟持柱を持つ高床建物として復元しています。
大きさ:長辺2.9m、短辺2.8m、面積約8u
<案内板から>
ここから下は洞ノ原墓石群です。
洞ノ原地区には1世紀中頃から2世紀前半にかけて、25基のお墓が作られました。このうちの11基は、その形状から「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる山陰地方の有力者が好んで作ったお墓です。また、大きなお墓の周りに1辺1〜2mの小さなお墓がいくつもあります。大きなお墓に眠る有力者の子供のお墓でしょうか。<案内板から>
このほか、妻木晩田遺跡には仙谷地区松尾頭地区に墳墓群がありますが、この洞ノ原墳墓群はこれらのうち最も古いものです。ここには「妻木晩田のムラ」を築いた人たちが眠っているのかもしれません。<案内板から>
復元された洞ノ原1号墓
妻木晩田遺跡で最初に作られた四隅突出型墳丘墓です。墳丘の裾および斜面にはていねいに石を貼り付けています。北側の突出部がやや長く、踏石を並べて墓道として使われたと考えられます。墳丘上には壺・甕・高坏等の土器が供えられているのが発掘されました。<案内板から>

四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は長方形をした高まり(墳丘)の四隅を突出させて、周りに石を貼ったお墓です。
2つ下に紹介している、最初に造られた王の墓(洞ノ原2号墓)は、四隅が突出していませんでしたが、続く二代目の王の墓(洞ノ原1号墓)で初めて四隅突出型墳丘墓が出現し、以後、次々と造られていきました。
妻木晩田遺跡が最も栄えた約1800年前には、出雲市の西谷3号墓のような長さ50mを越える巨大な四隅突出型墳丘墓も出現します。しかし、妻木晩田遺跡ではこの時期の墓はなぜか見つかっていません。妻木晩田遺跡最大の謎です。
古墳時代の始まりとともに四隅突出型墳丘墓は姿を消し、新しい時代の首長の墓として前方後円墳が広く全国に見られるようになります。妻木晩田遺跡にも晩田山(ばんだやま)3号墓などの前方後円墳が築かれています。
<展示室の記述から>

時期:弥生時代後期初頭(約2000年前)
規模:長辺6.5m、短辺5.4m、高さ0.4m(突出部を含めた長辺は8.9m)<案内板から>
洞ノ原1号墓、発掘時の様子です。<案内板から>
洞ノ原2号墓
1号墓より早く、妻木晩田遺跡で最初に造られた方形墳丘墓です。墳丘の裾には大きめの石を立てて並べています。斜面には石を貼りつけ、東隅には大きな石が置かれていました。墳丘上には壺・甕・脚付鉢等の土器が供えられているのが発掘されました。
時期:弥生時代中期末〜後期初頭
規模:長辺8.4m、短辺6.9m、高さ0.5m<案内板から>
洞ノ原2号墓、発掘時の様子です。<案内板から>
洞ノ原6号墓(小型方形墳丘墓)<案内板から>
発掘時の洞ノ原6号墓です。<案内板から>
洞ノ原墓石群側から洞ノ原(とうのはら)10号掘立柱建物方向です。
洞ノ原墓石群から、美保湾・弓ヶ浜方向です。
晩田山古墳群の案内図
弥生時代後期後葉(2世紀後半)に最も栄えた妻木晩田遺跡も3世紀になるとしだいに衰えていきます。古墳時代になると建物がほとんどなくなり古墳がつくられました。この洞ノ原地区にも30基あまりの古墳があり「晩田山古墳群」とよばれています。ここから環濠地区を見下ろすと小山が点々と見えますがその一つ一つが古墳なのです。洞ノ原地区には弥生時代の墳墓群もあります。弥生時代の有力者も古墳時代の有力者もこの眺めの良い場所で安らかに眠りたいと思ったのでしょう。<案内板から>
晩田山古墳群は、洞ノ原地区東側丘陵の南側にあります。
上の画像の案内板があった付近から環濠地区を見下ろした画像です。
この辺りで「ぐるっと」映してみました。
音は消しています。
発掘調査中の晩田山3号墳です。<案内板から>
晩田山29号墳です。<案内板から>
上は墳墓エリアから「洞ノ原地区西側丘陵」方向の眺めです。
下は現地にあった案内図です。
洞ノ原地区西側丘陵(環濠地区)の案内図です。
上の画像のB、草屋根竪穴住居です。
上の画図尾を移した付近から、土屋根竪穴住居・高床倉庫方向です。
土屋根竪穴住居です。
高床倉庫です。
上の画像の左側は、「伯耆古代の丘公園」方向です。
この画像中央部をズームで写すと次の画像、
伯耆古代の丘公園にある高さ15mで復元された高床建物が見えました。
この辺りで「ぐるっと」映してみました。
音は消しています。
洞ノ原地区西側丘陵(環濠地区)から、洞ノ原地区東側丘陵方向です。
「復元した環濠」部分です。
上の画像を写した場所で振り返って写しました。
環濠が埋まっている部分です。

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