誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く

第二次世界大戦をこの『裏切られた自由』に触れずして語ることはもはやできない、と渡辺さんはあとがきで書いています。

誰が第二次世界大戦を起こしたのか
フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く

 本書は、アメリカ大統領ハーバート・フーバーの大著『裏切られた自由』を翻訳した渡辺惣樹氏が、同書の読みどころを紹介しながら「日米戦争史」の真実を提示する一冊です。

誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く 渡辺惣樹著

 渡辺さんはあとがきで、「第二次世界大戦をこの『裏切られた自由』に触れずして語ることはもはやできない。あの戦争は始まりも終わりも腑に落ちないことばかりであった。『裏切られた自由』にはその「不可思議さ」を解く重要なヒントが溢れている。」とお書きです。
 そして第二次世界大戦にいたった真の原因は、実はルーズベルト外交にあったのだという『裏切られた自由』の主張を分かりやすく紹介しています。

 ルーズベルトの悪行については、ルーズベルトの開戦責任:大統領が最も恐れた男の証言(ハミルトン・フィッシュ著、渡辺惣樹翻訳)も参考になります。

 渡辺惣樹さんの「誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いたら、是非本書を手にしていただければと思います。



目次

 はじめに 7  

 一章 ハーバートーフーバーの生い立ち 13
少年時代 13 /  スタンフォード大学時代、豪州での経験 17  /  中国時代、鉱山開発事業 20 /  ロンドン時代、ビルマでの起業 24 /  第一次世界大戦と食糧支援 27 /   商務長官時代、大統領時代 31  

 二章『裏切られた自由』を読み解く その一:共産主義の拡散とヨーロッパ大陸の情勢 39 /  「編者序文」を読み解く:なぜ出版が遅れたのか、歴史修正主義とは何か 39 /  ルーズベルト外交の最初の失敗、ソビエトの国家承認 46 /  1938年(開戦前年)の分析 54 /  ヒトラーとの会談 63 /   チェンバレンとの会談 66  

三章『裏切られた自由』を読み解く その二:チェンバレンの「世紀の過ち」とルーズベルトの干渉 71
ルーズベルトの尻尾が見えた「隔離演説」 72 /  行動を起こしたヒトラー (一)ズデーテンラント併合とミュンヘン協定 79 /  行動を起こしたヒトラー (二)チェコスロバキアの自壊 86 /  チェンバレンの世紀の愚策、ポーランドの独立保障 89 /  バーゲニング・パワーを得たスターリンと外交的袋小路に入ったチェンバレン 95

 四章『裏切られた自由』を読み解く その三:ルーズベルトの戦争準備 105
中立法修正、干渉主義の最初の勝利 106 /  国民世論工作 111 /  武器貸与法 118 /  独ソ戦 122 /  戦争への道:ドイツと日本を刺激する(一)大西洋憲章の嘘 128 /  戦争への道:ドイツと日本を刺激する(二)日本を追い込む 136 /  真珠湾攻撃(一)前夜 142 /  真珠湾攻撃(二)調査委員会 148

 五章 連合国首脳は何を協議したのか 155
二回のワシントン会談 対独戦争優先の決定、原爆開発 158 /  カサブランカ会談 無条件降伏要求 162 /  カイロ・テヘラン会談(一)第一回カイロ会談  167 /   カイロ・ーテヘラン会談(二)テヘラン会談前夜 172 /   カイロ・テヘラン会談(三)テヘラン会談 179 /  第二回モスクワ会談 184 /  ヤルタ会談(一)FDR、死に至る病 187 /  ヤルタ会談(二)表の合意 191 /  ヤルタ会談(三)裏の合意(秘密協定)、極東合意 198 /  ルーズベルトの死とトルーマン副大統領の昇格 203 /  ポツダム会談 206 /  原爆投下 214

 おわりに 219
  


はじめに

 1941年12月8日は米国時間で言えば真珠湾攻撃の翌日にあたる。この日、ハーバート・フ ーバー元大統領(第31代:任期は1929~33年)は、一通の手紙をしたためた。その手紙は次のようなものだった(『裏切られた自由』「付属関連文書」史料。以下、『裏切られた自由』からの引用については、書名を略す)。

 〈1941年12月8日
 ウィリアム・R・キャッスル殿
 ワシントンDC、Sストリート2200
 親愛なるビル君〔ビルはウィリアムの愛称〕 『ヘラルド・トリビューン』紙に掲載されたあなたの手紙は、実に不幸な時期に重なったのですが、それを読みながら私にある疑問が湧いてきました。
 あなたも私同様に、日本というガラガラヘビに〔我が国政府が〕しつこくちょっかいを出し、その結果そのヘビが我々に咬みついたんだ、ということをよく知っています。また、日本に対してあのような貿易上の規制をかけたり、挑発的な態度を示さなくても、日本はこれからの数年で内部的に崩壊するだろうことがわかっていました。なぜこんなことになってしまったのかその過程も知っています。
 このこと〔を記録しておくこと〕は、将来においてきわめて重要な意味を持つことになると考えます。あなたにはこの問題に関わるあらゆる記録と回顧録などの収集にあたってほしいのです。 我々の疑念を補強する記録をできるだけ多く入手してほしいのです。
    ハーバート・フーバー
    ニユーヨーク州ニユーヨーク市
    ウォルドルフ・アストリアホテル〉

 この前日、真珠湾攻撃の報が伝わったとき、フーバーには攻撃そのものへの驚きの感覚はなかった。フランクリン・ルーズペルト大統領(FDR)がついに何か「やらかしたな」という感触を持ったのである。当時アメリカでは、80パーセントを超える世論がヨーロッパ戦争への不参戦の立場であった。フランスがナチスドイツに降伏(1940年6月)しても、イギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン:1940年7月から10月)があっても、アメリカ国民のヨーロッパ問題不干渉の強い意志は変わらなかった。多くの国民が、第一次世界大戦にアメリカが参戦したことで出来上がったベルサイユ体制に幻滅していたからだが、より単純な言い方をすれば、イギリスとフランスの戦争動機がまるで理解できなかったのである。
 ヒトラーは、人口42万人のバルト海に面する港湾都市ダンツィヒ(グダニスク、現ポーランド)のドイツ返還を求めて戦いを起こした。ドイツの戦争動機は明快だった。ダンツィヒ市民の90パーセント以上がドイツ系住民であった。またドイツ本土からダンツィヒにつながる土地(ポーランド回廊)もベルサイユ条約でポーランドの領土とされたため、この港湾都市はドイツ本土と切り離され、孤立していた。ポーランド回廊に住んでいた住民の多くが土地を奪われドイツ本土に戻っていたが、まだ150万人のドイツ系が住んでいた。ヒトラーはポーランド回廊からダンツィヒヘのアクセス権も併せて要求していた。
 ヒトラーは、自著『我が闘争』の中で、あるいはその後の演説の中で、ベルサイユ条約の不正義を解消したら東に向かい、ドイツ民族の「生存圏」を拡大すると公言していた。英国ともフランスとも戦うことは望んでいなかった。まったく外交交渉に応じないポーランドに対して、ヒトラーは軍事行動(1939年9月1日)を命じた。行動の前に、東部方面の憂いを払拭するために不倶戴天の敵スターリンと手を握った(独ソ不可侵条約:8月23日)。英仏両国の西部方面からの攻撃の憂いを解消すると、ヒトラーは念願だったソビエト侵攻(共産主義思想の打破)を実行に移した(ドイツのソビエト侵攻:1941年6月22日)。
 西欧諸国とは戦う意志のなかったドイツに宣戦布告したのは、イギリスでありフランスだった(1939年9月3日)。常識的に考えても、英仏両国にとってポーランド問題はその安全保障になんの関わりもない。第一次世界大戦前には、ポーランドは存在しない国であり、それでもヨーロッパは長い間十分に平和であった。米国民は英仏の対独戦争の動機が皆目、理解できないでいた。英仏の対独戦争は誰もが理解できる自衛戦争ではなかった。戦う理由がわからない戦争に介入し、自国の若者を犠牲にしても構わないと思う国民はいない。これが、アメリカ国民の80パーセント以上がヨーロッパ大陸の戦いへの不干渉を願った理由だった。独ソ戦の始まりで、米国内の親英勢力にとっての最悪のシナリオ(英国の降伏)が消えた。
 ワシントン議会は与党民主党が多数派だったが、議員の75パーセントが参戦反対であった。戦いに介入したいFDRは、ドイツを刺激する行動を、何度も、密かに海軍に命じていたが、ヒトラーは挑発に乗らなかった。独ソ戦が始まった以上、もはやアメリカが参戦する積極的な理由はどこにもなかったのである。
 フーバーは、一貫して非介入の立場を国民に訴え続けてきた。アメリカ国内にはアメリカ第一主義義委員会が設立され(1940年9月)、フーバーと同様の主張で国民の広範な支持を得ていた。したがって、真珠湾攻撃前の時点では、独ソ戦の行方を見守り、二つの怪物(全体主義国家)の壮絶な死闘を注意深く見ていればよい、という考えが主流となっていた。
 ヨーロッパ方面の外交に手詰まりとなっていたFDR政権が、日本に対して意地悪をしている、ちょっかいを出しているという情報は、政権内部に近い者を通じてフーバーの耳に入っていた。情報を寄せていた一人が、前記のフーバーの手紙の名宛人であるウィリアム・R・キャッスルだった。キャッスルは外交の専門家であり、フーバー政権では国務次官補を務めた。またロンドン海軍軍縮条約の折衝で活躍し、日本代表との間に親交もあった。1930年1月から5月には短期間ながら駐日大使を務め、帰国すると再び次官補となった。31年4月からは国務次官に昇任し、フーバー政権の終了(1933年3月)までその任にあった。キャッスルは国務省内に知己が多く、非公式ルートで情報を得られる人物だった。
 FDR政権の対日外交の陰湿さにフーバーが気づいていたことは間違いない。しかし、その全貌はわからなかった。日本に対して実質的な最後通牒であるハル・ノートが手交(11月26日)されていることも知らなかった。それでも、真珠湾攻撃の報に接したときに、FDRが何かしでかしてくれたな、という感覚がすぐに湧いた。このときにフーバーは、この戦いまでの経過と、これからの戦いについて、その全容を明らかにしなくてはならないと考えたのである。日本から攻撃を受けた以上、アメリカは戦わざるを得ない。戦いに勝つことが至上命題である。しかし、彼は、自身が訴えてきた不干渉政策の主張は正しかったと信じていた。
 フーバーは、ルーズベルトの外交の実態を明らかにしなくてはならないと、真珠湾攻撃の報と同時に決めたのである。そして同時に、これからFDRが進める外交についても注意深く観察することが必要だと考えた。こうしてフーバーの長い戦いのような情報収集作業が始まった。
 フーバーの作業は20年以上にわたって続けられ、最終原稿をほぼ完成させたが、出版を目前にして彼の命が尽きた(1964年10月20日死去、90歳)。その後出版に至らなかった事情は 『裏切られた自由』に詳しいので本書では割愛する。残された原稿を歴史家のジョージ・ナッシュが、フーバーの構想に近いと思われる構成で再編集し、2011年にようやく出版にこぎつけた(Freedom Betrayed : Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath)。 『裏切られた自由』(草思社)は拙訳によるその日本語版である。
 フーバーはスタンフォード大学で鉱山学を学んだ技術系の人物であった(生い立ちについては一章で詳述)。それだけに歴史の細部を疎かにしなかった。同時に一次資料を重視した。FDRの進めた外交の全貌をなんとしても正確に把握し、それを世に知らしめたかった。その気持ちが『裏切られた自由』を大著にした。原書は目次部分、編者による序文を含めると1078頁である。日本語版では一冊では収まらず、上下二巻本となった。
 筆者もフーバー同様に歴史は細部に宿ると信じている。日本の戦後教育を受けた者にとっては驚くべき事実が、フーバーが見逃さなかった歴史の細部にちりばめられている。ぜひ、ゆっくりと時間をかけてそれらを読み取ってほしいと思っている。
 本書は大著を読み解くためのガイドブックである。『裏切られた自由』を読了してから読んでもらっても構わない。大著に挑む前に一読してもらっても構わない。いずれにせよ、『裏切られた自由』に言及せずに、あの戦争を語ることはもはや不可能である。  


戦争への道:ドイツと日本を刺激する (二)日本を追い込む

 日本国内では近衛文麿を肯定的に語らない本が多い。保守論客も近衛を評価しない。その理由はいくつかある。第一次近衛内閣(1937年6月4日から39年1月5日)はあまりに期待外れだった。後にソビエトのスパイだったことが明らかになった尾崎秀実をブレーンに登用し、日華事変にけりがつけられる可能性のあった、ドイツ駐中国大使オスカー・トラウトマンの調停工作(トラウトマン工作)を蹴った。1938年1月には「爾後、国民政府は対手(あいて)にせず」という声明を出し、日中の戦いの出口を見えなくした。近衛が学生時代に共産主義思想に染まっていたことも彼の評価を落とす一因となっている。
 しかし、世界史的視点からの評価は若干異なっている。第三次近衛内閣(1941年7月18日から10月18日)時代の彼の戦争回避努力は、修正主義史観に立つ歴史家に評価されている。フーバーも近衛を評価する一人である。
 FDR政権は日本を徹底的に敵視する外交を進めていた。ルーズベルトは「隔離演説」以来、日本をアメリカの敵国と見倣した。1939年7月には日米通商航海条約の破棄を通告し、条約は翌40年1月に失効した。同年8月にはオクタン価の高い航空機燃料を、9月には屑鉄を禁輸した。1941年6月には石油製品そのものが許可制となり、7月には日本の在米資産を凍結した。8月には石油製品が全面禁輸となった。
 このようにとどまるところを知らない経済制裁は、FDR政権が仕掛けた戦争行為そのものであったことは、現代の歴史家、特に軍関係者の間では常識になっている(これについては筆者が解説を試みた米国空軍大学のジェフリー・レコード氏の論文に詳しい〔『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』草思社〕)。
 レコード氏は、「我が国の対日経済戦争は1941年の夏の終わり頃には、最高潮に達してしまっている」と分析している。そんな中にあって、日本は米国への歩み寄りの姿勢を見せた。

  〈1940年9月、グルー駐日大使は対日禁輸政策を実行すべき時期に至ったと伝えていたが、1941年に入ってからは日本との関係改善は可能であり、経済制裁はむしろ危険であると訴え ていた。〉(第38章)

 しかしFDR政権は東京からの報告を一顧だにせず、英国とオランダをも巻き込んで対日強硬外交をエスカレートさせた。フーバーは、こうした環境の中でも、近衛政権が対米戦争回避に積極的に動いたことを評価する。

  〈8月4日、近衛首相は陸海軍両大臣と協議し、ルーズベルト大統領との直接会談の道を探ると発表した。引き続き和平の条件を探るという決定は、海軍の支持を得、陸軍も同意していた。天皇は、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示した。8月8日、東京からの指示に基づいて、野村〔吉三郎〕大使はハル国務長官に対して、ルーズベルト大統領との首脳会談を正式に申し入れた。〉(第38章)

 しかしFDR政権は聞く耳をもたなかった。日本を極端に嫌うスチムソン陸軍長官は、「この会談の申し込みは、我々に断固とした行動を起こさせないための目くらましである」(同前)とまで日記に書いた。これでは何のための経済制裁かわからない。日本の対中国政策を変えさせたいというFDR政権の主張が真摯なものであれば、頂上会談がその出発点になるはずであった。
 野村駐米大使は近衛の指示を受けて、チャーチルとの会談(大西洋憲章構想会談)を終えて帰国したFDRと会談した(8月17日)。8月28日には近衛の親書(前日付)をFDRに手交した。グルー駐日大使も首脳会談に応じるべきだと本省に建言していた(同前)。

  〈私は、現在の日米関係の悪化の理由は、相互理解の欠如に起因する思い違いと相互不信にあると考えます。両国関係の悪化が、第三国〔訳注:英国、中国あるいはソビエトの外交を指しているのだろう〕の策謀に拍車をかけています。
 私自身、大統領にお会いして忌憚なく意見を交換したいと考えるのはそのためです。
 私は、両首脳はすぐにでも会談すべきだと考えます。そして広い見地から太平洋地域全般にかかわる懸案について協議し、解決策を探るべきなのです。その他の細かな案件は首脳会談後に両国の有能な官吏に対処させればよいのです。〉

 しかし首脳会談はついに実現しなかった。近衛は日本国内の政情に鑑み(対米強硬派を刺激することを恐れ)、首脳会談の要請を極秘にしたいとしていた。しかしFDR政権内部から情報が漏洩し、9月3日付の『ニユーヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙がこれを報じた(同前)。日米和解を嫌う政府高官の誰かが漏らしたのであろう。
 近衛の首脳会談を願う気持ちは強かった。9月6日にグルー大使と会談し、あらためて親書を届けるよう依頼している。それを受けてグルー大使は会談の実現に向けて再び動いた。以下がグルーの本省宛ての報告書である(同前)。

   〈米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相にそれができる可能性はありません。少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。そのため、近衛公は、彼に反対する勢力があっても、いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。
 (首相は)現今の日本の国内情勢に鑑みれば、大統領との会談を一刻の遅滞もなく、できるだけ早い時期に実現したいと考えています。近衛首相は、両国間のすべての懸案は、その会談で両者が満足できる処理が可能になるとの強い信念を持っています。彼は私との会談の最後に、自らの政治生命を犠牲にし、あるいは身の危険を冒してでも日米関係の再構築をやり遂げると言明しています。〉

 首脳会談を勧めたのはグルー大使だけではなかった。ロバート・クレイギー英駐日大使も本国に対して次のような公電を発していた(9月29・30日。第38章)

 〈アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌していないこと、そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。アメリカがいまのような要求を続ければ、極東問題をうまく解決できる絶好の機会をみすみす逃すことになるでしょう。私か日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。
 アメリカ大使館の同僚も、そして私も、近衛公は、三国同盟および枢軸国との提携がもたらす危険を心から回避しようとしている、と判断しています。もちろん彼は、日本をそのような危機に導いた彼自身の責任もわかっています。日本政府の大きな方針転換を支える勢力は、米日関係を改善する明確な動き(首脳会談)が早期に起きなければ、枢軸国側の激しい怒りに直面することを理解し恐れています。(近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。そのことは天皇の支持を得ています。もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くようなことがあれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。
 アメリカ大使館の同僚も本官も、この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。〉

 日本政府(近衛首相)も米英両駐日大使も、首脳会談の実現を願った。しかし首脳会談は叶わなかった。明らかに、会談による解決、つまり外交交渉による解決を望まず、武力衝突を望んだ勢力がFDR政権内にあった。釈明史観に立つ日本の歴史家は、こういった事実を書かない。あくまで日本が「それでも戦争を選んだ」と主張するのである。

 


カイロ・テヘラン会談(一)第一回カイロ会談

 フーバーは、カイロ・テヘラン会談を重視している。第51章から第59章(第2部第13編)までがその分析に充てられていることから、それがわかる。戦況はこの一年ほど前から連合国側に優位に進んでいた。そのため議題は戦後の枠組み構想に移っていた。フーバーは、戦後のありようの骨格がカイロとテヘランで決められたと考えている。だからこそ、その分析には力を入れた。しかし会談の内容は長期にわたって秘匿された。

  〈カイロ・テヘラン会談でどのような政治的合意や約束がなされたのかを知ることは簡単ではなく、歴史家を悩ませてきた。会談で発表されたコミュニケや公式発表あるいは声明は、当然のことかもしれないが、制限されたものであった。実際に何が話し合われたのかを知るには時間が必要であった。チャーチルやルーズベルトの演説からその内容の一部がわかることもあったが、内容の多くは、会議の出席者が著した書物や彼らの言葉を通じて明らかになったのである。また、当時の資料を閲覧できた者の研究によってわかってきたこともあるし、状況証拠やその後に起きた出来事を勘案することでその輪郭を現わしてくるものもあった。〉(第51章、注3)

 たとえば、公式記録(1961年公開)は27万語に上る膨大なものであるが、「国務省の記録から、第一回カイロ会談では、ルーズベルトとチャーチルは5回、ルーズベルトと蒋介石は3回会っていることがわかっている。しかし、(1961年の)公式記録では、『そうした記録が見つからない(no record can be found)』」のである(第51章)。
 フーバーは、おそらく何らかの意図を持って公式記録から削除された部分を、出席者の回顧録などを使って埋めていった。ジグソーパズルの欠片を丹念に探し出した。
 第一回カイロ会談は、テヘランでの三巨頭会談に先立ち、エジプト・カイロでFDRとチャーチルが協議したものであり、それに蒋介石が加わった。先に書いたように、ドイツとの戦いが始まると、チャーチルはすぐにワシントンに飛び、今次の戦いの主敵はドイツであることを確認した。カイロ会談の開かれた時期(1943年11月22日から26日)には、英国の敗北の可能性はもはやなかっただけに、FDRはアジアでの対日戦争にも注意を向けるようになっていた。それが蒋を参加させた理由だった。かなりの時間がルーズベルト・蒋介石会談に割かれ、軍関係者の間でも複数の協議があった。公式声明は12月1日に出た(第52章)。

  〈対日戦争計画については、いくつかの作戦計画で合意を見た。連合国三国(米英中)は、日本に対して陸海空から容赦ない圧力をかける方針で一致した。日本に対する圧力はすでに大きくなっている。〉
  〈また日本が中国から盗んだ(stolen from the Chinese)満州、台湾、澎湖(ほうこ)諸島は、中華民国に返還されなければならない。それだけではなく、日本は暴力と欲望にまかせて獲得した領土から放逐されなくてはならない。三国は、奴隷状態に置かれている朝鮮の人々を憂い、時機を見た上で、朝鮮は自由となり独立すべきであると考える。〉(傍点渡辺)

 この声明は、歴史的事実や現実の状況を全く無視した内容である。台湾、澎湖諸島は下関条約によって日本が領土化したものである。これを盗んだと表現することは事実に反する。下関条約で李鴻章の顧問についたのは、ジョン・フォスター元米国国務長官である。また、朝鮮は1910年に合法的な手続きを経て併合したものであり、その過程でアメリカは日本を後押しする外交を繰り広げた(この経緯は拙著『朝鮮開国と日清戦争』〈草思社〉で詳述した)。
 日本は朝鮮のインフラ整備に巨額の資金を注ぎ込み、朝鮮では人口も増えた。朝鮮国内の教育制度も整えている。1924年には京城帝国大学を設立し、朝鮮の一般人高等教育に尽力していた。京城帝国大学は日本が6番目に設立した帝国大学であり、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)に先んじていた。米英両国は植民地の選ばれた若者を自国の大学で教育したが、自国の最高教育機関に匹敵する大学を植民地内に設立などしてはいない。日本の朝鮮統治が朝鮮の人々を奴隷状態に置いているとする主張は事実と異なる。日本は朝鮮を西洋諸国が定義するような植民地と見倣していなかったことは明らかである。
 ルーズベルト外交を是とする釈明史観においては、カイロ会談の声明をも当然に是と見倣す。したがって、日本の朝鮮統治は朝鮮の人々を奴隷化しているものでなくてはならない。
 朝鮮について、フーバーは第3部「ケーススタディ」の中で詳細に分析している。その冒頭で次のように書いている(第3部第3編「序」)。

 〈私(フーバー)が初めてこの国(朝鮮)を訪れたのは1909年のことである。日本の資本家に依頼され、技術者として助言するためであった。
 当時の朝鮮の状況には心が痛んだ。人々は栄養不足だった。身に着けるものも少なく、家屋も家具も粗末だった。衛生状態も悪く、汚穢が国全体を覆っていた。悪路ばかりで、通信手段もほとんどなく、教育施設もなかった。山にはほとんど木がなかった。盗賊が跋扈し、秩序はなかった。
 日本の支配による35年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した(revolutionized)。日本はまず最も重要な、秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設そして民家も改良された。衛生状況もよくなり、農業もよりよい耕作方法が導入された。北部朝鮮には大型の肥料工場が建設され、その結果、人々の食糧事情はそれなりのレベルに到達した。日本は、禿げ山に植林した。教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。汚れた衣服はしだいに明るい色の清潔なものに替わっていった。
 朝鮮人は、日本人に比較すれば、管理能力や経営の能力は劣っていた。このことが理由か、あるいはもっと別な理由があったのか確かではないが、経済や政治の上級ポストは日本人が占めた。1948年、ようやく自治政府ができた。しかし朝鮮人はその準備がほとんどできていなかった。〉

 現在の日韓関係はきわめて剣呑である。事実に基づかない、いわゆる「朝鮮人慰安婦強制連行」という韓国の主張は、両国の関係をけっして明るいものにはしない。日本政府がどれほど韓国に宥和的な外交を展開しても、日本国民は拒否反応を示す。韓国が、事実でないことを主張し、それを海外でのプロパガンダ工作に使う態度を許さない。多くの日本人は、韓国の嘘を知っているはずのアメリカが、彼らの活動をなぜ容認するのか訝しむ。その起源は、「カイロ宣言の嘘」にある。アメリカが、ルーズベルト外交は絶対的に正しいとし、修正主義歴史観を頭から否定する釈明史観に拘泥しつづけるかぎり、日韓の和解はない。その意味で、日韓両国はともに不幸である。釈明史観に基づく歴史観は罪深いのである。


ヤルタ会談 (三)裏の合意(秘密協定)、極東合意

 FDRはソビエトを対日戦に参戦させたがっていた。ヤルタ会談の四ヵ月前(1944年10月10日)には、ハリマン駐ソ大使がFDRに、スターリンの同意を報告していた。FDRはヤルタで、その同意を確実なものにしておきたかった。2月8日に詳細が詰められた。その結果は次のようなものだった(第68章、注7)。

  〈米英ソ三国首脳は、ドイツ降伏のニカ月ないしは三ヵ月後にソビエトが対日戦争に連合国の側に立って参戦することで合意した。ソビエト参戦の条件は以下である。
一、外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持
二、1904年の日本の攻撃によって失われたロシアの利権の回復
 A、南サハリンおよびその周辺の諸島のソビエトヘの返還
 B、大連港の国際港化、同港におけるソビエトの利権の恒久的保護、ソビエトの軍港として利用することを前提にした旅順港の再租借
 C、東清鉄道および南満州鉄道から大連への路線は、ソビエト・中国共同の会社によって運営される。これに伴うソビエトの利権は保障される一方、満州の主権は中国に属するものとする。
三、千島列島(The Kuril Islands)はソビエトに割譲(shall be handed over)されるものとする。
 右記の、外モンゴル、港湾と鉄道に関わる合意については、蒋介石総統の同意(concurence)を条件とする。大統領は、スターリンの助言を受けながら、蒋介石の同意を取りつける努力をする。ソビエトの要求事項は、日本の敗戦後には確実に履行される(unquestionably fulfilled)ことで合意した。一方ソビエトは、中国政府と友好条約および軍事同盟を結び、中国の日本からの解放の戦いに軍事力を提供する準備ができていることをここに表明する。
    1945年2月11日
    (署名) J・スターリン
          フランクリン・D・ルーズベルト
          ウィンストン・S・チャーチル   〉

 ここに書かれた内容はすべて秘密協定であった。秘密にした理由は二つある。一つは日ソ中立条約の存在である。同条約は1941年4月に調印され、五年間の中立が定められていた。したがって、法律上はソビエトが日本との戦いに参戦することはできなかった。もう一点は、中国の主権に関わる問題だった。大連、旅順両港の扱い、モンゴル周辺のソビエトの影響力、東清鉄道・南満州鉄道の経営など、すべてが中国の主権と関わっていた。それを蒋介石の了解なく三国が取り決めたのである。中国に知らせると日本に情報が洩れるという懸念も理由にされた。
 チャーチルは、大連と旅順両港が租借されることに反対しなかった。日露戦争時代の英国は、ロシアが極東に不凍港を持つことを嫌った。チャーチルには反対しない理由があった。それは香港の将来である。アメリカはイギリスの植民地は解放されるべきだと考えていることをチャーチルは知っていた。しかしFDRがスターリンに両港の租借を認めたことで、英国に対して租借地香港からの撤退を強要するロジックがなくなるのである。
 FDRは、スターリンが日露戦争敗北の恨みを強く持っていることを感じていた。南満州鉄道利権、旅順港の租借、南サハリン(南樺太)領土の回復が容認されたのは、その恨みを解消させるためであった。FDRには、ソビエト参戦の条件としてこれを承諾することに何の躊躇もなかった。
 しかし問題は「その周辺の諸島」であった。それは当然に千島列島を意味したが、FDRも交渉に参加していたハリマン駐ソ大使も、ソビエトの要求に根拠がないことを問題にしなかった。国務省専門家の意見を聞かないFDRの悪癖の結果だった。日本とロシアの間には千島・樺太交換条約(1875年)が締結されており、千島列島はソビエト領土ではなかったのである。おそらくハリマンもFDRもそのことを知らなかったと思われる。
 軍関係者の意見に耳を傾けなかったことも明らかになっている。ヤルタ会談のメンバーの一人アーネスト・キング(海軍最高司令官、作戦本部長)は、「統合参謀本部は、対日戦争に参加させるためにスターリンに甘い譲歩を提示することに反対であった。(キングを含む)軍関係者は、スターリンの要求する条件はあまりに高いとの意見で一致していた。ロシアは満州の鉄道利権と不凍港、日本の支配する南サハリン、そして千島列島全島を要求していた。統合参謀本部は、スターリンには南サハリンをやれば十分だと考えていた。しかし参謀本部に政治的判断はできない。参謀本部の考え方は採用されなかった」と自著の中で告白している(第70章、注5)。
 日本固有の領土である千島列島をスターリンに「差し上げた」ことの愚かさは、秘密合意の存在が明らかになるにしたがってアメリカのメディアも指摘した。合意内容が国民の前に明らかにされたのは、1946年2月11日のことだった。翌日の『ニューヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように書いた(第3部第2編「序」)。

  〈合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんな意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか。ようやくルーズベルト、チャーチル、スターリンの合意が公になったが、恐れていた以上にひどいものであった。これまで大統領も国務省も秘密協定は一切結んでいないし、これからも結ばないと言っていたのではなかったか。
 千島列島とサハリンを差し上げることは、大西洋憲章第二項の領土的変更不可の精神に違背し、国際連合の宣言にも反する。カイロ宣言にも反する。日本には、暴力と欲望を以て獲得した領土は認められないが、千島列島はそのような領土ではない。〉

 ヤルタ会談ではこのほかにも秘密合意があったことをフーバーは明かしている。
 現在も日本を苦しめる北方領土問題は、ヤルタ会談におけるルーズベルトの判断の愚かさに起因している。筆者はこの問題の解決は、アメリカがヤルタ会談の秘密合意の失敗を認めることがその第一歩だと考えている。しかしそれをすることは、FDR・チャーチルの戦争指導を是とする釈明史観の変更を意味する。二人の進めた外交を懐疑的に見る歴史修正主義が歴史解釈の主流にならないかぎり、変更は難しいであろう。二人の戦争指導者が見せた対スターリン交渉の愚かさは、二十一世紀に入っても日本を苦しめている。日本とロシアの関係を進展させない阻害要因になっている。両国にとっても不幸な状態が続いているのである。  


おわりに

 フーバーは「度重なる会談」を詳述した。その最後となるものがポツダム宣言であった。「度重なる会談」を書き込むことで、ソビエトを連合国の一員としたことの愚かさを「晒し」、ルーズベルトとチャーチルの戦争指導がいかに間違っていたかを明らかにした。共産主義国家ソビエトを連合国にした過ちの結果が、ポーランドと中国の共産化であり、ドイツの分裂であった。朝鮮戦争もその延長線上で起きた。どの場面にもアメリカ政府内部に侵入したソビエトのスパイや容共的思想を持つ高官が深く関与していたことも明らかにされた。
 
本書では、フーバーが詳細に書き込んだポーランド、ドイツ、中国そして朝鮮の戦後の動きを扱う「ケーススタディ」(第3部)にまで触れる紙幅がない。そこには、現代日本を悩ます中国、韓国の戦後の動きを理解するうえで重要な史実が書かれている。読者にはぜひ『裏切られた自由』をじっくりと読み込んでいただきたいと思っている。
 中国と韓国は、日本を“極悪国”として捉え、歴史認識では日本の主張を一切受け付けず、二十一世紀になっても非難を続けている。歴史の捏造が明らかな南京事件についても、いわゆる慰安婦問題についても、アメリカはプロパガンダであることを知っている。それにもかかわらず、アメリカが日本を擁護しようとしないのはなぜなのか。それは、ルーズベルトとチャーチルの戦争指導があまりに愚かであったからであり、その愚かさは日本が(そしてナチスドイツが)問答無用に。悪の国々であったことにしないかぎり隠しようがないからである。
 歴史修正主義は、戦後築き上げられた「偉大な政治家神話」に擁護されている二人の政治家(ルーズベルトとチャーチル)の外交に疑いの目を向ける。ナチスドイツや戦前の日本が、胸を張れるほど素晴らしい国であったと声高に主張しているのではない。極悪国とされている国を「歪んだプリズム」を通して見ることは止めるべきだと主張しているに過ぎない。
 それにもかかわらず、歴史修正主義は枢軸国を擁護する歴史観だとのレッテルが貼られている。それは、ルーズベルトとチャーチルが引き起こした戦後世界の混乱の真因から目を逸らさせたい歴史家や政治家がいるからである。アメリカの、そして英国の若者の死が、スターリンの指導する共産主義思想の拡大に利用されただけだとは、けっして言えない。その意味で、日本の中国・韓国(そして北朝鮮)との外交問題は、アメリカが歴史修正主義を受け入れないかぎり続くと覚悟しなくてはならないだろう。
 最後になるが、読者は本書と『裏切られた自由』そのものを読んでも、フーバーには戦前の日本に対する理解が足りないのではないかと感じるはずである。フーバーの経歴を本書で詳しく書いたように、彼は鉱山開発、経営の専門家であり、技術系の人間であった。アジアの歴史に詳しくはなかった。フーバー政権時代にはアジア外交を日本嫌いのスチムソン国務長官に丸投げしていた。スチムソンは、満州を中国プロパーの土地と理解し、満州事変以降はスチムソン・ドクトリン(満州国非承認、対日強硬外交)による外交を繰り広げた。当時のフーバーは、中国国内における共産主義者の工作に鈍感だったようだ。それが教条主義的に日本を悪者として扱い続けたスチムソンを外交のトップに据えた理由であろう。
 日本は満州国の扱いについて何度もアメリカに理解を求めた。中国内政への共産主義者の干渉についても注意を払うよう呼びかけた。それでもスチムソンは聞く耳をもたなかった。さらに、スチムソンは自身の外交政策(スチムソン・ドクトリン)の継続を、新大統領ルーズベルトに直訴する始末だった。フーバーがスチムソンという人物にアジア外交を任せたことは大きな失敗であった。共産主義者の工作に注意を向け、国務省プロパーの分析にしっかりと目を向けるリアリストの目を待った政治家を国務長官にしていれば、その後の日米関係はかなり違ったものになっていたであろう。
 その意味で『裏切られた自由』は日本贔屓の政治家によって書かれたものではないと言える。本書の初めに書いたように、それだけにルーズベルトとそれを引き継いだトルーマンの外交に対するフーバーの批判はニュートラルなのである。
 フーバーは、白身の感情を抑え、可能なかぎり資料に語らせることを心掛けた。第二次世界大戦をこの『裏切られた自由』に触れずして語ることはもはやできない。あの戦争は始まりも終わりも腑に落ちないことばかりであった。『裏切られた自由』にはその「不可思議さ」を解く重要なヒントが溢れている。生きているうちにこの書に巡り合えたことは幸運だったと思っている。『裏切られた自由』の編集に携わったジョージ・H・ナッシュ氏とフーバー研究所の関係者に、この場を借りて感謝の意を伝えたい。
    2017年春    渡辺惣樹


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