蛍になった特攻兵<宮川三郎物語>

日本を守るために命を捨てた人達・・・、今の日本を見てなんと思うだろうか・・・。

蛍になった特攻兵<宮川三郎物語>

 現代の日本は内外からの攻撃に晒されていると思います。
 中国には日本に照準を合わせたミサイルが沢山あり、国防動員法に従う沢山の中国人が日本に滞在し、北朝鮮は核を保有し、沖縄や北海道では独立を主張する勢力があり、アメリカの核の傘は破れ・・・、というようなことが指摘されています。
 しかし、危機感を持っている日本人はどれほどいるのでしょうか・・・。
 沢山居てくれれば良いのですが、上記のような状況であったとしても無関心の日本人が少なくないとすれば、日本の滅亡は避けられないように思います。

 亡国の危機を前に何も感じなかったとしたら、日本を守るために命を捨てた先人に対して、あまりにも申し訳ない・・・。

 広井忠男さんの「蛍になった特攻兵<宮川三郎物語>」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

蛍になった特攻兵<宮川三郎物語> 広井忠男

 


目次

 一、ホタルになって帰って来た 3
 ―― 僚機 10人の特攻兵たちのドラマ ――
二、望郷 ふるさとと生いたちの日々 62
三、小学校時代 113
四、青春 長岡工業学校の日々 126
五、大学進学か、特攻隊か 145
六、出撃直前、知覧での日々 154
七、特攻僚機、滝本曹長の故郷訪問 179
八、淡きホタルブクロの色 186
九、「私が身代わりに死ぬから・・・」 190
結び 193
特攻隊戦没者名簿 203
あとがき 219
 


一、ホタルになって帰って来た



父上様
色々御迷惑をかけました。幼き日よりの数々の慈しみ、不肖、決して忘れは致しません。
二十年と言えば、長い様でも過ぎ去った現在、短し。思いの数々に、其の追憶にふける時、不肖、現在までの親不孝を、唯々お詫び致します。
戦局の推移に依り、何等為す事無く、其の身を終る事、父上様に対して申訳もありません。
然し、此の親不孝者の名を払う好機会到来。必ず之に於て現在までの親不孝を御許し下さい。必ず忠に依ってそそぎます。
思えば、諸々の事が流れの如く頭の中を通り過ぎてゆきます。
小学校時代、よく町に歩を共にしての帰り、土産物を家人への大変楽しみとした不肖。
中学校時代、度々雪路を通り、寒い中を出むかえに来て下さった父上の顔を、今も尚深く頭の中に残って居ります。
或る時は、山に亦野に共に労働にいそしんだ時の楽しき思い出。全く愉快な生気甲斐のある日常でした。厚く御礼申し上げます。
では現在までの親不孝を御詫びしますと共に之にて失礼致します。
終りに父上の御健康を御祈り致します。

朝夕に 如何におはすと 故里へ
    思いは 千里 万里となる
 三郎



母上様
慈愛深き母上様、幾久しく御無沙汰致しました。御詫び申し上げます。
不肖、志気旺盛、益々必殺の意気に燃えて任務に邁進致します。
二十年此の方、克く御面倒を見て下さった母上様、有難う御座居ました。 幼き時の、乳房に下がる不肖の姿が有々と目に浮かんで来ます。朝に夕に手の届く如く御世話下されし母上様、有難う御座居ました。
何等御恩がえしも出来ぬ不肖の不甲斐無さ、此処に御詫び致します。
昔より、忠孝一致と言われて来ております。忠即ち孝です。御安心下さい。必ずや、孝を致します。
では呉々も御健康に注意なされて下さい。
              三郎

父松太郎、母マツとともに。
仙台霞目訓練生時代、上等兵として帰郷した折のもの。
 表紙に日記と書かれ、裏表紙に陸軍軍曹宮川三郎の署名が残された二十歳の特攻兵の死を目前にした日記は、昭和二十年四月二十七日で絶筆となっている。そしてこの日、 「人生二十一年、数々の思い出、泉の如く湧き出て、激流となりて流れ去る」と記されている。三分の一は余白で残され、最後にしたためられた和歌一首。

 朝夕に 君をおもひて 我は征く
   またぞ会う日を 夢に見つつも

 ふるさとの山河を懐かしみ、少年時代の楽しかった日々を回想し、両親を、兄姉を、級友を、恋人に思いを残しつつ、南の海に散った新潟県小千谷市出身の特別攻撃隊(以下、特攻隊と呼称)兵士がいた。
 宮川三郎特進少尉二十一歳である。



 舞台 富屋食堂

 昭和二十年六月五日、陸軍軍曹宮川は、二十一歳の誕生日であった。運命のいたずらとはいえ、明日は出撃と定められた最後の夜、身の置き所のないまま宮川は、通いなれた富屋食堂へとやって来た。
 その食堂は清流のほとりに建っていて、初夏になると夜、あたりにホタルが舞った。
 知覧基地の指定食堂になっており、酒保代わりに兵士たちがよく集まっていた。特攻隊員たちは、その任務の特殊性から、食糧不足の中にあっても食事面でかなり優遇されていた。しかし、軍隊内の食事は、やはり軍という規律の中の官給品であり、なにかと物足りなかった。それに自由なしゃばの味も恋しかった。死を覚悟して戦いの最前線にあっても、心の空白を満たす欲求が高かったと思われる。
 おふくろの味、ふるさとの味のこの食堂には、鳥浜トメさんという“特攻隊のお母さん”がいた。どんな無理をしても、わが子のような若い特攻兵士たちの世話をみてくれる、特攻おばさんとして基地のみんなから慕われていた。色白でさっそうとした宮川軍曹は特に好印象をもたれており、二人の娘さん、美阿子さん(当時十八歳)、禮子さん(十四歳)とも仲良しだったという。
 宮川は、十一名で編成された第一〇四振武特別攻撃隊に所属。昭和二十年四月十二日、十三日の両日、万世飛行場から二隊に分かれ、沖縄西方洋上の米艦船に体当たり攻撃を敢行すべく出撃した。ところが、エンジン不調のため宮川機のみ一機、途中引き返さざるを得なかった。
 いかなる理由であろうと、特攻隊の出戻りに周囲の目は冷たかった。まじめで、優しい性格の宮川軍曹は、とてもこのことを気にしていた。上官や整備担当兵に泣いて、「もっと上等な飛行機がほしい」と頼んでいたという。
 なにしろ人ひとりしか乗れない戦闘機に二百五十キロ爆弾、時には五百キロ爆弾を腹の下に抱き、敵艦に体当たりする特攻機に、新鋭機があてがわれるわけがなかった。軍上層部に、どうにか一定の距離を飛行できれば良いとの発想があったことも確かであった。同時に日本の国力や資材はすでに極端に低下しており、木製のプロペラが使用されだしてもいたのであった。
 中には脚を落とし、無線機も外された単座の高等練習機が充てられたという。練習機の赤トンボで飛び立った者もいた。
 ひとたび出陣しながら、自分の死さえ選択することのできなかった宮川軍曹の願いは、一日も早く飛行可能の飛行機で、再び米軍船艦に体当たりすることであった。
 その願いがかなえられ、乗機も決定、明日は出陣と運命は決した。
 そのために、心底より憩え、甘えられる富屋食堂にお別れのあいさつに来たのであった。一緒に飛び立つ、親友で山梨県出身の滝本恵之助曹長が一緒だった。
 死を目前にした最後の夜。思いは遠くふるさとに飛び、母の懐への懐かしみも倍増していたであろう。
 秀麗な魚沼三山の八海山、市内の山本山、幼いころ四季折々に遊びころげた白山の山々、西山丘陵。通学の日々、旭橋を歩いて渡った信濃川、村内の二宮川、夏の日、暮れるまで魚捕りをして遊んだ一本杉川、懐かしき生家――。それは再び目にすることのできない、二十一歳の脳裏を去来する幻でしかなかった。
 そこでせめて特攻おばさんに会い、歌をうたいながら夕暮れの野辺を歩いた二人の娘さんに永遠の別れを告げに来たのだった。そして戦友の何人かとゆっくりくつろいだ。
 その帰り際に、会話が交わされた。
 「おばさん、今度出撃したら、どんなことがあってもみごと敵艦を沈めて帰ってくるからね」
 「おまんさあ、なりごて帰って来るなんち言うとな?」
 「どうしてって、僕たちはここにまた帰って来たいんですよ」
 「じゃっどん、どげんして帰っとな?」
 「ホタルになって飛んで帰って来る。だからホタルが家の中に入って来たら、僕だと思って、追い払わずに“よく帰って来た”と迎えて下さい」
 そばにいた娘さんも口を挟んだ。
 「どうやって、宮川さんのホタルを見分けたらいいの?」
 「あそこから入って来る」と、宮川は食堂の入り口を指さした。
 「じゃ、何時ころ帰ってくるとな?」
 宮川軍曹は、キッパリと答えた。
 「夜九時。そう九時には帰って来るよ」と。

 エンジン不調とはいえ、僚機と別れてただ一機引き返さざるを得なかった無念。万世飛行場から知覧に移ってきてからの日々は、宮川にとって針のむしろの上に座らされているように感じられた。
 そして、生き長らえて迎えた今日は二十一歳の誕生日。明日はもう、どんなことがあっても引き返すことはできない、死出の旅。三郎が、生きて過ごした最後の夜の胸中は、いかばかりであったろう。想像しても余りあるものがある。
 ただ慰めは、三郎の誕生日六月五日が、ふるさとでは一月遅れの男の子の節句。毎年「お前はいい日に生まれた」と、家中から祝福されて過ごしたことが思い出される日であった。男子として本懐を遂げるのに、ふさわしい日である。すでに覚悟はできていたが、あらためて自らを納得させたことであろう。
 翌六月六日、知覧基地は早朝から異様な緊張感に包まれていた。同基地の陸軍第六航空軍は、沖縄西方洋上を遊弋する米機動艦隊に対し、特攻機三十機をもって最後の決戦を挑んだのである。
 記録によれば、知覧上空は梅雨期の厚い雨雲に覆われ、時折大粒の雨がこぼれていたが、沖縄は偵察機による観測では晴れていた。まさに特攻日和であった。
 出撃命令が出されたのは、高野正治大尉を隊長とする九七式戦闘機で編成された第一一三、高島俊三少尉を隊長とする三式戦闘機(飛燕)で編成された第一五九、豊島光顕少尉が率いる同じく第一六〇、中川勝少尉率いる第一六五の各振武隊。それに第五四振武隊員で単機取り残された岡本一利少尉の三式戦闘機である。
 宮川三郎もこの中にいた。別れの冷酒を酌み交わし、最後の敬礼を残して隊員たちは笑みを浮かべながら次々ときびすを接するように飛び立った。離陸すると機は右回りに飛行場を一周、編隊を整え南の空のかなたへと消えていった。そして、三十機のうち二十四機は、ついに帰らなかった。
 宮川の乗機は、四月に出撃した時と同じ種類の九九式襲撃機であった。故障した機を修したものか、別の機体であったのかは不明だ。ただ、分かっているのは、この日、知覧から出撃した、ただ一機の九九式襲撃機であったことだ。
 しかし、単機で出撃していったとは考えられない。他の編隊と同行し、敵艦隊に波状攻撃をかけたと考えるのが、常識である。
 宮川機を除き、他は果たしてどの編隊と行を共にしたのであろう?
 三式戦闘機は、ドイツのメッサーシュミット戦闘機をモデルに製作したといわれる、日本陸軍で唯一の水冷式エンジンを積んだ機体で、時速五百キロを誇った。司令部偵察機にも使われて足の速い複座機ではあったが、九九式襲撃機は時速四百二十五キロ。とても三式戦にはついて行けない。
 これに対し、高野大尉率いる九七式戦闘機は、昭和十二年に陸軍に正式採用された旧式機で、時速四百五十キロ。軽い戦闘機ではとても考えられない二百五十キロの爆弾を抱え、十機編隊では、そうスピードも出せなかったに違いない。
 ともかく、宮川はエンジンを最高にふかし、歯をくいしばるようにして、懸命にこの九七戦編隊を追尾したに違いない。そして、一機必中、四十五度の角度で、二百五十キロ爆弾もろとも敵艦に体当たりを敢行した。
 国家と日本民族、肉親、同胞、愛する人たちを守るために、そして悠久の大義に生きると信じて ―― 。
 出発の際、司令官は「沖縄方面上空は快晴である」と告げた。知覧を飛びたって間もなく、開聞岳を越えるころ、空は黒い密雲に覆われ、激しい降雨に見舞われた。重い爆弾を腹に抱いて、中古の飛行機ではとても危険だった。
 僚機の滝本曹長が宮川機に近づき翼を振って「視界不良。基地に引き返そう」と、何回も合図を送った。だが「お前だけ帰れ! 俺は征く!」と宮川軍曹は、そのたびにサインを送り返し、別れに手をあげて密雲と豪雨の中に消えていった。生き残った人が見た、宮川軍曹の最後の顔であった。




ホタル 出現!

 その夜、出撃したはずの滝本曹長が富屋食堂にやって来て、涙ながらに上空での経過を皆に話した。そして「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」とつぶやいた。
 ちょうど九時ころだった。

 美阿子さん、禮子さんと滝本曹長の三人、それに奥の広間には特攻おばさんのトメさんと隊員七、八名が遺書を書いていた。
 と、娘さんの一人が突然、叫ぶように声をあげた。
 「あ! ホタルよ。宮川さんがホタルになって帰ってきたわよ」

 大きな源氏ボタルが一匹、スーと部屋に入って来て、しばらく飛んで天井の梁に止まって動かない。宮川軍曹は皆に時問きっかりにホタルになって帰って来たのだ!
 ホタルは余程でないと、家の中になど入って来ないものである。たとえ入って来ても一匹ということは、まれである。たくさん飛んでいるのだから、二、三匹は舞い込むはずである。
 そこに居合わせた隊員たちも、信じられない表情でそれを見た。そして「早すぎるんじゃないか」「まだホタルの出る時期ではないのではないか」などと言い交わした。すると娘さんが言った。
 「宮川さんですよ! このホタルは宮川さんに違いありません。だって、宮川さんは昨晩わざわざお別れに来て『見事敵艦に体当たりしたら、明日の夜九時に、玄関からホタルになって帰って来る!』と約束して出撃したんですから」
 富屋食堂は大騒ぎになった。
 「宮川が帰って来た!」
 「宮川だ! 宮川だ! 宮川がホタルになって帰って来たぞ!」
 「やったぞ宮川、見事本懐を遂げて、敵艦に体当たりしたか」と。
 そして宮川軍曹が、出撃に際して皆と歌った「同期の桜」続いて、「海ゆかば」が合唱された。


  海ゆかば 水漬く 屍
  山ゆかば 草むす 屍
  大君の辺にこそ 死なめ
  帰りみは せじ

 特攻おばさんも泣いた。青春期の娘さんたちも泣いた。明日は出陣する特攻兵士たちも大粒の涙を出して泣いた。途中、引き返して来た滝本軍曹は号泣した。この間、ホタルは天井の梁に止まって動かず、やがてフジ棚のところから、漆黒の闇の中に消えて行った ―― 。
 二十一歳の宮川軍曹の霊魂はホタルとなって、そこから何百里も離れた、越後の地に飛んで行ったのであろうか。それとも開聞岳の山頂をめざし、見果てぬ北の空に眼を見開くのであろうか ―― 。


舞いもどった父の最後の手紙

 南の海に散華した二十一歳の特攻兵士は、海神に抱きかかえられたのか、遺骨はおろか、遺髪さえも帰って来なかった。
 そのころ、五センチほどの桜の小技が入れられた封書が、小千谷の実家に届いた。

 昭和二十年五月二十九日のことだった。その二目後の五月三十一日に父親の松太郎が、一週間前に出した三郎あての手紙が、本人不在の付せんがつけられ戻って来た。そのはがきが今でも残されている。いくら当時でも、国内の郵便が一週間かかったとは考えにくい。出陣の日が分かっていて、故意に息子に渡されなかったとも考えられる。達筆な毛筆で、「農繁期をむかえ、兵隊に負けないよう働いております。母は子守でふらふら(平和に)遊んでおります。皆達者ですからご安心下さい。」と書かれている。父のこのはがきは、愛息三郎に出した最後の手紙である。しかし本人は一読もすることなく出撃して行った。


宮川三郎の生いたち

 宮川三郎は、大正十四年(一九二五)六月五日、新潟県北魚沼郡城川村(現小千谷市)大字桜町一四九九で農業を営む宮川松太郎、マツがもうけた八人(女五人、男三人)の子の八番目、つまり末っ子として生を受けた。三郎の名前は、三番目の男の子というわけである。
 生家は現当主、三郎の長兄武一で十一代を数える旧家(宮川間兵衛の正分家)で、村の重立でもあった。屋号を「源八どん」といった。経済的には一町三反歩の水田と畑が四反歩、それに桑園があり、山林も持っていて、暮らし向きは村でも豊かな方であった。
 昭和七年、三郎は城川村立桜町小学校に入学した。成績は優秀で、ことに算術、理科が得意だった。級友のみんなに慕われ、毎学年、級長を務めている。
 昭和十三年三月、同校を卒業。当時、このあたりの農家の子弟は、ことに二、三男は小学校を卒業すると手に職を付けさせるといって、町場の工場などへ勤めに出されるのがふつうだった。地元に県立の小千谷中学校があったが、進学させてもらえるのは、お寺や地主といった裕福な家庭の子に限られていた。
 ところが、教育熱心だった三郎の父は、三郎に将来、独立できる技術を持たせるため、長岡の工業学校へ進学させようと考えた。そのため、まず、地元の小千谷小学校の高等科へ進ませた。工業学校へは、小学校卒業から進学する本科と、高等科を出て二年間学ぶ第二本科の二つのコースがあった。
 三郎のふるさと、いわゆる小千谷地区は、その歴史数百年といわれる織物の町である。ことに小千谷縮、小千谷袖は有名で、高級織物として全国で珍重されていた。
 このため、町の基幹産業である機屋の長男たちは、家業を継ぐため、地元の小千谷中学校ではなく、遠い長岡工業学校へ進学した。
 三郎は機屋の子ではなかったが、歩いて三十分ほどで通学できる小千谷中学校ではなく、長岡工業学校に進学した。
 三男坊では分け与えてやれるほどの農地もない。理数科目が得意で、将来、町場に出してやらなければならない末っ子なら、せめて技術を身につけさせてやろう。父松太郎は、そう考えたのに違いない。
 しかし、この選択が正しかったかどうか。というのも、知覧から出撃した陸軍特攻戦没兵一、〇二八名、このうち新潟県出身者は一七名にしか過ぎない。その一人に宮川三郎がいる。もし、三郎が工業学校へ進まなかったら、きっと違った人生コースをたどったであろうと思えてならないのである。
 ともあれ、長岡の工業学校へ通学するのに、家から上越線小千谷駅まで約一里、小一時間、夏も冬も三郎は歩いた。それから長岡まで三駅十六キロを汽車で通った。
 昭和十四年春。ノモンハン事件の勃発した年であり、日中戦争の発生した直後であった。戦雲は暗くたちこめ、日本はぬきさしならない、戦火の泥沼の中に突入して行った暗い時代であった。
 長岡工業に進学した三郎は、ここでも極めて優秀な生徒であり、卒業時の成績は「全甲」であった。当時長岡工業は、小千谷町から進学した者は皆スキーが上手であるとの理由で、スキー部に有無をいわさずに入部させたものであったらしいが、三郎がスキーをやったかどうかは不明である。
 三郎が遺書の「父との思い出」に記しているように、吹雪の日、大雪の夕暮れには、雪道を踏んで父松太郎が迎えに出た。
 その愛情がいかに深く、その期待がどんなに大きかったか想像できる。
 江戸時代から続く小千谷町本町商店街のどまん中に、叔母がマルヘイ陶器店を経営していた。
 三郎少年は、朝家を出ても途中で空が晴れると、この叔母の家に番傘をあずけて、長岡に通学した。帰りにまた傘を持って帰るのであるが、叔母さんの家に上がって休憩したり、おやつを食べることはほとんどしなかった、と長兄武一さんは語っている。
 「三郎は、人に迷惑をかけない、優しい、おとなしい子供でした。
 私とは九つも違うために、兄弟げんかもしないし、村のワンパク仲間とけんかをすることもはとんどなかったですね。読書が好きで、同い年ぐらいの子供仲間の中でも、大人びた子供だったのかもしれません。
 両親も末っ子でかわいかったのか、十分勉強させてやりたかったのか、農作業などもやらせない方でした。私やすぐ下の弟栄次郎とは全く扱いが違いました。
 家の手伝いとしては、風呂の火たきが三郎の担当でした。毎日本を読みながら、風呂がまの前で薪くべをしていた姿を思い出します」


昭和初期の少年時代

 三郎は子供の時から利口で優しく、責任感もあり勉強もよくできた。
 豊かな自然の中で、小川の水とたわむれ、田の畔にホタルを追い、冬は裏山でスキーに興じながら成長して行ったのだった。
 家では使役用に牛を飼っていたので、この牛の草刈りや、秋の稲刈り時、稲束をハサに架ける稲投げの手伝いなどもよくした。
 越後の名将上杉謙信が、隣の刈羽郡から小千谷にかけての出城とした時水城跡から左右に広がる西山丘陵の峰々を、茜色に染めて秋の夕日が落ちる中、ほほを真っ赤に染めて汗をほとぼらせて稲束を投げていた。
 時水城跡の下には、上杉謙信が深く信仰した北の守護神、毘沙聞天が祭ってあった。上杉軍団が戦場における戦旗として勇壮に掲げた「毘」の旗印は、この多聞天から採ったものである。毘の軍旗のもと、上杉軍団は正義のために出陣し勇猛果敢に戦い、勝利を重ねて行った。
 日清、日露の両戦役、第一次世界大戦、シベリア出兵、日中戦争、ノモンハン戦と続いたこの時代、城川村では時水の毘沙聞様のご神体にさわり、また守護礼を身につけていると戦死しないというので、必ずお参りして加護を祈ったものである。事実この村の戦死者は不思議と少なかった。
 しかし、毘沙聞天は、麓の村の三郎を救ってはくれなかった。
 スポーツが得意だった三郎は、バスケットボールや野球に仲間と興じていたが、何をやらせても上手であった。また勉学が好きで、冬の夜長などは、父松太郎とこたつに入って、何時間でも静かに本を読んでいる少年でもあった。参考書も、少年らしい講談本もわきに積まれてあった。


飛行機乗りへの道

 三郎は昭和十六年、長岡工業学校を優秀な成績で卒業、同年、立川飛行機株式会社に就職した。同社第三設計課にいた長岡工業の先輩、大野敬三さんの誘いによるものであった。「そのまま立川飛行場で、設計屋として勤めていれば、特攻兵などならなくてよかったのに……、技術屋にして、平和な暮らしができるようにとの願いで、無理をして長岡の工業学校に進学させて勉強させたのに……」と両親は、後に悔んだ。
 戦争が激しくなって、仕事は多忙を極め、帰郷も思うにまかせなくなった。両親は心配で立川の会社の近くに下宿していた三郎をよく訪ねて行ったという。
 日本は、やがて昭和十六年十二月八日、米英の列強を相手に太平洋戦争に突入する。その緒戦、母校の所在地・長岡市出身の連合艦隊司令長官山本五十六が育てた日本海軍航空隊が、ハワイ・オワフ島の真珠湾を奇襲、米太平洋艦隊に壊滅的打撃を与える。
 この奇襲作戦の成功は、日本の国民を大いに興奮させた。三郎も、郷里出身の提督を、わが事のように誇らしげに感じたに違いない。
 しかし、日本の戦勝気分は、ほんの一年間に過ぎなかった。
 昭和十八年に入ると戦況は日に日に悪化、同年五月、山本長官戦死の報が全国を駆け抜けた。
 三郎は十九歳を迎えようとしていた。飛行機設計の仕事より、戦闘機のパイロットになり、国の興廃をかけたこの一戦に参加しようと決したのも、この山本長官戦死が、大きな動機になったようだ。
 そこで年齢的にも距離的にも最短コースにあった千葉県の逓信省(現在の郵政省)印旛地方航空機乗員養成所を受験する。乗員養成所は、民間機のパイロットならびに整備士、通信士の養成機関で、全国に十五の養成所があった。新潟飛行場にも、新潟地方航空機乗員養成所があり、主として整備士の養成に当たっていた。
 印旛の募集定員わずか三十八名。試験は難関とされていたが、学業成績優秀だった宮川は見事に合格、第十四期生として同年十月二十一日、希望通り操縦コースに入所した。
 乗員養成所は、民間機の搭乗員養成機関ではあったが、戦時下、生徒は自動的に予備役に編入され、陸軍委託生になっていた。
 昭和十九年七月、宮川はここを卒業すると、本格的な操縦訓練を受けるべく軍用機搭乗員養成機関として陸軍に接収されていた仙台市霞目にあった仙台地方航空機乗員養成所へと送られ、陸軍伍長に昇進した。この後、朝鮮、満州(中国東北地区)の実戦部隊に配属され、軍用機の戦技訓練に専念。そして、戦雲日に日に急を告げる昭和二十年四月、九九式襲撃機のみで編成され陸軍特別攻撃隊として九州に展開した第六十六航空戦隊の第一〇四振武隊に配属され、最前線基地・鹿児島県の万世飛行場へとやって来たのだった。この時、宮川は満二十歳、陸軍予備役下士官として、襟章には金筋一本に星二つの軍曹に昇進していた。

 宮川が所属した第一〇四振武隊は、宮川はじめ次の十一名が編成され、隊長の小佐野少尉の発案で「第三降魔隊」と自分たちを呼んだ。炎の中で不動明王がかざす降魔の剣にあやかった名称である。
 隊長 小佐野隆広少尉(二十五歳)
    山梨県出身・幹部候補生第八期

    渡部佐多雄少尉(二十三歳)
    本県佐渡相川町出身・特別操縦見習士官第一期

    梅田 勤 伍長(十九歳)
    東京都出身・少年飛行兵第十四期

    江原道夫 伍長(十九歳)
    埼玉県出身・少年飛行兵第十五期

    上林 博 軍曹(二十一歳)
    千葉県出身・古河航空機乗員養成所第十四期

             (以上五名 四月十二目戦死)

 隊長 長嶺弥三郎少尉(二十二歳)
    東京都出身・特別操縦見習士官第一期

    武政 和夫軍曹(二十二歳)
    東京都出身・少年飛行兵第十一期

    近森 佳忠伍長(十九歳)
    高知県出身・少年飛行兵第十四期

    山本 忠義伍長(十九歳)
    神奈川県出身・少年飛行兵第十四期

    松上 茂 伍長(二十歳)
    横浜市出身・古河航空機乗員養成所第十四期

             (以上五名 四月十三日戦死)

 さて、宮川らの第一〇四振武隊は、前述したように、九州に展開して問もない四月十二日と十三日の両日、六機ずつ二隊に分かれて早くも沖縄西方洋上の米機動艦隊に対し、体当たり攻撃を敢行。途中、宮川ともう一枝の二機を除き、全員が特攻死した。
 宮川が、この二隊のいずれに参加したのか、実は資料がなくて分からない。おそらく、長嶺隊長機、同じ新潟県出身の渡部機とともに六機編隊で出撃したものと考えたい。
 乗機の九九式襲撃機は、昭和十四年に陸軍に正式採用された、低翼、単葉、単発、脚は固定式だったが、スマートな機体だった。地上襲撃機として操縦士のほかに通信、爆撃、機銃を担当する戦技兵が後部座席に同乗する複座だが、特攻機は二百五十キロという、離陸するのがやっとの重い爆弾を抱えて出撃するので、乗員は操縦士一人だけだった。文字通り一機必中、そのまま敵艦目がけて突っ込む“人間爆弾”であった。


六、出撃直前、知覧での日々 <一部>

<前略>

富屋食堂と特攻おばさん鳥浜トメさん

 島津七十七万石の外様雄藩であった鹿児島。
 城下町知覧にふもと川が歴史を刻んで流れる。この清流にかかる永久橋を渡り、少し行くと農水路の小川が流れており、大通りとこの小川の角に富屋食堂、鳥浜家の住居、離れがあった。通り側の玄関の前から小川に曲がる両方面には、フジ棚がぐるりとめぐらされていて、夏には川から飛来する大きな源氏ボタルが悠々と舞う美しい地であった。
 父方の祖父は校長を務めたこともある教育一家で、このため両親は教育に熱心で、二人の娘を高等女学校に進学させた。
 父は勤め人であり、母は昭和初期に女手で食堂富屋を開業した。昭和十六年に知覧の飛行場が完成し、この時、軍の指定食堂となった。初め、大刀洗陸軍飛行学校の分校ができたとき、学校から、休日に外出する少年兵たちの面倒を見てくれるように依頼された。いずれも十五、六歳の少年で、リンゴのようにほっぺたの赤い少年もいた。
 商売、損得そろばんを度外視して、どんぶりのご飯をピラミッド型の大盛りにしたり、卵どんの卵を二倍の二個にしてやったりもした。それをむさぼり食べた少年兵の顔を、トメさんはいつまでも覚えていた。城下町の知覧を案内してやることもあった。やがて戦争が激しくなって、知覧の町から少年兵の姿が消えた。
 戦場は南方から小笠原諸島の硫黄島に飛び、沖縄と本土に近づいてきた。
 知覧には陸軍の実戦飛行隊が置かれ、飛び立ってゆくが帰って来ることのない飛行機が目立つようになった。死を覚悟した特別攻撃隊であった。
 知覧飛行場は、町からのゆるやかな坂を登りきった台地の上にあった。南に開聞岳がそびえ立ち、その向こうは東シナ海であり、その先には沖縄列島があった。本土の最南端、沖縄に最も近い基地としての知覧が、特攻基地に選ばれたのだった。
 明治三十六年生まれの薩摩女、鳥浜トメさんは肝っ玉母さんであった。
 「悪いことは悪い、良いことは良い」と善悪を明確にし、正しくないといけない人であった。度胸のよい人、面倒見のよい人として町の顔役の一人でもあった。死を覚悟してここに集まる特攻兵たちを、実の母親のように面倒を見た。
 まだ四十二、三歳の女盛りだったが、風呂で息子のような特攻兵の背中を流してやっていた。軽いけがをした兵士には包帯を巻いてやり、娘たちにも食べさせなかった甘い大福もちを、どこからか材料を調達してきては食べさせた。
 兵士たちは若い食欲もさることながら、心の空胴感を満たすために、母親のように慕って富屋食堂を訪れていたのだった。中には母親のように抱きつく若い兵士もいた。
 そのトメさんが一度、憲兵隊に呼び出され、一晩帰って来なかった。翌朝帰されたが顔がはれあがり、目の周りに黒いアザができていた。取り調べの理由は「特攻兵士たちに、門限の夜九時すぎに飲食をさせたため」だったという。
 特攻兵士たちの規律らしいものは、夜九時に三角兵舎(陸軍がシベリア作戦用に考案したという、土を掘り、板で三角の囲いを作った粗末なもの)に帰ることだった。
 兵士たちも、もっと富屋食堂にいたかったし、太っ腹のトメさんも要求に応じてやっていた。そのことが悪いという理由での検束であった。
 そのころ、地元の知覧高等女子学校生徒の勤労奉仕は、基地内の兵隊さんの食事の時に、大きなやかんでお茶をついで回ること、洗濯をしてやること、出撃する兵士の見送りなどであった。
 禮子さんも災難に遭った。特攻隊に親切にしすぎるとの憲兵隊の話も町にもれていた。禮子さんは親友と歩いていた。知らないうちにN伍長が後をつけて来ており「お前たちは隊内の秘密をもらした。本来なら牢屋につなぐところだ。素直にわびろ」と脅した。二人は怖くて足がガクガク震えた。「明日の命が知れない兵隊さんのために、一生懸命私たちも奉仕しているのに」と思った。
 高女の生徒たちもモンペ姿で、履物もズック靴、げた、草履とまちまちの窮乏時代に入っていた。
 トメさんが憲兵隊に出頭を命じられた夜、このことを知った特攻隊員たちは激怒した。「何てことをするんだ。俺たちや、死んだ仲間にこんなによくしてくれているトメおばさんを!」
 「俺たちはどうせ体当たりする身だ。おばさんを救出しよう」と何名もの特攻隊員が、留置されていたトメさんを連れ出して来たのだった。
 帰って来たトメさんは、よほどひどい暴力を振るわれたらしいのだが、娘たちが何回聞いても決して話さなかった。ひどい取り調べの内容を聞かせてくれたのは、ようやくトメさんが七十五歳になった昭和五十年代も半ばになってからであった。
 この時暴行を受けたアザは生涯トメさんの顔面から消えずに残った。トメさんが亡くなったとき、禮子さんはそのアザの跡をやさしく手でなでて「お母さん大変たったね。痛かったでしょう。我慢してね。ごくろうさまでした」と涙ながらに語りかけた。
 当時、基地のあった知覧の町はたびたび空襲に遭った。富屋でくつろいでいた兵隊さんたちも、皆、防空壕に急いで避難した。トメさんは大声で「特攻隊の兵隊さん! 早く防空壕に入りなさい!」と叫びながら、自分は微動だにしなかった。大事な任務のある隊員の生命をまず第一に考えていたのだった。毛布をかむり、兵隊さんの陰にうずくまる禮子さんは「わが母ながら、何と立派な態度だろう」と感心した。
 宮川軍曹の出撃をほぼ最後として、六月下旬ころには特攻隊の出撃は激減した。もう飛ばす飛行機が尽きてしまっていた。六月六日、開聞岳の上空で、宮川と別れて基地にもどった滝本曹長は、その後飛び立つことができないままに敗戦を迎えている。
 運命の大きな分かれ道であった。滝本恵之助曹長の昭和二十三年の死は肺結核であった、と宮川家には伝えられたが、知覧の特攻隊仲間には自らの命を絶った痛ましい死であったともささやかれている。

 敗戦後もトメさんは富屋食堂の経営を続け、さらに旅館部門も開業した。視察や会議などで出張してきた役人の宿泊が多かった。
 戦後数年間は、特攻隊関係者の生き残りの人たちもほとんど訪問することはなかった。数年して、まれに訪ねて来る人も「生き残った恥をしのんでやって来た」と言って、夜中にやって来る人が少なくなかった。
 朝鮮戦争が始まり、その後マッカーサーが罷免され、皇居前の血のメーデーがあったころであった。第一回NHK紅白歌合戦が開かれ「白い花の咲く頃」、「能祭の夜」がうたわれていた。
 「二十四の瞳」「潜行三千里」がベストセラーになっていた戦後の時代であった。
 ある期間歳月が経過するまで、自分たちの残酷な青春の日々や特攻基地跡を見るにしのびなかったのかも知れない。すべての価値観が変わってしまった虚脱感が、日本最南端のこの地をさらに遠くさせていたかも知れない。元隊員たちが、遠い青春の日を懐かしんで知覧の町を訪れるようになったのは、戦後二十年も経た昭和四十年ころからであった。
 アジアで初の東京オリンピックに成功し、東海道新幹線、東名、阪神高速自動車道が開通。日本の経済成長が、敗戦国を世界の一流国の仲間入りをさせた時代であった。
 「戦後二十年もたつと、痛みもカゲもなくなるもんごあんでなあ(ですからね)。そい(それ)に皆さんやっと混乱から抜け出し、生活にゆとりができたでしょう」とトメさんは当時出版された戦記に語っている。
 中には立派な娘さんを連れて「おばさん、こんなに大きい娘がいるようになりましたよ」と顔を見せてくれる隊員もいた。食糧難を知らない、戦後世代のお嬢さんたちであった。はるかに開聞岳の山脈を青く望む、かつての出撃基地跡は、広大なサッマ芋畑と茶畑になっていた。特攻機のエンジンの音は大型農耕トラクターの音に変わり、平和そのものの農村風景がそこにあった。

<中略>


 特攻おばさんの鳥浜トメさんに、もう一つの痛快話かあったことを禮子さんが話してくれた。
 作家石原慎太郎氏が、特攻隊に関する取材でトメさんに面談を求めた。仕事で忙しかったトメさんはお店第一、お客様第一主義に徹し、この著名な作家を三時間持たせた。
 面会の最後に「薩摩は貧乏で何もないが、これだけはぜひ食わせたいし、一番うまい」と言って、サツマ芋のふかしたものと焼いた塩メザシを出し、この食べ方が一番うまいと言って、一口ずつ交互にモリモリと食べてみせた。当代一流作家は「あとにも先にもこんな豪快な応対は初めてだ」と舌を巻いたという。
 特攻兵の母、特攻おばさん、薩摩女の代表、肝っ玉母さん・・・鳥浜トメさんは平成四年四月二十二日、世話になった大勢の元隊員に惜しまれて逝去された。行年八十八歳であった。宮川武一家はじめ戦没隊士遺族や生き残った元隊員から来た手紙が、大きなダンボール箱に一箱残されている。
 「この貴重な歴史の証言を世に問うて、母の供養にしたいと思っているが、いまだに忙しさにまぎれて、そのままにしてあります」と禮子さんは話してくれた。
 トメさんは亡くなる前に、特攻隊の慰霊塔を建立した。全国に呼びかけて献灯した「慰霊碑」で、観音像が祭られ、年に一度この前で慰霊祭が盛大に行われる。
 昭和二十年十二月、アメリカ占領軍は、知覧基地に残っていた特攻機をすべて焼却することを日本に命じた。
 操縦員と整備兵が青春の命をかけ、飛びたつ機会を失った特攻機は山と積まれ、翌日重油がかけられ、すべて焼失されることになった。これを知ったトメさんは、棒杭を建てただけの墓標に、花とお線香を供え、飛行機と英霊たちの冥福を祈った。日本人の整理隊に懇請して、焼却する前に写真を撮ってもらった。
 禮子さんは昭和三十年ころ、上京して結婚、新宿と六本本の二ヵ所に、郷土料理の店「薩摩おごじょ」を経営している。母トメさんを懐かしんで、多くの隊員たちが店を訪ねてくれた。
 店のスタートは、特攻関係者から「全国から上京した際に集える店を」との要請で、昭和四十二年、早稲田に最初の店を出した。


 禮子さんの回想は、再び五十年前の昭和二十年六月に戻る。
 富屋食堂を舞台に豪胆で思いやり深い母トメさんと特攻隊員、そして宮川三郎軍曹との短い思い出の日々である。
 三郎は「れいちゃん、れいちゃん」「れいちゃんは本当にかわいいね」と実の妹のようにかわいがってくれた。姉の美阿子さんが後年「宮川さんがもし生きていたら、大きくなった禮ちゃんをお嫁さんにもらいに来て下さったかも知れないわね」と笑いながら語ったくらいのかわいがりようであった。
 末っ子で弟妹のいない三郎には、妹のようにかわいかったかもしれないし、妹のような恋人が欲しかったのかもしれない。いずれにしても、死の突撃を目前にした特攻兵の飾り気のない、生きる人間への愛であったことは事実であった。
 宮川三郎の達筆な日記は、昭和二十年四月二十七日に突然絶筆となっている。「短い二十年の人生をふりかえってみれば、激流のような日々であった」と記している。
なぜこの日で絶筆になったのだろう? 禮子さんは「出撃の隊編成が発表になったからだと思います。当時はだいたい1ヵ月前に正式の隊編成が発表になりました。『次回の特攻隊の希望者は申し出ろ』と志願兵を募ると全員が『ハイッ』と手をあげる。什方がないので、一回一回点呼をとって番号をかけ『今回は偶数の者、一歩前へ!』のような形で選抜したと聞きました。宮川さんは一回目の出撃に失敗して、二度目の隊編成が行われたものと考えられます。いくら死ぬことを覚悟していても、いざ編隊が発表になり、いつでも出撃する覚悟ができたときには、もう毎日の記録など残す必要はないと考えたのではないでしょうか」と答えた。
 いつでも出陣できるとすべての覚悟ができたとき、日記をつけて自己の存在を記録することは未練と考えたのかもしれない。
 空白のページが一冊の三分の一ほどあった後に、日記は裏表紙に、

 朝夕に 君をおもひて 私は征く
   またぞ会う日を 夢に見つつも
              三 郎





 と記されている。また会う日を夢に見つつ、弾雨の中を敵艦に突っ込んでいった“君”はだれなのかは神のみぞ知っている。
 六月五日の夜、三郎は愛用の万年筆と航空時計を、禮子さんに形見に与えた。
 「れいちやん、しっかり勉強するんだよ。僕はもう使うことはなくなったから不必要品だ。これ、れいちやんにあげるよ」と言って―。
 毎日、日記をつけ、操縦士になるために必死になって勉強した時に使用した万年筆であり、父、母、兄、姉に遺書を書いた万年筆であった。二兄栄次郎が、珍しく兄にねだった三郎に、昭和十八年に買ってやった、当時としては高価な万年筆であった。

 禮子さんはこの万年筆をとても大切にしてセーラー服の胸にしまい、身に着けていた。ところが、勤労奉仕の防空壕掘りのときに、作業に熱中していて紛失してしまった。
 「大変大変あんなに大切なもので、宮川さんが形見に下さったのに」と必死になって捜した。宮川軍曹の形見の品であったことを知っていた級友の女学生たちも、もう一回土を掘り返して、みんなで捜してくれたが、とうとう出てはこなかった。
 航空時計は今でも大事に持っている。

 この夜六月五日、親友滝本恵之助曹長と富屋食堂を訪れた宮川三郎は「明日は出撃だ。死んだら二人で、二匹のホタルになってここに帰って来る。玄関から夜九時に帰って来る」と約束して翌朝出撃した。
 六月六日の朝、知覧の空は曇っていた。四月の桜の時期には知覧高女の生徒たちは手に手に満開の桜の小枝をかざして特攻機の出撃を見送った。が宮川機、滝本機出撃のときは、禮子さんは見送ることができなかった。
 知覧基地を出撃し、開聞岳を越えて一時間も飛べば、そこにはアメリカの機動部隊が布陣している。飛びたって一時間後には突撃、若い命が失われていることが多かったという。


七、特攻僚機、滝本曹長の故郷訪問

 敗戦の年、昭和二十年。
 国土は疲弊しきり、人心は疲れきっていた。
 越後も例外ではなかった。
 この年、八月一日夜。長岡市が、山本五十六元帥の郷里であることを理由に大空襲を受けた。街は一面焼け野原となり、死者は千四百六十一名を数えた。
 堀家、牧野家の城下町であり、越後の中心にある長岡の街は、夜空をこがして燃え続けた。東西長岡を結んで信濃川に架かる長生橋には、B29から一センチ間隔で焼い弾が落下された。
 隣町の業火は、小千谷の三郎の生まれた城川村からも眺められた。親類や元主人の安否を訪ねて、小千谷からも米やにぎり飯を背負って多くの人々が長岡の焼け跡に向かった。
 屈強な男たちはすべて兵隊や軍属にとられ、村は年寄りと女たちが守った。小学校高学年も含め、子供たちは勉強も手がつかず勤労奉仕の毎日であった。
 肥料も消毒液もなく、投下労働力も低下し、食糧生産力は極端に落ちた。村には多くの疎開者が押し寄せ、さしもの米どころ新潟も食糧難にあえぎはじめた。
 買い出しが後を断たず、闇商人も暗躍した。
 弱り目にたたり目。敗戦の年は、歴史的な大雪に見舞われ、すべての陸路はもとより、頼みの国鉄さえもストップしてしまった。暗く、貧しく、寂しい、長い長い年であった。

 三郎の「死亡告知書」が新発田連隊区司令官から届いたのは、敗戦の年の十月八日だった。小千谷は秋の取り入れで、人々は疲れきった体にむち打ち、多忙を極めていた。
 覚悟はしていたが、愛する三郎が特攻機で戦死したことを知ったとき、頑固もので気丈な父親松太郎も、さすがに悲しみと落胆のために、二週間泣き暮らした。
 この秋、三郎の僚機に搭乗していた滝本曹長が、憔悴しきって宮川家を訪れた。

 三郎の最後の様子を伝え、自分だけが生き残って敗戦を迎えてしまったことを、はるばるとわびに来たのだった。山梨県出身の滝本は、どこから遠い越後まで来てくれたのか、上野からでさえも八時間かかる時代であった。
 長野回り信越線でも東京経由上越線でも、松本経由糸魚川回り北陸線でも、ズタズタになったダイヤの乗り継ぎがなければならなかった。このころ、二、三日がかりで訪ねてくれたのかも知れなかった。

 松太郎、マツ夫妻には二重の不幸、悲しみがあった。この夏、ちょうど三郎が沖縄の海に出撃したころ、娘のマサ子を病気で失っていた。しっかり者の両親の子供らしく、マサ子もまた賢く、優しい器量よしだった。臨終の病床でマサ子は言った。「私か身代わりに死ぬから、三郎は必ず生きて帰ってくる……」と。父松太郎は、そのけなげさと悲しみで、廊下に出て声を上げて泣いた。
 後に長男武一さんに子供が生まれた時、三男に三郎、四番目の長女にマサ子と名前をつけた。跡取りの子供、自分の孫たちにマサ子、三郎のように、良い子になって欲しいとの松太郎、マツ夫妻の願いと、惜しんでも惜しみきれない二人をもう一度、宮川源八家によみがえらせて一緒に暮らしたいとの願いであった。
 愛情無限、死をあきらめきれなかった気丈者、松太郎の天に祈った魂、霊魂の復活であった。マサ子と三郎にそっくりの孫たちがスクスクと育ち、学齢に達するころ、松太郎は安心に満ちて、昭和三十六年に波乱に富んだ一生を終えた。現在、二代目三郎は二兄と東京でインテリアの会社を経営し、二代目マサ子は市内に稼ぎ、実家の長兄と一緒に家内工業に従事し、親孝行をつくしている。叔母と同様色白で、優しい美形である。
 宮川家では家族一同が、心から感謝して、生きながらえた神風飛行兵を迎えた。
 滝本曹長は号泣しながら、六月六日出陣の日の一部始終を語り続けた。
 「開聞岳の上空を、豪雨と密雲の中で『また出陣のチャンスはあるから、この悪天候の中は引き帰そう』と何回も自分は飛行機を近づけて呼びかけたのです。宮川はその度に『お前は戻れ、戻れ。俺は征く!』と何度も合図をし手をあげて、雲の中に消えてゆきました」と。
 父も泣いた。母も泣いた。長兄武一も姉キョも泣きくずれた。

 十数年も戦争が続いたのが嘘のように、秋の虫の音が聞こえ、中秋の月が山野を照らしていた。
 松太郎は泣き続ける滝本曹長に言った。
 「本当にこんな遠い所までよく訪ねて来てくんなすった。三郎もどっげに喜んでくれているやら。お前さんは三郎の身代わりだ。おらこの家のせがれとおんなじだ。いつまでも、気の済むまでこの家にいてくんなさい。おれも三郎を見ているようで、ばかにうれしい。そうしてくんなさい、そうしてくんなさい!」と。
 滝本は三郎が少年時代、毎日読書しながら火たきをした据え風呂に、やせてはいるが、特攻隊で鍛えた体をゆっくりとつからせた。何もない時代だが「米は一町歩余も作っている。甲州は山国で米のとれが悪い。さあさあ、越後のうまい米を腹いっぱい食べて、新生日本の社会で三郎の分も頑張ってくれ!」とわが子のようにもてなしたのであった。
 母マツも手作りのごちそうを作り、心づくしの接待にあたった。
 滝本は、宮川の両親の気の済むまで、ここに滞在してやることが、自分の務めであると決意する。心は苦しく、つらい。しかし ―― 。
 海原に散った宮川軍曹には、遺骨も遺髪もなかった。死の直前の五月二十九日に、知覧から両親に送った遺書代わりの、四、五センチの桜の小枝があった。手にとるとまだツヤツヤとして、まるで生きているような光を放っている。
 激しい訓練を、命がけで重ねた特攻基地の日々と、宮川との友情が、次から次へと浮かんでは消えた。
 滞在一ヵ月 ―― 。三郎が朝な夕なに眺めた信仰の山、秀麗な八海山が初雪に白む初冬。滝本曹長は、長い間の肉親にもまさる厚遇に感謝し、郷里をめざして小千谷を去って行った。
 これが再び会うことのない別れとなった。三年後、滝本恵之助も若い命を散らしたからであった。



血染めの日の丸と、知覧から三郎が遺骨がわりに送った桜のつぼみと小枝


生家の肉親に送った最後の手紙(昭和20年5月29日着便)。
知覧基地の桜の小枝が同封されていた。

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