思い通りの死に方
仏教では「四苦八苦」など「苦」を重要なテーマにしています。
仏教でいう「苦」とは、「息苦しい」とか「苦労」ということではなく、「自分の思い通りにならない」ことなのだそうです。
四苦の1つである「死」も、自分の思い通りにはならないところですが、本書のタイトル「思い通りの死に方」のようなことができれば良いなぁ、と思いながら読み始めました。
結論はやはり、死は自分の思い通りにはならないということのようですが・・・。
思い通りにはならない死であっても、どういう死に方が良いのかを知っておくことはとても有意義だと思います。
中村仁一・久坂部羊さんの「思い通りの死に方」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
第一章 長生きは、怖い
死にたくても死ねない「長命地獄社会」 9 / 不調を「病気のせい」と言われ、喜ぶ高齢者 12 / 医者の仕事は「病人づくり」 15 / 「気持ちに体を」ではなく、「体に気持ちを」合わせる 17 / 「効かないわけはない!」と信じてサプリメントは飲むべし 20 / 「スーパー老人」は例外中の例外 23 / 痴呆は認めず、認知症なら受け入れる家族 25 / 早く死んだほうがいい現実もある 28 / 「長生きはすばらしい」という大本営発表 31
第二章 医者は信用できるのか
90歳への心肺蘇生は正しいのか 33 / 「いい看取り」かどうかは死んだ人間のみぞ知る 36 / 不自然な延命治療に絶望した日々 38 / 医者には治療の苦しみがわからない 44 / 診断できても治療はできない 48 / 「何もしない」という治療もある 50
第三章 自然死は、怖くない
親には延命治療するが自分はイヤ 53 / 「自然死=不幸な死に方」ではない 56 / 「老人は乾いて死ぬのがいちばん苦しまない」 58 / 自然死を覚悟したら回復した実父 62 / 死に時に死なせるのが本当の親孝行 66 / 「余命6ヵ月と言われたらエクササイズ」で人生を謳歌する 69 / 孤独死は理想的な最期 73
第四章 なぜ「死ぬのはがんに限る」のか
がんにならない唯一の方法は、なる前に死ぬこと 79 / がんを放置するのは何歳から? 82 / 84歳で胃がんが見つかり、94歳で元気に死んだ祖母 85 / 病名を「知らずにいる権利」もある 88 / がんは死の許可証 91 / 「足腰を鍛えに鍛えてがんになり」 93
第五章 医者もがんになるのはなぜか
国立がんセンターの医者もがんで死んでいる 96 / 「医療にかかわるな」に対する医者からの反応は? 102 / がん検診をしたグループのほうが死亡率は高かった 105 / 人間ドックが保証する健康は「当日限り」 108 / 健康人の8割を不健康と判定する人間ドック 111 / 自分の体のことは自分がいちばんわかる 114 / なぜ医者のコミュニケーション能力は低いのか 116 / 医者に学力と人間力を求めるのは酷な話 119
第六章 患者に「嘘の希望」を与えるな
新薬のニュースはあれど「現物」は出てこない 122 / 研究よりお金集めに奔走する医者の懐事情 124 / なぜ医者は患者に「幻想」を与えるのか 127 / マウスで成功しても人間に効くわけではない 130 / 新発見が治療に結びつくわけではない 133 / 不幸の再生産をとめる手段はあるか 136
第七章 尊厳死の理想と現実
「頼むから死なせてくれ」が尊重されない日本 139 / 臓器移植反対派も、自分の子供には「移植してほしい」 143 / 胃瘻を受けた患者は「ただ死なないだけ」 146 / 「胃痩をしたら□から食べられる」は「この株は絶対儲かる」と同じ 150 / 人間にとって本当の尊厳とは何か 154
第八章 思い通りの死に方
長生きしてる人々は「たまたま」長生きだったにすぎない 158 / 人生を振り返る作業は早いほうがいい 161 / 棺桶に入って初めてわかること 163 / 明日死んでも悔いのない生き方をする 167 / どうすれば老いを受け入れられるか 171 / プラス思考をする人は回復が早い 174 / 死に方は巡り合わせで決まる 177 / 努力するほどにマイナスに働く。それががん治療 179 / 悲惨な死から学べること 182 / 納得のいく生き方をすれば、死に方はどうでもよくなる 185 / 大往生とは何か 187 / 大往生するための条件 190
おわりに 195
痴呆は認めず、認知症なら受け入れる家族
久坂部 ちょっとした発想の転換をするだけで、本当のことに気づくんですよね。周囲の空気に振り回されずに自分の頭でよく考えてみれば、何が自然で何か不自然かはわかるはず。でも今は多くの人が「年を取っても健康でなければいけない」という世間の風潮に振り回されているんです。その間違った刷り込みが強すぎるように思います。
中村 ええ。実態をきちんと見つめずに、目を背けるところが日本人にはあると思います。上っ面の情報に流されるから、本質を見誤ってしまうんですよ。
久坂部 最近は、物事の本質をオブラートで包むような言葉遣いも目立ちます。これは中村さんも本にお書きになりましたが、たとえば「認知症」という言葉。昔は「老人ボケ」や「老人性痴呆」だったので、「ボケが進む」「痴呆が進む」という言い方をしましたが、それが認知症になってからも看護婦さんが「あの患者さん、そろそろ認知が進んできて」などと言うので、混乱しますよね。それじゃ、認知能力が良くなってるみたいですから(笑)。
でも、患者や家族にとっては、「認知症」のほうが受け入れやすい。以前は、テストの結果を受けて「老人性痴呆が始まっています」と家族に伝えると、「父は今日ちょっと調子が悪いだけだと思います」などと否定されたものです。ところが「認知症の兆候があります」と言うと、あっさり「そうですか」と受け入れる。精神分裂病を「統合失調症」に言い換えたのもそうですが、まさにオブラートに包んだ薬と同じで、本質を覆い隠した言葉だから飲み込みやすいのでしょう。売春を「援助交際」と言い換えたり、オウム真理教が殺人を「ポア」と呼んだのと同じで、言葉ひとつで心理的なハードルが下がります。
ちょっと前には、「後期高齢者」という言葉も叩かれましたよね。福祉や高齢者医療の分野では昔からふつうに使われていた言葉ですが、制度の名前として世間の目に触れたとたん「もう人生が終わりだという意味か」と文句が出た。そういう過敏な反応があるから、どんどん言葉が言い換えられてしまう。「年寄り」や「老人」だって、「高齢者と呼べ」とクレームをつける人はいます。その背後にも、年を取ることや老いることを否定する感覚があるからでしょう。
中村 物事の本質を見つめる強さがないから、言葉を言い換えることで、目の前の現実から逃げるんでしょうね。
久坂部 いつから日本人はその強さを失ったんですかね。昔はもっと現実を直視する気概があったような気がします。私は、戦後の教育や社会制度が日本人を弱くしたように思えてなりません。もちろん弱者へのやさしさは必要ですが、やさしさは甘さと紙一重です。
中村 たしかに、戦争に負けてからの日本は、それまでのやり方を何から何まで否定してしまいましたからね。悪いところを直すのは当然ですが、全否定することはありません。
親には延命治療するが自分はイヤ
久坂部 先ほど、生命至上主義や治療至上主義は医療関係者やマスコミの自己満足にすぎないという話をしました。しかし延命治療に関しては、家族のエゴの問題もあると私は思います。もちろん、大事な父親や母親を死なせたくないから延命治療を望むわけで、その家族愛は否定しませんよ。ただ、先ほど中村さんもおっしゃったように、「いい看取りだった」と満足するのは家族や医者だけで、本人が納得したかどうかはわからない。「最後まで諦めずに手を尽くした」という達成感も、残された家族の自己満足である可能性が高い。
実際、高齢者医療の現場にいると、本人が望んでいるとは思えないのに、家族が「治療を続けてくれ」と希望することがよくあります。ところが、自分が親と同じように死にかけているとき、延命治療を望む人はあまりいません。大学で学生に延命治療に関するレポートを書かせたときも、「自分は安楽死をしたいが、両親にはできるだけ長く生きてほしい」というダブルスタンダードの子が何人もいました。
中村 さっきの医者の話とまったく同じですね。自分はお断りだけど、患者や家族には延命治療をやるのが正しいと思ってしまう。
久坂部 そうなんです。自分が安楽死したいなら、親も安楽死させないといけないですよね。自分の親に長生きしてほしいなら、自分もわが子の気持ちを汲んで延命治療を受けなければいけない。そうしないのは、はっきり言って身勝手です。このダブルスタンダードをやめないかぎり、無駄な延命治療はなくならない。考え方が、あまりにも未熟です。
中村 やはり、自立できない日本人がまだ多いんでしょうね。これは前の本にも書きましたが、家族の中には身勝手さを隠そうとしない人もいますよ。ある高齢の患者さんに胃痩をするかどうかという話になったとき、家族は「やりたい」と言うんです。そこで私が「ご本人はそれを嬉しがりますかね。ご家族は感謝されると思いますか?」と聞くと、「そんなことはもう本人も意識がないから、問題じやありません。要は、われわれがいかに満足するかでしょ。家族としては、なるべく後悔したくないんです」と言われました。かなり極端なケースではありますが、そこまではっきり言われたら、まあ、うなずくしかありませんね。
久坂部 心の中ではそう思っていてもなかなかそうは口には出しませんよね。多くの家族は、本当は自分たちのエゴなのに、「親の命を助けるためにやってください」と話をすり替える。むしろ、こちらのほうが厄介です。自分のエゴだから絶対に譲らない上に、自己批判の気持ちもない。「ご本人のためにはならないと思いますよ」と諦めさせようとすると、「医者のくせに見殺しにするのか」と反論する。
中村 そうそう。まさに生命至上主義の建て前を押し立ててきますよね。「医者のくせに尊い命を軽んじるのは許せない」と、下手をすればマスコミに苦情を持ち込み大騒ぎになりかねない怖さかある。
「自然死=不幸な死に方」ではない
久坂部 しかし現実には、そういう机上の空論のせいで、苦しい死が高齢者医療の現場に溢れかえっているわけですから、もっと正直にならないといけないと思いますね。いつまでも幼稚な正論を楯に現実から目を逸らしていると、家族の関係そのものが成熟しないし、本当の意味で親の幸せを実現できませんよ。だいたい、親が90歳を越えているのに、「そろそろ弱ってきていますから」と伝えると、「えっ?」とビックリする家族がいますからね。自分も60歳を越えていて、親が死ぬことをまったくイメージしていないんです。
中村 います、います。そういう人は本当に多い。
久坂部 本当はわかっているのに、ふだんは考えるのを避けているんでしょうね。親の死をリアルに受け止めようとしないから、いざとなると建て前のきれい事で片付けようとするのかもしれません。とにかく、親の死に対する気持ちの準備がまったくできていないわけです。だから、親の衰えを受け入れられない。たとえば「高齢の親が食事をとれなくなったらどうしますか?」とアンケート調査すれば、ほとんどの人が「点滴する」「栄養補給する」「胃瘻をする」などと答える。とにかく何らかの形で栄養を与えなければいけないと、根拠のない先人観にとらわれている。でも、年寄りが食べられなくなったということは、もう個体として死に向かっていることを意味しているんですよ。それを無理やり引き留めても、ただただ不自然で残酷な状態になるだけでしょう。それなのに、「とにかく引き留めるのが正しい」「医者は引き留めることができるはずだ」と思い込んでいる人が多いんです。
中村 それで引き留めることができずに死んでしまうと、手当てをした医者の技量が足りなかったかのように思われますよね。私らが医者になりたてのころは、患者が亡くなると、先輩が「至りませんで」と家族に頭を下げました。先輩がやるので、私もしょうがないから「精一杯やりましたが、至りませんで」とやってました。そのうちこれは変だ。「この患者さんは、べつに俺が至らなかったから亡くなったわけじゃないよ」と思うようになりました。
久坂部 私もその決まり文句はよく使いました。正直な話、その言葉に心はこもっていませんでしたけど。ただし高齢者医療を始めてからは、そんなことは言いません。もちろん「よかったですね」とも言いませんが、余計な手当てをせずに、患者さんが穏やかに息を引き取ったときは、ほっとしますね。延命治療なしのいわゆる「自然死」がいかに納得感と充実感に満ちているかを経験したら、誰だって「無理に引き留めるべきではない」と実感するはずですよ。今は人の死に際に医療が介入しないケースがほとんどないので、そういう機会に触れる人が少なすぎます。だから「自然死=不幸な死に方」という根拠のない思い込みが広まっているんじゃないでしょうか。
「老人は乾いて死ぬのがいちばん苦しまない」
中村 一生懸命に訪問診療を行い、自宅での看取りをやっている開業医の先生方も、話を聞くと、最後まで何もしないのは非常に難しいそうですね。患者に長く点滴を続けると、そのうち血管が潰れて針が入らなくなりますが、それでも今は大量皮下注射という手法があるので、治療していることになる。本当に無駄な抵抗ですが、それさえやれば家族は満足するし、医者自身も「何もしない」という罪悪感から免責される。
久坂部 無駄な抵抗を避けるには、あらかじめ家族を教育しておく必要があります。だから私は、最期の看取りを迎える前に、これから何が起きるかをレクチャーします。
「まず、徐々に食べたり飲んだりもしなくなりますが、点滴は薄い砂糖水みたいなものですから、しても意味がないし、心臓や腎臓に負担をかけるので、かえって寿命を縮めることにもなるんですよ。血圧が下がると意識がなくなります。最後は下顎呼吸をするので苦しそうに見えますが、本人は意識がないので心配ありません」と。――そうやって前もって知識や情報を与えておくと、落ち着いて対処する人が多いですね。
中村 それが最期の看取りにたずさわる医者の役目ですよね。私も、「意識レベツが落ちるし、脳内モルヒネが出たりするので、本人はまったく苦痛を感じませんよ」と家族の心配を取り除くことを心がけます。
たしかに一見すると苦しそうに息をするので、何も知らない人は黙って見てはいられないでしょう。いくら「心配ない」と言っても、「だって苦しそうじゃありませんか」と動揺する人はいるから、何度でもくり返し説明しなければなりません。
たとえば、一滴も水を飲まずに脱水状態になると、やはり熱は出ます。自動車でも、エンジンを回すと熱が出るから、冷却水がないとオーバーヒートするのと同じです。人間も体温を保たなくてはいけませんし、まだ心臓を動かすにも呼吸をするにもエネルギーがいるわけだから、水を飲まずに冷却不足になれば高熱を発することもあるんです。39度を超えることもあるので、そうなると見守っている家族は大騒ぎになりますね。だから、その居室に行くたびにいちいち「熱は出てるけど苦しくないから心配ない」と説明することになるんです。
久坂部 手間のかかる面倒な仕事ですよね。家族に「点滴してください」と言われたら、何も考えずに「わかりました」と答えれば、「ありがとうございます」と感謝されて終わるわけですから。そこで「いや点滴はしないほうがいいですよ」と説得して理解させようと思ったら、最低でも1時間ぐらいかけて喋ることになる。でも、その時間を惜しまずに、勇気を持って説明しなきやいけないと思います。それでも理解が得られないことはありますが、わかってくれる家族も少なくありません。その場合は、本当に穏やかな最期になるんですよね。
中村 ただ、まずは医者自身がそれを体験していないと、家族を説得することはできませんよね。点滴をしないと患者がどうなるのかを知らなければ、自信を持って話すことはできません。でも病院に勤めている医者は、まず自然死を経験する機会がありません。
久坂部 そこが問題です。一度でも経験するとわかりますが。実際、在宅医療をやっている医者仲間は、みんな「老人は点滴なんかしないで、乾いて死ぬのがいちばん楽そうだ」と言いますよ。
中村 そう。でも体験がないとそれは言えないし、何もしないと手抜きをしているような罪の意識を持ってしまう。本当に何もしない穏やかな自然死を知っていれば、たぶん相当な迫力で家族を説得できると思いますよ。昔は今みたいに医療が死に際に濃厚に関与していなかったから、みんな自然に死んでいたんです。それが不幸な死に方だなんて、誰も思わなかった。
久坂部 そうですよ。うちは私が医者なので、よく「ご家族も安心でしょうね。ふつうの家庭は医者がいないから不安です」と言われますが、昔は死ぬまでは医者なんか来なかった。
中村 死んでから、死亡を確認に来た。健康保険のない時代は、そんなにいちいち医者にかかっていられませんから。死んでからでも、家族から話を聞いて「はいはい、心筋梗塞ですな」とか言いながら死亡診断書を書いてくれました。郷里の長野では「芸者を上げる」と同じように、「医者を上げる」という言い方をしたんです。死ぬまでは、医者を家に上げることはない。それまでは、家族だけで看病していたわけです。
久坂部 医者とお坊さんのどっちが先に着くか、ぐらいの話ですよね。そのほうが効率もいいし、経費もかからないし、患者の苦しみも少ない。いいことばかりですよ。それなのに、いろいろな医療技術が進んだせいで、「手当てすれば寿命が延びる」「また元気になる」という思い込みが広まった。その結果、医者がいないと不安を感じるようになった。つくられた無駄な不安ですよね。
中村 そうです。ほんの40~50年前まで、そんな不安はなかったんだから。
孤独死は理想的な最期
久坂部 ところで、世の中には家族の関わらない自然死もありますよね。いわゆる「孤独死」です。独り暮らしの高齢者が人知れず亡くなるケースが、しばらく前から問題視されています。新聞で読んで私も驚いたのですが、東京監察医務院のデータによると、東京23区内では、2日以上経ってから見つかった遺体が2.95%。つまり34人に1人は誰にも看取られずに亡くなっている。死後8日以上経ってから見つかった遺体も1%あって、これは白骨化はしていないけれど、ウジがわいて遺体の様子もかなり変わっているでしょう。そんな死に方をする人が、東京では100人に1人もいるわけです。もはや、そういう社会になっている。それを伝えた新聞記事の論調もそうでしたが、一般的には、こうした孤独死を「いかに防ぐか」が議論のテーマになります。
実際に、これまで孤独死を前向きに評価する声はありませんでした。しかし中村さんは先頭を切って、「孤独死にも良い面はある」と主張されています。
中村 死に方だけを取り出してみれば、誰からも邪魔されずに、無駄な延命治療をいっさい受けずに自然に息を引き取るのですから、ある意味で理想的な最期です。もちろん、本人がSOSを発したのに医療の助けを得られずに放置されたケースもあるでしょうから、これはちゃんとケアせねばなりません。また、遺体が長く放置されると周囲の住民が迷惑を被りますから、これも解決すべき問題です。
しかし、死んでから放置されても本人には何の苦痛もありませんし、生前も、自ら孤独を選んだ人は少なからずいるでしょう。そこに無理やり訪問して、穏やかな死に方を邪魔するのもまたお節介というものですよ。
久坂部 先ほどの新聞にも「お節介はスマートに」と書いてありますから、過剰な介入は控えたほうがいいという意識はあるようです。そもそも個人情報保護法があるために、該当者の名簿をつくることもままならない。東京23区の場合、70歳以上の3割が独り暮らしと、人数も多い。100歳以上でも、158入のうち26人が独り暮らしをしているそうです。だから強制的にでも名簿に登録しないと孤独死が増える一方なんですが、やはり介入を嫌がる人の意思は尊重しなければいけない。それはまあ、当然ですよね。孤独死を望む人はそうさせればいい。
ただし困るのは、生きているあいだは他人にかまわれたくないけれど、死にかけたら助けてほしいという人。孤独死したくないなら、元気なうちからある程度は人を家に入れないといけません。でも、それはイヤだというわがままなパターンが実はいちばん多いような気もします。そのあたりは、やはり個人の成熟が求められますね。
中村 そう思います。昔はひとまとめに「孤独死」と呼ばれたので、みんな意に反して寂しい最期を迎えたかのような印象がありましたけど、「孤立」と「孤独」は違います。あえて周囲との関係を断って独りで死ぬのも尊重すべきでしょう。決して悪い死に方ではありません。
久坂部 私も、高齢者の孤独死はそんなに苦しまないと思います。もちろん、たとえば母親の育児放棄で餓死した子供が紙おむつまで食べていた悲惨な事件がありましたけど、ああいうのは苦しいと思います。でも高齢者の場合、よく布団に寝たままの状態で見つかったりしますよね。
中村 ええ。苦しそうに白目を剥いたり、苦痛のあまり畳に爪を立てていたり、そんな状態で見つかることはないと思いますよ。たぶん、あまり苦しまずにコロンと死んだんじゃないでしょうか。
久坂部 そうだとすると、やはり余計なお節介はしてほしくないですよね。本人は朦朧状態で、脳内モルヒネが出てフワツとした良い気持ちになっているかもしれないわけですよ。そうやって「ああ、いい人生だったな」と穏やかに死のうとしているときに、ドンドン! ドンドン! と玄関のドアを叩かれて、「大丈夫ですか!」と役所の人が踏み込んできたんじや、台無しです。そのうち救急車がサイレンを鳴らしながらやって来て、心電図やら何やらを体につなげて、ガンガン酸素吸入を始めたりする。こんなの寝た子を起こすのと同じでしょ。
だから、すべての孤独死に手を差し伸べて助けることに私は疑問を感じます。生命至上主義に覆われた世の中では言いにくいですが、そっとしておいたほうがいいケースも間違いなくある。大上段に振りかぶって「守る価値のない命などひとつもない」と言われると反論しにくいけれど、そこには嘘が混じってる。そのまま死なせたほうがいい命もあるんですよ。
それに「孤独死は人間の尊厳を損なうから阻止すべし」という意見が、すべて本音だと思えません。その裏側には、「遺体が腐るので周囲が迷惑する」という生きている側のエゴも隠れている。
たとえば賃貸マンションで孤独死をされたら、大家さんはリフォームが大変ですからね。でも「孤独死阻止」を主張する人たちは、そういうエゴがあることを認めません。あくまでも「気の毒だ」という善意だけを前面に押し出してくる。そういう善意の声が高まると、行政側も対応せざるを得ません。「こんな可哀想な人々を見殺しにするなんて、自治体は何をしているのか!」という批判は避けたいから、事なかれ主義で、生命至上主義の論理に沿って動く。これは役所のエゴです。そうやって、孤独死する本人の希望は蔑ろにされるわけです。
中村 たしかに、そういう面はあるでしょうね。生前のSOSや死後の遺体処理の問題にはきちんと対応すべきですが、まずは自然死が、実は穏やかな良い死に方であることを広く周知しなければいけないと思います。
がんは死の許可証
久坂部 がんの良いところをもうひとつ挙げるとすれば、無闇に長生きせずに済むことです。高齢者医療の現場で、90歳を過ぎても死ぬに死ねなくて苦しんでいる人たちを見ていると、早く死ねるのがありかたいことだと思えます。がんになるのは「ちゃんと死ねるよ」とお墨付きをもらうようなもの。まだまだ世間には理解されにくいことですけども。
中村 モルヒネで苦痛をやわらげる緩和ケアの重要性が声高に指摘されてきたので、「がんで死にたい」とはなかなか思えないでしょう。私自身、以前から、がんは手出しさえしなければ痛まないと思っていましたが、老人ホームに行って初めて、発見された時点で痛みのない末期がんは、放っておいても痛くないことを実体験しました。この目で見ているので、「死ぬのはがんに限る」と今は確信を持って言えますけど、そういう日本人は少数派ですよね。
久坂部 だからこそ、つくられた恐怖のイメージを変えていかないといけない。
中村 私なんか、顎に腫瘍ができて唾液の出が悪くなってるんですけど、病院に行って調べようとは思いませんよ。「手遅れの幸せ」を満喫したいから。
久坂部 有言実行ですね。
中村 ええ。「がんで死にたい」と公言している人間が病院に行ったら、言行不一致でおかしいでしょう。
久坂部 私も本に「死に時は60歳」と書いたら、取材に来た新聞記者に「久坂部さん、あと4年ですね」と言われました(笑)。私か言う「死に時」はその年齢で死ぬという意味ではなく、そこから先は余力で楽しめばいいという話なんですけどね。そう言っても、「60歳になったら『死に時は70』つて言ってるんじゃないですか?」と意地悪を言われました。
中村 あはは。でも、そうやって私たちみたいな人間が「老い」や「死」を受け入れることをどんどん公言しないといけませんよね。一方では、有名人がめちゃくちゃに「がんと闘う生き方」を世間に披露していますから。古くは逸見政孝さんから、最近では筑紫哲也さんまで、果敢に闘病して悲惨な死に方をしているじゃないですか。逸見さんはまだ40代で若かったけど、筑紫さんは70歳を過ぎていたのに、「もう緩和ケアをやったらどうか」という医者の勧めを断って、頑なに最後まで闘ったそうですよ。ああいう人たちがそれをやると、闘病しないことが許されないような雰囲気になりますよね。
不幸の再生産をとめる手段はあるか
中村 そうですね。やはり最終的には、現実や真実と向き合わなければいけないと思います。ところが今の日本人はひ弱だから、厳しい現実から目を背ける。
久坂部「人間は考える葦である」で有名なパスカルに、こんな言葉があるんですよ。「われわれは断崖の前に目をふさぐものを置いて、安心して崖に向かって走っている」――。目の前に危険があるのに、それを直視せずに偽りの安心感に浸りたがるのが人間だということでしょう。もう400年近く前からこんなことが言われているのに、まだわからないのかと、情けない気分になります。
中村 まあ、人間は弱い存在ですからね。前に話した心のケアの問題も、根は同じかもしれません。何かあるとすぐにカウンセラーに頼りたがるのは、そうすることで目の前の現実から逃げられるからですね。「病気は医者に治してもらえばいい」「心の悩みはカウンセラーが解決してくれるはず」と思っていれば、自分がしんどい思いをせずに済みます。
久坂部 そうやって自立や成熟を拒否していると、結局は自分の首を絞めることにしかなりません。
中村 そう思います。自分自身がそれに向き合い、悩んだり苦しんだりしながら時間をかけて乗り越えることで、人間は強くなる。
久坂部 一方に現実と向き合わない人たちがいて、一方に「いいよいいよ、大丈夫だよ」と彼らを甘やかす専門家やマスメディアがいて、この状況を打破しないかぎり不幸の再生産が続いていく。
中村 それで思っていたような結果が出ないと、「大丈夫だと言うから信じていたのに、このザマは何ですか」と専門家に文句をつける。
久坂部 そう。今に日本人はみんなが他罰的になっています。何か起こると誰も責任を取らず、すべてを人のせいにする風潮が強い。こんなことを続けていたら、自分たちが不幸になるだけだと、そろそろ気づいていいころです。
「頼むから死なせてくれ」が尊重されない日本
久坂部 ここまで話してきた通り、医療には限界があります。医者も患者もその事実を受け入れなければ、無駄な延命治療はなくならず、穏やかな自然死を迎えることはできません。ただし近年は、延命治療を疑問視する人も増えてきました。それが端的に表れているのが、尊厳死に関する議論でしょう。近々、超党派の議員による法制化も進められる見通しになっています。
これまで、医者が延命治療を行わずに患者を自然死させる行為は、場合によっては自殺関与罪や同意殺人罪に問われることもありました。本人の意思表示や家族の同意があれば罪にならないと勘違いしている人も多いが、今の法体制では同意があってもなくても尊厳死はすべて違法なんですよね。
たとえば1991年には、末期がん患者に塩化カリウムを注射して死なせた医師が初めて殺人罪に問われて、95年に懲役2年、執行猶予2年の有罪判決が出ました。そのとき裁判所は安楽死が許される要件を出しています。「患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる」「死が避けられず、死期が追っている」「肉体的苦痛を除去・緩和する方法を尽くし、ほかに代替手段がない」「生命の短縮を承諾する患者の明示的意思表示がある」――この4つです。しかし、これを満たしていれば罪にならないというわけではありません。きちんと法整備がなされるまで、尊厳死に関わる医者には大きなリスクがつきまとうわけです。
中村 当初、法案には延命治療の「中止」を認める項目が入っていませんでしたが、現在はそれも含める方向になっているようですね。良いことだと思います。延命治療の「不開始」は、とっくに私なんかもやっているわけで。
久坂部 そもそも始めないわけですね。それに加えて、始めたものを中止できるようにしないといけない。
中村 そうしないと、いったん延命治療を始めてから途中で尊厳死を選択することができませんからね。ただ、難病団体や障害者団体などは法案に反対しています。尊厳死が法律で完全に認められると、まだ生き続けたい患者にも「いい加減に死なせてあげたほうがいいのではないか」という無言の圧力がかかってしまう、というのが反対の理由です。
久坂部 臓器移植法案の論議でも、同じような反対意見は根強くありました。法律で認められると、臓器提供を断りにくい空気になるというわけです。でも、脳死移植も尊厳死も、自分の意思で選べるようになるというだけの話ですから、そんな無言の圧力は関係ない。自分で決めたら、そんなものははね除ければいいんですよ。
中村 おっしやる通りですけど、日本人は周囲の空気を気にするタイプが多いですからね。たとえばテレビの街頭インタビューで意見を聞かれたときも、ひと通り何か答えた後で、最後に「みなさん、そう思っていらっしゃると思いますよ」などと付け加える人が多いじやないですか。その人の意見を聞いているんだから、「私はこう思う」と言い切ればいいのに、それができない。「自分は自分、他人は他人」と思えない。
久坂部 本当にそうですね。私も以前、外務省時代の仲間と4人で米の自由化について議論していたときに、賛成と反対が2対1で分かれたことがあったんです。それで最後のひとりに「君はどう思うの?」と聞いたら、「いや、もう、みなさんのおっしやる通りだと思います」って答えたのでズッコケました。
中村 どっちやねん(笑)。
久坂部 賛成か反対か、自分の意見をはっきり口にすることよりも、とにかく和を乱さないことを優先するんです。しかし、「無言の圧力」を避けるだけのために法律の制定をしないなんて、おかしな話ですよ。その法律がないために不幸になる人たちはどうすればいいんですか。
難病団体は「尊厳死を美化すると生きたい人が生きづらくなる」と言いますが、難病で苦しんでいる人の中にも「頼むからもう死なせてくれ」と思っている人はいるわけです。生きたいか死にたいかは、それぞれの個人によって違うんです。それを自由に選べるようにするのが、個人を尊重するということでしょう。世間の空気を優先していたのでは、いつまでたっても日本は風通しのいい社会になりません。このおかしな伝統は変えられないものなんですかね。
中村 日本人全体を変えるのは難しいでしょうねぇ。変われる人が変わっていくしかないと思いますよ。
久坂部 教育の問題もありますね。たとえばアメリカでは、小学校のときから必ず「君の意見は?」という問いかけをして、「自分はこう思う」とはっきり主張することの大切さを教えます。それを通じて個人のコミュニケーション能力が鍛えられる。
死に方は巡り合わせで決まる
中村 私は、人生を「往き」と「還り」に分けて、生き方を変えるといいと思っています。昔は「上り」と「下り」と言ってましたが、「下り」という言葉に劣った印象を持つ人もいるようなので、「往き」と「還り」にしました。まあ、そうは言っても「往き」が上り坂なら、「還り」は下り坂になるんですけどね(笑)。人生の「往き」は、若さや健康や能力が右肩上がりなんですよ。だから、どこかで方向転換して「還り道」を歩き始めないと、いつまでも右肩上がりの発想になってしまう。本当は、繁殖を終えたら還
り支度を始めるべきなのですが、生き方を変えることができずに「まだまだ、もっと遠くまで行ける」と行きっぱなしになっている人が多いんですよ。
でも、「往き」と「還り」では何かを切り換えないと歩きにくい。たとえばウサギは、前脚が短くて後ろ脚が長いですよね? あれは坂を登るのに適した形なんです。下り坂は苦手なので、慌てて下りるとコケてしまう。ウサギにしてみれば、できることなら下り坂では前脚と後ろ脚を取り替えたいぐらいだと思いますよ。人間も、繁殖期を過ぎて「還り」の人生が始まったら、それぐらいの意識変革が必要なのではないでしょうか。
久坂部 その「還り道」のゴールは、死ですよね。「往き」はそれに背中を向けていますが、「還り」はどうしたって死が視野に入る。それを「不吉だ」と思う人が多いわけですが、そんなことはないと思うんですよ。たしかに、死から目を逸らしていれば目先の楽しさは得られるかもしれませんが、それはどこか嘘臭いものでしょう。だって、本当はみんな自分がいつかは死ぬことを知っているんですから。むしろ、死というゴールから逃げずに歩いたほうが、地に足の着いた充実感を得られるような気がします。
中村 そうですね。ただ、そこでゴールだけ見据えて歩くのもよくありません。そもそも人生はいつ終わりがくるかわからないので、どこにゴールがあるのかは見えるようで見えない。それを意識しすぎると、「死に方」のことばかり考えてしまうんです。でも、死に方は選ぶことができません。
たとえば私は、延命治療を受けたくないので「死にかけても救急車には乗らない」と宣言しています。だから、自宅で倒れても家内は救急車を呼ばないかもしれません。でも道端で昏倒してしまったら、私の意思なんか知らない通りがかりの人は、常識として救急車を呼びますよね。それで救急病院に運び込まれれば、そのまま自然死はさせてもらえない。気がついたら、集中治療室で最大限の治療を受けているでしょう。私としては不本意ですが、それは仕方ありません。どんなに自分で綿密な計画を立てても、自殺でもしない限り、死に方や死ぬ時期はそのときの縁、巡り合わせで決まるんです。
久坂部 思い通りには死ねないですよね。
中村 そういうことです。だから「還り」の人生は、死に方ではなく、「死ぬまでどう生きるか」に力点を置いて考えたほうがいい。もちろん、死を視野に入れてですよ。納得のいく生き方をすれば、死に方はどうでもよくなる。
久坂部 その一環が、1996年に始められた「自分の死を考える集い」ですよね。
中村 ええ。いったん当事者として延命治療の渦中に巻き込まれたら手遅れなので、その前段階にある人たちを集めて、いっしょに考えていこうという活動です。入会金や年会費はなしで、会合のたびに1000円の参加費を払って集まるだけ。会場では何を喋るのも自由なので、遠慮のない医療批判も飛び出しますよ。私にとっても、仕事上ではわからない患者や家族の本音を教えてもらえるので、収穫は大きいですね。
久坂部「みんなで死について考えましょう」と呼びかけて、そんなに人が集まるものなんですか?「縁起でもない」と言われそうですけど。
中村 最近はそうでもなくなりましたが、16年前に始めた当初は奇人・変人の世界でしたよ(笑)。いろいろな誤解も受けました。「死」という言葉を看板に大きく出しているので、死に方を考える自殺研究会だと思われたり、怪しげな新興宗教団体みたいに取り沙汰されたりしましたね。
しかし、エンディングノートが流行るようになってからは、世間の雰囲気も変わってきたように感じます。団塊の世代が定年を過ぎたこともあって、「病院や施設では死にたくない」と考える人が増えてきたのでしょう。
久坂部 どんなお話をされるんですか?
中村 要するに、「死ぬまでどう生きるか」ということです。「死を考える集い」と言っても、死に方を考えるわけではありません。前にもお話しした通り、死ぬまでの生き方を考える。死に方は人間の自由になるものではありませんから。
久坂部「自分の死は思い通りにならない」というのは、本当に重要な考え方ですよね。世の中、思い通りの老い方、思い通りの死に方をしたいと考えている人が多すぎますから。医療の力を借りれば、それができると信じている。ギリギリまで元気に長生きして、最後に長患いすることもなくあっさり逝く「PPK(ピンピンコロリ)」とか、そりゃあ誰でもそうなりたいと思うでしょうが、そんなにうまく死ねる人は滅多にいない。
中村 まあ、運が良ければ思い通りの死に方もできるかもしれませんけどね。それも巡り合わせでしかありません。最後はどうなるかわからないんですから、死に方なんてどうだっていいんですよ。考えても仕方がない。大事なのは生き方ですよ。
その意味では、尊厳死や安楽死を熱心に求める人たちも、「思い通りの死に方」にこだわり過ぎているような気がします。最後はどんな死に方であろうと、それまでに尊厳のある生き方を送ることができれば、それでいいんじやないかと思うんですよ。
おわりに 久坂部羊
私の敬愛する漫画家の水木しげる氏が、かつてこう書いていました。
「古今、人生をうまく整理して死んだ人はいない」
誰しも、思い通りの死に方をするのは難かしいようです。
それどころか、今の日本では、うかうかしていると、とんでもない悲惨な最期に突き落とされかねない医療状況にあります。
私は高齢者医療の現場にいて、日々、そのことに心を痛めています。どうすればこの危機的な状況を改善できるのか。そう頭を悩ませていたとき、新聞の書籍広告から、強烈なタイトルが目に飛び込んできました。
『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 キャツチコピーには「死ぬのは『がん』にかぎる。ただし、治療はせずに」とあります。私は思わず膝を打ちました。まさにコペルニクス的転回。がんを治療せずに死を受け入れるなんて、著者は自爆テロリストかと一瞬、疑いましたが、れっきとした医師でした。目からウロコが落ちるとはこのことで、いや、それどころか、目の前に見たこともない新地平が開けるような解放感を味わいました。
さっそく読むと、常識では考えられないそのキャツチコピーも、豊富な体験に基づいた冷静な結論であることがわかりました。
ぜひ著者とお会いして、教えを乞いたい。私は釈迦の噂を耳にした舎利子(十大弟子のひとりになぞらえるのはおこがましいですが)のような気分で、幻冬舎の志儀保博氏に連絡を取りました。
幸い、著者の中村仁一氏から面会承諾の返事をいただき、実現したのがこの対談です。
対談は2回に分けて、計6時間ほど行われましたが、終始、明るい雰囲気に満ち、私は何度も腹の皮がよじれるほど笑いました。同席していた編集者、ライターも同様です。
死や老いについて語りながら、この陽気さは異様とも思えますが、それはむしろ死や老いに正面から向き合っているからこそでしょう。困難な現実に、肚を据えて向き合えば、前向きな精神が頭をもたげ、かえって笑いが生じるものです。
逆に、現実に目を背けたきれい事からは、決して笑いは生まれません。
老いも死もすべての人にとって初体験なので、たいていの人が戸惑います。
中村氏も私も医師として高齢者に向き合い、多くの老いや死を見てきました。共通して感じることは、いかに本当のことが隠されているかということです。
きれい事や絵空事を喧伝し、建て前に終始するマスコミ、医療の権威を守り、医療の限界を公表したがらない医療者、都合のいい話ばかり好み、危機管理を嫌う世間。このトロイカ体制で、現場の事実は隠され、危険な誤解と、見せかけの安心ばかりが広がっています。
その結果、“こんなはずでは”という不如意な死に方が、性懲りもなく拡大再生産されているのです。
思い通りの死に方を実現するのは、簡単なことではありません。しかし、必ずしも不可能でもない。ヒントは、思い通りの死に方をしたいとは思わないこと。ヒントがよけいに混乱を深めるようですが、対談を通読していただければ、真意は明らかになるでしょう。
イヤなこと、不吉と思われることも話していますが、聞こえのいい嘘よりは安全なはずです。良薬は口に苦しとも言います。高齢者医療の現場にいる2人が赤裸々に語る“本当のこと”を、参考にしていただければと思います。