日本史上最高の英雄 大久保利通

日本国と日本国民を貶め被害を与えた「慰安婦問題」の発端になったと言える吉田清治とそれを利用した勢力の暗躍について、知っておくことは大切だと思う。

日本史上最高の英雄 大久保利通

 日本が独立国として歩んでこられたのは、江戸から明治にかけて西洋列強の餌食にならないようにと頑張ってくださった多くの人々がいたからだと思います。
 殖産興業と富国強兵に強い信念を抱き邁進した大久保利通は代表的な一人だと思います。
 それにしても、先人がそのように努力して守り育てた日本が、中国の侵略に晒されているにも拘らず無作為な、むしろそれを呼び込もうとする現在の政治家・官僚などには腹立たしい・・・。

 倉山満さんの「日本史上最高の英雄 大久保利通」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

日本史上最高の英雄 大久保利通 倉山満

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目次

  序 1

 第一章 世界情勢の中の幕末日本 11
“憲法九条”は江戸時代にもあった?! 12 / 大久保のライバルとなった同年代の幕臣たち 16 / 「天保の改革」の大失敗と異国船打払令の撤回 21 / 板倉勝静の改革を支えた山田方谷 27 / 大久保、薩摩藩で任官するもお由羅騒動で挫折 30 / 世界情勢の中で翻弄される幕末日本 33 / こじれにこじれた将軍継嗣と条約勅許問題 37 / 日米修好通商条約締結を断行した井伊直弼の本音 47 / 精忠組の過激派にもかかわらず久光に取り入る 53

 第二章 尊攘派に翻弄された「激動」の幕末 59
近衛家との関係を使って政治に介入した薩摩 60 / 駐日外交官も一目を置いた老中・板倉勝静 65 / 寺田屋騒動は薩摩の凄惨な内ゲバたった 69 / 大久保の生涯の盟友となった岩倉具視 74 / 文久の改革から失墜していく幕府の権威 77 / 暗殺も辞さない過激な尊攘派の巻き返し 85

 第三章 怪物・一橋慶喜との死闘 95
将軍家茂と慶喜、仮病を使って逃げ回る 96 / 生麦事件の賠償を誰が払うのか? 100 / 薩英戦争では薩摩が勝利した? 107 / 朝廷から過激派を一掃させた八月十八日の政変 112 / 条約勅許を引き出しながら棚ざらしにした慶喜 118 / 徳川家は継ぐが将軍にはならないという慶喜の理屈 128 / やりたい放題で将軍職に就いた慶喜 134 / 最重要課題だった兵庫開港問題の犠牲者となった原市之進 137 / 慶喜に出し抜かれた大政奉還 143 / 形勢逆転? 王政復古のクーデター 150 / 慶喜の逆襲に江戸焼き討ちの勝負手で応じた西郷 153 / 鳥羽伏見の戦いでついに錦の御旗が翻った 155

 第四章 大久保利通の「未来への意思」 159
鳥羽伏見の戦いから真っ先に逃げ出した慶喜 160 / 江戸城無血開城と慶喜助命の意味 162 / 必然たった江戸への遷都 169 / 廃藩置県で幕末最大の課題だった政令一途が実現 171 / 岩倉使節団が引き起こした国家的悲劇 183

 第五章 なぜ西郷隆盛を殺したのか 191
岩倉使節団不在のなかで司法卿となった江藤新平 192 / 大久保の参議就任と征韓論をめぐる争闘 195 / 内務卿となって権力を掌握した大久保 203 / 佐賀の乱で江藤新平を斬首に処す 206 / 掌を反すように台湾出兵を決断 208 / 西郷との和解の機会はついに訪れず 214 / 殖産興業と立憲主義に邁進した大久保の意思 224

 終章 英雄たちの死と近代国家の誕生 229

 あとがき 234  


世界情勢の中で翻弄される幕末日本

 嘉永6(1853)年、相次いでアメリカとロシアが来航した。
 アメリカからは、マシュー・カルブレイス・ペリー提督が浦賀に到着する。
 この頃はまだ、太平洋を直接横断する航路は拓かれていない。北米大陸東海岸、ノーフォークから出港し大西洋を横断すると、ナポレオン・ボナパルトの幽閉で有名なセントヘレナ島へ南下し、アフリカ大陸南端のケープタウンを回ってアジアを目指す。香港まで4か月、蒸気軍艦の燃料である石炭の確保や、総乗組員数が千名近い大部隊を養う補給は、ほとんどイギリス頼みである(前掲『幕末外交と開国』)。徳川幕府との交渉で、ベリーが「アメリカから20日足らずで来ることができる」と言ってのけたのは、大嘘である。
 幕府も、ペリーが日本に向けて出港するという情報はつかんでいた。前年の嘉永5(1852)年4月7日、オランダ商館長クルチウスが長崎奉行に提出した「当子年阿蘭陀別段風説書」には、アメリカの目的から艦隊編成までが報告されていたのである。老中阿部正弘は、これを機密文書として溜間詰の大名に限り回覧した。この時点で、天保の改革から数えても10年の時が過ぎていた。言ってしまえば、時間を無駄にしたのである。もはや日本の軍事力では西洋列強に対抗できないことは、誰の目にも明らかだった。その現実を認めるかどうかは別にして。
 阿部以下幕閣の結論は、「避戦」となった。
 この頃の欧州の大国は、イギリス、ロシア、フランス、オーストリア、プロシアである。海洋を掌握した覇権国イギリスに対し、世界第二位の国力をつけた大陸国家のロシアが挑戦者の位置にある。他の3か国がどちらに付くかにより、勢力均衡が破れる構図である。クリミア戦争の一方の当事者であるオスマン・トルコ帝国はもちろんのこと、中央アジアからインド、東アジアの清国まで、あらゆる場所でイギリスとロシアは勢力を争っていた。
 ロシアは18世紀から19世紀にかけて、オスマン・トルコ帝国と角逐する。ロシアの狙いは地中海への出口となる黒海とバルカン半島での勢力拡大である。数次にわたる露土戦争でオスマン・トルコ帝国はその度にずるずると版図を手放していった。
 ペリーが琉球を経由して日本に来航した1853年、欧州ではクリミア戦争が勃発している。この年の露土戦争ではイギリスがオスマン・トルコ帝国の支援に介入し、クリミア戦争となる。フランス、オーストリア、プロシアはイギリスに付いた。戦線は極東まで及び、カムチャツカ半島でロシアは英仏連合軍と戦っている。
 実は、ロシアはイギリスやフランスに追いかけ回されながら、日本に開国を求めているのである。ここに日本側の交渉の余地があった。むしろ、ここで交渉を妥結し、開国しなければ二度と来ないような好機とも言えた。日本にとって最大の脅威は隣の大国ロシアである。強大国のイギリスに頼っても、ロシアと組んでも、どちらも呑み込まれるのが明らかだ。250年の友好国のオランダは、既に発言力の無い弱小国に落ちぶれていた。
 そこに、大国ではないが、まったくの小国でもない新興国のアメリカが現れた。阿部ら幕閣の結論は一つ、最初に条約を結ぶのはアメリカしかない。

 ただ、庶民には幕府が無為無策で右往左往したように見えた。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」という有名な川柳の他に、「アメリカが来ても日本はつつがなし」と無事だったが大砲がないことを揶揄された。
 ペリー来航の直後、阿部正弘は水戸斉昭にも意見を諮問している。斉昭の回答は、「打払いがよいとばかりは申しかねる」である。戦争になれば、伊豆七島など近隣の島々が取られてしまうから、という理由だった。そのうえで、阿部が駒込の水戸藩邸まで出向いて話をしたというが、その時には斉昭がペリーの船を鹵獲する提案を行ったという(小野寺龍太『幕末の魁、維新の殿 ―― 徳川斉昭の攘夷』弦書房、2012年)。
 ちょうどペリー来航が世上を賑わせるのと前後し、「そうせい様」こと第12代将軍徳川家慶が死去する。家慶は、斉昭の実子の慶喜を養子にして将軍職を継がせようと考えたとも伝わるが、さすがに横紙破りがすぎるので通るはずがなかった。家慶の第4子の家定か徳川宗家の家督と13代将軍職を継いだ。
 水戸斉昭は顧問として隔日登城を仰せつかり、国防に関する諮問を受けることとなる。阿部は、外様の島津斉彬や親藩の水戸斉昭らの意見に熱心に耳を傾けた。ペリー来航を機に、譜代大名の政治独占は崩れた。
 なお、ペリーの浦賀来航に一か月ほど遅れて、4隻の艦船を率いてきたプチャーチンは長崎に投錨した。応接掛として幕吏の川路聖謨が派遣されるが、この時に江戸遊学中だった原市之進は随員として長崎に同行した。藤田東湖の指図である。繰り返すが、この時点ではもう、幕閣はロシアと最初に条約を結ぶ気は無い。
 結局、幕府はロシアをアメリカのみならず、イギリスよりも後回しにすることとなる。クリミア戦争で英仏両国を敵に回している苦境のロシアは、これを呑むしかなかった。
 かくして、阿部正弘は「祖法」を変更した。しかし、「避戦」を選ばざるを得なかった。言わば、「憲法9条」の条文は改正したが、外国と戦える軍隊を持っていなかったので、周辺諸国への屈従外交を続けなければならなかったのだ。
 


鳥羽伏見の戦いから真つ先に逃げ出した慶喜

 長い戦いだった。
 大久保利通は徳川慶喜に挑み、負け続けた。しかし、最後に一回だけ勝った。そして、一瞬の大逆転だった。薩長の側に錦の御旗が翻ってからは、雪崩現象だった。
 慶応4(1868)年1月6日。徳川軍は大坂へと退却する。夕刻、慶喜は大坂城で陣を立て直し、再出馬するゆえ準備するようにと皆に告げた。
 しかし、その夜。真っ先に大坂城脱出をはかったのが、徳川慶喜その人であった。
 慶喜は騙し討ちのように、板倉勝静、会津藩主松平容保、その弟で桑名藩主松平定敬ら極僅かの者を連れただけで、江戸を目指して逃げ去った。夜が明けて、慶喜に見捨てられたと知った多くの将兵たちも先を争って逃げ出していく。
 7日、新政府による慶喜追討令が出された。
 8日、慶喜らは大坂湾から幕府の軍艦開陽丸に乗りそのまま江戸に向かった。慶喜の真意は謎である尊王の水戸家に育った慶喜は、足利尊氏と並んで歴史に名を遺すのを嫌がったか。はたまた、単に勢いに押されて臆病風に吹かれたか。とにもかくにも、大久保が引き出してきた錦の御旗の威力は絶大だった。
 その大久保は6日、征討大将軍仁和寺宮から軍事参謀に推薦される。新政府軍による旧幕府軍の追撃戦に加わるようにとの沙汰である。しかし、これは岩倉具視が泣いて止めた。大久保がいなければ朝廷が抑えられないからだった。この戦いにおいて、朝廷を抑えるのがいかに重要か。8日、大久保は軍事参謀を辞退する。戊辰戦争で大久保が東北まで行っていないのは、それが理由である。
 10日、新政府によって慶喜らの官位が剥奪される。朝敵としての処分である。一番の重罪は慶喜である。次いで、松平容保と定敬の兄弟。板倉勝静は“一会桑”に次ぐ重罪とされた。板倉が新政府に対して苛酷な敵対行為を直接はたらいたわけではなかった。しかし、板倉が老中として慶喜を支えた行為自体が重罪にあたるというのが処罰の理由であった。
 その頃、山田方谷は勝静を諌めていた。いまさら武力抵抗などをすれば傷口を広げるだけだと。しかし、またも聞いてもらえない。
 方谷は武力での抵抗をやめ、藩論を恭順に決定し、動いた。松山藩は藩主板倉勝静と関係なく、勤王の立場をとるとした嘆願書をまとめる。松山藩は生き残りのため、表向き勝静と絶縁した。
 新政府は勝静を逆賊認定し、嘆願書に「大逆無道」の四文字を使えと居丈高に指示した。一旦は指示通り「大逆無道」の語を用いた嘆願書が提出される。しかし、これに方谷が決死の覚悟で反対を唱える。「大逆無道」の表現は臣下としてあまりにも忍びないとし、その語を「軽挙暴動」に換えさせた。訂正した嘆願書が却下されれば、方谷を含め家老ら3人が伏刃し、戦端を開き、徹底抗戦」するつもりであった。方谷は「軽挙暴動」と訂正した四文字が受け入れられたと聞いたときに「声を放ち、感泣した」(前掲『幕末の閣老 板倉勝静』)。
 11日、大坂から逃げ帰った慶喜らが品川に到着する。翌日、慶喜は江戸城に入った。15日、強硬な主戦論者のひとり小栗忠順が、慶喜によって罷免される。もはや慶喜はまな板の上の鯉の心境だった。


江戸城無血開城と慶喜助命の意味

 戊辰戦争で、大久保の代わりに追撃戦を行ったのは西郷隆盛である。もっとも、長州の大村益次郎と衝突し、途中で投げ出してしまうが。
 西郷は革命家だった。宿敵、徳川慶喜を倒した後、急速に生気を無くしていく。慶喜を倒すことが到達点だったからだ。逆に、大久保にとっては、そこが出発点だった。追撃戦が延々と続けられていく中、ここからが大久保の本番である。
 1月19日、大久保は大坂遷都を建議する。とにもかくにも近代化には、京都のしがらみを絶たなければならないと、頭にあったからである。しかし、そう易々とは絶てない。
 大坂遷都案は公卿らの強硬な反対にあい、あえなく否決された。その代わりに可決されたのが大坂親征である。このとき可決された大坂行幸は3月21日に実現される。
 1月25日、尾張徳川家が新政府側についた。土佐は佐幕を絶叫していた山内容堂までが、鳥羽伏見の戦いで板垣退助の尻馬に乗る。かのフェートン号事件の屈辱以来、独自の近代化路線を追求していた肥前も、薩長に合流する。肥前が誇るアームストロング砲は、東日本各地で火を噴き、幕府軍を粉砕していく。西国の諸藩が次々と新政府側に寝返るのを見て、慶喜は新政府に恭順すると決心したようである(佐々木克『戊辰戦争』中公新書、1977年)。
 慶喜と板倉の悲痛な会話が残されている。
 慶喜が「西郷吉之助に匹敵する人物あるや」と問うと、板倉は少し考えて「なし」と答えた。続けて、「さらば大久保一蔵ほどの者ありや」と問うと、これにも板倉は「なし」と返す。
 能吏であり、決して弱い政治家ではなかった板倉も、「私がおります」とは答えられなかった。5年前、慶喜や板倉が、大久保や西郷の前に膝を屈すると誰が想像できたか。慶喜や板倉は、大久保や西郷から見れば雲の上の人だった。たった一か月前とて、徳川慶喜抜きの政治など、誰も想像すらしていなかった。大久保利通を除いては。
 確かに、徳川慶喜は、大久保利通よりすべての面において優れていた。しかし、一つだけ欠けていた。
 未来への意思である。
 慶喜を倒し、日本を守る。大久保の強固な意思が、時代を突き動かした。
 2月12日、慶喜は江戸城を出て上野寛永寺大慈院に謹慎する。慶喜討伐のために江戸を目指す政府軍に対し、恭順の意を示した。
 3月5日、新政府の東征大総督有栖川宮熾仁親王が静岡の駿府に入る。翌6日に聞かれた総督府の軍議で、江戸城攻撃の日が3月15日と決定された。
 同日、勝海舟は総督府参謀西郷隆盛宛てに書いた手紙を山岡鉄舟に託す。3月9日、勝からの手紙を持って山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛に会う。有名な西郷・勝会談に先立つ、西郷・山岡会談である。この会談で政府側から7箇条にわたる慶喜降伏の条件が提示される。慶喜を備前に預けることに始まり、江戸城を開城し、軍艦や武器はすべて新政府軍に渡すなどが、その条件である。会談を終え、10日に山岡が江戸に戻り、11日に西郷が駿府を出発した。西郷は13日に江戸に着き、高輪の薩摩藩邸に入った。
 13日、14日の両日、西郷・勝会談が行われた。勝が先に示された7箇条の条件に対して、慶喜は隠居し水戸に謹慎したいなど、徳川側の要望を伝えた。西郷は総督府に持ち帰り、改めて返答すると約束した。
 西郷は3月15日の江戸城攻撃を中止した。無駄な流血は避けられた。慶喜には生き残らねばならない理由があった。もし自分が殺されれば、現実の歴史がたどった以上のおびただしい血が流されただろう。復讐に燃える徳川が、新政府と日本を二分する騒乱を起こしたかもしれない。そうなれば、外国勢力の介入もあり得た。
 慶喜は今まで付き従った家臣たちを見捨て、自分は以後40年にわたる安穏とした余生を過ごすこととなる。しかし、このエゴイズムは日本にとって必要だった。
 
西郷・勝会談による慶喜助命については、最大の強硬派である西郷が納得したので、大久保も反対はしていない。慶喜の命を取り上げて、よけいな混乱を招いても国のためにはならない。大久保も、慶喜が憎かったから戦ったのではない。慶喜の排除が日本の為に必要だったから、戦ったのだ。状況が変わった以上、無益な殺生を行わないのが大久保の現実主義である。
 また、イギリスの介入があった。ここで新政府軍が旧幕府軍を総攻撃すれば貿易の利益が失われるので、攻撃を中止するよう圧力をかけてきた。駐日イギリス公使パークスは恭順を示している者をそれ以上攻撃するなと告げ、さらには戦争が起きた際の居留民の安全保障を盾に戦争反対という態度である。
 対する駐日フランス公使ロッシュは慶喜にまだ戦おうともちかけたが、慶喜は耳を貸さなかった。
 イギリスが薩長を支援していたのは明確な事実である。フランスが幕府に肩入れしていたのに対抗するためであった。しかし、イギリスと薩長が一枚岩であったわけではない。イギリスは自国の利益のために薩長に友好的な態度をとっているだけであった。イギリスは常に自国の国益が第一であり、それに適わなければあの手この手で邪魔ばかりしてくる。この時代のイギリスは親日でも何でもない。少なくとも、大久保利通が生きていた時代、イギリスが親日だったことは一度もない。以後、大久保はイギリスとの鍔迫り合いにも神経をすり減らすこととなる。
 なお、最近発見された史料によると、会津と庄内の両藩がプロイセンのビスマルクに助けを求めていたらしい。プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントに通じていた両藩が、北海道などの領地売却を持ちかけていた。後年まで蝦夷開墾計画などというのがあったぐらいだから、さもありなんである。
 フォン・ブラントの問い合わせに、本国から宰相ビスマルクが「軍港になるかもしれないが断る」との返事を出している。ビスマルクとしては当然の回答であった。ドイツ統一のために、仕上げとして今から普仏戦争をやろうというときだった。ブラントが海相にも尋ねたところ、日本の混乱が長引くようなら領地獲得は検討すべき旨の返信があったようだ。ところが、戊辰戦争の展開が早く、あれよあれよと言う間に会津・庄内両藩か降伏し、プロイセンヘの領地売却の話は立ち消えになった。結局はプロイセン人に貸した土地を明治政府が回収して決着がついている。
 4月4日、勅使が江戸城に入り新政府が決定した降伏条件が伝えられた。慶喜は希望したとおり水戸での謹慎となった。4月11日、江戸城が無血開城された。江戸城が明け渡されたこの日、徳川慶喜は上野寛永寺を出て、自らが謹慎の地に望んだ水戸に向かった。
 この間の3月14日、明治天皇の名のもとに五箇条の御誓文が出されていた。近代日本が何を指針として、何を目指すのかが示されたのである。
 4月9日、大久保が大坂東本願寺別院で初めて明治天皇に謁見する。これまで大久保は天皇と同じ部屋に居るという経験はあった。とはいえ、天皇は御簾の向こうである。単に同じ部屋にいるというのと、謁見するというのではまったく意味が違う。この時までの大久保は所詮、薩摩藩の重役にしかすぎなかった。そのような身分の大久保が謁見したのは、「無位無官の藩士が天皇と対面した、未曾有の大事件である」(佐々木克『幕末史』ちくま新書、2014年)としか言いようが無い。
 もはや江戸幕府の「祖法」「憲法9条」は過去のものとなった。ようやく近代化への出発点に立った。
 大久保の頭の中は、新政府の設計で埋め尽くされていた。
 


内務卿となって権力を掌握した大久保

 西郷の実弟・従道は政府に残った。本人は兄に付き従いたかったが、私情を捨てた。本音を吐露する従道に大久保は、「あの世で謝るしかない」と呻くだけだった。
 大久保は、一番仲の良い親友を切り捨てた。そこまでして何を目指したのか。それは幕末以来、一貫して変わらない。大久保は欧米を見聞し、工業を興すことが日本の最優先課題だと見据えた。工業を興し、富を蓄え、法を整え、強い軍隊を作る。そうして初めて列強に媚びなくて済む強い国ができる。政治指導者として邁進することが、西郷への罪滅ぼしになる。自分が権力を奪い返した理由でもある。
 間違いなく大久保は、自分に言い聞かせていた。決して私利私欲で権力を奪ったのではない、と。
 11月10日、内務省が新設された。29日、大久保は大蔵省から内務省に移り、初代内務卿に就任した。参議との兼任である。形式的な政府の首班は病気が快復した三条実美太政大臣だが、実質的には誰がどう見ても大久保利通だった。その気迫に、岩倉ら他の政治家たちは圧倒されていた。
 内務卿になった大久保は「立憲政体二関スル意見書」を建言している。大久保は最初から憲法制定、議会政治を考えていた。最初の10年、20年の藩閥政治はあくまでも過渡期であるとの位置づけであった。
 俗に、大久保はドイツ帝国を模範として日本の近代化を推し進めたとされる。それは一面の真理ではある。ビスマルクが打ち立てたドイツ帝国は、明治政府と同じ時期の新興国である。既に完成された大帝国であるイギリスよりも、手本としては丁度良い。個人としても、大久保は宰相として剛腕を振るうビスマルクに憧れ、自分もそのように振る舞った。同時代のベンジャミン・ディズレーリやウィリアム・グラッドストーンは、真似しがたいところがあった。イギリスは世界に先駆けて、二大政党による議会制民主主義を謳歌していた。大久保は「世界の工場」としてのイギリスに追いつくには、まずはドイツを見習うべしと考えていた。
 
明治7(1874)年1月14日、岩倉具視が暗殺未遂に遭遇する。赤坂喰違の変である。岩倉は赤坂仮御所から退出し自宅に向かう途中、赤坂喰違坂付近で征韓派支持の土佐士族9人に襲われ負傷した。岩倉を襲った9人は全員死刑に処せられた。
 “不平士族”と称される人たちがいる。岩倉を襲った士族のように、反乱を起こすような武士がそう呼ばれる。しかし、すべての武士が力による反乱を起こしたわけではなく、むしろそのような輩は少数派であった。
 主流は言論戦であった。
 同月17日、板垣退助らによって「民撰議院設立建白書」が出された。藩閥政府を批判し、国会開設を要請する内容である。明治6年の政変で参議を辞した、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らも名を連ねている。
 対する大久保は国会開設の必要性など百も承知であり、それを要求するのは勝手だが、まずは内務省を作り殖産興業が優先事項だとする立場である。大蔵省を作り、年貢ではなく全納による税金を東京に集める仕組みができた今、次はそれを効率的に運用できる仕組みを作るのが喫緊だというのである。すなわち、内務省を作り、中央政府の政令意図を県市町村に確実に伝えられる上意下達の体制を構築しようとしたのである。そうした制度がなければ税金ひとつ取れないのだから、立憲政体などはそれができてからの話だ。
 今ようやく江戸の「郡国制」が終焉し、「郡県制」は緒についたばかりなのだ。
 大久保は、理想を待った政治家だが、現実主義者である。幻想には目もくれない。
 「大久保の有司専制」なる言葉が使われ始めたのはこの頃からである。大久保が専制的に特定の藩閥による政治を行っているという意味であった。


殖産興業と立憲主義に邁進した大久保の意思

 維新の三傑と言われた木戸孝允と西郷隆盛が亡くなり、ただひとり大久保利通だけが残った。木戸に遠慮する必要もなくなった。大久保は真の意味で専制ができるようになった。大久保はこのときから死ぬまでの期間、自分が本当にやりたかったことに没頭した。殖産興業と立憲主義である。
 大久保は自ら上州紡績工場に行き、地方の体制等改正の儀、士族授産・殖産資本金などを建議し、地方制度改革案である三新法を提出するなど、次から次へと着手している。
 三新法とは郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則である。大久保は三新法で地方議会を作ろうとした。イギリスに「地方自治は民主主義の学校」ということばがある。大久保が心底望んだのはイギリスのような民権政体であった。
 当時の日本はまだイギリスを目標にするどころか、まずはドイツを目指さなければならない状態である。この時点で最重要なのは殖産興業であり、強い国民軍の育成である。しかし、大久保は遥かその先にある立憲主義を見据えていた。
 西郷の死を無駄にしないためには、日本を強い国にしなければならない。取り返しがつかない悲劇を起こしてしまった以上、日本の為に尽くさねばならない。西郷を殺してしまった自分への贖罪は、西郷と二人で夢見た、日本を誰にも媚びない強い国にするしかない。
 大久保は仕事に忙殺されるが、自分で西郷の伝記を書くつもりでいたらしい。大久保利通の次男牧野伸顕がこう証言する。
 父は西郷の心事は天下の人には分かるまい、分かるのはおれだけだ、おれが西郷のことを今日に書き残しておかなければ、後世西郷は誤り伝えられるだろうと言って、自分で書くつもりでいました。  (前掲佐々木『大久保利通』)
 しかし、多忙ゆえ自分では書けないので、大久保の口述を重野安繹に記録してもらおうと頼み、準備ができていた。しかし、大久保の多忙のため延ばし延ばしになっているうちに、遂にその日は来ずじまいになった。
 明治11(1878)年5月14日。
 大久保は、その日の早朝に来訪した福島県権令山吉盛典に遺言めいた話をしている。のちに「済世遺言」と言われるようになる大久保の国家構想である。
 最初の10年は創業の動乱の時代、次の10年は治世の時代、そして最後の10年で立憲主義を定着させると考えていた。その人生の最期の日まで、大久保は理想を待った現実政治家だった。
 大久保は接客を済ませると、赤坂仮御所での閣議に向かう。その途上、紀尾井坂で賊に襲われた。襲ったのは石川県士族島田一良ら6名である。彼らは、西郷を殺し、専制を強める大久保を憎んでいた。
 長らく大久保の死に際については、みっともなく逃げ回ったなどと吹聴されていた。大久保の専制を嫌っていた庶民は、大久保を小ばかにし、留飲を下げた。棺を蓋いてなお、大久保は日本中から嫌われていた。
 
しかし、実際には刺客を「無礼者」と一喝、その直後に胸を刺された。そして馬車から引きずりおろされ、脳天を十数回たたき割られ、脳みそが道に散らばる、壮絶な死にざまだった。
 肌身離さず大切にしまっていた西郷からの二通の手紙は、真っ赤な血に染まっていた。

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