超限戦―21世紀の「新しい戦争」
「超限戦」は1999年に発表された中国人民解放軍大佐の喬良と王湘穂による戦略研究の共著で、本書はその翻訳本です。
両大佐の共著が出版された頃は中国も今ほどの経済力・軍事力がなかったところですが、アメリカをはじめとした先進国の技術を盗むなどして自国の経済を発展させ、力をつけた現在の中国はこの「超限戦」を世界中で展開していると思います。
「一帯一路」「国際機関での主導権獲得工作」「ネット世論誘導・五毛党などによるネット空間操作」「アンティファや中国を非難しない環境団体などの組織の活用」「日本の反基地運動やアイヌ先住民運動」なども非軍事の戦争行動でしょうし、思いもよらないことが進行していることでしょう。
中国はどんな手段を用いても(手段についても超限、つまり倫理や規範などを無視してでもどんな手段でも使う )この「非軍事の戦争行動」を展開し、もちろん通常の軍事も使いながら世界制覇を目指しています。
日本は今までのような、今のようなお花畑のままだと、あっという間にやられてしまいます。
『超限戦―21世紀の「新しい戦争」』 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
日本語版への序文 3
序文 10
第1部 新戦争論 21
第一章 いつも先行するのは兵器革命 31
ハイテク戦争とは何か / 兵器に合わせた戦争と、戦争に合わせた兵器開発 / 新概念の兵器と、兵器の新概念 / 兵器の「慈悲化」傾向
第二章 戦争の顔がぼやけてしまった 59
何のために、誰のために戦うのか /
どこで戦うのか /
誰が戦うのか /
どんな手段、どんな方式で戦うのか
第三章 教典に背く教典 89
「露の如き」同盟 /
タイミングがよかった「改組法」 /
「空地一体戦」をさらに遠く超えて /
地上戦の王者は誰だ /
勝利の背後に隠されたもう一本の手 /
多くの断面を持つリンゴ
第四章 アメリカ人は象のどこを触ったのか 121
軍種の垣根の下で伸びた手 /
贅沢病と死傷者ゼロ /
グループ、遠征軍、一体化部隊 /
統合戦役から全次元作戦ヘ ―― 徹底した悟りまであと一歩
第Ⅱ部 新戦法論 162
第五章 戦争ギャンブルの新たな見方 175
戦雲の陰影を取り払う /
ルールの破壊と失効した国境 /
戦争の大御所の作ったカクテル /
足し算でゲームに勝つ方法
第六章 勝利の法則を見いだす ―― 側面から剣を刺す 213
黄金分割の法則との暗合 /
勝利の語法 ―― 「偏正律」 /
主と全:偏正式組み合わせの要点 /
法則であって定式ではない
第七章 すべてはただ一つに帰する ―― 超限の組み合わせ 251
超国家的組み合わせ /
超領域的組み合わせ /
超手段的組み合わせ /
超段階的組み合わせ
第八章 必要な原則 286
全方向度 /
リアルタイム性 /
有限の目標 /
無限の手段 /
非均衡 /
最少の消耗 /
多次元の協力 /
全過程のコントロール
結び 307
後記 315
監修者・訳者あとがき 317
日本語版への序文
私たちは予言者になることは望まなかったし、ましてや血なまぐさい現実となる可能性のあるテロ事件を予言する先覚者になろうなどとは思ってもみなかった。しかし、神様は、人々の多くの善良な願いを取り合わないのと同様に、私たちのこうした願いを取り合わなかった。
2001年9月11日以後、私たちは数多くの電話を受けたが、一番多かったのは、「不幸にも予言が当たりましたね」という言葉だった。それは、ニューヨークのマンハッタンで起きた正真正銘のアメリカの悲劇を指していた。
3年前に、私たちが執筆した『超限戦』は、すでに正確な予言と判断を下していたが、これは本当に恐ろしい予言の的中だった。その恐ろしさから、私たちは、予言が見事に的中したからといって、少しも楽しい気分にはならない ―― 天下に名の聞こえた世界貿易センタービルのツインタワーが、全世界の目の前で無残にも倒壊したとき、「あなたの正しさを立証した」と言われても、得意満面になることなど絶対にできない。何千という罪のない人々の命を一瞬のうちに奪ってしまうような、驚くべき残酷さは、われわれの個人的研究の成果に対する満足感をはるかに圧倒してしまった。
これと同時に、私たちは深い悲しみと、いかんともしがたい思いを感じている。3年前、私たちはこの本の中で次のように明確に指摘していた。
新しいテロリズムは21世紀の初頭、人類社会の安全にとって主要な脅威となるだろう。その特徴は、戦術レベルの行動をもって当事国に戦略レベルの打撃を与え、震撼させることだ。私たちは本の中で、「ビンラディン式のテロリズムの出現は、いかなる国家の力であれ、それがどんなに強大でも、ルールのないゲームで有利な立場を占めるのは難しいという印象を世間の人に強く与えた」と述べた。また私たちは、「彼らは行動が秘密なために隠蔽性が強く、行為が極端なために広範囲の危害をもたらし、無差別に一般人を攻撃することによって、その異常さ・残忍さを示している。これらはすべて現代のメディアを通じてリアルタイムに、連続的に、高い視聴率で宣伝され、その恐怖の効果を大いに増幅する」という点をとくに指摘した。
しかし、私たちは「狼が来た!」と叫んでいた子供のように扱われてきた。“9・11事件”と同じように不幸だったのは、当時、私たちの話に耳を傾ける人がいなかったことだ。私たちをウソをつく子供扱いしたり、さらには、私たちこそが狼だと後ろ指をさしたり、私たちがテロリズムを宣伝しているという人もいた。ところが、狼は本当に来てしまった。しかも私たちが予言した方式 ――
非職業軍人が、非通常兵器を使って、罪のない市民に対して、非軍事的意義を持つ戦場で、軍事領域の境界や限度を超えた戦争を行う ―― でやってきたのだ。これこそまさに「超限戦」なのである。
報道によれば、“9・11事件”の翌日、アメリカのある三つ星の将軍がテレビの視聴者にこう語った。数年前、中国の2人の将校が「超限戦」という本を書き、全世界、とくにアメリカに対してテロリズムの脅威を警告していたが、われわれの注意を引かなかった。そして、2人が提起した事態は生々しい形でわれわれの眼前で起きてしまった。われわれはあらためてこの本を読み直す必要があるようだ、と。
アメリカ軍人の思想の触覚は、彼らの世界各国の同僚たちに比べれば、かなり敏感であるというべきだろう。「超限戦」が中国で出版されたその年に、その英訳版がペンタゴンの将軍たちの机に置かれていた。さらにアメリカ海軍大学から私たち宛てに、この本を同大学の正式の教材に採用したいので、非商業的な内部版権を譲渡してほしいという書簡が届いた。しかし、すべてはここまでで、彼らは何もしなかった。彼らがこの本が発していた警告を理解していなかったことは、今回の事実が物語っている。
もし3年前に、アメリカ人が今よりもっと真剣にこの本を読んでいたら、“9月11日の悲劇”は必ず避けられたはずだと思うほど、私たちは天真爛漫ではない。この点において、私たちは非常に悲観的である。なぜなら、私たちはビンラディン式のテロリズムヘの注意喚起を行っただけでなく、全世界に次のような警告を発していたからだ。
「もしすべてのテロリストが自分の行動を爆破、誘拐、暗殺、ハイジャックといった伝統的なやり口に限定しているならば、まだまだ最も恐ろしい事態にはならない。本当に人々を恐怖に陥れるのは、テロリストと、スーパー兵器になりうる各種のハイテクとの出会いだ」
つまり、ビンラディン式のテロリズムのほかにも、われわれは、ハッカー組織が仕掛けるネットテロや金融投機家たちが引き起こす金融テロなど、その他のさまざまなテロリズムに直面するだろうということだ。こうしたテロリストは、ハイテクがもたらした便利さを十分に利用して、彼らの手の届くいかなるところをも、血なまぐさい、あるいはそれほど血なまぐさくない戦場に変えることができるのである。ただ一点変わらないのは、恐怖である。しかもそれは神出鬼没で、忽然として形のない恐怖である。どの国もこのようなテロに対して、いちいちそれを防ぎようがない。
明らかにこれは伝統的な意義とは違う、全く新しい戦争の形態だ。私たちがこれを「非軍事の戦争行動」とネーミングしたとき、一部の軍事専門家から、「どんな戦術レベルの行動で、アメリカのような超大国を揺るがすことができるのか」と嘲笑された。彼らにとって、こうした問題は想像しようにも考えられないことだ、戦争はすなわち軍事であり、「非軍事の戦争行動」なんてロジックに合わないと考えていた。不幸なことに、テロリズム自体が最初から人類の善良な天性のロジックに合うものではない。さらに不幸なことに、こんなにも簡単な結論を理解するために、人類 ―― 今のところではアメリカ人 ―― は血の代価を支払わなければならなかった。そしてついに結論が出た。アメリカのジョージ・W・ブッシユ大統領は言った。「これは戦争だ!」と。
しかし、たとえわれわれが、これは戦争だとわかっていても、こうした戦争の発生を避けることは依然として不可能だ。なぜなら、これはすべての戦争の中で最も不確定な戦争であり、確定した敵も、確定した戦場も、確定した兵器もなく、すべてが不確定だからである。このために、常々確定した方式で敵を打撃するのに慣れている、いかなる軍事行動も、「虎が天を食べようとしても口に入れようがない」式の手のつけられない状況に直面することになろう。
「超限戦」の中で指摘したように、私たちから見れば、「ハッカーの侵入にしろ、世界貿易センターの大爆発にしろ、ビンラディンの爆弾攻撃にしろ、いずれもアメリカ軍が理解している周波数バンドの幅をはるかに超えている。このような敵にどう対応するか、アメリカ軍は明らかに心理上あるいは手段上、とくに軍事思想およびそこから派生する戦法上で準備が不足している」。同時に、たとえテロリズムに打撃を与える側がある時点、ある局面で、ある程度の勝利を得たとしても、もしテロリズムを根底から取り除くことができなければ、必ずや「ひょうたんをほうっておけば、ひしやくができる」といった苦境に直面することになろう。問題は「テロリズムを根底から取り除く」ことだが、言葉で言うほど簡単ではない。
ここから、「どこにテロリズムの根源があるのか」「何がテロリズムをもたらしているのか」という問題が出てくる。民族、文化、宗教、価値観の違いによって、こうした問題に対する解答も異なる。だが解答がどのようなものであれ、テロリズムは、強い集団に圧迫され日増しに瀬戸際に追いやられている弱い集団の絶望的なあがきである、という事実を抹消することはできない。もしわれわれがみなこの点を認めることができるなら、次の結論 ―― テロリズムに対し国家的暴力式の打撃を与えるだけではとても不十分だし、問題を根本的に解決することにもならない ―― を同様に認めることができるであろう。
テロリストがどんなに人を驚かす事件を起こしても、グローバル化の列車は相変わらずビューツとうなりをたてて前に進んでいく。一瞬ブレーキをかけたり減速しても、ほとんど既定の軌道を変えることはない。われわれはみなこの列車の乗客である。列車の進行方向が正しいかどうか、列車自体の性能が安全で頼りになるかどうかは、われわれ一人ひとりにかかわっている。同じ列車に乗っている以上、片一方だけの安全など存在しない。安全は共通のものであり、全員一体のものである。このことは、たとえ列車長にせよ、自分の安全を多くの乗客の安全よりも優先させることはできないということを意味している。とくに、列車長は乗車している一人ひとりの乗客をうまくもてなすことが必要だ。われわれは、乗客の誰かが絶望感から、列車とともに滅びる気持ちを抱き、捨て鉢になるのを許してはならない。なぜなら、このことは翻って言えば、私たち自身の命に危険をもたらすからである。
このことこそ、“9・11事件”後、私たちが『超限戦』の中に書き加えたいと思っていたことである。
2001年9月26日 北京にて
どんな手段、どんな方式で戦うのか
未来の戦争の作戦手段や方式を述べるには、アメリカ人の考えに触れざるを得ない。なぜならアメリカは世界最後の覇者であるというだけではなく、この問題に関する彼らの考えには確かに他の国の軍人よりすぐれたところがあるからだ。未来の戦争を情報戦、精密交戦、統合作戦、それに非戦争の軍事行動という4つの主要作戦パターンにまとめていることだけを挙げても、想像力に富み、同時に現実的でもあるアメリカ人が、未来の戦争について深く理解していることがわかる。
この4つの作戦パターンのうち、伝統的共同作戦や協同作戦、ないしは空地一体作戦から発展してきた統合作戦を除いて、ほかの3つはいずれも軍事上の新思考から生まれたものだ。アメリカ陸軍元参謀長のゴールデン・サリバン大将は情報戦を、未来の戦争の基本作戦パターンと認定した。そのため彼はアメリカ軍ではもちろん、世界でも初めてのデジタル化部隊を作った。さらに「未来の戦争は情報処理とステルス遠距離攻撃を主要な基礎とする方向へ全面転換する」という認識に基づき、精密交戦の概念を打ち出した。
アメリカ人は、精密誘導兵器、汎地球測位システム(GPS)、CIシステム、ステルス機などのハイテク兵器と装備の出現によって、軍人は恐らく消耗戦の悪夢から逃れられると見ている。アメリカ人が「非接触攻撃」と言い、ロシア人が「遠隔戦」と称する精密交戦は、隠蔽、迅速、正確、高効率、目標外殺傷の少なさといった特徴を持つ。そのため緒戦が決戦となりうる未来の戦争においては、湾岸戦争ですでにその刃物の切っ先を初めて披露したこの戦法が、アメリカの将軍たちが採用したいと思う最優先のパターンとなるだろう。
しかし本当に創造的な提起の仕方は、情報戦でもなければ精密交戦でもなく、非戦争の軍事行動なのだ。この概念は明らかにアメリカ人が一貫して公言している全世界の利益を基礎としたもので、「天下はすでに任されている」といった典型的なアメリカ式の妄想を帯びている。だがそうは言っても、このような評価はこの概念に対するわれわれの称賛に影響を及ぼすものではない。なぜなら、この概念は、平和維持活動、麻薬取り締まり、暴動の鎮圧、軍事援助、軍備管理、災害救援活動、海外在住の自国民の退去、テロ活動への打撃といった、20世紀から21世紀にかけて人類が全面的に対処する必要のある問題を初めて「非戦争の軍事行動」という籠の中に入れたからで、軍人はこれによって戦場以外の天地では手も足も出せないということではなくなった。
これによって、アメリカ人の思考の触覚はもう少しで広義の戦争の縁に触れるところだった。しかし残念なことに、この籠は少し小さくて、「非軍事の戦争行動」というこの斬新な概念を最終的に詰め込むことができなかった。しかしこれこそが、人類の戦争に対する認識の上で、正真正銘の革命的意義を持つ見解なのだ。
「非軍事の戦争行動」と「非戦争の軍事行動」というこの二つの概念の区別は、文字が示している区別よりはるかに大きく、語順を並べ替えただけの言葉の遊びではない。後者は非戦争状態における軍隊の任務と行動についてはっきりと命名したにすぎないが、前者は戦争状態に対する理解を、軍事行動の包容能力をはるかに上回る、人類のすべての活動領域にまで拡大した。
この拡大は、人類が目的達成のために極限まで手段を問わなかったことの当然の結果である。ほとんど各種の軍事理論の領域においてリードしているアメリカ人だが、この新しい戦争概念を率先して打ち出すことができなかった。にもかかわらず、われわれは、アメリカ式実用主義の全世界での氾濫、およびハイテクが提供する無限の可能性こそが、この概念を生んだ深層の動力であることを認めなければならない。
「非軍事の戦争行動」は、全世界で頻繁にくり広げられるもう一つの戦争になりつつある。見たところ戦争となんの関係もない手段が、最後には「非軍事の戦争行動」になる ―― これこそ、グローバルな範囲でますます頻繁に展開されている、もう一つの戦争の寵児ではないだろうか。
貿易戦 「貿易戦」は十数年前には形容でしかなかった。しかし今日ではそれは多くの国々にあって、全くのところ、非軍事戦争の道具となっている。とりわけアメリカ人は、貿易戦を名人芸のように、思いのままにもてあそんでいる。国内貿易法の国際的な運用、関税障壁の恣意的な設定と破棄、手当たり次第の経済制裁、カギとなる重要技術の封鎖、スーパー301条、最恵国待遇などなど、枚挙にいとまがない。こうした手段が生むどの破壊効果一つを取っても、軍事行動に劣るものではない。アメリカが発動したイラクに対する8年にわたる全面的な禁輸は、まさにこの方面の最も典型的な「実戦例」である。
金融戦 東南アジアの金融危機を経験した後、アジア人ほど「金融戦」に対し深刻な印象を待った人々はいないだろう。いや、印象のみにあらず、まさに錐で心臓をぐさりと剌されたようだった。国際ヘッジファンドの投資家たちが久しく前から計画し、実行した金融奇襲戦によって、その直前まで「小竜」とか「小虎」と称賛されていた国々が次々と危機に陥り、西側全体から羨ましがられていた経済の繁栄は、一夜にして秋風とともに葉が落ちるように、さびれてしまった。
1ラウンドの戦いだけでいくつかの国の経済は10年前に逆戻りしたのだ。経済戦線の敗北は、社会的、政治的秩序まで崩壊寸前に陥れた。あちこちで起きた騒乱での死傷者は、局地戦争の死傷者にも匹敵するものであった。まして社会という有機体が受けた損傷の程度は局地戦争よりずっと大きかった。これは非国家組織が非軍事手段を使って、主権国家に対して仕掛けた初めての非武力戦争である。
これによって金融戦は、血を流さないものの、同様の巨大な破壊力を持つ非軍事戦争の形態として、軍人、兵器、流血、死亡が数千年にわたって独占してきた戦争の舞台に正式にデビューした。金融戦が正式の軍事用語として、当然のごとく各種の軍事事典に載せられる日もそう遠くないだろうし、21世紀の初めに編集される20世紀の戦争史では、これが人目を引く一節になるだろう。
この一節で重要な役割を果たすのは政治家でも軍事家でもなく、ジョージ・ソロスだ。言うまでもなく、金融兵器を作戦に用いるのは何もソロスの専売特許ではない。これより前、西ドイツのコール首相はすでにマルクを使って、砲弾でも潰せなかったベルリンの壁を崩壊させていた。彼に続いて、李登輝は東南アジアの金融危機に乗じて、台湾の貨幣を自ら切り下げ、香港の貨幣や香港株、とくにレッドチップに打撃を与えた。このほか、当時の金融の大饗宴に殺到した大小さまざまの「投機家」たちがおり、その中には格付け報告書を名目に、金融界の大物たちに攻撃目標を提示したモルガン・スタンレーやムーディーズのような間接的な参加者で、利益を得た者など、ここにいちいち列挙するまでもあるまい。
1998年の夏以降、ちょうど1年前に始まった金融戦はさらに広い戦場で第2ラウンドの戦役を展開した。今回戦争に巻き込まれたのは、前年に惨敗を喫した東南アジア諸国に加え、日本とロシアという二つの大国だった。その結果、全世界の経済情勢はますます厳しくなり、コントロールするのが難しくなった。
目には見えない燃え盛る火勢は、火をもてあそぶ者自身の軍服にも燃え移った。ソロスとその「クォンタム・ファンド」はロシアと香港だけで数十億ドルを下らない損失を出したという。金融戦争の巨大な破壊力はここからもうかがえる。核兵器が恐ろしい飾り物となり、実戦の価値を日増しに失っている今日、金融戦はその動作の隠蔽性、操作の利便性、破壊力の強さという特徴を持っているがゆえに、世上の人が注目するスーパー戦略兵器になっている。
少し前のアルバニア動乱の際、敵国に対抗できるほどの巨大な富と多国籍企業グループが設立した各種のファンドの作用をはっきりと見て取ることができる。これらのファンドはメディアをコントロールし、政治組織に資金援助を行って当局と対抗し、国家の秩序を崩壊させ、合法的政府を倒した。われわれは、これをファンド方式の金融戦と呼ぶことができるかもしれない。極めて憂慮すべきだが、同時に正視しなければならないのは、この種の戦争がますます頻繁に起き、その強さがますます強大となり、しかもますます多くの国や非国家組織がこれを利用しようという趨勢である。
新テロ戦 伝統的なテロ戦に対していう。通常の意味のテロ戦は規模が限られているので、死傷者は戦争あるいは戦役がもたらすそれより少ない。だが、(新テロ戦は)暴力的色彩をより濃厚に持ち、しかも例外なく、その行動においていかなる伝統社会のルールにも束縛されない。その軍事的特徴は限られた手段をもって無制限の戦争を行うことである。
こうした特徴ゆえに、一定のルールに従って行動し、無限の手段を持っていながらも限度のある戦争しかできない国家は、戦闘開始の前から不利な立場に立たされる。何人かの乳くささの抜けない少年たちで構成するテロ組織が、なぜアメリカのような強大な国さえ悩ませ、しかも牛刀で鶏を殺すような方法で処理しようとしても功を奏さないかの原因はここにある。最近、ナイロビ(ケニア)とダルエスサラーム(タンザニア)で同時に発生したアメリカ大使館爆発事件は、その最新の証明である。ビンラディン式のテロリズムの出現は、いかなる国家の力であれ、それがどんなに強大でも、ルールのないゲームで有利な立場を占めるのは難しいという印象を世界の人に強く与えた。たとえその国が自らテロリストに変身しても ―― アメリカ人は現在そのようにやっているのだが ―― 必ずしも勝てるとは限らないのだ。
ただし、もしすべてのテロリストが自分の行動を爆破、誘拐、暗殺、ハイジャックのような伝統的なやり方にのみ限定するなら、それほど恐ろしい事態にはならない。本当に恐ろしいのは、テロリストとスーパー兵器になりうるハイテク技術の遭遇である。そのような先行きはすでにその端緒を見せている。オウム真理教徒は東京の地下鉄で毒ガス「サリン」を撒いたが、その恐怖は実際に出た死傷者の数をはるかに超えている。この事件は、現代の生物化学技術がすでに人類の大規模消滅を企てるテロリストのために格好の凶器を提供したとの警鐘を鳴らしている。
罪のない者を無差別に殺して恐怖の効果をつくりだす仮面をかぶった殺し屋と違って、イタリアの「マフィア」は全く別のタイプのハイテク・テロ組織である。その目標は明確、手段が抜群で、銀行やニュースメディアのコンピューターネットワークに侵入し、保存データを盗んだり、プログラムを改竄したり、偽りの情報をばら撒いたりするなど、インターネットとメディアに対する典型的なテロ活動である。われわれはこのように最新の技術を使い、最新の領域で人類と敵対するテロ活動を、新テロ戦と名づけることに躊躇しない。
生態戦 現代技術を運用して川、海、地殻、南極・北極の氷、大気圏、オゾン層の自然状態に影響を及ぼし、降雨量、気温、大気の成分、海面の高度、日照などを改変したり、地震を発生させるといった方法で、地球の物理的環境を破壊し、あるいは別の地域生態状況をつくりだす。これが一種の新しい非軍事戦争パターン、すなわち生態戦である。恐らくそう遠くない将来に、人工的に「エルニーニョ」または「ラニーニャ」現象をつくりだすことが、一部の国あるいは非国家組織が手中にする、いまひとつのスーパー兵器となるかもしれない。
とりわけテロの性質を持つ非国家組織は、社会と民衆に責任を持たず、もともとルールに従ってゲームをやらないだけに、生態戦を引き起こす主体になりやすい。さらに現実的に危険なのは、急速な発展スピードを追求するために、地球全体の生態環境がいつも災害と事変の臨界線上に置かれ、たとえ微小な変数の加減でも、生態系の大壊滅を招くことだ。
以上のほかにも、既存の、あるいは存在しうる非軍事戦争の作戦手段や方式をたくさん挙げることができる。例えば、デマや恫喝で相手の意志をくじく心理戦、市場を混乱させ経済秩序に打撃を与える密輸戦、視聴者を操り世論を誘導するメディア戦、他国民に災いを与えぼろ儲けをする麻薬戦、姿が見えず防ぎようのないないハッカー戦、自分勝手に標準を作り専売特許を独占する技術戦、実力を誇示し敵にプレッシャーをかける仮想戦、備蓄を奪い財産を掠め取る資源戦、恩恵を施し相手をコントロールしようとする経済援助戦、当世風を持ち込み異分子を同化させる文化戦、先手を取ってルールを作る国際法戦など、いくらでも挙げられる。
新しい技術の数だけ新しい作戦手段と方式(これらの手段・方式の交差する組み合わせや創造的使用は含まない)がある時代にあって、すべての手段と方式をいちいち列挙することは徒労だし、その意義もない。意義深いのは、戦争の行列にすでに加わったか、加わりつつある、あるいはこれから加わろうとするすべての手段とその使用方式が、人類全体の戦争観をひそかに変えつつあるということだ。人々はほとんど無限で多様な選択肢に直面したとき、自ら繭を作って自分を縛るように、戦争手段の挑戦と使用を武力と軍事の範囲内に限定する必要がいったいあるのだろうか。
非武力、非軍事、ひいては非殺傷、非流血の方式も同様に、あるいはそれ以上に、戦争目標の実現に有利にはたらくかもしれない。こうした見通しは、「戦争は流血の政治である」という見方を修正すると同時に、武力戦争を、衝突を解決する究極の手段としてきた人類の定見をも改めた。
手段の多様化が戦争の概念を拡大し、概念拡大の結果が戦争活動の領域を拡大したのは明らかだ。ここでは、伝統的な戦場に限定される狭義の戦争が自らの立脚点を探すのは非常に難しく、明日か明後日に起きるいかなる戦争も、武力戦と非武力戦をミックスしたカクテル式の広義の戦争になるだろう。
このような戦争の目的は、単に「武力的手段によって自分の意志を敵に強制的に受け入れさせる」だけでは満たされない。それは当然、「武力と非武力、軍事と非軍事、殺傷と非殺傷の手段を含むすべての手段によって、敵を強制して自分の利益を満たす」ことになろう。
第七章 すべてはただ一つに帰する ―― 超限の組み合わせ <書き出し>
今日の戦争は石油パイプラインのガソリンの価格、スーパーマーケットの食料品の価格、証券取引所の株価にまで影響を及ぼす。それはまた生態バランスを破壊することもあり、テレビのスクリーンを通してどの家庭にも飛び込んでくる。 ―― アルビン・トフラー
勝利の法則を知ったからといって、必ずしも勝利を確実に手中に収めるとは限らない。これは、長距離ランニングの技巧を学んだとしても、必ずしもマラソンで優勝するとは限らないのと同じだ。勝利の法則の発見は、戦争の法則に対する人々の認知を深め、軍事芸術の実践レベルを高めることができる。しかし戦場では、勝利の法則を解読したからといって、勝利を獲得できる人が増えることはありえない。肝心なことは、誰が勝利の法則の本質を真に把握しているかだ。
やってくるであろう次の戦争では、勝利の法則が戦勝者に対し要求するものは、非常に過酷なものとなるだろう。それは今まで通り、戦場での角逐・勝利に関するすべての技巧に精通することを要求するほか、大多数の軍人に対し、準備不足か、さっぱりつかみようがないと感じさせるような要求 ――
戦争以外の戦争で戦争に勝ち、戦場以外の戦場で勝利を奪い取るという要求 ―― を提出しているからである。
こうした意味においては、パウエルやシュワルツコフ、あるいはサリバン、シャリカシュベリのような現代的軍人でさえ「現代的」とは言えず、むしろ伝統的な軍人に見える。なぜなら、われわれが言う現代的軍人と伝統的な軍人との間に、すでに溝ができているからだ。この溝は越えられないものではないが、しかし徹底的な軍事思考の飛躍が必要である。これは多くの職業軍人にとっては、ほとんど一生追求してもできないことだ。はっきり言って、方法は極めて簡単だ。徹底的に軍事上のマキャベリになりきることだ。
目的達成のためなら手段を選ばない。これはルネサンス時代のイタリアの政治思想家が残した最も重要な思想的遺産である。中世においてこれは、ロマンチックな義侠心があるが、没落していく騎士の伝統を突き破ることを意味していた。制限を加えず、あらゆる可能な手段を採用して目的を達成することは、戦争にも該当する。この思想はたとえ一番最初ではなくても(というのは、その前に中国の韓非子がいたからである)、最も明確な「超限思想」の起源だろう。
事物が互いに区別される前提には、限界の存在がある。万物が相互依存している世界では、限界は相対的な意味しか持たない。いわゆる超限とは、すべての限界と称される、あるいは限界として理解されるものを超えることを指すのである。たとえそれが物質、精神、あるいは技術に属するものであろうと、また、それが「限度」、「限定」、「制限」、「境界」、「規則」、「定律」、「極限」さらに「禁忌」などと呼ばれようとだ。
戦争について言うならば、それは戦場と非戦場の境界、兵器と非兵器の境界、軍人と非軍人の境界、国家と非国家あるいは超国家の境界かもしれないし、また、技術、科学、理論、心理、倫理、伝統、習慣などなどの境界を含むかもしれない。総じて言えば、それは戦争を特定の範囲内に限定するすべての境界である。われわれが超限の概念を提出した本意は、まず思想上の超越を指しており、その次は、行動するとき、必要に応じて、そして超越が可能な限度や境界の上で、最も適切な手段(極端な手段をも含む)を選択することを指しているのであって、いつでもどこでも極端な手段を取らなければならないことを指しているのではない。
技術総合時代の軍人にとっては、現実に存在する各種の面が増え、使える資源(すべての物質的、非物質的資源を指す)が豊富になったため、直面する制限も、制限を打破する手段も、マキャペリが生きた時代環境に比べると、はるかに多くなっている。したがって、軍人の超限思考面に対する要求も、さらに徹底したものとなる。
われわれが前に述べたように、組み合わせは戦争の大御所たちが作るカクテルである。だが、これまでの戦争では兵器、手段、布陣、および謀略の組み合わせは、すべて軍事領域内で行われる「限界のある」組み合わせであった。こうした狭義の組み合わせは、今日では非常に不十分であることは明白だ。
今日または明日の戦争に勝ち、勝利を手にしたいならば、把握しているすべての戦争資源、すなわち戦争を行う手段を組み合わせなければならない。これだけでは足りず、さらに「勝利の法則」の要求に基づいて組み合わせなければならない。これでもやはり足りない。なぜなら、勝利の法則は、勝利の熟したウリがひとりでに籠の中に落ちることなど必ずしも保証できず、やはりウリをもぎ取る要領を得た手を必要としているからだ。
この「手」がすなわち「超限」であり、すべての限界を超え、かつ勝利の法則の要求に合わせて戦争を組み合わせることである。こうして、われわれは一つの完璧な概念、一つの全く新しい戦法の名称を得た。すなわち「偏正式超限組み合わせ戦」である。