カント 純粋理性批判
「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後の哲学はカントから流れ出る」と言われるそうです。
とても興味があるところですが、カントの純粋理性批判を読んで理解することは無理です。
そこで、その入門書の、さらに入門書的なものを読んでみることにしました。
西研さんの「カント 純粋理性批判」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
カントの純粋理性批判を読むことは無理なので、その入門書の入門書的なものを手にしていました。
「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後の哲学はカントから流れ出る」と言われるそうです。
とても興味があるところですが、カントの純粋理性批判を読んで理解することは無理です。
そこで、その入門書の、さらに入門書的なものを読んでみることにしました。
西研さんの「カント 純粋理性批判」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
はじめに哲学の歴史を書き換えた一冊……005
第1章 近代哲学の二大難問……015
十年の沈黙を破って出版された大著 / カントが生きた近代ヨーロッパ / 近代哲学が直面した二大難問 / 主観と客観は一致できるか / カントを震撼させたヒュームの警告 / カントは何を「批判」したのか / 主観の共通規格は存在する / 感性と悟性の働き / コペルニクス的転回
第2章
科学の知は、なぜ共有できるのか……053
悟性がもつ働き / 経験概念と純粋概念 / 悟性がアープリオリに備える「カテゴリー」 / 無意識に行っている判断の原則 / 「ア・プリオリな総合判断」とは何か / 純粋な悟性の原則 / 数の概念はどうやって生まれるか / すべての直観は外延量である / 自然科学を基礎づける原則 / すべては「私の体験」として / 「超越論的哲学」の最終目的
第3章 宇宙は無限か、有限か……089
「究極真理」の探究に終止符を打つ / 理性はときに暴走する / 私たちの魂は死後も生き続けるか? / 宇宙に始まりはあるのか? / 答えの出ないアンチノミー / なぜアンチノミーが生まれるのか / 理性がもつ二つの「関心」 / 人間に自由はあるのか? / 神は存在するのか? / 理性は「理念」を思い描く / カントが考えた哲学再生の秘策
第4章 自由と道徳を基礎づける……117
それでも人間に自由はある? / 道徳が自由をつくる / 人間が立脚する二つの世界 / 「道徳的世界」の根本ルール / ルールを普遍的なものにする / 理性の究極の関心 / 神の存在は「要請」される / カントが思い描いた理想郷 / カント最大の功績 / 道徳の理論的考察は可能か / 共有知として哲学を蘇らせる
ブックス特別章 なぜ認識論は必要なのか?……151
自分にフィットする哲学・思想を人は選ぶ / 知識の共有はいかに可能か / 世界全体と生の意義について語る言葉 / 「自由な社会」の市民として / 認識を社会からみる 歴史的・発生的にみる / 認識の正しさを判定する“現場”は「主観」である / 「ともに生きている」と信じているからこそ、社会を考える / 「共存の作法」としての認識批判 / 主観の哲学を発展させるために / 多様性の時代と哲学
カント哲学を読むためのキーワード集……178
読書案内……182
あとがき……187
はじめに 哲学の歴史を書き換えた一冊
本書では、18世紀に活躍したドイツの哲学者、イマヌエル・カント(1724~1804)の『純粋理性批判』を読み解いていきます。「近代哲学の最高峰」とも称されるこの本は、哲学史上もっとも難解な著作のひとつです。しかも、かなりの大部です。
平凡社ライブラリー版では全3巻、各巻を薄くして詳しい解説をつけた光文社古典新訳文庫版では全7巻のボリュームがあります。
そんな難著をあえて取り上げることにしたのは、古今数多の哲学書のなかでも五指に入る重要な著作だからです。この本でカントは、人間の持つ「理性」の限界を明らかにし、近代哲学が直面していた難問に体系的な答えを示しました。これは、哲学の根本を揺るがすほどの、決定的なインパクトを与えるものだったのです。
哲学の起源は古代ギリシアにまで遡ります。哲学が長い間メインテーマとして探究してきたのは、「究極の真理」です。世界の根源にあるものは何か、世界の始まりはあるのか、世界に果てはあるのか、魂は不死なのか、神は存在するのか ―― これらの問いに哲学者たちはさまざまに答えてきました。
たとえば、「世界には始まりがあって、そこから現在まで時の流れが続いてきたのだ」という説もあれば、「そもそも世界の始まりなどはない。過去に遡れば果てしなく時は広がっている」という説もあります。死後に魂は存続するのか、神はほんとうに存在しているのか、についても対立する答えが出されてきました。
しかしカントは、宇宙の果てや神の存在などの究極真理への問いは、どんなに考えても答えは出ないといいます。そして、これらの問いについて答えが出せない理由を、『純粋理性批判』で徹底的に論じました。この主張がいかに衝撃的だったかは、カント以後、神の存在証明を試みる哲学者がほとんどいなくなったことからも明らかです。
ただしカントは、旧来の哲学の営みを一刀両断にしただけではありません。それと同時に、人間の理性で答えを出しうる領域があることも明らかにしました。「そもそも人間は何を、どのように認識しているのか。そのとき理性はどのように働くのか」をカントは解明しようとします。こういう問い方を「認識論」といいますが、カントは人間の認識の基本構造を明確にすることによって、きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲はどこまでで、そこを逸脱すれば共有できる答えは出ない、ということを示そうとしました。
こうしてカントは旧来の哲学を破壊しただけではなく、まったく新しい発想 ―― 「合理的な答えの出る領域と、そういう答えがもともと出ない領域とがある」―― によって、哲学を真に有効な知として再生しようとしたのです。
ところで、こんなふうに思う読者もいるかもしれません。「そもそも、共有できるということは重要なんだろうか。哲学というものは、答えの出ない問いにいろんな人がその人なりの答えを出してみせる、そんなものだと思っていたけれど」と。
私は、人それぞれの答えでよい領域と、「だれもがこう考えるしかない」という意味で共有できる領域とがあると考えています。
たとえば、「私はどうやって生きるべきか、どんな人生でありたいか」という生き方の問いはどうでしょうか。これについては、最終的に「人それぞれ」で決めていくしかありません。答えがひとつに決められたら、自由がなくなってしまいますから。
しかし、生きることについて共有しうる知はまったく成り立たないのか、といえば、そうではないかもしれない。たとえば、善悪の基準は人によってある程度違いがありますが、「善悪という価値観をもつ」ということじたいは、ほとんどの人に共通しています。すると「なぜ人は善悪という価値観をもつのか」という問いに対しては共有できる答えがありそうです。また、科学はどうでしょうか。科学の知識を私たちは信頼していますが、それは単なる信念ではなく、「これこれの根拠があるから信じてよい=共有してよい」と思っているはずです。
こうやって考えてみると、合理的な根拠をもって共有できる知識と、そうでないものとを区分できそうです。そうすると、「どのような知識であれば合理性をもって共有しうるのか。いかなる仕組みで共有が可能になるのか」という問いが出てきます。まさしくこれこそが、『純粋理性批判』の中心課題なのです。
カントがこの難題に取り組んだ背景には、近代に入って飛躍的に発展した自然科学の影響があります。詳しくは本編でお話ししますが、カントは自然科学の信頼性の根拠を解明することによって、科学的で客観的な知識の土台を固めようとしました。
しかしその一方で、カントはこう考えました。科学だけでは人間が生きていくには足りない。人は「よく生きること」を求めているのだから「よく生きるとはどういうことか」という問いに答えなくてはならない、と。
こうして、『純粋理性批判』の課題は、①科学が合理的な根拠をもって共有できる根拠は何か、②なぜ人間の理性は究極真理を求めて底なし沼にはまってしまうのか、さらに③よく生きるとはどういうことか(道徳の根拠)、の三つを明らかにするということになります。
これらの課題は、いまも決して古びていません。AI(人工知能)や脳科学の研究が加速度的に進み、ビッグデータを背景とした新たな科学至上主義が勃興するなかで、人間の存在意義はいったいどこにあるのか、これからどう生きていけばいいのか、不安や生きづらさを感じている人は少なくないのではないでしょうか。
科学の信頼性の根拠を明らかにするとともに、「よく生きること」を問おうとしたカントの問題意識は、いまもう一度受けとめられるべきだと考えます。もっとも彼の答え(理論)のすべてが決定的な正解とは言えません。この点については、カントを紹介しながら、私なりのコメントも差し挟んでいきたいと思います。
カントの『純粋理性批判』は、哲学の問い方を変え、哲学の歴史を変えた本です。しかし冒頭で述べたとおり、おそろしいほどの大部で、非情なまでに読みにくい。ページをめくると「悟性」「現象界」「ア・プリオリ」「超越論的」「アンチノミー」等々、難解な用語が次々と飛び出してきて、心が折れそうになるかもしれません。
ですが、安心してください。『純粋理性批判』に限った話ではありませんが、哲学書を読むときは、それが何のために書かれたのか、つまり著者の問題意識を理解することが大切です。とくに『純粋理性批判』のような大部の本は、一つひとつの言葉の意味や細かい議論に入り込むと、かえってわからなくなります。問題意識は何か、著者がそれにどう答えようとしているかという「大きな道筋」に着目し、わからないところは読み飛ばすくらいのつもりで取り組むことをおすすめします。
本書でも、カントの問題意識と答えのエッセンスを、ポイントを絞って解説していきます。第1章は、カントが直面した近代哲学の二大難問について解説し、それに答えるべく彼が展開した認識論を概観します。その認識論を前提として、カントが自然科学をどのように基礎づけたのかを第2章で、究極真理を求める問いをどう始末したのかを第3章で解説します。最後の第4章では、科学が答えてくれない生き方の問題に対して、カントがどのように答えたかを見ていくことにしましょう。
ときにはイラストを用いて、わかりやすく説明するように心がけました。また、巻末には「カント哲学を読むためのキーワード集」を付しました。もしカントの深い森に迷い込んだら、そちらも参考にしてください。
先行き不透明な時代に何を信じ、どう生きていけばいいのか。AIやビッグデータ全盛の時代に、「考える」ことにどんな意味があるのか。カントの徹底した思索を通じて、皆さんと一緒に探求していきたいと思います。
「究極真理」の探究に終止符を打つ
前章までに駆け足で読み解いたのは『純粋理性批判』の前半部。ここからいよいよ後半戦突入です。難解な用語が行く手を阻むので、まずはゴールまでの道程をざっとお話ししておくことにしましょう。
古来、哲学は、神の存在、死後の魂、宇宙の始まりなど、究極真理の探究という答えの出ない問いを問い続けてきた、とカントは指摘しています。どんなに考えても答えは出ないのに、「これこそが答えだ」という独断論と、「いやいや、それはおかしい」という懐疑論が無益な戦いを繰り広げてきた。そんな哲学の歴史に終止符を打つことが、『純粋理性批判』の後半に課せられた第一のタスクです。そしてさらに、人間がよりよく生きるには何か必要かということを考える学問として哲学を再生すること。それが第二のタスクであり、『純粋理性批判』の最終ゴールでもあります。
第3章は、カントが第一のタスクをどのように遂行したかを見ていくことにしましょう。論点は大きく二つあります。
①究極真理の問いは、なぜ答えが出ないのか?
②なぜ人間は、答えの出ない問いの底なし沼にはまるのか?
理性はときに暴走する
この二点を論じる上でカギとなるのが、人間の「理性」です。
感性と悟性については、これまでにも繰り返し言及してきました。感性は空間・時間を伴う「直観」をもたらし、悟性は「判断」をつくり出します。これに続く理性は、「推論」という働きをもっています。
たとえば、鉄粉に磁石を近づけたとしましょう。そこで起きた変化を「磁石が鉄粉を引き寄せた」と判断するのが悟性です。第2章で見た「原因と結果」のカテゴリー、ひいては「因果律の原則」にもとづいてそう判断します。ここからさらに一歩進んで、私たちは「肉眼では捉えられないが、ここには何らかの力が働いているに違いない」と考え、「磁力」という一般的な原理を想定する。こうした「推論」をするのが理性の働きです。
悟性と理性は「考える」という点では同じです。しかし、悟性が直観と結びついて働くのに対し、理性は必ずしも直観に縛られません。磁力の例は直観を説明する上で合理的な推論といえますが、理性は必ずしも合理的な推論を導くとは限らないのです。
たとえば理性は、原因・結果のカテゴリーを使ってどんどん推論を進めていくかもしれません。「磁力にもそれを生み出す原因があるに違いない。それは何だろうか? ○○に違いない! だったら○○を生み出す原因は何だろう? 原因の原因の、そのまた原因は?」となって、ついに「世界の一切を生み出す究極原因は何か」という問いにたどり着く。
このように、理性は推論に推論を重ねたあげく、直観されうる世界(現象界)から逸脱し、究極の真理にまで行き着こうとする本性をもっているとカントは述べます。答えの出ないことを求めて「暴走」しかねないのが理性なのです。
人間は、主観の外にある「物自体」を直接には認識できません。人間が認識しているのは、それぞれの主観(心)に映った世界。それをカントは「現象界」と呼んでいます。この現象界を形成しているのが、感性と悟性でした。感性と悟性には、すべての人に共通の認識規格(メガネ)がア・プリオリに備わっているので、ほかの人と合理的に共有可能な認識をつくることができる。これがカントの考え方です。
とくにポイントとなるのは感性の形式である「空間・時間」です。空間・時間のなかで経験されうる物事の次元(現象界)にとどまっている限りは、みんなが「そうだよね」と共有できる答えに至ることができる。具体的な観察や記録にもとづいて合理的な推論をすることができるからです。しかし暴走した理性は、この共有可能な現象界を飛び出し、際限なく推論を進めて「答えの出ない問い」をつくり出してしまう。そして、合理的に共有可能な根拠を示すことができない「独断論」になってしまいます。
では「答えの出ない問い」とは何でしょうか。その最たるものが、魂の不死、世界の始まりと終わり、そして神の存在をめぐる問いです。カントは「純粋理性」を徹底的に「批判」する(理性の認識能力を吟味する)ことによって、これらの問いじたいを不可能なものとして葬り去ろうとしたのです。