イスラム教の論理

「ジハードが義務であることはコーランやハディースの随所で明示されている」ことが随所で解説されています。

イスラム教の論理

 著者の名と著書を知ったのはツイッターでだったと思います。
 内容は詳しく読まなかったので、「まえがき」に書かれているような『「教義の基本を踏まえた上で宣教に不都合な部分を割愛してイスラム教の素晴らしさを説く」「日本人イスラム教徒」』だろうと思っていた(飯山さんスミマセン)のでした。
 虎ノ門ニュース(令和2年1月21日)にゲスト出演した際にそうではないことが分かり、早速本書を購入したのでした。

 イスラム教に限らずキリスト教・ユダヤ教も、一神教は当然のことながら寛容さがありません。
 それら3宗教が経典としているという旧約聖書の、「民数記」第31章を解説したサイトを見たことがありますが、異教徒へ対応は徹底しているようです。
 一神教の基本は、異教徒を殺すことによって自らの宗教世界を実現することなのではないかと思っていましたが、本書を読んでそれが間違いではないことが認識できました。宗教・宗派によってその程度は異なるでしょうが・・・。

 飯山さんが「第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界」の導入部で『不信仰者に対してはまず宣教を行い、従わない場合には武力で制圧して殺害するか奴隷化するというのは、コーランやハディースに立脚したイスラム法の明確な規定です。』とお書きです。
 宗教はそんな残酷なものじゃないと耳を貸さない人もいるでしょうが、私は素直に理解できます。

 第7章の書き出しのところに「豚骨ラーメン好きの改宗した日本人イスラム教徒」が紹介されています。余計なことですが、日本の一般的な(緩い)宗教感のままでイスラム教に改宗して、そのうちにトラブルが起きないのだろうか・・・?

 飯山陽さんの「イスラム教の論理」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

イスラム教の論理 飯山陽

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イスラム教の論理 (新潮新書) [ 飯山 陽 ]
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目次

まえがき 3

第1章 イスラム教徒は「イスラム国」を否定できない 15
「イスラム国」のイスラム教解釈は「正しい」
穏健派法学者と国家権力の癒着
「イスラム国」の人気は「過激派組織」だからではない

第2章 インターネットで増殖する「正しい」イスラム教徒 48
なぜインドネシアのイスラム教徒は「過激化」したのか
SNS戦略の徹底と洗練された動画編集術
「イスラム国」の支配地域こそ「理想郷」である

第3章 世界征服はイスラム教徒全員の義務である 81
コーランを字義通り解釈すれば、日本人も「殺すべき敵」である
自国でジハードできる「よい時代」がやってきた
人口増加でイスラム教徒を増やす「ペイビー・ジハード」

第4章 自殺はダメだが自爆テロは推奨する不思議な死生観 117
「イスラム教は平和な宗教」論の欺瞞
女も子どもも後願の憂いなくジハードせよ
放蕩者の悪行も、ジハードすれば清算される

第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界 150
女奴隷とは好き放題にセックスできるし、売り飛ばしても構わない
レイプの被害者は「姦通」で鞭打ちされる
「働く女性は同僚男性に五口の母乳を飲ませよ」

第6章 民主主義とは絶対に両立しない価値体系 178
イスラム圏に信教の自由は存在しない
手首切断も石打ち刑も世論の大半が支持
主権在民ではなく主権在神、人間は神の奴隷

第7章 イスラム社会の常識と日常 209
ハラール認証は誤解されている
「人生を楽しむ」という発想はありえない
急成長するイスラム・ファッション  


まえがき

 これまで「あたりまえ」だと思っていたことが、いつの間にか「あたりまえ」でなくなる。人間の歴史は、その繰り返しです。 そして世界は今、おそらく、これまで何度も経験してきたその転換期を新たに迎えています。
 2016年、アメリカでは自国第一主義を掲げるドナルド・トランプが大統領に選出されました。イギリスでは国民投票によりEUからの離脱が決定されました。20世紀後半から推進されてきたグローバル化に対し、先進国では「ノー」を突きつける動きが出始めています。グローバル化はあらゆる国のすべての人々に対して利益があるというテーゼは幻想であると、実際に利益を得ていない人々が主張し始めたからです。
 そしてこの反グローバル化とは全く異なる次元で、既存の世界秩序を否定する勢力も登場しています。それが2014年にカリフ制再興を宣言した「イスラム国(IS=Islamic State)」です。
 「イスラム国」は人間によって設定された国境を否定し、一定の領域に囲い込んだ人々によって構成される国民国家を否定し、民主主義という「人間が人間を支配する制度」を否定します。彼らが主張するのは、既存の国民国家制にかわり、カリフという指導者が神の法によって世界を一律に統治するカリフ制の正統性です。
 2017年にイラクのモスルとシリアのラッカという二大拠点を失った「イスラム国」の勢力は、もはや下火であるように見えます。しかしたとえイラクとシリアで下火になろうと、彼らが世界中に蒔いた火種が完全に消えることは、少なくとも近い将来にはありえません。なぜなら「イスラム国」の掲げる理想は、世界に18億人いるとされるイスラム教徒全員にとっての理想だからです。それは彼ら自身が自主的に抱いた理想ではなく、彼らが崇拝する絶対的な神によってその実現にむけて尽力するよう命じられた理想です。「イスラム国」は世界中のイスラム教徒たちが忘れかけていたその理想を、カリフ制再興によって思い出させ、その実現が決して夢ではないことを証明して見せました。空爆や砲撃によって「イスラム国」勢力を駆逐することはできても、彼らの理想をイスラム教徒全員の脳内から一掃することは誰にもできません。
 イスラム教徒にとっては国境も国民国家も民主主義もグローバル化も、所詮は「人間の産物」にすぎません。しかしイスラム教はそうではありません。イスラム教徒にとってのイスラム教は、神が人間に恩恵として与えた導きです。神の恩恵であるイスラム教が、人間の産物である民主主義に優越するのは、彼らにとっては「当然のこと」です。私たち人間には「確かな真実」がわからないのに対し、神は全知全能だからです。私たちは未来の世界について想像することしかできません。しかしイスラム教徒にとっては、 いつか神の法が世界を統治する日が必ずやってくるというのが確定された未来です。なぜなら彼らは、全知全能の神が世界をそのように創造したと信じているからです。
 世界には様々な価値観を持つ人々がいます。その中には私たちにとって好ましく、憧れの対象となるような人々もいれば、全く関わりたくないような人々もいます。私たちは一般に、それを「多様性」という言葉で肯定的に受け入れます。しかし世界にはこの「多様性」を否定的に捉え、世界はひとつの価値観に収斂されなければならないと考える人々もいます。イスラム教という宗教は後者に属します。イスラム教徒ではない人にとってあまり嬉しいことではありませんが、それが事実です。イスラム教は従来の国家や地域の枠組みを越えた地球規模の拡大を目指すという意味では確かにグローバル化を志向しますが、それは私たちの考えるグローバル化とは全く異なるものなのです。
 私はイスラム法の文献読解とフィールドワークを通して、イスラム教徒自身がイスラム教をどのように認識し論じてきたかについて研究してきました。本書はそれらを踏まえた上で、現代のイスラム教徒にとって世界はどのように見えているか、そしてそれは私たちの世界認識とどのように異なっているかを、具体的な事例から解き明かす試みです。
 日本には非イスラム教徒で私のような研究をしている人はほとんどいません。なぜなら、非イスラム教徒がイスラム法研究を通してイスラム教の本質について語ることは、タブーだとされてきたからです。というのも、イスラム法を学びイスラム教の本質に触れた異教徒は必ずイスラム教に改宗する、というのが既定路線だからです。その論理でいくと、私か改宗していないのは私かそれを未だに正しく理解していないからだ、ということになります。イスラム法というのは果てしなく広く深い世界であり、私などはその初学者にすぎませんから、確かにその可能性はあります。しかし、イスラム法を学ばずしてイスラム教について語るのは不可能です。イスラム法について学んだことがないのにイスラム教について語っている人は、そのことすら知らない人です。
 日本のテレビや新聞、本や雑誌、インターネット等で目にするイスラム教についての解説のほとんどは、中東の歴史や地域研究あるいは国際情勢分析などを専門としイスラム法については学んだことのない研究者か、日本人イスラム教徒の手によるものです。前者はイスラム教の教義の基本を踏まえぬまま「イスラム教は平和の宗教」だと結論づけ、後者は教義の基本を踏まえた上で宣教に不都合な部分を割愛してイスラム教の素晴らしさを説きます。
 両者に共通するのは、イスラム教を絶賛する点、そして①なぜイスラム教徒はテロをおこすのか? ②なぜ「イスラム国」のようなイスラム過激派に共鳴する人があとをたたないのか? ③なぜイスラム教徒は自爆などという暴挙に及ぶのか? といった、多くの日本人が素朴に抱く疑問になにひとつまともな回答を与えない点です。
 日本では、①については「テロをおこすのは真のイスラム教徒ではない」、②については「貧困や差別に苦しむ人がイスラム過激派の誘いにのってしまうのだ」、③については「イスラム過激派によって洗脳されたり麻薬づけにされたりした人が自爆を強制されているのだ」と常に説明されます。しかし、これらはいずれも的外れです。
 テロをおこすのがイスラム教徒でないならば、なぜ彼らはコーランを唱え、神を讃え、イスラム教の名のもとに攻撃を行うのでしょうか? 彼らをイスラム教徒ではないと判断する根拠は何でしょう? それを判断し決定する権威者や機関がどこかに存在するのでしょうか?
 貧困や差別に苦しむ人がイスラム過激派入りするならば、貧困や差別がなくなればイスラム過激派は自然と消滅するのでしょうか? なぜ貧困や差別に苦しむ人はイスラム過激派にばかり流れるのでしょう? 経済的にも恵まれ、社会的にも高い地位にある人がすすんで「イスラム国」入りするのはなぜでしょう?
 洗脳されたり麻薬づけにされたりした人が自爆させられているのだとしたら、なぜイスラム過激派以外の過激派組織もそれを真似ないのでしょう? なぜイスラム過激派だけが、ここ数年間で何千回もの自爆攻撃を神の名のもとに実行しえているのでしょう?
 これらの疑問に答えるには、イスラム教の教義について学ぶしかありません。現代の世界情勢を知るために宗教の教義を学ぶなどといわれてもピンとこないかもしれませんが、実はこれこそがイスラム過激派のテロやイスラム諸国を理解するための王道なのです。そして、世界情勢と宗教教義が密接に関わっているということこそが、この問題の本質なのです。
 宗教に人を動かし、世界を動かす力などあるはずはない、という思い込みから脱却しない限りは、それについて何をどのように論じても真実から遠ざかるばかりです。本書は、日本人が疑問を抱きがちな点にひきつけてイスラム教の教義を解説し、世界の様々な現象が発生するメカニズムの一端を明らかにする試みでもあります。
 イスラム教は、あらゆる種類の苦しみ、絶望、悩み、不安、不満、憎悪を抱く人を惹きつけうるシステムです。戦争、テロ、飢餓、貧困、差別、偏見、嫉妬、格差、失業、左遷、過労、事業不振、非正規雇用、債務、学業不振、受験の失敗、不登校、ひきこもり、障害、病気、事故、介護、孤独、被虐待、いじめ、人間関係のトラブル、暴力、犯罪被害、失恋、不倫、喧嘩、鬱屈、家族との不和、離婚、大切な人との死別等々、どんな問題も引き受け、解決し、何を信じて毎日をどのように生きるべきかを極めて具体的に示してくれます。入信さえすればどんなに暗く疚しい過去も清算され、栄光に満ちた未来と来世が約束されます。しかもそれは昨日、今日誕生した脆弱で瑕疵のあるシステムではなく、1400年以上にわたって構築されてきた巧緻で完璧なシステムです。それを信じる仲間も世界中にすでに18億人存在し、他を圧倒する勢いで増え続けています。 イスラム教はおそらく、「今」「この世界」が嫌だという人にとって最強のオルタナティヴです。信じることさえできれば、すべての人が救われるのです。
 イスラム教は明らかに、私たちとは異なる「あたりまえ」観を有する宗教です。そして一大転換期を迎えた今の世界において、そのイスラム教を信じ、それに突き動かされて行動する人々のうねりが、存在感を増しつつあります
 私は、この変わりゆく世界を生き抜く知恵を授けてくれるのは主体的な学びであると信じています。本書がそれに共感する人々の一助となることを願います。


<第1章 イスラム教徒は「イスラム国」を否定できない>の書き出し

  2017年6月、オーストリアのイスラム教指導者たちがイスラム過激派テロに抗議する「反テロ宣言」に署名し、「イスラム教は平和の宗教であり、イスラム過激派やそのテロ活動はイスラム教の教えとはまったく一致しない」と高らかに宣言しました。ヨーロッパのイスラム教指導者たちがこうした宣言を行うのは、初めてのことです。
 この宣言は冒頭で、「人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである」というコーラン第5章32節を引用し、「イスラム国」は「我々の平和的宗教であるイスラム教を自身の政治的目的を達成するために悪用している」、と非難しました。
 しかしこの宣言にあるように、本当に「イスラム国」を初めとするイスラム過激派はイスラム教に反しているのでしょうか。


<第2章 インターネットで増殖する「正しい」イスラム教徒>の書き出し

 イスラム教徒が多数を占める国で日本に最も近いのはインドネシアです。インドネシアは、世界最大のイスラム教徒人口を擁する国でもあります。同国の人口に占めるイスラム教徒の割合は9割ほどですが、イスラム教は国教とはされておらず、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー、仏教、儒教を含む6つの宗教が公認宗教とされています。
 このインドネシアで2017年5月、元ジャカルタ州知事がイスラム教を冒涜した罪で有罪判決をうけるという衝撃的な出来事がありました。元知事は中国系キリスト教徒で、選挙運動中に「コーラン第5章51節を根拠にイスラム教徒以外の人に投票するのは罪だと嘘をついている人もいるが、私に投票するかどうかはあなた方の自由だ」といった趣旨のスピーチをしたのがことの発端です。ある大学講師が「宗教冒涜?」というタイトルをつけてこのスピーチ映像をFacebookにアップすると、それがインターネット上で大拡散、大問題に発展しました。 同節には、「あなたがた信仰する者よ、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間としてはならない。かれらは互いに友である。あなたがたの中の誰でも、かれらを仲間とする者はかれらの同類である」と記されています。イスラム教徒は、コーランは「神の言葉」そのものであり一言一句全てが不変の真実であると信じています。元知事はそれを皮肉るような発言をしたため抗議の声があがり、彼の逮捕や死刑を求める人々のデモは最終的には数十万人規模にふくれあがりました。こうした市民の圧力に屈するかのように警察は彼を逮捕し、裁判では禁錮2年の実刑判決が下されました。


<第3章 世界征服はイスラム教徒全員の義務である>の書き出し

 2017年7月、第二次世界大戦後最も激しい市街戦とも評されるモスル奪還作戦が完了し、「イスラム国」は世界最大の拠点としてきたイラク第二の都市モスルを完全に失いました。続く10月には、シリアの最大拠点ラッカも有志連合やクルド軍などの合同作戦によって奪還されました。
 米シンクタンクであるランド研究所の分析によると、「イスラム国」が世界中で支配下においた領土は2014年末に最大に達し、その当時は約10万平方キロメートルの土地と1100万人の住民を実効支配していました。10万平方キロメートルというのは北海道の面積より少し大きいくらいで、韓国やポルトガルの領土とほぼ同じです。
 しかし「イスラム国」はイラクとシリアで敗戦を重ねた結果、2017年初頭には領土の57%、支配住民の73%を失いました。イラクとシリアに関しては、2017年初頭の段階で4万5000平方キロメートルの領土と250万人ほどの住民を支配しており、2014年と比較すると実効支配下におく領土は57%、住民は56%減少しています。エジプト、リビア、アフガニスタン、ナイジェリアで「イスラム国」が支配している土地は2017年初頭段階で7300平方キロメートル、支配住民数は50万人ほどであり、ピーク時と比べると領土は65%減少し、支配住民数はナイジェリアで75%、アフガニスタンで87%減少、リビアではほぼ全ての領土を失いました。
 モスルとラッカの陥落という事実に加えてこうした数字を見ると、「イスラム国」は退潮の一途であり殲滅も近いように思われます。しかし実際は手放しで喜べるような状況にはありません。
 国連が2017年8月に公開した報告書によると、「イスラム国」は領土と収入源を大幅に失ってはいるものの、世界中の支持者に資金提供しテロ攻撃を計画・実行させる力をいまだに持っているとされています。イギリスの情報局保安部(MI5)前長官ジョナサン・エヴァンスも同年、「イギリスは今後30年間イスラム過激派テロの脅威に直面するだろう」と警告しているほか、アメリカの国家テロ対策センター長ニック・ラスムセンも、「イスラム国」のイラク、シリアでの敗北と、彼らが世界中でテロを実行する能力の間には直接的な関係はない、と断言しています。
 また同年8月にピューリサーチセンターが発表したリポートによると、38力国で実施された「自国の治安にとっての脅威は何か」という質問に対し、全体の62%の人が「イスラム国」をあげ、国別では18力国で「イスラム国」をあげた人が最も多くなっています。それらの国のうち、ヨーロッパではフランスとスペインの88%、ギリシアの79%、ドイツの77%、イギリスの70%、アジアでもインドネシアの74%、フィリピンの70%、インドの66%の人が、「イスラム国」を脅威だと回答しています。
 これらのことからは、治安当局も「イスラム国」テロを体験した当事者である国の人々も、「イスラム国」の領土が減少したからといってその脅威が減少したとはまったく考えていないことがわかります。こうした懸念を裏付けているのがメリーランド大学の2017年8月の報告書です。それによると、2016年に「イスラム国」が実行した攻撃は1400回以上、殺した人数は7000人以上にのぼり、2015年と比較すると約20%以上増加しています。


<第4章 自殺はダメだが自爆テロは推奨する不思議な死生観>の書き出し

 「イスラムは宗教であり、ジハードなくしてそこに真の人生などなく、神の道における死こそが究極の目的である。イスラム教徒の若者たちよ、これがイスラム教であると知るがよい」
 これは2014年8月、フサイン・ブン・マフムードという名で知られるイスラム過激派イデオローグが発表した声明の一部です。同声明はインターネット上で広まり、過激派イデオロギーを象徴するものとして欧米メディアにも多くとりあげられました。これは、日本の一部メディアや中東イスラム研究者らが繰り返す「イスラムは平和の宗教」という言説に真っ向から対立するものです。しかし私たちが過激派イデオロギーとして眉をひそめるこうした言説にはイスラム教上の正統な論拠があり、そうである以上イスラム教的に正統な見解と見なされる、というのがイスラム教の論理です。
 イスラム教の論理にもとづくと、コーラン第2章214節に「神の勝利は近い」と記されている以上、遅かれ早かれ地上でイスラム教徒が勝利することは間違いありません。しかし、イスラム教徒の主体的関与なしに神の勝利が自動的にもたらされるわけでもありません。というのも、コーラン第2章216節「あなたがたには戦いが定められた」に代表されるよう、神は異教徒との戦闘をイスラム教徒に義務づけたからです。コーラン第8章39節で「騒乱がなくなるまで戦え。そして宗教すべてが神のものとなるまで(戦え)」と命じられているように、イスラム教による世界征服が実現されるまでイスラム教徒は戦い続けなければなりません。本当の平和は、自分や仲間が傷つくことなく自然ともたらされるような、そういったものではないのです。


「イスラム教は平和な宗教」論の欺瞞

 ジハードが義務であることはコーランやハディースの随所で明示されているため、それについては本来そもそも議論の余地がありません。その上ジハードは、義務の中でも神のもとで最高の価値を認められた行為であると信じられています。コーラン第9章41節には、「あなたがたの財産と生命を捧げて、神の道のためにジハードをしなさい。もしあなたがたが理解するならば、それがあなたがたのために最良である」と明示されています。コーラン第4章95節には、「神は財産と生命を捧げるジハード戦士に、(家に)居残っている者より高い位階を授けられる。神はそれぞれによい報奨を約束なされるが、ジハード戦士には居残っている者よりも偉大な報奨を授けられる」と記されています。さらにハディースにも、人々の中で最高の地位を与えられるのは「神の道におけるジハードのために馬の手綱をとる人である」とか、「自らの命と財産をかけて神の道に邁進する者」であると記されており、「神の道においてジハードをする人」は天国の中でも最も高いところに迎えられるとも伝えられています。預言者ムハンマドは、「すべての基礎はイスラム、支柱は礼拝、頂点はジハード」といったとも伝えられています。
 ジハードこそが最高の善行であるという見解はこうした正統な論拠から導出されるがゆえに、イスラム教的には否定のしようのない正しい見解とされます。イスラム教が戦いの宗教であり、戦いを最善の行為と規定していることは、聖なるテキストやその解釈を通して編まれ続けてきた膨大なイスラム法の著作群を繙けば一目瞭然です。
 ジハード思想やイスラム過激派の系譜というと、日本や欧米の研究者らはハサン・バンナーやサイイド・クトゥブにそのルーツを求めるのが通例ですが、パンナーの生まれた1906年から遡ること千年以上前に、既にその思想は誕生し、イスラム世界に十分に流布していました。ジハード思想や過激派思想を断つということは、イスラム教の伝統すべてを断つことに等しいのです。
 私のここでのコーランの引用が恣意的であると感じる人もいるかもしれません。しかし自らの主張、この場合「ジハードは義務である」という主張をコーランの特定箇所やハディース、イスラム法の権威ある学説を論拠として引用し正統化するのがイスラム法的論証の基本的なやり方であり、ここにあげたのは前近代から存在するジハード論者の論拠の一例にすぎません。
 「イスラム教は平和な宗教」というテーゼは、一般のイスラム教信者らによってもしばしば主張されますが、ジハード論者はそうした人々に対し地獄に行くことになると警告します。なぜならコーランではイスラム教のために異教徒と戦うことが義務であると何度も明言されているだけでなく、コーラン第2章85節に「あなたがたは啓典の一部分を信じて、一部分を拒否するのか。およそあなたがたの中でこのようなことをする者の報いは、現世における屈辱でなくてなんであろう。また審判の日には、最も重い懲罰に処せられよう」と記されているからです。ジハードの義務だけを都合よく無視するなどということは、決して許されないのです。またコーラン第2章174節では、「神が啓示された啓典の一部を隠しそれで僅かな利益を購う者は、(中略)痛ましい懲罰を受ける」と警告されています。戦いを義務づける多くの啓示を隠すことによって初めて、「イスラム教は平和な宗教」論は成立します
 さらにコーラン第3章7節には、「かれ(神)こそはこの啓典をあなたに下されるお方。その中の(ある)節は明解で、それらは啓典の根幹であり、他(の節)はあいまいである。そこで心の邪な者は、あいまいな部分にとらわれ騒乱をまきおこそうとはかったり、自分勝手な解釈を試みたりしようとする。だがその解釈は神のみがご存知」とあります。「イスラム教は平和の宗教」論者は、コーランのあいまいな部分に勝手な解釈を加える心の邪な者であると批判される所以です。コーラン第9章39節には、「あなたがたが奮起して出征しないならば、かれ(神)は痛ましい懲罰をもって懲しめ、他の民をあなたがたと替えられる」とも記されています。「イスラム教は平和の宗教」論者にそそのかされイスラム教徒がジハードに立ち上がらなくなれば、全イスラム教徒が神から見捨てられ、地獄行きになる可能性すらあるのです。こうした論拠にもとづき、ジハードを妨げようとする者に対しては戦いを挑まねばならない、と主張するイスラム法学者もいます。
 「イスラム教は平和の宗教」論者は多くの場合、ジハードはそもそも努力の意味であり、最も重要なのは異教徒との戦いに努力するという意味のジハード(小ジハード)ではなく、己の弱い心に打ち克つために努力するという意味のジハード(大ジハード)なのだとも主張します。しかし大ジハードのほうが小ジハードよりも重要だという主張の根拠は、コーランはおろか6大ハディース集にも見出せません。同節の根拠とされるハディースは11世紀以前には遡れず、またそのハディースを伝える「伝承の鎖」も「弱い」ものであり、こうしたハディースは法判断の根拠とはならない無価値なものである、というのがイスラム法の原則です。実際、歴史上の著名なイスラム法学者たちも軒並みこのハディースは贋作であると判断してきました。贋作ハディースひとつを根拠に、武力闘争を義務付ける無数のコーラン章句、ハディースすべてをねじ伏せようというのは、いくらなんでも無理があります。インターネットでハディースヘのアクセスが容易になった現代においては、もはやこうした「でっちあげ」理論は通用しません。
 「イスラム教は平和の宗教」論者がジハード論者に反駁するためには、後者の掲げる論拠よりも正統で強力な論拠が必要とされますが、それは彼らが共通の基盤としているイスラム法の文脈においては非常に困難です。またイスラム法は神が定めた神の法ですから、イスラム教徒がその有効性に疑義を呈することも、背教者の熔印を押されかねない危険な行為です。しかしイスラム教徒がイスラム教の論理でジハード論者を論破する以外に、ジハード論を前面に掲げる過激派に魅了されるイスラム教徒を思いとどまらせる術はありません。
 「イスラム教は平和の宗教」論はしばしば、
ジハード論者が新たな信奉者を獲得するための方便として用いられる場合もあります。その一例が、「すべてのイスラム教徒はテロリストであるべきだ」という主張やビンラディン支持、自爆テロ称揚などで知られ、イギリスとカナダが入国を禁止しているザーキル・ナイクというインド人過激派イデオローグです。
 ナイクは、2016年7月バングラデシュのダッカで日本人7人が犠牲となったテロの実行者の一人が彼のジハード思想に影響を受けたと自白している人物でもあり、2017年7月にはインド政府が彼のパスポートを無効化し、インターポールに国際手配を要請しました。しかし、この人物は日本ムスリム平和連盟の招待に応じて2015年11月に来日し、代々木上原にあるモスクを運営する東京ジャーミイや日本最古のイスラム教徒団体である日本ムスリム協会を始めとする日本の名だたるイスラム数団体の歓待を受けただけでなく、東京大学や同志社大学、九州大学等で「イスラム教は平和の宗教」云々と講演、数名の日本人をその場でイスラム教に改宗させています。加えて2016年には彼に師事したという日本人が彼の許可を得て千葉県内にNGOを設立し、現在も宣教活動を行っています。彼が過去世界中でどれほど過激なジハード論を展開し、また日本でどのような「イスラム教は平和の宗教」論を展開したかは、全て映像で記録されインターネット上に出回っているので、確認するのは容易です。
 ジハードは義務ですが、通常はイスラム教徒の一部が遂行すればよい集団義務であると規定されています。そして預言者ムハンマドは、「ジハードは私か遣わされてから最後の世代の共同体がアンチキリストと戦うまで続く」と述べたというハディースも伝えられています。すなわちイスラム教は、この世では終末の日までジハードが常にどこかで存続しており、イスラム教徒の一部が必ずそのジハードを戦わなければならない、と想定しているのです。
 しかしジハードが全イスラム教徒にとっての義務となる場合もあります。それはイスラム教徒の土地に不信仰者が侵入してきた場合、イスラム教徒の軍と異教徒の軍とが見えた場合、カリフが特定の個人や集団にジハードヘの召集をかけた場合などです。「イスラム国」などのイスラム過激派は、現在イスラム共同体は危機的状況にあると捉えているため、ジハードは全イスラム教徒にとっての義務であると主張します。
 アフガニスタン、イラク、シリア、サウジアラビアといったイスラム諸国に欧米の軍隊が駐留していることだけでもその理由としては十分ですが、他にも欧米の軍隊が過激派掃討作戦の名の下に無辜のイスラム教徒を数多く殺害していること、世界各地で「正しい」イスラム教徒たちが不当に投獄されたり処刑されたりしていることなど、イスラム法的にジハードが個人義務であると論証するための根拠は十分すぎるほどあります。アメリカに拠点をおく「社会的責任を果たすための医師団(PRS)」が2015年3月に公開した報告書では、1990年以降「テロとの戦い」など西洋諸国のからんだ戦争の犠牲となって死亡したイスラム教徒の数はおよそ400万人にのぼるとされています。
 ジハードが全てのイスラム教徒に課せられた個人義務となった場合でも、全員が武器をとって戦場に赴かなければならないわけではありません。コーラン第9章41節に「あなたがたは奮起して、軽くても重くても出征しなさい。そしてあなたがたの財産と生命を捧げて、神の道のためにジハードをしなさい」と記されているのは、健康であってもそうではなくとも、あるいは若者でも老人でも、独身でも妻帯者でも、ジハードに財産と生命を捧げることが命じられているのだと解釈されています。しかし動けないほど病気が重かったり老齢であったりする場合には、財産のみを捧げればよいとされています。アルカイダの活動資金の多くが有志からの寄付で成り立っていたのは、それが「財産によるジハード」だと信じる人々が一定数いたことの証です。また「あなたがたの財産、生命、舌をもってジハードせよ」というハディースが伝えられているように、言葉によって異教徒と戦うこともジハードだとされています。「イスラム国」がインターネットを駆使したプロパガンダ活動や、戦場を取材したりそれをビデオや雑誌のかたちで公開したりする広報活動もジハードの一環として奨励しているのは、それが理由です。


<第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界>の書き出し

 2014年10月「イスラム国」は機関紙で奴隷制復活を高らかに宣言し、私たちを再度驚かせました。
 同紙には次のようにあります。「不信仰者の家族を奴隷とし、その女たちを性奴隷とすることは、確固たるものとして立証されたイスラム法の一側面なのだということを忘れてはならない。このことを否定したり嘲笑したりする者は、コーランの章句とハディースを否定したり嘲笑したりする者であり、それによってイスラム教から背教する者である」。
 不信仰者に対してはまず宣教を行い、従わない場合には武力で制圧して殺害するか奴隷化するというのは、コーランやハディースに立脚したイスラム法の明確な規定です。ゆえに上述の「イスラム国」の主張は、イスラム法的に正しいものだと認定されます。こうした明文に由来する規定に疑義を呈することは許されませんし、イスラム法自体を否定することはより一層許されません。イスラム法は神が人間に下した完全無欠の法であり、その完全性は神の完全性に由来しています。イスラム法に欠けたところや間違ったところがあると主張することは、それを下した神に欠けたところや間違ったところがあると主張することになるため、絶対に禁じられるのです。
 イスラム法というのは全イスラム教徒に適用されるルールですから、この奴隷についての規定も基本的には全イスラム教徒が神からの命令として肯定的に認識していることになります。


<第6章 民主主義とは絶対に両立しない価値体系>の書き出し

 「イスラム教徒の中には、近代的で世俗的な社会を拒絶する者がいる。彼らは特別な立場、つまり彼ら自身の宗教的意識に対する特別な配慮を要求している。これは現在の民主主義および言論の自由と両立しない。そこにおいて人々は、侮辱や皮肉そして揶揄に耐えなければならないのだ」
 これは2005年9月、デンマークのユランズ・ポステン紙に掲載された同紙の文化担当編集長フレミング・ローズのコメントです。これとともに掲載されたのがイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画12点であり、その後世界各地のイスラム教徒が抗議の声をあげる契機となりました。
 デンマークのイスラム教団体は風刺画掲載を刑法違反だとして警察に告発、シリアやイラン、アフガニスタン、パキスタン、リビア、ナイジェリアなどではイスラム教徒による大規模デモが発生し、警官隊と衝突したり、デンマーク大使館が放火されたり、キリスト教会が襲撃されるなど暴力沙汰に発展し、死者もでました。ユランズ・ポステン紙の趣旨に賛同しその風刺画を転載したフランスのシャルリー・エブド紙は、その後も新たな預言者ムハンマドの風刺画掲載をたびたび行い、2011年には事務所に火炎瓶が投げ込まれ、2015年には武装勢力の襲撃を受け、銃乱射によって編集長や風刺画家ら12人が殺害されるという大惨事に至りました。
 ユランズ・ポステン紙やシャルリー・エブド紙は元来、民主主義社会には宗教を風刺する自由があるという立場に立っていました。
 しかしイスラム教徒はその立場をとらないどころか、風刺画を描いた人や掲載紙のみにとどまらず、民主主義自体に対する強い怒りと憤りをあらわにしました。なぜならイスラム教徒にとって預言者ムハンマドは最も尊敬すべき人物にして完璧な手本であり、彼を茶化したり風刺したりすることなどまったく思いもよらなかったからです。イスラム法においてはそうした行為は預言者ムハンマドヘの冒涜と見なされ、死刑が妥当と定められています。彼らにとってこの風刺画は単に「笑えない」というような次元の問題ではなく、彼ら白身とイスラム教そのものが冒涜されたように感じる極めて深遠な問題として受け止められたのです。
 このようにイスラム教は、宗教というよりは民主主義と対立する価値基準として認識したほうが理解しやすい場合というのが多々あります。少なくともイスラム教徒側がそう認識していることは、この問題についてデンマークで最初に抗議の声をあげたイスラム教指導者ラエド・ハラヘルが、「イスラム教は民主主義よりずっと優れた世界一の価値基準だ」と述べていることからも理解されます。


<第7章 イスラム社会の常識と日常>の書き出し

 「私のバイト先のとんこつラーメン屋には、イスラム教徒の常連さんがいるのですが、あれは大丈夫なのでしょうか?」
 ある時、学生さんのひとりがこのように質問してきました。聞けばその人は、彼女と顔なじみになり親しくなってから、自分は実は改宗した日本人イスラム教徒だと告白してきたそうです。彼曰く、自分はとんこつラーメンが大好物でイスラム教に入信してからもどうしてもやめられないのだが、心の中で神を信じてさえいれば、豚を食べるとか食べないとか、そんな些細なことを神は気にしたりしない、とのこと。私は彼女に対し、それが大丈夫なのかどうかは神が判断することだ、と答えました。
 イスラム教徒は豚を食べてはならないことになっています。なぜならコーランの中で、神が豚を食べることを明示的に禁じているからです。イスラム諸国で生まれ育ったイスラム教徒は、周囲にそもそも豚というものが存在しないので、生活をする上でほとんど何の支障もありません。しかし改宗イスラム教徒やイスラム諸国以外で暮らすイスラム教徒の中には、「神が禁じているのは豚肉であって豚骨ではない」と主張してとんこつラーメンを食べるのをやめない人もいれば、私の知人のように「サラミとハムとソーセージは豚ではない」と自分で勝手に規定して食べる人もいます。豚を食べたからといって彼らはこの世で罰を受けることはありません。それが裁かれるのは最後の審判の時です。「とんこつラーメンくらいならよし」と神がいってくださるかどうかは、その時になるまでわからないのです。

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