憲法学の病

篠田英朗さんは国際法の観点から日本国憲法に向き合い、「悪いのは憲法ではなく憲法学だ」と、憲法学の病を指摘します。

憲法学の病

 現代国際法の観点から日本国憲法を読み解く篠田英朗さんは、「はじめに」で次のよう(青文字)に指摘しています。

 日本国憲法はガラパゴス主義に支配されてきた。
 憲法が“ガラパゴス”なのではなく、憲法学における通説が“ガラパゴス”なのである。
 日本国憲法は、長年にわたって、日本国内の一部の社会的勢力の権威主義によって毒されてきた。
 国際社会を見ず、国際法を無視し、日本国内でしか通用しない「憲法学通説」の独善的な解釈によって、毒されてきた。
 しかし、本当の日本国憲法は、ガラパゴスなものではない。本当の憲法は、国際主義的なものである。本当の憲法は、日本が正当な国際社会の一員となり、国際社会の規範にしたがって活躍することを望んでいる。

 国際社会の現実が、国際法が掲げる理想と合致しているのかどうかは気になるところですが・・・、本書によって「憲法学の病」を知ることが出来たし、病に侵された憲法学通説を批判する知識も得ることが出来ました。

 篠田英朗さんの「憲法学の病」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

憲法学の病 篠田英朗



目次


 はじめに 3

第1部 憲法をガラパゴス主義から解放する 17
 1 本当の憲法9条1項「戦争」放棄 19
 2 本当の憲法9条2項「戦力」不保持 63
 3 本当の憲法9条2項「交戦権」否認 91
 4 本当の憲法前文一大「原理」 114
 5 本当の憲法前文「平和を愛する諸国民」 141
 6 本当の憲法前文「法則」 154
 7 本当の「集団的自衛権」 161
 8 本当の「砂川判決」 185
 9 本当の「芦田修正」 203

第2部 ガラパゴス主義の起源と現状 221
 10 宮沢俊義教授の謎の「八月革命」 223
 11 長谷部恭男教授の謎の「立憲主義」 237
 12 石川健治教授の謎の「クーデター」 258
 13 木村草太教授の謎の「軍事権」 265

おわりに 286

コラム 芦田修正 41 / 19世紀ドイツ国法学 55 /  1972年内閣法制局見解 173 / 砂川判決 192


はじめに

 日本国憲法は、ガラパゴス主義に支配されてきた。解放する試みが必要だ。
 ガラパゴス主義の憲法解釈は、国際社会を警戒する。そして自らの優位を誇り、国際法を軽視する。
 しかし本当の憲法は、日本が正当な国際社会の一員となる条件を示している。そして国際社会で名誉ある地位を占める国際主義を望んでいる。
 私は国際政治学者である。憲法学を専門としていない。しかし長年にわたって日本国憲法について考えてきた。国際社会の歴史や国際法の仕組みと、憲法学における通説との間の、大きな断絶について考えてきた。
 そして一つの結論に達した。
 国際社会に背を向けているのは、憲法ではない。ガラパゴスなのは、憲法解釈を独占しようとしている日本国内の一部の社会的勢力である。
 
憲法をガラパゴス的なものであるかのように感じさせているのは、憲法それ自体ではない。憲法を起草した者でもない。憲法制定時に中心にいた者でもない。
 憲法成立後に、憲法解釈を独占しようとした者である。
 つまり、憲法が“ガラパゴス”なのではなく、憲法学における通説が“ガラパゴス”なのである。
 日本国憲法は、長年にわたって、日本国内の一部の社会的勢力の権威主義によって毒されてきた。
 国際社会を見ず、国際法を無視し、日本国内でしか通用しない「憲法学通説」の独善的な解釈によって、毒されてきた。
 しかし、本当の日本国憲法は、ガラパゴスなものではない。本当の憲法は、国際主義的なものである。本当の憲法は、日本が正当な国際社会の一員となり、国際社会の規範にしたがって活躍することを望んでいる。
 本書は、そのことについて書いた本である。

 2015年の平和安全法制をめぐる喧噪を見て、私は憲法学者たちの憲法解釈にいっそう大きな疑問を抱くようになった。そこでまず2016年に『集団的自衛権の思想史』を公刊した。そして集団的自衛権違憲論は、憲法制定当初から政府の立場だったわけではないことを明らかにした。それは、沖縄返還を政策目標にした政治的な背景があって、1960年代末に政府見解になったものにすぎなかった。また、集団的自衛権違憲論の背景には、伝統的な「憲法学通説」のいびつな憲法解釈がある、ということも指摘した。特に個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だとする議論は、時代錯誤の国家の基本権思想の焼き直しでしかなく、憲法典上の法的根拠が薄弱だ、と論じた。
 続けて2017年に公刊した『ほんとうの憲法』では、一番素直と思われる日本国憲法の解釈を示した。伝統的な「憲法学通説」の憲法解釈が奇妙なものである背景には、イデオロギー的・社会権力的な事情があることも、指摘した。憲法解釈が、反米的イデオロギー傾向を持ち、19世紀ドイツ国法学の考えを標準にする社会集団によって独占されている状況について、疑問を提示した。
 また、私は、憲法学「通説」なるものは、各大学教員人事や司法試験・公務員試験に絶大な影響力を持つ東京大学法学部を頂点としたヒエラルキーによって決まっており、「通説」であることは必ずしも内容の妥当性を保証するものではない、と指摘した。おかげで「篠田は東大法学部にルサンチマン(怨恨)を抱いている」などといった、低次元の攻撃も受けた。
 私は、多くの東大法学部の方々を尊敬し、仲良くさせていただいてもいる。恨みを抱く経験を待ったことなどない。私はイギリスの大学でPh.D.をとっている。ムラ社会の論理とは、あまり関わりを持たず生きてきた。本書においても、臆することなく、東大法学部系の憲法学者群の議論の奇妙さを検証する。
 ただし、もちろん東大法学部への言及は、あくまでも単なる総称化でしかない。当然ながら、私は東大法学部にかかわるもの全てを批判しているわけではない。本書が特に検討対象にするのは、憲法9条についてことさらに語る一部の東大法学部系の憲法学者たちだけだ。
 憲法学界内部にも多様な意見があるということも承知している。集団的自衛権をめぐっても、違憲とは言えない、と発言する憲法学者もいた。もっとも、ことごとく非東大系の憲法学者の方々であったのだが。
 残念ながら、真面目で建設的な批判を、憲法学者の方からいただいたことがない。
 「日本がアメリカの属国にならないために憲法学は頑張っているのに、篠田の議論はそれを台無しにする」といった、およそ法律論とは無関係なイデオロギー的な言説などは、沢山ある。
 いわれのない誹謗中傷も、頻繁にいただくようになった。たとえば、早稲田大学の憲法学者・水島朝穂教授は次のように書く。
 「篠田氏の論稿は、憲法改正の当否という価値対価値のコンクールに到達するまでに、法律論として失格であり、訴訟法でいえば、訴え却下の門前払いに相当し、請求棄却判決にすら到達しえない内容である」「ヒステリックな物言い」「頭の中の妄想」「日陰者意識をもつエリート」……といった具合である。
 さらに水島教授は、私のことを、1935年「天皇機関説事件」で美濃部達吉・東京帝国大学名誉教授を貴族院議員辞職に追い込んだ右翼の大物・蓑田胸喜のようだ(ただし三流の)、と言う。「篠田氏の手法は蓑田の足元にも及ばないが、ネット時代に助けられて、その伝播力という点では蓑田の影の手前くらいにまでは達しているだろう」。
 水島教授のような方に限って、憲法学界が東大法学部の権威に影響されていることはない、と声高に叫ぶ。
 まあ、もしそうであれば、それはそれでいい。
 そこで本書では、次のことを最初に明らかにしておく。私が批判の対象としているのは、宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜、樋口陽一、高橋和之、長谷部恭男、石川健治、という歴代の東京大学法学部教授陣の見解である。あとは佐藤功、高見勝利、木村草太、といった東大法学部(法学研究科)出身で、他大で奉職しながら、東大法学部教授陣とも深く結びついてきた憲法学者の見解である。
 私は、それ以外の憲法学者を批判の対象としない。私が本書で「憲法学通説」といった言い方で整理しながら批判していくのは、より具体的には、上記の東大法学部系の憲法学者の方々の見解である。それ以外の憲法学者の方々は、扱っていない。無関係な東大系の憲法学者の方々の気分を害さないように、本書ではあえて東大法学部の伝統といった表現を使うことは避けておく。本書で「憲法学通説」と呼んでいるものは、基本的に上述の憲法学者の見解のことである。
 したがって東大法学部系憲法学者の影響力を否定する方々には、まず言っておきたい。皆さんのことは論じていない。早合点して、感情的な誹謗中傷に走ることのないようにお願いしたい。「憲法学者を批判すると嫌がらせされるでしょう、やめたほうがいい」と私に忠告してくれる方々がいる。こんな見方が正しくないことを、普通の憲法学者の方々に、証明していただきたい。
 本書の第1部は、本来のあるべき憲法解釈を説明する。伝統的な憲法学通説の代表として、自衛権・自衛隊の違憲性を説く芦部信喜らを、主な批判の対象として取り上げる。本書は、芦部教授らに代表される「伝統的な憲法学通説」には、法律論として欠陥がある、と論じる。
 最近は、長谷部恭男・元東京大学法学部教授や、木村草太・首都大学東京教授が、個別的自衛権は合憲で、集団的自衛権は違憲という立場を、強調している。非常に権威主義的・他者攻撃的な言説で、「修正主義的な憲法学通説」を広めようとしている。安保法制をめぐり憲法学者が大同団結する過程で、勢いを持つようになった。過去の一時期の日本政府の見解を根拠にして、現在の日本政府を攻撃するという憲法学である。本書では、第2部において、長谷部教授や木村教授の「修正主義的な憲法学通説」の議論が、伝統的な憲法学通説よりもさらに説得力を欠いているということを、指摘する。
 かつて、アメリカ人が「押し付けた」憲法は改正しなければならない、と主張する右派勢力が、護憲派の憲法学者を「転向」者と呼んだ時代があった。現在、左派系の人々の間で、憲法のせいで日本はアメリカの属国になっているという「属国」論が華やかだ。長谷部教授や木村教授の「修正主義」的な護憲派を、井上達夫・東大教授(法哲学)らが厳しく批判している。
 「伝統的な憲法学通説」も、個別的自衛権の合憲性だけを容認しようとする「修正的な憲法学通説」も、さらには修正主義者を批判する原理主義的な左派・右派勢力も、本来の日本国憲法の国際法遵守の姿勢を軽視する点では、一致している。これらの勢力の共通の基盤は、反米主義の政治イデオロギーである。
 本書は、こうした政治イデオロギー的な立場とは一線を画し、国際主義的な本質を持つ本当の日本国憲法の姿を説明する。


 1.本当の憲法9条1項「戦争」放棄 【書き出し部分】 


 9条1項「戦争放棄」条項は、国際法で違法化されている「戦争(war)」行為を行わないことを、日本国民が宣言した、現代国際法遵守のための条項である。国際法秩序を維持するための自衛権は放棄されていない。

 憲法9条は、平和主義の条項である。そのことに疑いの余地はない。
 しかし長い間、憲法9条は、国際社会に背を向けて、独白の価値規範を一方的に掲げたものだと解釈されてきた。
 憲法9条が打ち立てようとしているのは、国際社会が標準としている平和主義のことではなく、何か全く別のものだという解釈が、憲法学通説となってきた。
 そのため、憲法を守るためには、国際社会から距離を置き、国際法に対する憲法の優位を宣言しなければならない、とされてきた。
 憲法9条があるがゆえに、日本は世界で最も卓越した国になっており、それ以外の解釈はすべて日本を戦前の軍国主義に引き戻すことに等しい、と主張されてきた。
 だが、そのような憲法9条解釈は、ガラパゴス主義に依拠したものでしかない。なぜなら憲法9条は、日本を国際社会の正当な一員とするために制定されたものだからだ。憲法9条は、国際法を遵守し、国際法に従って活躍する日本を作り上げるためのものである。
 まず憲法9条1項を見てみよう。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 9条1項は「戦争放棄」条項として知られるが、1928年不戦条約や1945年国連憲章2条4項を意識したものであることは、条文の文章から明らかだ。
 1928年不戦条約は、次のような文言からなる。
 〈第1条〉締約国は国際紛争解決のため、戦争に訴えることなく、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。
 〈第2条〉締約国は相互に起こりうる一切の紛争又は紛議を、その性質又は理由にかかわらず、平和的手段による以外には処理又は解決を求めないと約束する。
 さらに1945年国連憲章は、2条4項において、次のように規定する。
 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
 憲法9条1項は、1928年不戦条約のみならず、1945年国連憲章が成立した後に、これらの国際法規を前提にして、1946年に作られたものだ。その文言は、両者の「コピペ」とさえ言えるものであり、両者の国際法規範を遵守する意図を表現していると考えるのが、妥当だ。
 「国際紛争解決のため」「国家の政策の手段としての戦争を放棄」する、といった文言において、1928年不戦条約と憲法9条1項の文章は酷似している。憲法起草者が、どうしても国際法との連動性を意識せざるを得ないように配慮したためだろう。
 日本は、1928年不戦条約に加入していながら満州事変を起こし、不戦条約の体制を揺るがせた国として世界史に記録されている。憲法起草者は、そこで不戦条約の文言を、国内法の最高法規である憲法典に挿入することによって、さらにいっそう不戦条約の内容を日本が守る仕組みを作ろうとしたのだろう。
 憲法9条が、「前文」以外では、条文としてはただ一つ、「日本国民は」、という主語で始まる条文である事実は、不戦条約が「各自の人民の名において厳粛に宣言する」ものであったことを意識した結果であることが読み取れる。ちなみに日本国憲法「前文」で主権者とされた「国民」は、GHQ草案などでは「people」とされていた語句であり、不戦条約における「人民(people)」と同じである。ただし、9条に「日本国民は」という主語を入れたのは、GHQではない。国会で憲法審議にあたった、芦田均が委員長を務めた衆議院帝国憲法改正小委員会である。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言を9条の冒頭に挿入したのも、芦田の憲法改正小委員会である。これらの措置は、9条と「前文」との運動性を明確にするとともに、9条と国際法との連動性も明確にするためのものであったと言える。
 憲法9条1項は、「国権の発動としての戦争」だけでなく、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄した。「武力による威嚇又は武力の行使」という文言は、1945年国連憲章2条4項を模倣したものだと言える。日本は1928年不戦条約に加入していたが、1946年の時点では1945年国際連合憲章には未加入であった。そこで国連憲章によって強化された新しい国際法秩序をも遵守するという意図をもって、9条1項は、「国権の発動としての戦争」だけでなく、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄した、と理解するのが、妥当だ。
 したがってこれらの国際法規において、自衛権が放棄されていないことについては、疑いの余地がない。1928年不戦条約が放棄した「戦争」は、19世紀ヨーロッパ国際法における「戦争」のことであり、そこに自衛権や国際連盟が発動できる集団安全保障の制裁措置は含まれていないことは、確立された理解である。それが、憲法9条1項が模倣している、「国際紛争解決のため」の「国家の政策の手段としての戦争」という文言が意味することである。
 国連憲章51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と定め、1928年不戦条約と同じように、自衛権と集団安全保障を2条4項が否定していないことを、明文で確認している。それが、憲章2条4項の「国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法による」「武力による威嚇又は武力の行使」という文言が意味していることだ。
 なおこれに対して、自衛権と集団安全保障が憲章2条4項によって禁止されないことが、国際法の限界であるかのように語られることがある。全くの誤解である。武力行使一般を禁止するのは、「国際の平和と安全の維持」(国連憲章1条1項)のためである。国際法を無視する侵略者が現れたときに対抗措置をとることを禁止するのは、むしろこの「国際の平和と安全の維持」という至高の目的に反する。「国際の平和と安全の維持」という目的を達するためには、違反者に対抗するための自衛権と集団安全保障が必要である。そこで2条4項の武力行使の一般的な禁止と、自衛権と集団安全保障が、不可分一体の措置として、現代国際法の体系の中で認められているのである。
 極めて素直な憲法9条1項の理解とは、この国際法の標準的な理解に沿ったものであるはずだ。9条1項の「コピペ」文言を素直に読めば、それ以外の解釈はあり得ないとすら思われる。

 ・・・・・・


 2.本当の憲法9条2項「戦力」不保持 【書き出し部分】

 9条2項「戦力不保持」条項は、国際法で違法化されている「戦争(war)」を行うための潜在力である「戦力(war potential)」を保持しないことを日本国民が宣言した、現代国際法遵守のための条項である。自衛権行使の手段の不保持は宣言されていない。
 9条2項は、国際法を遵守しようとする日本国憲法の条文と、憲法学の通説が、さらにいっそう鋭く対峙する、劇的な瞬間である。9条1項よりもさらに激しく、国際主義とガラパゴス主義の戦いが、9条2項をめぐって引き起こされる。
 まずは憲法9条2項の条文を見てみよう。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この条文は、二つのことを言っている。「戦力」不保持と、「交戦権」の否認である。9条2項を理解するということは、「戦力」と「交戦権」を理解するということである。
 この9条2項についても、憲法学通説のイデオロギー的かつガラパゴス的な解釈態度が、今でも日本社会では通用してしまっている。しかもその9条2項のガラパゴス解釈を、9条1項のガラパゴス解釈の根拠にする、といった倒錯した解釈姿勢が「通説」となってきたことは、すでに見たとおりだ。
 しかし法解釈は、法的概念を参照する形で行うべきだ。単なる人気投票の結果にすぎない「通説」の存在だけを根拠にして行うべきではない。
 当然だが、2項は、1項の後に続く条項である。1項の内容、つまり「戦争」放棄を補強する意図で作られたのが、2項である。1項の意味を覆すために2項が挿入されたかのような解釈は、不自然である。2項の「戦力」不保持は、「戦争」放棄を補強する条項である。2項が1項と矛盾しているはずはない。
 9条2項は、「前項の目的を達するため」という言葉で始まる。これは9条2項が、1項の内容を受けて制定されたものであることを強調するための語句だ。これは「芦田修正」として憲法学界で評判が悪い部分だ。しかし、後述するように、「芦田修正」は、2項の位置づけを明確にし、不自然な解釈を防ぐための措置であった。
 そう考えると、2項の「戦力」不保持で不保持が宣言されている「戦力」が、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)草案の最初の憲法草案の段階から、「war potential」のことであったことの意味がわかってくる。「戦力」は、「戦争(war)」の「潜在力(potential)」のことである。それが、語句の解釈の観点からも、9条全体の一貫性の観点からも、最も論理的な理解だ。
 1項の「戦争」と、2項の「戦力」概念は、二つの別個の概念ではない。1項の「国権の発動としての戦争(war as a sovereign right of the nation)」の潜在能力が、「戦力(war potential)」なのである。
 1項の「戦争(war)」に「潜在能力(potential)」という語を付け加えたのが、「戦力」と簡略化されて表記されている「戦争潜在能力(war potential)」のことである。 日本国憲法の草案がGHQによって作成される前、ダグラス・マッカーサーはいわゆる「マッカーサー・ノート」と呼ばれる三原則を、コートニー・ホイットニー民政局長に手渡しした。よく知られているように、そこでは「戦争」一般だけでなく、「自己の安全を保持するための手段」も放棄する考え方が、9条1項に対応する部分で、記されていた。しかしこの自衛権の放棄については、ありえない、というGHQ内の意見によって、実際の草案には反映されなかった。後の発言からすると、マッカーサー自身も、草案作成時点で、自衛権の放棄はありえない、という意見に納得したのだと思われる。
 実は9条2項に対応する部分では、「マッカーサー・ノート」には、「いかなる日本陸海空軍も決して許されない」という文言があっただけであった。GHQ草案作成段階で、「戦力(war potential)」概念が挿入された。そしてこれによって「陸海空軍」に「戦力」の例示としての位置づけの制約がかかるようになった。つまり、9条2項で不保持が宣言されているのは、あくまでも「戦力」としての「陸海空軍」である。「戦力(war potential)」ではない軍隊は、不保持が宣言されていない。
 
1項に対応する部分で、「戦争」一般の放棄の内容が確定したのにともなって、2項に対応する部分で、「戦争」遂行の潜在能力(war potential)の不保持を定めるようになった。そして、「戦力(war potential)」の概念が登場するようになったのである。したがって9条1項以降が自衛権を否定せず、「国権の発動としての戦争(war)」を放棄したのに対応している以上、9条2項も「戦力(war potential)」の不保持を定めて、自衛権行使の手段の不保持を除外していると考えるのが、最も論理的である。これについてもマッカーサー自身も、草案作成段階で、自衛権行使の手段の不保持はあり得ない、という意見に納得したのだと思われる。「陸海空軍」に、「戦力(war potential)」としての、という制約が加わった事情は、1項からの論理の一貫性を考えれば、明晰である。
 この非常に簡明な1項と2項の関係さえつかめば、9条2項解釈は、単純である。
 9条1項は、国際法上の違法行為である「国権の発動としての戦争」を放棄する、という国際法遵守の宣言であった。9条2項は、その違法行為である「国権の発動としての戦争」を行うための「潜在能力(war potential)」を保持しない、という宣言である。
 戦争という違法行為を行わない宣言をしたのだから、違法行為を行うための潜在能力を持たないのは、論理必然的に自明のことではある。ただ、第二次世界大戦終結直後に制定された日本国憲法だ。そこは9条の1項と2項で繰り返し強調があったとしても、奇異ではない。
 まして違法行為を行った組織として解体が進められた大日本帝国軍は、1946年2月のGHQ草案起草の段階で、まだ完全には解体されきっていなかった。「(国権の発動としての)戦争を行うための潜在能力」と言うべき大日本帝国軍を解体する国内法上の根拠を明確にしておきたい、と憲法起草者が考えたとしても、奇異ではない。
 したがって、そこに「自衛権行使」の手段の保持を禁止したかのような含意を見出そうとするのは、無理だ。「戦力(war potential)」不保持は、違法行為である「戦争(war)」を行うための「潜在能力」を持たない、という条項であり、それ以外のことは言っていない。
 「陸海空軍その他の戦力(land, sea, and air forces, as well as other war potential)」という文言で登場する際の「陸海空軍」とは、「戦力」、つまり「(国権の発動としての)戦争を行うための潜在能力」として持つものの例示としてあげられているにすぎない。つまり、「戦争潜在能力としての陸海空軍」のことである。9条2項が言っているのは、「戦争潜在能力としての陸海空軍は持たない」ということである。陸海空軍と名がつくものは全て持たない、という意味ではない。
 
1941年にアメリカのフランクリン・D・ローズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が大西洋上で発した宣言「大西洋憲章」は、今日の国連も公式に連合国(United Nations)の原則を定めたものとして認めている重要テキストである。その8項目には次の文言がある。
 「もし国境を越えて攻撃をする脅威を与える、あるいは与えるかもしれない諸国家によって陸・海・空軍力が用いられるならば、未来の平和は保たれないのであるから、ローズベルトとチャーチルは、次のように信じる。一般的な安全保障に関する広範かつ恒久的な仕組みができるまでの間、そのような諸国家の武装解除が重要であると。(Since no future peace can be maintained if land, sea, or air armaments continue to be employed by nations which threaten, or may threaten, aggression outside of their frontiers, they beliveve, pending the establishment of a wider and permanent system of general security, that the disarmament of such nations isessential.)」
 したがって日本が侵略国家である限り、武装解除の対象になる。国連憲章には有名な「敵国条項」があり、たとえば連合国(United Nations)の「敵国」が、第二次世界大戦により確定した事項を無効にしようとする場合などには、国連加盟国に軍事行動を含む措置をとることが許される(憲章53条・107条)。「敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される」とされているので、日本やドイツがこれに該当する。大西洋憲章で武装解除の対象とされた侵略の脅威を与える諸国というのも、日本やドイツのことである。ただし、厳密には、大日本帝国やナチスドイツが該当し、今日の日本やドイツがあてはまらないことは、国際的な共通理解となっている。大西洋憲章の文言からしても、生まれ変わって国連憲章体制下の国際法を遵守する姿勢をもって「一般的な安全保障に関する広範かつ恒久的な仕組み」である国連に加盟したならば、日本やドイツはいわば「連合国(United Nations)」側に立つことになる。つまり侵略国家ではなくなり、武装解除の対象からは外れるわけである。
 大日本帝国軍は「戦力」であり、自衛隊は「戦力」ではない。
 日本国憲法9条2項は、厳然とした歴史的背景と国際法体系に沿った形で解釈すべきものである。万が一にも憲法学者の言語感覚によって感性的に決められるべきものではない。
 大西洋憲章や国連憲章に沿って憲法を解釈することをもって、「日本をアメリカの属国にすることだ」と叫ぶ人々もいる。極右国粋主義者と、反米憲法学者である。そういったイデオロギー的な叫びは、少なくともおよそ法律的な議論にはなじまない。
 憲法9条2項の戦争潜在能力(war potential)としての「戦力」は、きちんと国際法と9条1項に沿った形で、精緻な法律論の枠組みに沿った形で、解釈すべきものだ。国際法の上位に憲法学者の基本書を置くような倒錯した姿勢で、解釈すべきものではない。 たとえば災害救援を目的にした陸海空軍(land, sea, and air foeces)であれば、憲法9条2項違反にならない。自衛権行使を目的にした陸海空軍(land, sea, and air foeces)も、同じだ。違法行為である「戦争(war)」の遂行を目的にしておらず、「(国権の発動としての)戦争を行うための潜在能力(war potential)」ではないため、9条2項で禁止されているとは認められない。

 ・・・・・・


 3.本当の憲法9条2項「交戦権」否認 【書き出し部分】

 9条2項「交戦権」否認の条項は、戦前の大日本帝国憲法時代の観念である「交戦権(right of belligerency)」を振りかざして現代国際法を否定しないことを日本国民が宣言した、現代国際法遵守のための条項である。
 憲法学者の議論の混乱は、9条2項後段の「国の交戦権(the right of belligerency of the state)」概念をめぐって、いっそう悲劇的かつ喜劇的なものとなる。 芦部『憲法』の記述を見てみよう。芦部によれば、「交戦権」とは――。
 「①交戦状態に入った場合に交戦国に国際法上認められる権利(たとえば、敵国の兵力・軍事施設を殺傷・破壊したり、相手国の領土を占領したり、中立国の船舶を臨検し敵性船舶を拿捕する権利)と解する説、②文字どおり、戦いをする権利と解する説」
 「国際法上の用法に従うと、①説が妥当であることになろう」
 いったいいつの時代に出版された国際法の教科書を参照しているのだろうか。芦部は19世紀ドイツ国法学者・イェリネクの大著を翻訳した業績を持つが、まさかイェリネクを参照しながら、21世紀に出版された本で国際法について解説しているのではないかと、疑問に思ってしまう。日本の国際法学では、『戦時国際法論』と『平時国際法論』という二つの主著を持っていたのは、第二次世界大戦前に東大法学部で講義していた立作太郎の時代までだ。
 20世紀以降の現代国際法では、戦争の一般的違法化により、戦時国際法の意味が大きく変わった。単に「戦いをする権利」など存在していないだけでない。19世紀ヨーロッパ国際法で認められていた交戦国の権利も、意味をなさなくなった。武力行使に関する法(jus ad bellum)は、自衛権と集団安全保障の適用の問題に還元される。武力紛争中の法(jus in bello)は、国際人道法を中心とする紛争中の個々人の行動の規制の問題に還元される。現代国際法において、「相手の領土を占領したり」する権利などない。あるのは、「必要性(necessity)」と「均衡性(proportionality)」の原則に照らして、適正に行使されている自衛権(憲章51条)と、安保理決議に従って適正に行使される集団安全保障(憲章7章)だけだ。
 結局、憲法学者は、「交戦権」の解釈にあたって、何も真面目な法的な根拠を示さない。ただ単に「俺は、交戦権っていうのは、こういうのものだと思うなあ」という連想ゲームの域を出ない話ばかりを繰り返す。そして最後は、連想イメージの人気投票である。多数決をとったものを「通説」ともっともらしい言い方で呼ぼうとも、その議論の過程が連想ゲームと人気投票だけで成り立っていることは、どうしようもない。
 9条2項の「交戦権」否認について、憲法学の基本書では、国際法が認めている戦争をする権利としての「交戦権」を、あるいは交戦者が持つ権利としての「交戦権」を、日本国憲法9条2項は放棄しているのだ、といった説明がなされる。そして、だから9条2項によって「自衛戦争」なるものが遂行できず、結果として、自衛権は行使できず、自衛権を行使するための手段も持ってはいけないことになる、などと説明される。
 嘘である。

 根拠がない話である。
 単なる連想ゲームの産物である。
 現代国際法において、戦争は一般的に違法なのだから、戦争をする権利などあるはずがない。きちんと国際法を尊重する気持ちが少しでもあれば、そのことに気づくのに、何も苦労はいらない。
 交戦者が持つ特別な権利としての「交戦権」などという権利も存在しない。当然のことだ。現代国際法において「交戦権」は存在していない。
 そこで憲法に書かれている「交戦権」を、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称、などと言い換える政府見解が出された。だがそれはせいぜい「交戦者の権利義務(rights and duties of belligerents)」だろう。
 国際法に存在していないからといって、強引に存在している何かを意味していることにしなければならない、と思いつめる必要はない。むしろ侵略国が振りかざしていたが、現代国際法では否定されたものとして、「交戦権」概念を捉えるのが正しい。
 注意すべきは、日本国憲法は、「交戦権」を「放棄」しているのではない、ということだ。「交戦権」なる怪しい概念は、「認めない」と言っているのだ。憲法典は、国際法に存在している「交戦権」を放棄するのではない。憲法典は、「交戦権」が存在していないことを知っていて、念のためそれを「認めない」と宣言しているのである。どこにも奇妙なところがない。憲法典は、正しい。憲法学者が、おかしい。
 9条2項は、単に現代国際法で存在していないものを、あらためて否認しているだけの条項である。存在していないものを否定しても、現に存在している自衛権の否定にはならない。
 
なぜ存在していないものの否認をあえて宣言するのかと言えば、日本国憲法が、国際法を遵守する国に日本を生まれ変わらせるために作られた憲法だからだ。
 実は、太平洋戦争中の1945年以前の日本の国際法の著作には、「交戦権」という言葉が見られる。ただし用法は確立されていなかった。たとえば戦時中に、東北帝国大学の国際法学者であった松原一雄は、「ここに交戦権と云ふのは、交戦国としての ―― 交戦国間の ―― 権利義務の総称である」と述べた。ただし同じころ、早稲田大学で国際法を講義した信夫淳平は、「国家は独立主権国家として、他の国家と交戦するの権利を有する。之を交戦権と称する」と述べていた。そして「国家の交戦権は、交戦に従事する者の行使する交戦者権とは似て非なるものである」と解説していた。ただし信夫によれば、宣戦布告を行うような「開戦」の方式は、「当該国家の交戦権の適法の発動に由るを要すること論を俟たない。その権能の本源如何は国内憲法上の問題に係り、国際法の管轄以外に属する」。
 つまり「交戦権」は大日本帝国憲法時代の「天皇大権」と深く関わっていたがゆえに当時の日本人の注目を集めていたが、実はもともと国際法上の概念ではなかったのである。
 欧米ではどうだったか。欧米の国際法学者の議論において、「the rights of belligerency of the state」あるいは「rights of belligerency」という憲法の「交戦権」に該当する言葉が使われていた経緯はない。ただ戦前の日本人が、「交戦権」という言葉を使っていただけであった疑いが強い。
 おそらくGHQは、一方的に「自存自衛ノ為」(宣戦の詔書)という理由で攻撃を仕掛ける行為を正当化する大日本帝国時代の考え方を「否認」するために、「the rights of belligerency」という概念を否認する条項を、英文で起草した。それを当時の日本人たちが、「交戦権」という言葉をあてはめて訳し、日本語の正文の憲法典に入れ込んだ。その後、戦後の憲法学者が、これは「自衛戦争」の否定の条項だという主張をして、攻撃された際に行使する国際法上の自衛権まで否定するようになってしまった。
 しかしその一連の経緯に、国際法は関わっていない。否認されているのは、本来の国際法に反した大日本帝国時代の古い考え方である。国際法における自衛権が憲法によって否認されているという日本の憲法学者の主張には、全く根拠がない。
 自衛隊が創設され、1952年に9条2項をめぐる議論が巻き起こった時期に、オッペンハイムら欧米の主要な国際法学者の著作等を渉猟したうえで、慶応義塾大学の国際法学者・前原光雄は、「国際法学者の見解は内外を問わず、国家に戦争を為す権利があるということは、少くとも、主流としては否認せられているようである」と述べた。そして日本国憲法9条2項の「交戦権」概念についてふれて、「日本憲法の英訳では、交戦権を rights of belligerency としていることは既に述べたが、このような権利が国際法上存することを私は未だいかなる著述中にも見出す機会に恵まれない」と断じた。したがって、前原によれば、交戦権の放棄は、「国際法上の法律事実ではないのである。国際法上の権利放棄は、いうまでもなく、放棄国に権利喪失の法的効果を帰属せしめる。この点から観ても、交戦権の放棄は決して権利の放棄ではないことは明かである。国家は戦争を行う権利をもつものではないから、これはむしろ当然のことである。……交戦権の放棄というのは、戦争を仕かける自由の放棄ということになる。これは国際法的にはナンセンスであるが、国際政治的には意義をもつであろう」。
 交戦権の否認は、いわば魔女の否認のようなものである。たとえば魔女の存在を否認する憲法条項があっても、それによって変わる現実の事実は何もない。「憲法は『魔女』という言葉によって××みたいな女性の存在を禁止しているのではないか(A説)、いや、○○みたいな人間の存在を禁止しているのではないか(B説)……」、などと空虚な話を積み重ねていく必要はない。必要はないどころか、そのような話は有害である。
 しかし最近「魔女狩り」の名で残虐行為を行った国であれば、「魔女」の否認は、それはそれで意味がある。そのような国では、「魔女は存在しない、魔女は存在しないという世界観を維持するため、魔女を憲法で否定する」と言うことに、意味がある。ただしそれによって「我が国は世界で唯一の魔女を否認した国だ、したがって他国のように魔女狩りができないので我が国には他国にはない大きな制約がある」、あるいは「我が国は魔女狩りができない世界で最も進んだ国だ」などと叫んでしまうのは、全く滑稽である。
 本来、憲法9条2項の「交戦権」否認は、魔女の否認と同じようなものであった。憲法が、現代国際法で存在しないものを、わざわざ明示的に否認していることには、もちろん大きな理由がある。日本が国際法に反する行為を行ったからである。
 現代国際法に反した世界観で国際法に逸脱した行為を行ったことを認め、二度と国際法から逸脱した行為を行わず、現代国際法を遵守することを宣言するために、「交戦権」という現代国際法に反した概念を憲法で否定した。それが日本国憲法だ。そこには大きな意味がある。これは魔女なるものの存在を根拠にして魔女狩りを行った経験を持つ国が、二度と魔女狩りなどをすることを許さないために、魔女を否認することによって、より現代的な法規範の遵守の宣言とするのと、同じようなものなのである。
 「交戦権(rights of belligerency)」の放棄という表現は、GHQ憲法草案の基盤となった、いわゆる「マッカーサー三原則」の中にも見られる。「交戦権」が何なのか、草案の起草にあたったGHQの文民官僚たちは必ずしもよく理解していなかったようだったという。しかしエリート軍人であったマッカーサーは、彼が生きた両大戦期の国際情勢をふまえて、「交戦権」否認に大きな意味を見出していたのだろう。
 第一次世界大戦前の絶対主権の時代に、国家は主権者の意思を表明する宣戦布告をもって、正式に戦争を開始することができた。主権者の意思が正式に反映された宣戦布告をへない武力紛争は、正式な意味での戦争ではなかった。後にカール・シュミットが「無差別戦争観」と呼んだ国際法の枠組みである。戦争に正邪の違いなどなく、戦争と戦争の間に質的差別を見出すことはできない。主権国家が意思していれば戦争であり、そうでなければ戦争ではない。全ての戦争は、等しく戦争である。宣戦布告とともに「戦時国際法」が適用される状態が始まる。この19世紀ヨーロッパ国際法の法的枠組みが前提としている、戦争は全て等しく戦争であり、戦争と戦争の間に質的差異はない、という考え方を、シュミットは「無差別戦争観」という表現で描写したのであった。
 「国の交戦権」とは、この「無差別戦争観」の時代に、主権国家だけが正式な手続きをへて戦争を行う権利を持っている、という考え方を極端に示した概念だったのだろう。

 ・・・・・・
 


PAGE TOP