日本『国体』の真実

保守系ネット番組ではお馴染み、馬渕睦夫さんが日本の国体を説く一冊です。

日本『国体』の真実

 元駐ウクライナ大使の馬渕睦夫さんは保守系ネット番組ではお馴染みですね。
ロシア革命とは何だったのかを問い、そこから共産主義とグローバリズムは同根であるという主張もなさっています。
この本はそうした話題ではなく(少しは出てきますが)、日本を貫く日本を存立させてきた「国体」について解説し、日本を守る戦いに勝利しようと呼びかけるものです。

移民によって西洋がイスラム化していると言われます。
それにもかかわらず日本は移民政策の推進にかじを切りましたが、日本はどうなるのでしょうね・・・。
ミュージカル映画「サウンドオブミュージック」でトラップ大佐が歌う「エーデルワイス」が思い出されます。

Edelweiss, edelweiss, every morning you greet me.
エーデルワイス、エーデルワイス 毎朝、私を迎えてくれる。

Small and white, clean and bright, you look happy to meet me.
小さくて白く、清くて輝いていて 私に会えたあなたは幸せそう。

Blossom of snow, may you bloom and grow, bloom and growforever.
雪の花よ、花を咲かせて、育ってくれ いつまでも、花を咲かせ育ってくれ。

Edelweiss,edelweiss, bless my homeland forever.
エーデルワイス、エーデルワイス 永遠に私の祖国をお守りください


 馬渕睦夫さんの「日本『国体』の真実」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
 興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。

日本『国体』の真実 馬渕睦夫

 


目次

はじめに

第1部 政治における「国体」

 1 「君民共治」の政治
二大政党制は日本の国柄に合致しない / ・「三権分立」ではなく権力と権威が支えあう「二権分立」 / ・台湾、朝鮮統治の根底にあった「天壌無窮の神勅」精神 / ・東日本大震災で見えた天皇と国民の固い紐帯 / ・古来より続く君民共治態勢

 2 神から生まれた「祭祀共同体」
・皇位継承問題の重要性を無視した政治家たち / ・天皇が男系でなければならない理由 / ・天皇の事業を支えることが国民発展のカギ / ・国生み神話が伝える祭祀共同体 / ・私たち一人ひとりも現人神である

 3 「和」の民主主義
・国体を貫く三つの「和」 / ・「和」の精神は世界に広げられる

 4 「平和主義」の伝統
・国譲り神話の独自性 / ・平和主義と自衛軍を持つことは矛盾しない / ・憲法第九条が国体に適っている理由 / ・専守防衛こそ伝統的な国防思想 / ・第九条第二項はこうかえる / ・「孫子」を知らない護憲論者の大罪 / ・憲法改正は国体の精神で / ・国民は憲法よりも国体を優先してきた


第2部 経済における「国体」

 1 「稲作」の精神
・国民の経済活動を支える「斎庭の稲穂の神勅」 / ・日本では神様も働く / ・「物つくり」の精神は稲作が原点 / ・TPP交渉の致命的な誤り / ・米食文化を取り戻せ

 2 「結び」の力
・「結び」という生命観が日本製品の国際競争力 / ・外国人が欲しいのは本物の「メイド・イン・ジャパン」 / ・神事としての「勤労」 / ・「生産者」の倫理 / ・鈴木正三と「消費」の倫理 / ・石田梅岩

 3 罰としての「労働」
・欧米の労働観は神の掟に背いた罰 / ・プロテスタンティズムが資本主義の精神を生んだ / ・グローバリズムの正体は超個人主義

 4 「和」という経営方式
・「階級」ではなく「分掌・分業」の世界観 / ・二十一世紀の改革は「復古」の精神で / ・国際競争を勝ち抜く「和」の力 / ・敗者を作らない社会が超格差を克服する

 5 「グローバリズム」との共存
グローバル市場化を防ぐ真のグローバリズムとは / ・「国際的分掌・分業」を目指す日本の経済協力 / ・共産的進化論による世界発展モデル / ・日本人の道義性こそ世界へのメッセージ


第3部 信仰における「国体」

 1 「古事記」の世界
・日本文明は孤高の文明である / ・日本人の無意識にある古事記の世界観 / ・日本の自然には神々が宿っている

 2 「黄泉の国」神話の教訓
・古事記は感性で読む / ・眼前の世界は自らの心が反映されたもの / ・物質的概念としての黄泉の国 / ・生と死は断絶していない / ・蘇りの意味

 3 「先祖供養」の神髄
・日本人の信仰と一神教は何が違うのか / ・経済成長神話からの脱却 / ・先祖供養は「縦の命」のつながり / ・芥川龍之介の短編「おぎん」に見る死者への想い

 4 「造り変える力」の本質
・「神神の微笑」が教える造り変える力 / ・「内在神」と「外在神」で宗教を考える

 5 「禊払い」の威力
・神々は「禊」で生まれた / ・努力を重んじる古代日本人の人間観 / ・「禊祓い」で国難は克服できる / ・「宝鏡奉斎の神勅」と三種の神器

 6 「一神教」との共存
・一神教の絶対神はフィクション / ・一神教との共存の道を探る / ・一神教とは決して罪の子(原罪)てはない / ・・肉体と精神のバランスが重要

 あとがき


はじめに

 戦後70年の今年(2015年)は世界大動乱が予想されます。新年早々からフランスでイスラム原理主義者による新聞社襲撃事件が発生しました。テロに抗議するデモにはフランス全土で400万人が参加し、パリではオランド大統領に連帯感を示すためにキャメロン英首相、メルケル独首相など各国の首脳が腕を組んでテロ非難の行進をしました。その映像は世界に配信されましたが、その沈痛な雰囲気が冷めやらぬうちに、今度は「イスラム国」が日本人2人を人質に取り、日本政府に2億ドルの身代金を要求する事件が起こりました。身代金からヨルダンに収監されていた死刑囚との交換へと解放条件が変化し、結局2人は殺害されました。その後アメリ力人の女性人質が「イスラム国」に殺害され、アメリカ国内ではイスラム教徒が惨殺されるなど、世界は騒然としてきました。
 戦後70年はわが国だけの問題ではありません。世界にとっても第二次大戦後の秩序の転換の年を迎えたといえます。
 これまで、私は世界の正体を知るための著書を上梓してきました。私たちは世界史の真相を教えられてこなかったからです。私の著書は、戦後私たちを呪縛してきた洗脳を解くためのささやかな試みでしたが、この世界を動かしている勢力について多くの読者が知ることとなったのは、幸いでした。
 今年は隣国などからわが国に対し歴史認識問題が一層強く突きつけられることになるでしょう。反日中韓はアメリカが戦後構築した日本封じ込めのための東アジアレジームの先兵であったのです。安倍総理を歴史修正主義者と批判してやまない同盟国アメリカの正体も、既に多くの読者に明らかになりました。
 しかし、相手を知るだけでは日本を守るために十分ではありません。相手を知ることに加えて、私たち自身が自らを知ることが必要なのです。なぜなら、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」との孫子の兵法が教えるように、日本を守る戦いに勝つためには、私たちは日本自身を知ることが求められているのです。
 日本を知るとは、日本の国柄を知ることです。国柄とはわが国を成り立たせている根本原理のことです。つまり、わが国体を蘇らせることです。なぜなら、グローバリズムという未曾有の国難に襲われている日本が、国家存亡の危機を克服する道はただ一つ、国体の再発見にあるからです。私たちの先祖は、古来、国家の危機を乗り越えるにあたり、常に伝統的な知恵の中に解決策を見出してきました。つまり、復古の精神です。国家の危機の時代にあっては、伝統に復古することが必要なのです。もちろん、復古と言っても古い体制に戻るという意味では決してありません。復古とは、私たちのDNAの中に連綿として受け継がれてきたわが国の根本原理を、21世紀に生きる私たち自身の言葉で言い直し、それを実践することを意味します。
 そこで、わが国民の伝統的知恵を知るには、古くは神話の時代にまでさかのぼる必要があります。言い伝えられてきた日本神話に見られる神道の世界は、8世紀の初めに『古事記』『日本書紀』の編纂により文章化されました。そして今21世紀になって、神道の世界が再び現在の日本語で言挙げされるようになってきました。つまり、わが国を襲っているグローバリズムという普遍主義に対抗するために、神道的な世界観が普遍性を持つように理論化することが必要なのです。
 本書は、現在の世界における思想戦に負けないために、日本思想の根本に存在する国体の本義を私なりに表現したものです。あくまで、私たちの思想の根本となる原理をまとめた、いわば日本思想の総論部分ともいえるものです。
 この総論を共有することができれば、様々な各論を展開させることが可能となるでしょう。強固な木の根っ子があってこそ、太さや長さの違った枝ぶりや、多彩な色の葉を楽しむことができるのです。そのような多様さこそ、八百万の神々の精神を表現するものです。つまり、日本国家の根本、すなわち国体を共有したうえで、保守革新を問わず百家争鳴の議論が行われることは、わが国の発展にとって不可欠のことともいます。残念ながら、現在の日本は保守と革新の問に共通の言葉を見出しがたい状況にあります。このような状況では、せっかく盛んになりかけた憲法改正の議論も不毛に終わってしまう危険があります。なぜなら、憲法はまさしく国体そのものを文章化したものであるからです。だから今、私たちが国体とは何かを考える必要があるのです。
 私たちが国体を考えることは、外国との関係を考えるうえでも死活にかかわる問題です。ますます先鋭化している反日的な中国および韓国と、日本の歴史見直しの動きに釘を刺し、経済面での攻勢を強めているアメリカの動向を見ていると、私たちはこれらの諸国に対する嫌悪感や失望感に襲われることもあります。しかし、ここで重要なことは、彼らを嫌う前に、私たち白身が変わることです。彼らの反日的な言動を奇貨として、私たち白身が自らの国を見直し、国体を再発見することこそ急務です。国体の再発見によって、私たちの姿勢は確実に変わります。そして、私たちの態度が変われば、中韓もアメリカも対日態度を変えざるを得ません。不愉快な相手を変えようとする前に、自分が変わればよいのです。そうすれば相手も必ず変わります。これは法則です。
 明治天皇の御製に、「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」とあります。国家の一大事の時にこそ、大和心が必要なのです。戦後70年の今年こそ、私たち一人ひとりが大和心を思い出し、大和心を発揮して国難を克服することが求められています。本書は、読者の皆様方に大和心を取り戻していただく誘いとして、書かれたものです。本書を契機として、わが国の国体に関する関心が高まるなら、望外の幸せです。


二大政党制は日本の国柄に合致しない

 国体とは日本の国全体を覆っているものです。国の根本原理である国体が政治、経済、文化を生み出しているのです。日本の歴史を動かしてきた政治の根底には国体があります。わが国の歴史は、階級闘争などの特定の西洋思想の法則に従い発展してきたものではありません。マルクス史観にあてはめて歴史を語ることは、単に歴史を正しく理解することにならないばかりか、私たちの先人の努力に対する冒涜でさえあります。
 そこで政治における国体を取り上げるにあたり、まず、わが国の政治形態の特色を考えてみたいと思います。  昨年(2014年)12月の総選挙は2年前の総選挙に引き続き安倍自民党の大勝に終わりました。2年前に大敗を喫し、今回も躍進できなかった民主党はじめ野党の間で自民党に対抗できる政党の結集を目指す野党再編成の動きが再び活発化してきました。その狙いは政権交代の可能な野党を作ることです。つまり、二大政党制を目指しているのです。
 なぜ、二大政党制が望ましいのでしょうか。
 それは、アメリカやイギリスの二大政党間の政権交代に日本も倣うべきだという単純な外国礼賛に過ぎないといえば、いいすぎでしょうか。自国の政治形態の歴史をよく検討せずに、アメリカやイギリスでは二大政党による政権交代が行われているから、日本も政権交代が可能な二大政党制にするべきだという、憧れだけの議論のように思えてなりません。
 先に自民党単独政権が崩壊した1993年は、政治の停滞、腐敗を防ぐためには政権交代が必要という議論が先走った結果、自民党から反逆者が多数でて、総選挙において自民党は過半数を獲得することができず、非自民を唯一の共通項として野党が結集した形で細川政権が誕生したわけです。そこには、確たる政治理念や政策があったのではありません。自民党以外の政権を作ろうという旗印だけでした。従って、一年ももたずに細川政権は崩壊したのです。
 それ以降、社会党と自民党の連立政権という、水と油の政党が政権さえとれば政策理念は何でも良いといった野合連立政権を生むことになりました。社会党首班政権の無能ぶりが灸り出されたのが、1995年1月の阪神淡路大震災と3月のオウム真理教サリン・テロ事件でした。以後、自民党党首を首相とする連立政権ができましたが、衆参ねじれ現象などもあり、小泉政権の一時期を除き強力な政策遂行能力を欠いた政権でした。
 そして、2009年夏の総選挙での民主党の圧勝の結果、事実上はじめての政権交代が実現しました。しかし、民主党も政権をとるということだけを大義名分に自由党と合併した過去に引きずられ、政策理念でまとまった政党ではなかったために、迷走を極めた末2012年12月の総選挙で惨敗して自民党政権が復活しました。奇しくも、民主党政権への不信を決定的にしたのが、20年前の社会党政権時代の阪神淡路大震災と同様の自然災害である東日本大震災(2011年3月)でした。
 以上足早に振り返って見ましたが、政権交代そのものは決して民主政治が深化したわけでもなく、むしろ、国民生活を混乱させる結果となりました。なぜこのような事態になったのか、私たちはこの経験に学ばなければなりません。政治学の教科書は、二大政党による政権交代が理想的な民主政治の形態であるがごとくに国民を教化していますが、はたしてこれは正しいことでしょうか。私たちは、民主政治といえば欧米流の政治形態が優れていると無意識のうちに信じ込んでいるのではないでしょうか。二大政党による政権交代などの欧米流の民主政治は、チャーチル元イギリス首相がいみじくも喝破したように、悪を含んだ制度ではあるが、これまでのところ他の政治形態よりも悪が少ない体制に過ぎないのです。
 わが国には『古事記』の神話時代以来、「民主主義」の伝統があります。しかし、明治維新以降は植民地化を防ぐために、大日本帝国憲法制定を含め欧米の政治制度を導入する「文明開化」がどうしても必要でした。さらに、先の敗戦後は、GHQによる徹底した日本の民主化政策という名目のアメリカ化政策によって、アメリカ流民主政治が政治制度の手本と信じ込まされて来ました。「日本は神代の昔から民主主義の伝統がある」との私の主張に対して、ほとんどの読者の方々は、そんな馬鹿なことはありえないとの印象をもたれたのではないでしょうか。もしそうだとしたら、GHQのアメリカ化政策が見事に成功したことを如実に証明するものです。
 わが国の国柄は、政治の世界においても2000年以上にわたって独自の「和」の民主政治を育んできました。「和」の民主主義の伝続からすれば、対立する二大政党が交互に政権交代をすることによって民主政治が実現されるとの対立型政治制度は、日本人には合わないのです。今日、政治改革、政治改革と叫ばれているわりには、自国の政治の歴史について足が地に付いた議論が行われていないのが気になります。わが国の政治改革は、神代からの民主主義の伝統をいかに発揮するか、現在の複雑な社会の中にあってその障害となっている状況を改革するという基本態度でなくてはなりません。頭の中で考え付いた何か新しい政治制度を作り上げようとする態度では、政治改革は必ず失敗すると、私はあえて断言します。なぜなら、国体に基づかない政治制度は結局国民の支持を得ることができないからです。
 ではこれから、わが国の政治の伝統を再発見したいと思います。


「三権分立」ではなく権力と権威が支えあう「二権分立」

 私たちが教科書で習った民主政治の鉄則は三権分立です。つまり、行政、立法、司法の3つの権力が互いに牽制することによって、それぞれの権力の横暴、行き過ぎを抑えるという発想です。一見理想的な権力形態のように見えますが、ここに見られる思想は権力を互いに対立するものとして捉えていることです。対立思想が思考の根底にあります。人間は放任すれば互いに対立、闘争するものであるとの人間に対する不信感です。このような人間に権力を持たせる以上は、勝手な振る舞いができないように縛っておく必要があるとの発想です。要するに、人間性悪説なのです。欧米流の政治思想の根幹を成しているのは、人間性悪説なのです。逆にいえば、神でない人間は、神にそむいた原罪ゆえに絶えず神の意に背かないようにチェックしていなければならないと彼らは考えるのです。
 しかし、わが国の政治形態は三権分立のような権力間で互いに牽制させることにより、政治を行うという方式ではありません。権力と権威の「二権分立」がわが国の政治形態の伝統なのです。権力の行き過ぎを権威が牽制するという分立なのですが、もう一つの特色は、それが対立する概念とは理解されていないことなのです。この点が極めて重要です。 なぜそうなのかを理解するには、記紀神話の中に理由を探る必要があります。
 その前に、権力と権威について説明しておく必要があります。  『国難の正体』でも簡単に述べましたが、わが国における権力とは、単に行政、立法、司 法のいわゆる三権のみならず、財界、マスメディア、知識人など国民生活を規定したり、国民の行動に何らかの形で影響を及ぼすオピニオンリーダー層もすべて入ります。これに対し権威とは、天皇でありそれを支える国民です。実はこのことは日本国憲法第一条に明記されているのです。
 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく。
 これが、憲法の第一条です。通常、憲法の第一条には国のあり方の最重要事項、すなわち国体の真髄が書かれています。建国の理念です。わが国の建国の理念は、天皇の存在であり(日本国の象徴)、天皇の下に国民が一致団結していること(日本国民統合の象徴)であることです。そして、日本国の象徴でありまた日本国民統合の象徴であるという天皇の地位が、主権の存する国民の総意に基づくということは、国会の法律によってこの地位を変更することはできないという意味なのです。なぜなら、国民の総意とは、多数ではないからです。総意とは、皇統の継続に対する国民の信仰、民族全体の思いなのです。だからこの信仰を法律で規制することはできないのです。
 実は、この「国民の総意」が大日本帝国憲法第三条の趣旨であると思います。第三条に はこう規定されています。
 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
 「侵スヘカラス」という禁止規定がややきつく聞こえてしまいますが、この規定は、自然 人としての天皇の地位は不可侵であるとか、天皇の行為は責任を問われないという意味ではありません。高天原の大御心を体現し、国民の幸せを祈っておられる天皇を得て、わが国が一つにまとまっている状態を表現したものと解するのが正しいでしょう。昭和12年(1937年)に文部省から発行された『国体の本義』において、「天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに留まらせられる御方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇国(ちょうこく)以来の大義に随って、この国をしろしめし給うのであって、第三条に『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』とあるのは、これを昭示せられたものである」と述べられているのと同じです。
 「肇国以来の大義」とは、高天原の大御心、すなわち高天原の神々の持つ霊性に従って国を治めることをいい、天皇はこの大御心を体現して日本を一つにまとめておられるお方であるので、神聖なのです。
 つまり、なぜ天皇の下に国民がまとまっているかというと、天皇と高天原の神々は連結しておられ、また国民も高天原の神々と連結しているからなのです。このように天皇と国民の間に連続性が存在するから、天皇と国民は運命共同体であるのです。「天皇は神聖にして犯すべからず」とは、このような天皇と国民との連続性は永述であるということです。 したがって、国民の総意に基づく天皇の地位は、日本国家が存続する限り不変であるということを確認する規定といえます。天皇という日本国の「権威」は永遠不滅であるのです。
 以上のことは、大日本帝国憲法第一条と対比して理解すると、意味が一層明確になりま す。
 第一条は「大日本帝国八万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」です。旧皇族で明治天皇の玄孫 にあたる竹田恒泰氏によれば、この「統治ス」の部分は井上毅の原案では、「治(しら)ス所ナリ」となっていたのを、草案最終責任者の伊藤博文が一般にわかりずらいとして、「統治ス」に修正したということです(竹田恒参著『日本人の原点がわかる「国体」の授業』(PHP研究所)。
 私はこの修正は不要であったと考えます。なぜなら「統治」は一般に国を支配すること(英語で言えばgovern)の意味に取られてしまい、あたかも天皇が主権者であるかのような誤解を与えることになったからです。原案の「治ス」は天皇の地位を正確に表現した言葉でした。「治ス」の意味を正しく理解するには、『古事記』にさかのぼらなければなりません。


グローバル市場化を防ぐ真のグローバリズムとは

 グローバル市場化の問題点については、すでにこれまで拙著で縷々述べてきましたので、本書では繰り返しません。本書の目的は、まえがきで書きましたように、グローバル経済の正体を見抜いたうえで、私たちの伝統的経済観を知ることによって、グローバル市場化に効果的に対応する方策を探求するものです。
 その方策を理論的に纏めれば、3つの選択が考えられます。第一は、グローバル市場化を全面的に受け入れること。第二は、グローバル市場化を拒否すること。そして第三は、グローバル市場化とわが国の伝統的経済観との共存の道を探求することです。
 第一は、簡単ですが、わが国のアイデンティティの崩壊になります。この選択は国民の受け入れるところとはならないでしょう。日本の伝統文化が破壊され、無国籍的な経済になってしまう恐れがあるからです。
 第二は、グローバル勢力との全面対決になります。これは、日本経済のかなりの部分が既にグローバル化されており、外資を排除するようになればアメリカやEUなどとの関係が極端に悪化する恐れがあります。そうなると、経済分野のみならず安全保障にも直接影響が出ることでしょう。したがって、この選択もあり得ないことになります。
 結局、わが国に残された選択は、第三のグローバル市場化との共存の道を探ることになります。受け身的な選択ではなく、むしろ積極的に共存の方法を探る努力が必要でしょう。
 グローバル化とは先に見たようにユダヤ思想に基づいています。世界はユダヤ人が望む方向に進んでいると指摘されたのは、渡部昇一氏です(「名著で読む世界史」育鵬社)。ユダヤ人の夢である、①人間を能力で判断すること、②契約を遵守すること、③国境を廃止することが、現在の世界においてほとんど実現しているのです。この3つの要求のうち、①と②は私たちも抵抗なく受け入れていますし、いわゆる近代社会の原則でもあると思います。問題は③の「国境を廃止する」という点です。すなわち、グローバリズムとナショナリズムとの共存を図るためには、この点て妥協を図ることがカギになります。
 これまで、グローバリズムの思想的支柱として新自由主義を見てきましたが、グローバリズムの最大の目標は、国境を廃止することです。したがって、国境すなわち各国の民族文化は本当にビジネスの障害になっているのか、また民族国家は今後ともユダヤ人を迫害する危険性があるのか、について検証されなければなりません。しかし、ユダヤ人迫害については、第二次大戦後はイスラエル国家の樹立や、ユダヤ人の経済的地位の向上などによって、集団的なユダヤ人迫害が行われる危険性は完全になくなったと言えます。
 したがって、私たちにとっての問題は、国境がビジネスの障害になるのか否かです。国境は民族文化を育ててきました。民族文化は独自の経済発展を促してきたと言えます。各国が異なった特性の民族文化を持っているということは、ビジネスを阻害するのではなく、むしろ多様なビジネスチャンスを提供するものであると考えることができるのではないでしょうか。なぜなら、ビジネスは世界全休のパイが拡大してこそ、持続的な利益が保証されるものだからです。世界をグローバル市場ルールで統一するという発想は、各人の創意工夫やイノベーションヘのインセンティブを低下させる結果となる恐れがあります。もちろん、ビジネスチャンスのパイを拡大することになりません。
 これは基本的な算数の問題です。つまり、各国の国民がその特性(能力)を最大限に発揮できるのは、各々の民族文化の中にあってこそなのです。世界統一ルールの市場では各人が持つ特性(能力)をフルに発揮することは不可能なのです。
 世界全体で見れば、民族文化に基づく各国の経済的成果を加えた総和が世界経済力であり、この世界経済力を持続的に発展させるには、各国が常に刻苦勉励して国民の特性をより高めて経済発展を図ることが必要です。これは常識的な足し算の問題でもあります。
 国境を保つことが世界経済の発展に必要という主張を裏書きするのは、先に述べたわが国の分掌・分業社会の調和の原理です。国境維持による世界経済の発展は、この分掌・分業の原理を国際的に拡大したもので、いわば、「国際的分掌・分業」による世界の調和的発展モデルと言えます。「国際的分掌・分業」の発展モデルとは、各国が各民族の特性を生かして独自の文化を磨き国の発展に尽力することによって、各国の集合体であるこの世界(グローブ)は共存発展できるとする思想です。
 これこそ、真のグローバリズムではないでしょうか。国境は決してビジネスの障害ではなく、むしろ国境による文化の違いがあるからこそ多様なビジネスチャンスが生まれているのです。国境ゆえに人類は他国の文化が製造した自国にない製品を手にすることができるのです。グローバリストはこの逆説の真理に気づく必要があるでしょう。
 このことを別の視点からいうと、国境というものを物質的観点からのみ見てしまうからそれが投資や貿易などのビジネスの障害になると考えてしまうのです。たとえ物質的な国境が存在していても、そのこと自体が各国民問の交流を妨げているわけではないのです。国境は交流の妨げになるという思い込みが、国境を民族と民族を分け隔てる障害であると見做してしまうのです。物理的に国境が存在していても、私たちが意識を変えれば国境は民族を隔離する障害物から民族のつながりを象徴する存在へと変えることができるのです。つまり、古事記の生命観に戻ればよいのです。
 古事記が伝える生命観によれば、私たち一人ひとりの命は宇宙の大生命から生まれました。ということは、私たち一人ひとりの命は大字宙の命の不可分の一部であり、大宇宙の命とつながっているのです。
 人間だけではありません。この地球上に存在するすべての命は、大宇宙の生命の一部であるのです。ハンガリー生まれのピアニストで哲学者、そして物理学者でもあるアービン・ラズローは、「すべての命が共に働き、共に進化し、互いに同調しながら響き合っている」と訴えています。このような主張は、私たちにとってDNAに刻み込まれている伝統的思想の再確認に感じられます。いわぱ、人類は太古の昔から地球的に、つまりグローバルにつながっているのです。このつながりは宇宙の法則であり、国境の存在の有無に影響されるものでは本来ないのです。
 ただし、この「国際的分掌・分業」モデルを、かつて旧・ソ連圏で行われていた「国際分業」と混同してはなりません。「国際分業」とは、A国はA産業に、B国はB産業にというふうに、各国ごとに特定の産業に特化することですが、ソ連圏におけるこの実験は失敗しました。失敗の原因は明らかです。各国の特性を無視して中央(ソ連)が人為的に産業を各国に割り当てたためで、非効率な中央管理経済体制の国際版であったからです。
 ところで、現在のグローバル市場化の行き着く先は、このソ連型国際分業制度に近いものになる危険があります。つまり、中央(金融寡頭勢力)の一元的管理下で、各々の産業を担当する企業が数社のみ存在し、基本的に同じ質の製品を生産しているという世界です。
 現在の市場大競争に生き残るために各企業は買収、合併などによりに大企業化を目指していますが、終局的には一産業分野で残った企業は世界で数社のみといった事態になると想像されます。こうなると、消費者の選択は大きく制約されます。供給側か絶対的に優位な市場が実現するのです。供給主導型経済は、私かソ連勤務の際に経験した共産主義経済の真実でした。
 私たちは国境を無くすグローバリズムが普遍的な思想であると洗脳されてきました。国境が存在するから民族同上が睨み介い、戦争が起き、貿易は阻まれ、人々の交流が阻害されてきたと言われてきました。しかし、国境かあるから様々な紛争が発生し、交流が阻害されているというのは、安易な思いつきに過ぎないことがおわかりいただけたと思います。 むしろ、国境こそ世界の発展を生む原動力であったといえるのではないでしょうか。つまり、各国が自国を愛し、自国の文化を大切にし、そして他国の文化や国民性を尊重するといったことこそ、本当の意味で人類が持つべきグローバル思想であり、普遍的価値観と言えると思います。


経済成長神話からの脱却

 第二は、人間も含めこの世界に存在するものすべてに神々が宿っているということです。 それは、最初の神々は天地から生まれ出ましたが、その神々が山川草木の自然や、風や雨などの自然現象、鉱物、動物、人間など、およそこの世に存在するすべてを生み出されたのです。
 すなわち、この世界に存在するすべてのものは神々の一部でもあるわけです。あるいは、 すべての存在に神が宿っていると考えることも可能です。
 したがって、すべては貴い存在であり、神々の御心を無視して人間が勝手に処分してよ いものでは決してありません。この点が、一神教的な自然観と根本的に異なる点です。
 ユダヤ・キリスト教は、この世に存在するものはすべて創造神が造ったと考えます。しかも、被造物の中では人間が一番偉くて、他のもろもろの事象は創造神が人間のために造ってくれたものだと考えるのです。ですから、自然環境であれ、他の生物であれ、ましてや鉱物などは、人間が好き勝手に利用して差し支えないと見倣しています。今日の環境破壊の元凶が、こういった人間中心の自然観に基づいていることは、すでに指摘した通りです。
 自然環境や自然現象にも神々が宿っていると考える私たちの自然観が、地球環境を破壊から救う思想であることはいうまでもありません。このことは、いわれて久しいのですが、いまだに私たち自身が必ずしも切実な問題であると意識していないことは、残念なことといわざるを得ません。現に、経済成長のために開発と称して、山をくり抜き、川をせき止め、海を汚染し、石油や天然ガスなどのエネルギー源を浪費しても、自然は無限に存在すると無責任に考えているのではないでしょうか。
 地球は有限なのです。
 この厳粛な事実をもうそろそろ俯に落とす必要があります。地球が有限である以上、人類の物質的成長には限界があるのです。これは小学生でもわかる論理です。しかし、大の大人が実践できていないのです。わが国でもいまだに経済成長、経済成長と叫ばれています。狭い日本列島のような自然の有限性が明らかな国においても、経済成長のために外国人移民を増やす必要があるなどと、与党の政治家でさえも唱えている現実には肌寒いものを感じてしまいます。日本の人口は一億二七〇〇万人にも上るのです。面積比で考えれば、 明らかに多すぎます。しかし、日本の経済力のおかげで私たちはこれだけの過剰人口を養うことができているのです。
 常識的に考えてもわかるではありませんか。日本列島はたった37万平方キロの国土で、しかもほとんどが山岳地帯に覆われています。理想的には七~八〇〇〇万人台というのが適切な人口規模と思います。そう考えれば、少子化自体大騒ぎする程のことではないのではありませんか。高齢者人口が増えるために若者では年金を支えきれないというのが、簡 単にいえば移民導入論者の言い分と思いますが、このような議論は本末転倒でしょう。なぜなら、移民輸出国もやがて少子化現象が生じて来るのは、傾向的に明らかで、当該国もいずれ移民導入国にならざるを得なくなり、世界全体で見た場合移民は少子化に対する根本的な解決策にはならないのです。
 また、少子化に悩んでいる国は何も日本だけではありません。多くの先進国が移民を大量に導入しなければならなくなります。しかし、移民を入れろとのいわば外圧がかかっているのは、日本だけなのです。
 なんだか変だとは思いませんか。なぜ、外国がそんなに日本のことを心配してくれるのでしょうか。
 決して日本のためを思って親切心から言ってくれているのではありません。わが国の移民推進論者はこの辺のことを十分考えてみる必要があります。あえて誤解を恐れずにいえ ば、中国や韓国の経済崩壊が予想されるので、彼らの経済難民を日本で受け入れろという虫のよい話なのです。正面からそうはいえませんので、日本自身が少子高齢化で深刻な状況にあるから移民を受け入れなければ経済成長が望めないといった詭弁を弄しているわけです。そのような話に、わが国の与党政治家も乗せられているのは嘆かわしい限りです。
 少子高齢化対策として私たちが取るべき施策は、高齢者の社会活用を考えることです。また、若者が子供を生んで育てる環境を整備することです。これらこそ「経済成長」につながるでしょう。
 いやむしろ、もう経済成長神話から決別すべき時です。日本のように経済全体の規模が世界の三位と巨大化し、一人当たりの所得も世界有数であるのに、一体何のために経済成長することが必要なのでしょうか。誰も納得のいく答えを与えてくれそうにありません。
 今私たちに必要なことは、経済の発展を目に見える数字だけで判断する習慣を転換することです。つまり、目に見えない価値を生活の中にどう組み入れて社会の発展を築いてゆ くかについて、国民的議論が必要になってきているのではないでしょうか。
 それこそ、古事記が教えていることです。アベノミクス第三の矢は、目に見えない価値の充実、発展をどう図るかが目的になってしかるべきでしょう。それが結局、有限の地球資源の中で人類が戦争せずに共存できるカギだからです。
 ちなみに、有限という観念自体物質的観点です。つまり、われわれ70億人の人類が物質的観点からの経済成長を考えている限り、地球はやがて自滅せざるを得ないということです。これは実に簡単な物理の法則です。


あとがき

 本書をお読みになって、「大和心の雄々しさ」を感じていただけたでしょうか。 「大和心」とは読んで字のごとく大きな和、つまり大調和の世界観のことです。また「雄々 しさ」とは単に男らしい勇気のことではなく、男女を問わない高い道義性のことです。
 危機の時代にあって、私たちの祖先は大和心の道義性を発揮してこの日本を守ってきました。だからこそ、わが国は2600年以上も一つの国として存在し続けることができたのです。神武天皇以来今上天皇まで125代にわたり、天皇陛下の下にまとまってきた国です。このような長きにわたって、一つの国として存在している日本という国は世界で唯一の国であり、正しく奇跡といってよいことなのです。 2月11日は初代の神武天皇が日本という国を開かれた日を記念する建国記念日です。 私たちは、古事記に基づくこの記念日を素直に祝うべきでしょう。
 戦後の自虐史観に毒された左翼知識人が、2月11日には歴史的根拠がないなどと否定する言辞を弄していますが、2600年前の建国を記念するというのは国民の信仰なのです。信仰とは、2600年継続している国と天皇に対する日本国民全体の思いのことです。
 このような国民の思いは歴史の実証的研究といった唯物論的歴史観で議論できるものではありません。日本国民の思いとは、本文で述べましたように現行憲法第一条に言う「国民の総意」のことなのですから。だから、日本国家が存続する限り、神武天皇が初代の天皇として日本の統治を始められた(治らされた)という信仰は、理性では変更することができないのです。
 2600年間にわたって日本を守り続けた大和心は、他国とは対立ではなく共生するという思想でもあります。
 他国と共生するためには、他国に対して寛容になるばかりでなく、他国を尊重するという平等親が必要です。かつてわが国は第一次大戦の戦後処理を協議したパリ講和会議において、世界に先駆けて人種平等条項を提唱しました。この人種平等精神は世界の諸民族の共生・共存を図る思想でした。
 ところが、今日のわが国は世界の共生・共存を目指すという国是を発信することができ ないでいます。それはどうしてでしょうか。その疑問を解くカギは、わが国を覆う自虐史観にあります。
 学校教育やマスメディアなどが喧伝してきた、日本を侵略犯罪国家だとする自虐史観で育った私たちは、果たして隣国を含め外国を尊重することができるでしょうか。
 私たちが自らを卑下していては外国に寛容になることは困難ですし、ましてや外国を尊重することなど不可能でしょう。このような態度は本来の大和心ではありません。だからこそ、日本国家の根本原理である国体を再発見することによって、私たちは日本に誇りと自信を持つべきであると訴えたいのです。自らの国に誇りと自信を持つことによって初めて、他国と共生することが可能になるからです。
 戦後70年問題とは、詰まるところ私たちが自虐史観を克服して自らの歴史に誇りを持つことなのです。それによって、大和心の雄々しさが現れ出ることでしょう。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 この度本書が出版に至ったのは、ビジネス社編集部の佐藤春生氏の熱意とご協力のおかげです。ここに、記して感謝いたします。
  平成27年建国記念の日に 馬渕睦夫

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