日本共産党の戦後秘史
私が小学校4・5年生の時の学級担任は共産党員の教諭でした。
その人から聞いたのだったか別の人だったか、その後何かで読んだのか・・・、共産主義とは何かというお手本の回答として『共産主義は「各人は能力に応じて働き、必要に応じて生産物を受け取る」社会を実現する思想である』というのは承知していました。
しかし、現実のそれは成り立たつはずもない妄想であったことが歴史的に証明されました。
しかも計画経済が成り立たなかっただけでなく、例えばソ連では『74年間にわたる「社会主義の実験」は終わった。その間、ソ連共産党によって殺害された人の数は、6200万人に達するという(1997年11月6日、ロシア革命八十周年記念・モスクワ放送)』状況であり、他の共産主義国でも同様な状況でした。
共産主義を罵倒するだけではなく少しは良い所を認めようとすれば、理念的には素晴らしい思想なのだけれど、残念ながら現実の社会に暮らす欲ある人間には達成不可能な制度なのだというような捉え方になるのか・・・。
今後もし、すべての人間が菩薩か仏にでもなった時には共産主義に基づく素晴らしい世界が実現できると思います。(結局無理ということですが・・・)
そんなわけで、私も反共産主義の立場です。
日本で共産主義を信奉する日本共産党、その歴史にも興味があったところであり本書は興味深く読みました。
そして、こんな党の言うことはまともに聞いていられないことを再認識しました。
『「六一年綱領」以来四十余年、日本共産党が「躍進」することも「勝利」することもなかったおかげで、幸いにも日本国民は、身の毛もよだつ「プロレタリアートの独裁」を体験することはなかった。』のはそのとおりだと思います。
兵本達吉さんの「日本共産党の戦後秘史」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。(ただ残念ながら、増刷されていないかもしれません。)
目次
はじめに 11
第一章 日本共産党戦前史 15
歪んだ生い立ち / 二つのテーゼ / 大量転向 / 獄中十八年 / 精神主義という刻印 / 地球上で最後のスターリン主義の党
第二章 「唯我独尊」の原点 46
臨時再建本部「自立会」 / 宮本顕治の不満 / 野坂参三という異物 / 革命幻想 / 戦後も引き継がれた天皇制の認識 / 誰が日本の権力をにぎっていたか? / 代行された民主主義革命 / 支持者拡大のピークは「食糧メーデー」 / 革命前夜を思わせた「二・一ゼネスト」 / 冷戦の巨浪が押し寄せる / 「革命」狂騒の中で起きた国鉄三大事件 / 「竹内はクロだ」 / 先鋭化する徳田と宮本の対立 / 党史に記せない闇
第三章 武装蜂起の時代 114
「五〇年問題」 / 朝鮮戦争の一部だった日共の軍事闘争 / 軍事闘争を受け入れた素地 / ソ連、中国の批判に慌てるだけの指導者たち / 権力闘争に発展した徳田と宮本の対立 / 軍事部門の組織化進む / 軍事闘争・武装蜂起に号砲 / 「平和のための武装」の笑止千万 / 「中核自衛隊」という組織 / 武器や資金を狙って警察や米軍を襲撃 / 警察・検察の極秘調査 / 軍事訓練 / 軍事資金の強奪 / 軍事闘争の内容 / 戦闘開始 / 激戦 / 吹田・枚方事件 / 一般市民まで巻き込んだ戦闘 / 監獄行きと党内出世の分かれ道 / 大須事件
第四章 山村工作隊とひょっとこ踊り 216
現代版「水滸伝」を目指した山村工作隊 / 小河内事件 / 会議と演芸と革命運動 / 中国革命とは似て非なるもの / 中国では軍事訓練も / 武装闘争の終焉 / 成功するはずもなかった「武装蜂起」 / 無責任な指導者たち / スターリンの死と朝鮮戦争の終結 / 総点検運動 / 検証「内ゲバ」 / 莫大な戦費 / 六全協で行われた“手打ち” / 宮本、ついに実権を掌握
第五章 敵は、どこだ? 264
火がついた六〇年安保闘争 / 全学連による国会乱入 / 「安保闘争の先頭に立った」のウソ / 数歩先の影を追い続ける日本共産党 / 敵は一つか、それとも二つか? / アメリカ無視のマルクス経済学 / アメリカ帝国主義論 / ごった煮にすぎない宮本理論 / 「敵の出方論」の手前みそ / 「独占資本による支配」幻想 / 社会民主主義や構造改革論も無視 / 党員だましの「社会主義生成期論」 / 認識の根本的誤謬
第六章 暴力革命の遺伝子 325
労働者の「夢」は変わった / 「討論」という名の意見強要 / 宮本独裁体制の確立 / 「人民的」議会主義 / 国際共産主義運動の分裂と日本共産党 / 中国共産党への傾斜 / ベトナム戦争とインドネシアでの反革命 / 文化大革命の衝撃 / バルドーの幻のオッパイ / 「機関紙革命」という無間地獄 / 「スパイ査問事件」の亡霊 / あわてふためく党と口を閉ざす宮本 / 査問かリンチか / 追い詰められる宮本 / 遺体が遺族に語ったこと / 「古畑鑑定書」を巡るご都合主義 / 「暗黒裁判」によるデッチ上げであったか? / 現刑法なら「殺人罪」 / 党中央の認識も「リンチ事件」 / 公私問わない形式主義
第七章 幻想から幻滅へ 409
マルクス主義者の「平和」概念 / 原水爆禁止運動に党派主義を持ち込んだ日共 / 吉田嘉清が見落としたこと / 現実経済を知らぬ社会主義者 / 革新自治体を崩壊させた公明党 / 革新三目標と「社公合意」 / 革新自治体の実態 / 学生運動を見くびっていた共産党 / 全学連の離反 / 暴走、そして運動の終焉 / 「高度成長」と労働者 / 「所得倍増」に反対し続けた共産党 / 「貧困の現代的形態」
ロシアにおける「社会主義の実験」とその結末 471
【人物評伝】
①徳田球一 39 / ②志賀義雄 44 / ③野坂参三 109 / ④伊藤律 260 / ⑤志田重男 262 / ⑥不破哲二 322 / ⑦袴田里見 407
解説 花田紀凱
はじめに
戦後日本共産党史を書くことにした。青年時代から三十数年にわたって日本共産党員だった私としては、全世界で大音響とともに崩壊した共産主義というものについて、一度頭を整理する必要があったからである。人間一生やっていたことを、「やあ、失敗、失敗」の一言で済ませるわけにはいかないからである。
ゴルバチョフの友人でブレーンであったヤコブレフは、「幻想を追っかけて生きる一生というものは、人間がこの世で受ける最も厳しい罰だ」と書いている。
自分が人生の何処で誤りを犯して、共産主義という迷路に足を踏み入れるにいたったのか自己検討したが、その原因が一つではないことが分かる。しかし、ドイツのある詩人が言っているように、「自分の人生の悩みも、人類が抱える全ての悩みも共産主義は一挙に解決してくれる」と考えたことが最大の誤りであったことは事実だ。
さて、私は1960(昭和35)年の「安保闘争」の後入党したので、その時代から後のことは、それなりに理解している。
しかし、まだ自分が未成年だった頃のことを立体感を持って理解するのは大変だ。結局これまでに書かれた論文、著作に頼らざるを得ない。
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』によれば、「歴史家の病」というのがあるそうである。過去へ過去へと遡及してゆく傾向のことだという。筆者も「日本共産党の戦後秘史」を執筆しているうちに、やはり「戦前史」を抜きにして、「戦後史」は語れない、と思うようになった。
日本共産党は、1922(大正11)年7月15日に創立された。そして日本が敗戦して、長い間投獄に耐えていた党員がやっと出獄してくるのが1945(昭和20)年であるから、党の戦前史の期間は約23年間だと普通は思われている。
ところが、日本共産党は、産声をあげた直後から第一次検挙といわれる弾圧に直面して、綱領草案も審議未了のまま、1924(大正13)年2月にたちまち解党の決議をしてしまうのである。この時は幹部がコミンテルン(共産主義インターナショナル)に呼びつけられ、厳しく叱責されて再建の方針を決める。そして、1926(大正15)年12月、山形県五色温泉で第三回党大会を開いて党を再建し、初めて党の政治方針と党規約を採択した。この第二次共産党といわれる党の発足をもって、党の正式な創立の時期と考えてもおかしくはない。
そして、宮本・袴田らの「スパイ査問事件」(1933年12月)によって宮本顕治が逮捕され、最後まで残った中央委員である袴田里見が検挙された35年3月4日をもって事実上中央委員会が解体し、戦前の党の活動は停止した。だから、戦前の党の活動期間は、1926年12月から35年3月までの、実質9年間ということになる。
ただ、この間にも1928年3月15日のいわゆる3・15事件や1929年4月16日の4・16事件によって壊滅的な打撃を受け、その後は逮捕を免れた残党によって細々と活動が続けられていたにすぎない。
したがって、戦前の党活動といっても、まがりなりにも党中央の指導のもとに活動した期間というものは僅かに数年間、厳密にいうと実質3年か4年にすぎない。
戦前の党史を通覧して驚かされる第一の点はまずこのことである。
精神主義という刻印
日本共産党の戦前史とはまさに投獄の歴史であり、党史には、「獄中で不屈にたたかった」とある。しかし、政党というのは社会的存在であり、社会にあって戦ってこそ意味がある。支配階級は共産党員に「戦われ」ては困るから監獄へ閉じ込めているのである。このような体験は日本共産党の性格に負け惜しみと強がり、そして精神主義という刻印を残した。
戦前の日本共産党が、いつ政党として消滅したとみるかについては、定説はない。宮本顕治は、最後の中央委員たる「オレ」が、獄中で非転向で頑張っていたのだから、党は獄中で存続していたと主張していた。しかし、このような見解は、宮本イコール党だ
と考えることの出来る人だけが支持できる見解である。
1933(昭和8)年には大弾圧、そして、党内でのリンチ事件の頻発、小林多喜二、野呂栄太郎らの検挙と獄死、宮本、袴田らの「スパイ査問事件」と逮捕などが続けざまにあった。その点から戦前の活動家で、同年に党は壊滅したと考える人は多い。
その後全国各地で、小グループによる党再建運動が展開された。
1935年、増山太助ら京大生による、戦争反対、反ファシズム統一戦線運動を通じて党を再建しようという運動があった。京都河原町のあさひ会館に、末川博を招いて決起したが、あえなく検挙された(「京大ケルン事件」)。また1939年の大阪では、春日庄次郎らによる「共産主義団」の結成が企てられたが、いずれも端緒において鎮圧された。党史ではこのような事実は抹殺されている。「党は獄中で存在していたのである。何が党再建だ」というわけである。何はともあれ、終戦時において全国の刑務所、拘置所、予防拘禁所には、約三千名の政治犯がいた。徳田、志賀らは、終戦前に刑期満了を迎えたが、非転向のままで出獄することを恐れた当局が、彼らを拘禁しておくことを目的とした予防拘禁法を特別に制定して、東京・府中刑務所内の拘禁所に収監した。
徳田、志賀ら日本共産党の思想犯が府中刑務所にいたことを発見したのは、仏「ル・モンド」紙の東京特派員・ロペール・ギランであった。ギランは戦前~戦中の7年間日本に滞在していた。彼の助手をしていたユーゴスラビア人のブーケリッチが、ソルゲ事件に連座して獄死したこともあり、日本人の共産主義者の運命に強い関心を持っていた。
彼は、日本が降伏した直後から、密かに共産党員たちと連絡をとり、徳田や志賀を探し出す作業に取り掛かった。やがて、徳田と志賀はどうやら府中刑務所にいるらしいという通報を受けた。『ニューズ・ウィーク』誌の特派員ハロルド・アイザックスらと、アメリカ将校の軍服を着て、大型ジープを運転して、府中刑務所に乗りつけた。
刑務所長は仰天して、「府中には泥棒とか、人殺しとかの普通の刑事犯人しかいない」と言い張ったが、米軍将校になりすましたギランらは、看守の尻を叩いて刑務所の陰惨な長い廊下を歩きまわり監房をあちこち探した。看守がすれちがった同僚にささやいた。「いそいで事務所につたえてくれ……この連中は見せてはならないところに、おれを引っ張って行こうとしている」。ギランには、その日本語が筒抜けだった。廊下の突き当たりに、途方もなく大きな扉があった。ギランはどなった。「これはなんだ」
看守は震えながら鍵穴に鍵を差し込み、錠前を開けた。
ギランはこの時の様子を次のように書いている(『文藝春秋』1955年10月号「徳球を釈放させたのは私だ」)。
「扉は重くて、開くのに手間がかかった。完全な静寂。はち切れそうな緊張。そうして、そのとき、一生私が忘れることができそうもない光景が眼の前に展開された。
かなり大きな監房のなかに、ひとかたまりの人間が、カーキ色の服を着て、頭を丸坊主にして、ペンチの上に腰をかけていた。そして、顔を凝結させ、いまにも飛び出しそうな眼をして、扉がひらくのを見守っていた。まるで奇怪至極な、怖ろしいけだものが、彼らを食い殺そうとしてはいって来でもしたかのように、すっかり放心のていだった。
それが何秒間かつづいた。それから全部の人間が、15人くらいもいたろうか、悦びと感激との無我夢中の狂乱とでもいったものにとりつかれて私たちめがけて飛びついてきた。
英語で叫ぶ声が聞えた。『僕たちは共産党員だ……僕は徳田だ。僕は徳田だ』朝鮮人の顔をした二人の男が、ペンチの上に立ちあがって、インターナショナルを歌っていた。痩せた顔付きをした、ひとりの囚人が英語で話しかけて来た。『やっと、きてくれましたねえ。何週間も待っていました』それが志賀だった。徳田は私に話しかけて、本当とは思えないような次の言葉をいった。
『僕は、この刑務所の扉がひらくのを18年待っていた』囚人のうちの数人は顔を涙でぬらしていた。徳田はアイザックスの方に振り向いて、彼を腕の中に抱きしめて『これで僕たちは安全です。救われました』といっていた。共産主義者がアメリカ人を抱擁するのは、私が今迄に見たこともない光景だった……。
こうした昂奮がやっと鎮まり、囚人たちが跳ねたり、踊ったり、叫んだり、私たちの制服を撫でさすったり、うれし涙を流したりするのがやっと済むと、私たちは一同を監房から出てこさせた。看守の群をかきわけて ―― 私たちは刑務所の事務室まで、行列を作って進み、早速『記者会見』を開いた」
臨時再建本部「自立会」
東京郊外の国分寺駅を出て、雑草やペンペン草が生い茂った、瓦礫の焼け野原を20分も歩くと、新築二階建て、木造瓦葺きの「自立会」がぽつんと建っていた。元々これは、府中刑務所の出獄者で、差し当たって行き先のないものを収容するために新築された府中刑務所の付属施設であった。徳田球一は出獄に際して府中刑務所の所長を脅し上げて、この建物を強引に確保してしまった。これが日本共産党の臨時再建本部=「自立会」となった。
全国の刑務所、拘置所、予防拘禁所から釈放された共産党員たちが、ぞくぞくと集まってきた。「自立会」の建物のなかには、米俵や野菜類が積み上げられ、威勢よく炊き出しが行われていた。サツマ芋にありついただけで狂喜する食糧難の時代だった。自立会にやってきた同志たちはまず、銀飯を拝んでなりふりかまわずむさぼった。
右翼のテロも予想される情勢であった。武装した朝鮮人たちが、「自立会」周辺の警備に当たった。
集まってきた旧同志たちは、一階にたむろして、さかんに天皇制や人民解放を論議して赤い気炎を上げていた。当たるべからざる勢いで、国鉄、海運、逓信、電気、鉱山などの労働者の組織化や、国有化についてさえ議論が交わされた。
元々良く言えば、個性的で意志の強い、悪く言えば、頑固で依怙地な連中が監獄のなかでますます頑固になって出獄し、角を突き合わせ「オレがオレが」で喧嘩を始めた。マッカーサー司令部の政治犯釈放命令により、刑務所のなかから出獄してきた共産党員は受刑者150名、公判続中の者52名、予防拘禁者20名であった。府中刑務所から徳田球一、志賀義雄、金天海、黒木重徳、山辺健太郎、松本一三ら16名が出獄したほか、豊多摩拘禁所から神山茂夫、中西功。宮城刑務所から春日庄次郎、袴田里見。そして網走刑務所から宮本顕治が出獄してきたのである。このほか、官憲が捜査中だった者も続々と地下から浮上し、府中の「自立会」に集まってきた。
一方で、佐野学、鍋山貞親、田中清玄、風間丈吉など、獄中で完全転向した者を除き、長谷川浩らのように転向組で、警察の保護監視下におかれていた者の数が二千数百名に達していた。彼ら転向組も続々と「自立会」へ集結してきた。
この「自立会」では、転向組と非転向組は、白と黒はっきりと区別(差別)され、両者は、歩き方で判ったとさえいわれる。非転向組は、後ろへ倒れるのではないかと思われるほど、ふんぞりかえって歩き、転向組はうつむいて、前に倒れんばかりにして歩いたという。
監獄にいた監獄組、娑婆にいた娑婆組にまず大別され、監獄組も転向、非転向に区別され、非転向組も、獄中にいた年数で、上下関係が決まったと言われる。地方からやってきた転向組が、恐る恐る「自分のような者でも、もう一度党に入れてもらえるか」とお伺いを立てたところ、そこにいた山辺健太郎が、「ここはお前のような人間の来るところではない」といって自立会の二階の階段から突き落とした。これを見た徳田球一が驚いて、山辺をたしなめたという話が残っている。
獄中組にも色々とあって、治安維持法違反一本で下獄していた者と、ほかの罪名で下獄した者では、全く違う扱いを受けた。例えば、警察官を殺害したとして監獄にいた三田村四郎などは、刑事犯であったということで低いランクの扱いを受け、「自立会」の庭掃除をもっぱらやらされ、政治的な論議のなかには、入れてもらえなかった。
完全黙秘、非転向という、非の打ちどころのない経歴を誇り、後にはこれを錦の御旗にして、党内で出世の階段を登ることになる宮本顕治や袴田里見らも、治安維持法違反のほかに、不法監禁致死罪とか銃刀法違反といった罪名がくっついていたために、1947(昭和22)年にマッカーサー総司令部から、政治的配慮に基づき公民権回復の措置を受けるまでは、随分肩身の狭い思いをして小さくなっていた。
日本共産党の正史では、戦前の日本共産党員は、絶対主義的天皇制の圧制の下、特高警察の強烈な弾圧、拷問に屈せず、不撓不屈の戦いを展開したと繰り返し強調されている。
「アカ弁」という言葉がある。共産党員または共産党系の弁護士のことである。この「アカ弁」のリーダーの一人に、日本共産党の衆議院議員で青柳盛雄という人がいた。長野県の出身で、正直で実直、竹を割ったような性格でずけずけと歯に衣を着せぬものの言い方をする人だった。
彼が、確か日本共産党の党史が発表された時だったと思うが、国会議員秘書をしていた私に、「戦前の日本共産党員が、特高警察に反対して不屈に戦ったなどという文章を読むと私なんかは恥ずかしくて顔が赤くなってくるよ」と言ったことがある。
私は意外に思って聞き返すと、「誰それが逮捕されたという連絡がきて、警察へ駆けつけていく。せめて私が警察に着くまでは頑張って欲しい、そう思って警察に着くと、もう何もかもしゃべった後だった。いつもそうだったなあ」と言う。
勿論、特高警察の厳しい取り調べに対して頑強に戦って拷問され殺された野呂栄太郎のような人もいたことを日本共産党の名誉のために言っておかなければならない。しかし、このような人は、実は例外中の例外であり、殆どの党員はすぐに屈伏し、転向してしまったという。
終戦当時獄中にいた約三千名の党員のうち、本当に非転向を貫いたのは数人以下だと言われている。宮本顕治が、「非転向の同志は、何人くらいだと思う?」と質問されて「オレとあと一人か二人だなあ」と答えている。山辺健太郎と春日庄次郎の二人のことだと言われている。
この青柳盛雄が「私の知る限り、非転向を貫いたのは一人だけだ」と言う。私が「それは誰ですか?」とたずねると、「宮本顕治だ」という答。私が、「やはり、宮本顕治という人は相当な人物ですね」と言うと、「いや宮本君は転向できなかっただけだ」と言う。青柳盛雄の説明では、治安維持法違反一本で投獄された者は転向を誓うと、半年ほどの観察期間を経て仮出獄が認められた。ところが、宮本のように、治安維持法違反のほかに、不法監禁致死罪のような破廉恥罪の罪名がついていると、転向しようとしても制度的に仮出獄できないのである。殺人や強盗の罪を犯して監獄に入っている者が転向しましたといって出獄できないのと同じである。
宮本顕治は、非転向を鼻にかけて威張りちらし、転向者(たとえば、中野重治)を痛めつけいじめ抜きながら、非転向の勲章をぶらさげて日本共産党の階段をトップまでよじ登ったが、実際には転向しようとしても制度的に意味がない立場にあったに過ぎない。宮本の、生涯のキーワードは、「災い転じて福となす」である。
彼は不法監禁致死罪という罪のお陰で転向できなかった。そして、同志を査問にかけ、リンチで殺してしまったに過ぎなかったのに、治安維持法違反という罪を検事がつけてくれたお陰で日本共産党のトップにまで登りつめ、40年の長きにわたって、指導者として独裁、君臨することができた。
宮本顕治の生涯には、「災い転じて福となす」場面が次々と現れてきて、実際、驚かされる。しかし、「最後に笑う者が、一番大きく笑う」という諺もある。宮本顕治が最後に大きく笑ったかどうか、読者諸氏は、その顛末を知ることになるだろう。
監獄行きと党内出世の分かれ道
日本共産党の「軍事闘争」は、何度も述べてきたように、朝鮮戦争の米軍後方基地となっていた日本での撹乱作戦として実施されたものであるが、とりわけ、この「吹田・枚方事件」は、参加人員約三千名のうち約半数が、朝鮮戦争を共産側に立って最も積極的に支援した在日朝鮮人であり、いわゆる「祖国防衛隊員」によって構成されていた。その政治的な目的意識が明確であるだけに、極めて戦闘的であり、「過激」であった。
この事件では、約250人が逮捕され、111人が騒擾罪、威力業務妨害罪で起訴された。そして、20年の長きにわたる裁判の結果、騒擾罪は無罪、威力業務妨害罪は有罪となった。
この「吹田・枚方事件」についての歴史的評価を、警察や裁判所に委ねる必要はない。
この闘争に参加した脇田憲一の意見を批判する形を借りて、筆者自身の意見を述べてみよう。脇田は、この闘争を軍事基地反対、占領軍駐留反対、軍需品製造反対、軍需輸送反対の基本方針を前面に押し出しての反戦、反米の実力闘争であったと特徴づけている。
一方で、これらの武力闘争について、警察庁作成にかかる資料を見ても、「その計画性において、規模において、武装において、意識において(他の事件とは)格段の相違があり、武力闘争の新時期を画したものである」となかば称賛しているかのように書いている。しかし、脇田が手放しで絶賛しているかというとそうではなく、「私は反戦平和運動における武装闘争を全面的に肯定しているわけではありません。戦争に反対すること、平和を願う立場から民衆が、自分たちの身を守る武装闘争は、やむにやまれぬ抵抗手段として、その正当性を歴史は審判しています。(中略)吹田・枚方事件の武装闘争はやむにやまれぬ抵抗闘争であり、正当な権利行使であったと私は確信します」と述べている。
この脇田の立論は、筆者には誤った歴史認識を前提にしているように思われる。
一つは、朝鮮戦争は、北朝鮮の金日成がスターリンや毛沢東の同意と支持を受けて始めた朝鮮半島の武力統一、赤化統一の方針に基づく侵略であり、内戦であったことを理解していないこと。これは、今日ソ連の崩壊によって公開された、秘密公文書(シークレット・アーカイブ)によって、殆ど完璧に証明されている(例えば、A・V・トルクノフ著『朝鮮戦争の謎と真実』)。もう一つ引っ掛るのは、朝鮮半島で、共産主義が勝利したならば、朝鮮人民は解放され、平和と民主主義、社会進歩が保証され、豊かで幸福な生活を送ることになったであろうという途方もない前提にいまだに立っていることである。
逆なのである。もし、毛沢東が送った百万人の中国義勇兵とソ連の空軍が朝鮮半島を制圧していたならば、全ての朝鮮人は、現在の北朝鮮人と同様、飢餓にさらされ、国全体が強制収容所となり、奈落の底であえいでいたことであろう。
こういうことは、結果論であり、後知恵にすぎない。
だが、後になってことの真相が分かるのが歴史というものだ。
ちなみに、脇田憲一、この早熟の「少年革命家」が何をしていたかを書いておくと、彼は、「吹田事件」ではなく、「枚方事件」に参加した「元被告」である。
「枚方事件」について簡潔にまとめたものが、「検察資料」にある。
「6月24日早暁、9名の日共党員よりなる遊撃隊は、枚方市中宮所在の旧陸軍枚方工場電動水圧ポンプ室に潜入し、水圧ポンプ2台に時限爆弾を仕掛け、内1台に仕掛けた時限爆弾を爆発させ、これに呼応して6月24日夜、枚方市伊加賀所在鷹塚山通称一本松の丘上に集合した約100名は、河北解放青年行動隊を結成して、翌25日早暁、同市伊加賀の小松正義方及び同人所有のガレージに火炎瓶を投入して放火したが、放火の目的を遂げることはできなかった」
実行部隊は、計4人で、そのうち3人が祖国防衛隊と称する朝鮮人、もう1人は、地元青年の中核自衛隊員で、この青年が工場の修理をする土建屋の作業員に化けて、工場内の地図を盗んできた。脇田は「私は見張り隊の1人で工場に入ったのは覚えていますが、何のために入ったのかは全然教えて貰えなかった」と書いているから、いささか心もとない「革命家」であったようだ。
私は、この脇田少年とほぼ同じ年齢で吹田事件に参加した人物を知っている。党から、火炎びんの投擲を命じられて震えながら現場に向かったけれども、生来の気の小ささから怖くなって草むらに火炎びんを隠して家に逃げ帰ったという。
彼は後に弁護士になって、この吹田事件の弁護を引き受けることになるが、被告団と弁護団との席を隔てているものは、紙一重だと思ってゾッとしたと述懐していた。
不破哲三についても、よく似た話を聞いたことがある。旧制高校時代の同級生の弟に「火炎びんというのは、こうして作るのだよ」といって得々と説明していたというのである。後に週刊誌で読んだ話で、真偽のほどは分からないが、不破も、火炎びんを投げないで草むらにそっと押し込んで逃げ帰ってきた口らしい。
当時の日本共産党には、「党の決定は絶対に実行しなければならない」という党規律があった。臆病か、卑怯か、利口だったか知らないが、決定を守らなかった党員は、後に党の幹部になり、愚直に党の決定を守った党員は、監獄に入ることになった。
無責任な指導者たち
宮本顕治一派の「五〇年問題」、徳田・野坂主流派の言う「軍事闘争」、この分裂した二つのネーミングをまとめて、私は「武装蜂起の時代」と特徴づけているのだが、この時代を通覧して一番驚くことは、日本共産党という政党の指導者の無責任さである。スターリンの指揮棒に踊らされて、日本国民は言うに及ばず、下部の党員を奈落の底に突き落としながら、誰一人として責任を取った者がいない。日本共産党こそ、丸山真男言うところの「無責任の体系」そのものであった。
責任を取らなかったばかりではない。日本共産党自身が、党史に「党史上最大の誤りであり、悲劇であった」と書かねばならなかったような事態について、党規約前文に謳った「党は、その実践を『総括』して、党の政策と方針を検証し、発展させる」という態度で本格的な「総括」をしたことが一度もない。
筆者は、武装蜂起に最も責任を負うべき人間の一人は、宮本だと考えている。
コミンフォルムの日本共産党批判に飛びつき、徳田指導部を揺さぶり、党を分裂させた上、暴力革命路線に水門を開き日本共産党を「武装蜂起の道」に引きずり込んだ張本人は、志賀と並んで宮本である。しかも、下部の党員が火炎びんを投げ、蚊に喰われながら山に籠り、むなしい悪戦苦闘をしていたその時、本来なら銃を持って先頭に走らなければならない宮本は、妻百合子の生前から同棲していた百合子の秘書の大森寿恵子と新婚生活を楽しんでいたのである。
スターリンの死と朝鮮戦争の終結
1951(昭和26)年6月、朝鮮戦争は三十八度線近くで膠着状態に陥った。『スターリン秘録』(産経新聞・斎藤勉著)によれば、アメリカの外交官ジョージ・ケナンとソ連国連代表ヤコフ・マリクとの間で非公式接触があって、にわかに和平機運が広がりはじめ、7月には休戦交渉が始まった。
アメリカとの第三次世界大戦が不可避だと考えていたスターリンにとっては、時間稼ぎのために膠着状態が長引いた方が好都合であった。そもそも、アメリカをこの戦争で消耗させる目的もあった。米、中を戦わせることで中国をソ連に深く依存させるため、朝鮮と中国が休戦を懇請したにもかかわらず、容易に休戦協定に応じようとはしなかった。
しかし、1953年3月にスターリンが死去すると、急速に戦争は終結に向かった。
この年の7月27日、板門店で休戦協定が締結された。それにタイミングを合わすかのように、日本共産党書記長の徳田球一が約二ヵ月半後の10月14日、北京で客死した。
近年になって、不破哲三は、『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(1994年1月刊)という著作において、終戦直後から、この朝鮮戦争の時期にいたるまでの期間に、宮本顕治を除く日本共産党の殆どの大幹部、野坂参三、志賀義雄、袴田里見らがソ連共産党の手先(スパイ)となり、活動資金を支給され、ソ連共産党の指示に従って活動していた経緯を詳しく暴露している。
筆者は寡聞にして、これほど破廉恥な政治的文書を知らない。党派を問わずである。
日本共産党は、戦前から「ソ連の手先」「売国奴」「民族の裏切り者」として、政府のみならず国民からも厳しく糾弾されてきた。
不破のこの著作は、戦前だけでなく、戦後も最近にいたるまで、日本共産党の指導部がソ連に買収され、その手先として活動してきた事実を自ら実証する極めて重大な証言と言わなくてはならない。
野坂、志賀、袴田らが、ソ連共産党から得た巨額の資金を個人的に着服し、私腹を肥やしていたという事実はないはずである。それらの資金は日本共産党の財政に繰り込まれ、党の活動資金として使われていたことは明白で、そうだとすれば、これは、日本共産党が党として受け取ったと考えるべき性質のものであろう。
不破の著作が、野坂らが後に除名されているから現在の党とは関わりがないという趣旨だとしても、党として恥ずべき歴史であることは変わりなく、嬉々として暴露する不破の政治的感覚もまた異常というべきであろう。
これが事実だとすれば、日本共産党は、このような人物を長年にわたって党の幹部に戴いて指導を受けてきたことの不明を国民の前に深く謝罪すべきであろう。
本題に戻るが、不破は、この著作のなかで、「五〇年問題」、私の言う「武装蜂起の時代」について、スターリンや毛沢東らによる大国主義的な「干渉」だと描いている。
しかし、これは違う。
スターリンが、武装蜂起の指令である「五一年綱領」を日本共産党に与え、決起を促したことは、「干渉」などという言葉で表現される事態ではない。
ある家庭の夫婦喧嘩や子供の教育問題など内部の問題に隣の親父が首を突っ込んできた、というようなときに「干渉」と言うのはよろしい。しかし、自国の政府を武力で転覆せよという指示に従い、外国(中国)に基地を設け、放送局までつくって宣伝・煽動放送を行い、青年たちに軍事教練を施し、山岳地帯に軍事拠点(実際には、大したことはしていなかったが)をつくらせ、警察や税務署を襲撃し、皇居前の広場を血で染め、交通機関を襲撃し、列車の運行を妨害したのである。外国からの指令、指示に盲従、屈従して、ここまで破壊活動をしておいて、「干渉」を受けたでは済まされない。
わが国の長い歴史のなかで、外国の指導者(スターリン)の指揮棒に振り回され、彼らの政策遂行の道具として、自国政府の転覆をはかった政党は日本共産党以外にはない。
朝鮮戦争は終結し、戦火が止んだ。
もはや、後方撹乱の必要もなくなった。このようにして、「武装蜂起」も終結に向かうのである。
1954(昭和29)年夏、北京機関の代表として野坂参三、紺野与次郎、河田賢治、宮本太郎、西沢隆二らが、モスクワに呼びつけられ、袴田も参加して、六全協の決議原文の作成に取り掛かった。勿論、これも、ソ連共産党の指導の下、とくに、ソ連共産党の理論家、スースロフやポノマリョフが関与して作成されたものである。この決議案にスースロフは「五一年綱領は基本的に正しかった」という文言を織り込むよう頑強に主張したと言われる。
この「原文」は、もはや入手しようもないけれども、「『第六回全国協議会決定』……党活動の総括と当面の任務……」の冒頭には、「新しい綱領(五一年の軍事綱領)が採用されてからのちに起こったいろいろのできごとと、党の経験は、『綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している』」と述べられている。
すなわち、「わが国はあいかわらず米軍の占領下にあり、わが国の反動政府は、これまで通り、アメリカ占領軍の精神的・政治的支柱の役割を演じつづけている」というのである。ただし「五一年綱領」には色々と問題があったとも同時に指摘されており、(一)党の団結の問題(これについては、後で述べる)、(二)党は戦術上でいくつかの誤りを犯した。誤りのうち最も大きなものは「極左冒険主義」である ―― と指摘している。
この「極左冒険主義」という言葉が、後に「極左冒険主義の時代」という言葉を生むのである。
決議文は、最後に、「以上のべたような情勢のもとで、わが党の基本方針は依然として新しい綱領(五一年・軍事綱領)にもとづいて、日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するために、すべての国民を団結させてたたかうことである」とんでいる。
認識の根本的誤謬
マルクス主義の認識論に、「認識は、浅いところから、深いところへ進んでゆく」というのがある。40年ぶりの改定も、認識の弁証法的発展に従った結果だったのだろうか。
前述した「綱領改定についての報告」で不破哲三はソ連について、「社会主義ではなかった」という見地に到達したことを述べている。
不破は、(1)チェコスロバキア侵略(1968年)、アフガニスタン侵略(1979年)を例にあげて、他国への干渉や侵略をやる国が社会主義ではあり得ない、(2)主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は社会主義と両立しない、(3)ソ連では人民が経済の管理からしめだされており、経済体制という面から見ても、社会主義とは言えない、(4)大規模な囚人労働が存在して、ソ連経済、とくに、巨大建設の基盤となり、また社会全体を恐怖でしめつけて、専制支配を支えるという役割を果たしている ―― という理由でソ連社会主義論を否定して、「ソ連問題にたいして、明確な、きっぱりした態度をとる必要がある」「ソ連社会を社会主義の一つの型だと位置づける立場とは手を切る」よう求めている。
不破は、これらの四つの理由をあげて、ソ連は社会主義ではなかったと述べたのであるが、これまで、ソ連を批判し、共産主義に反対であると唱えていた人たちは世界中にごまんといたのに、なぜ日本共産党と不破の耳に入らなかったのであろうか。これらの四つの理由をあげて、ソ連を批判した人たちは、「反共主義者」としてレッテルを貼られるのがオチであった。
いずれにしても、労働者・農民の聖なる祖国、社会主義の祖国ソ連は40年後に、「社会主義ではなかった」という結論となったのである。出発点とは正反対のところへ逢着するというのは、「浅いところから深いところへ」という弁証法的発展で済まされる変化ではない。
にもかかわらず、不破はそのことへの反省はおろか言及すらなく、2004(平成16)年1月の党大会で代議員に対して「ソ連が社会主義であったなどという誤った立場に立っていては、資本主義国で多数派にはなれないぞ」と説教を垂れ、昨日までソ連は社会主義国だと思っていた千名にのぼる代議員たちも一斉に拍手喝采しているのである。
何という立派な指導者、何という忠実な代議員たちであろう。
「六一年綱領」には、ソ連は普通の社会主義国ではなく、「社会主義陣営の先頭に立つ」特別の地位にあることが明記されており、さらに、「我が国を占領した連合軍の主力が新しい世界支配をねらうアメリカであったことは、日本人民の運命に重大な屈辱をもたらす第一歩となった」と書かれている。綱領が言うように、日本を占領したのがアメリカではなくソ連であったとすれば、日本は東欧のポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーとおなじような「運命」に陥り、おそらく、1989(平成元)年になってやっと「共産主義」から解放されることになっていたことであろう。
「六一年綱領」が示している世界の情勢、「日本共産党をとりまく政治的『環境』」も見て置こう。
「第二次世界大戦後、国際情勢は根本的に変わった。社会主義国が一国の枠をこえて、一つの世界体制となり、資本主義の労働運動はますます発展し、植民地体制の崩壊が急速に進行し、帝国主義の足元を揺るがしている。資本主義の全般的危機は深まり、資本主義世界体制は、衰退と腐朽の深刻な過程にある。今日の事態における世界史の発展の主な内容、方向、特徴を決定する原動力になっているのは、社会主義陣営である。社会主義世界体制は、人類社会発展の決定的要因となりつつある。世界史の発展方向として帝国主義の滅亡と社会主義の勝利は、ともに不可避である」
1960年代の、日本共産党の機関雑誌『前衛』や経済専門誌『経済』の諸論文は、今や、世界の資本主義は、「全般的危機」にあり、その崩壊は、明日にも迫っているという危機感に満ちあふれた論文を毎号毎号、満載しており、これが実に10年間続いたのである。
経済だけではない。政治も文化も、道徳も教育も、映画や芸術も何もかも、目に見えるもの、手に触れるもの、いやそればかりか、目に見えないもの、魂や精神も、資本主義と関連のある一切のものが、「腐敗し、腐朽し、崩壊に瀕している」とされた。
ちょうど、秋の夕方は釣瓶落としで日が暮れるように、今や資本主義世界の終末は近づきつつあるとされ、革命的強迫観念にとりつかれた学生たちが、学業を放擲して「革命的実践」へと駆り立てられていった。
確かに、ソ連は、世界初の人工衛星「スプートニク」を宇宙に打ち上げ、世界初の有人(ガガーリンを乗せた)衛星「ボストーク」の打ち上げに成功した。毛沢東は「東風が西風を圧する」と豪語した。フルシチョフが国連の演壇で靴を振りまわして、資本主義を埋葬してやると息巻いたのもこの頃であった。
ところがある時、不破は突然、「資本主義の全般的危機」というのは、学問的な概念ではなかったと言いだして、この規定を綱領から削除してしまった。
考えてみれば当たり前の話で、日本は経済の未曾有の高度成長期を迎え、ソ連さえはるかに凌駕して、世界第二位の経済大国にのし上がりつつあった。
何度でも言うが、この40年の歴史的結果を見れば明らかなように、全般的危機にあったのは、資本主義ではなく共産主義であった。全く、アベコベである。
公私問わない形式主義
この「スパイ査問事件」の資料を読んでいると、宮本にまつわる面白いエピソードがふんだんに出てくる。査問を受けていた小畑が、逃亡を企てたが失敗し、4人に取り押さえられた時に、急死した。そこで驚いた4人は、2階から階下の階段の下に集まり、善後策を相談する。大泉と小畑は除名。そして秋笹と袴田を中央委員に急遽昇格させ、木島を中央委員候補にした。宮本を含めた4人の相談が、宮本風に言うと「我々は、急遽『拡大中央委員会』を招集して、今後の方針を決定した」となる。
立花隆は、これを宮本の形式的思考と呼んでからかっている。宮本の思考形式と言うものは、「弁証法」とは似ても似つかぬ、四角四面の硬直した形式的・官僚的思考形態なのである。
戦後の話だが、新聞「赤旗」の配達をする党員が少なくて、地域の党組織が困っているという状況が耳に入ると、企業の党組織に所属している党員にも、地域での新聞配達に協力させようということになった。そこで、宮本は、党の規約を改正して、「経営に所属する党員は、自分の居住する地域での活動に協力すること」と書き加えた。規約を改正すれば、党員は自動的に地域での活動をすると考えているのである。
形式主義は、組織内の身分秩序にも及ぶ。中央委員会には、各専門部がある。宮本は専門部に顔を出しても、部長としか口をきかないなど、序列によって態度を使い分けていた。2003(平成15)年6月、酒席で女性秘書にセクハラしたとして党理論政策委員長という「重職」を棒に振った筆坂秀世・元参議院議員の騒動は記憶に新しいが、彼が衆議院選の候補者活動をしていた頃、宮本のピンポンの相手をしながら、「自分のような小物が選挙に出ても、当選は覚束ない」と嘆いたところ、宮本が「よし、それでは大物にしてやろう」と中央委員に抜擢したという真偽の判然としない噂話まであった。
日本共産党は、党規約によって3年に1回党大会を開くことになっている。最近では、熱海の近くの伊豆多賀にある党の学習会館で開催されることが多い。全国から一千人前後の代議員が集まってくる。宿泊施設があって寝泊まりできるようになっている。その食事も、党内の身分によって差がつくのである。まず一般の党員で代議員になっている者と中央役員(中央委員)で代議員になっている者では食事の内容、副食(おかず)が違うのである。
中央役員の間でも、ヒラの中央委員より幹部会員はおかずがもう一品多くつく。常任幹部会員ともなれば、さらに一品多くなる。その上の宮本委員長(当時)ともなれば……。
日本で、一番の山と言えば富士山、一番の御馳走と言えば、鯛の刺し身に決まっている。そこで、宮本委員長(当時)のボディーガードをしている連中が、熱海の魚屋に鯛を買いに走らされる。勿論一番新鮮で、一番大きな鯛でないといけない。殿様、いや失礼、委員長に万が一のことがあってはいけないからボディーガードが先ず毒味と称して試食した上で、殿様、いや失礼(どうしても間違ってしまう)委員長に差し上げるということになっている。
この党学校の食堂の責任者に、以前帝国ホテルの主任シェフをしていた人がいて、「組織内の身分の違いで、おかずの数が変わる世界は、日本共産党だけだ」と言って嘆いていた。
宮本の形式主義は、人物にも及ぶ。まず、日本共産党のトップは、東大でなければならない。不破哲三も、志位和夫も東大出身である。新聞 ―― 勿論「ブルジョワ新聞」のことだが ―― は「朝日新聞」。亡くなった松下宗之元社長の取材には、夜中でも木戸御免で応じた。テレビはNHK。民放などは見たこともないのではないか。
さらに彼の形式主義は、物品の「ブランド志向」にも及んでいた。背広は「英国屋」かどうか知らないが、ネクタイは、フランス、靴はイタリアの決まったブランドでないとだめ。巣鴨の拘置所で宮本百合子に差し入れてもらった鰻重がよほどおいしかったと見えて鰻重が大好きだそうだが、これも銀座の決まった店のものしかだめ。
勿論自分の生活は超一流でないといけない。昔は「刎頸の友」、後に「不倶戴天の敵」となった袴田が暴露しているように、「数名の秘書、十数名のボディーガード、専属の医師、看護婦、保健婦に取り囲まれて生活し、専用のコックを連れて旅行」「ユーゴスラビアのチトーの山荘を見てからは、熱海の党学校に自分専用の宿舎をつくらせ、中国の毛沢東が中南海の自宅にプールをつくらせて運動不足の解消に努めていると知るや、党学校に一億円をかけてプールをつくらせた」。
トヨタ自動車には、オーダーメイドの自動車をつくらせ、代々木の党本部近くに自分専用の宿舎を設け、伊豆半島には夏用と冬用の保養所をつくらせ、専ら別荘がわりに利用していた。誇張表現の得意な袴田は「王侯貴族の生活」と批判したが、当たらずとも遠からずであろう。
宮本は「自らを軽んじる者は、他からも軽んじられるのだよ、袴田くん」とよく口にしたと袴田は書いている。宮本が自らを非常に重んじていたことは事実である。誰も言わないうちから、自ら「歴史的大物」を気取り、参議院議員時代にメンバーだった法務委員会には、一年に一回、年初の委員会に出席するだけであった。国会秘書時代、参議院の廊下を、肩を左右に揺すりながら柔道をした男特有のガニ股でのっしのっしと歩く後からお供をしたことがあるが、宮本が「自らを重んじている」ことは、この歩き方からも窺われた。
「所得倍増」に反対し続けた共産党
「所得倍増計画」に 「所得倍増計画」には、次のように書かれている。「この計画の究極の目的は、国民生活水準の顕著な向上と完全雇用の達成にむかっての前進である。そのためには、経済の安定的成長の極大化が図られなければならない」「現実の経済において内外の経済諸条件がこの計画で想定した以上に好転する場合には、この計画が掲げる目標が計画期限内に達成されることもありえよう」と楽天的に述べている。
倍増計画の内容を簡単に要約すると、昭和35年度に13兆円であった国民総生産を、翌年から10年後の昭和45年度には約2倍の26兆円(1958年度価格)にし、一人当たりの国民所得208,601円(579ドル)を1957年の西ドイツ、フランスの742ドルの水準に近づけようというものであった。
この計画は至る所にバラ色の世界が描かれていた。賃金の上昇、労働時間の短縮、年功序列型の人事から職能に応じた労務管理制度へ、住宅不足解消と一戸3室(2DK)のアパートの供給、雇用の近代化、最低賃金制の充実、貧乏と失業の不安の解消、完全雇用の実現などである。
「所得倍増計画」が発表されると、この計画に批判的な「マルクス経済学者」といわゆる「近代経済学者」との間に活発な経済論争が交わされた。
その争点の一つは、成長率についてであった。マルキストや一部の経済人は、戦後の日本経済は、戦前の水準を回復して復興期は既に終わっているので、5~6%が妥当であろうと主張した。これに対して、高度成長を推進する代表的なイデオローグで、エコノミストであった下村治は強気で、日本経済は「歴史的な勃興期にあり、11%の成長は可能だ」と主張した。
もう一つの争点は、日本経済の「二重構造論」と呼ばれるものを巡る論争である。
それは、大雑把に言って、日本経済は、大企業と中小企業、農業との二重の構造になっていて、賃金、労働条件、経営の前近代性といった点で、全く別の世界となっており、前者は後者の犠牲の上に、それを踏み台として、成り立っているというものである。
ここに、『経済白書』(1956年度版)が述べた有名な一節がある。
「もはや『戦後』ではない。われわれはいまや異なった事態に直面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は、近代化によって支えられる」
ここには、近代化を通じての成長しかあり得ないし、高度経済成長によってこそ、この二重構造の解消をはかることができるという認識が示されている。
しかし、これに対して、マルクス主義の陣営から、厳しい批判が加えられた。「高度成長は二重構造を利用し、かつこれを再生産しつつ進められるものであるから、高度経済成長にかかわらず日本資本主義は近代化しない」というものであった。
しかし、中小企業が、あらゆる部門で大企業の下請け事業として支配され、あるいは、潜在失業者のたまり場であるというような一面的な認識は、現実の経済成長過程のなかで、姿を消していった(勿論、いくらかの「格差」は依然として残っているが)。
野党第一党の社会党は、倍増計画を当初は厳しく批判した。委員長の成田知巳は「所得倍増計画は二重構造を踏み台にした独占資本のための高度成長政策であり、必ずや所得格差の一層の拡大と物価騰貴、国際収支の逆転をもたらす」として、政策の転換を要求した。しかし、実際に経済が高度成長をはじめると、驚きあわて、自分自身の「政策を転換」して、1960年代の長期政治経済計画では、政府の高度成長政策を上回る4年間で所得を1.5倍にするという提言をするにいたった。
日本共産党は、社会党のこの態度を政府自民党の軍門に下ったものとして嘲笑して、「この自民党の高度経済成長政策に一貫して反対したのは、政党のなかで、我が党だけであった」と『日本共産党の八十年』のなかで自画自賛している。
「独占資本奉仕の反人民的本質を指摘して、最初からこの政策に明確に反対したのは、日本共産党だけであった」「社会・民社など他の諸党は、それぞれの『高度成長』構想を発表して、経済成長の速度を自民党と競い合う態度をとり、その後結党された公明党をふくめ、『高度成長』政策推進を具体化した諸法案に賛成した」と他の野党を厳しく批判した。
ところが、所得(労働者の賃金)の倍増は「10年」どころか、「7年」で実現してしまった。
経済の高度成長が実現した後になっても、我々は、一貫して反対していたと自慢する神経、そもそも、自国の「経済成長」に反対するというのは一体どういうことであろうか。
1950(昭和25)年に、反共と経済闘争を標榜する我が国最大の労働組合、総評が結成された。労働運動は政治闘争から経済闘争に重点を置くようになり、春闘方式というスケジュール闘争が高度成長期の労働争議のお決まりのパターンとなった。ヨーロッパ並みの賃金というのがその「錦の御旗」であり、生産性の向上が、賃金の上昇率を決定するとされた。GNPというパイの分け前論が要求の中心となった。春闘によって、毎年賃金は名目、実質ともに上昇した。労働組合が、春闘や様々な経済闘争で成果を上げるのと反比例するかたちで、労働運動に陰りが見えるようになった。年々ストライキの件数は減少し、労働組合の組織率も減少しはじめた。
労働者は極めて現実的で、これ以上賃上げを要求すると会社が倒産して、元も子もなくなると考える時点から、賃上げ闘争をあきらめてしまった。レーニンは、労働者というものは、自然発生的には、「労働組合意識」しか持たないと書いて、「革命的前衛党」の結成を説いた。しかし、「労働組合意識」すら持たない労働者が、「労働者階級」の多数派となった。しかも、現実の生活のなかで、ある程度欲望が満たせるようになると、ユートピア(社会主義)のなかに救済を求めなくなり、ユートピア(社会主義)は必要でもなくなってくる。「豊かな社会」が、「ユートピアの終焉」を招いたと言われるゆえんである。
日本の高度経済成長は、一つの経済、社会「革命」であった。それは、経済、産業の構造を変えたばかりか、国民の生活の様式と意識に変容をもたらし、階級対立にかえて、「新中間大衆」(村上泰亮)を生み出し、歴史の推進力となるはずであった「階級闘争」を和解させ、対立物の「闘争」ではなく、「対立を高いレベルで両立させる」(テオドール・アドルノ)結果をもたらした。労働者は「資本主義機構そのものによって、組織され、訓練されて、資本主義に対する反乱(Aufstant)に立ち上がる」(マルクス)のではなく、「資本主義に統合されてしまった」(マルクーゼ)。
ロシアにおける「社会主義の実験」とその結末
ロシア十月「大」革命から74年後の1991年8月、ソ連共産党が解散し、ソ連邦が消滅するという誰も予想すらしたことのない事態が発生して世界中が驚くことになった。
CIAが当時、21世紀を展望したレポートには、ソ連が依然としてアメリカを脅かす危険な超大国として描き出されていたというから、あの想像力豊かな、スパイにかけては超能力を有するCIAにとってさえ、「共産主義の崩壊」は、想像を絶する出来事であったにちがいない。
フルシチョフの「スターリン批判」(1956年)、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」の発表(1962年)、チェルノブイリの原発事故をきっかけに始まった「グラスノスチ」(情報公開)(1986年)、など一連の動きによって、人々はソ連という現実を共産主義というユートピアのプリズムを通して見るのではなく、実際の姿をありのままに観察することが出来るようになった。「現実の社会主義」論、「現行社会主義」論というのがそれである。
とりわけ、「グラスノスチ」による、公文書や公式統計の公表、レーニン・スターリンの論文・文書のそれまで秘匿されていた部分の公表は、党と国家による真理の独占と情報の管理によって維持されていた共産主義国家の正統性を打ち砕いてしまった。
堰を切ったように溢れだした情報によって、何年もかけて、丁寧に作られてきた共産主義国家の虚像はこなごなに粉砕されて、「実像」がさらけだされ、その「崩壊」は避けられなくなった。
「十月革命は、人類の歴史に新しい時代……社会主義と共産主義の幕を開いた。レーニンの祖国ロシアは、世界社会主義の端緒を開いた」と『ソ連邦共産党史』(1969年版)は書いた。1917年のロシア革命は、人類の歴史の黎明を告げ知らせるものであり、人類史に新時代を画するものだとされた。
それから74年たって、ソ連の共産主義は崩壊し、十月の事件は、「革命ではなくクーデター」であり、ロシアの国民に内戦、粛清、集団化による六千二百万人の死をもたらした「ロシアの正常な発展を妨げた歴史的惨事」へと評価は百八十度変わってしまった。
レーニンは、「マルクス主義は正しいが故に万能である」「マルクス主義は、文明の外で発生した、閉鎖的で、硬化した学説ではない。反対に、マルクスの天才は、まさに彼が人類の先進的思想がすでに提起していた問題に回答を与えた点にある」と述べて、マルクス主義が人類の文化の全体を総括して生まれた、近代文明の嫡出子であり、その頂点に立つものとして位置づけた。
1991年に大統領に就任したボリス・エリツィンが、モスクワで開かれた民主ロシアでの集会で次のような挨拶をおこなったことはまだ記憶に新しい。
「我々の国は幸せではなかった。この国はマルクス主義の実験をすべく運命づけられた。この実験はわれわれの祖国で開始されたが、結局のところ、マルクス主義の理論など存在する余地がないことが立証された。この理論はわれわれを、世界の文明国が辿った道から踏み外させただけであった」
そして、なんと、「ロシア革命は、ロシアの歴史においてのみならず、全人類の歴史における、最大の惨事(カタストロフィー)であった」(レオニード・イリン『ロシアの理念』モスクワ、1994年)と語られることになってしまった。
ともあれ、1917年の革命と1991年の反革命があって、74年間にわたる「社会主義の実験」は終わった。その間、ソ連共産党によって殺害された人の数は、6200万人に達するという(1997年11月6日、ロシア革命八十周年記念・モスクワ放送)。また、NKVD(のちにKGB)によって直接銃殺されたものは、本部だけで350万人、地方の支部によって銃殺された者150万人を合わせて、この組織だけで500万人弱と推定されている。これらの人達は「人民の敵」とか「反革命分子」「帝国主義の手先」「トロツキスト」「民族主義者」などとレッテルを張られて、「裁判抜きで」「その場で」「見せしめのために」(レーニン)銃殺された。そして、この銃殺された人の99.99%が無実の罪であったという(元KGBシェバルシン議長代行が1998年1月19日、読売新聞記者のインタビューに答えて)。
人間が善意をもって、つまり、よかれかしと思ってやったことが結局失敗に終わったということは、よくあることである。とりわけ、実験には失敗がつきものである。しかし、「社会主義の実験」は、あまりにも、コスト(犠牲)が大きすぎたといわなければならない。共産主義には歴史の審判がまっており、その判決は最もきびしいものとなるであろう。
共産党を取り巻く環境は非常に厳しいものがある。ソ連・東欧の共産主義の崩壊をうけて、西欧の共産党は、イタリア共産党の解散(1991年)を先頭に、次々と解散、党名変更をして、従来型の共産党というものは消えてなくなった。もちろん個人として共産主義の信念を堅持している人は少しいるが、もはや残党としかいいようのないものになっている。苦境にたたされた日本共産党は、「マルクス・レーニン主義」をなんとか換骨奪胎して、生き残りをはかろうとしている。その一つは「市場社会主義」といわれるものである。中国やベトナムが改革・開放路線をとって、市場経済に転換したのに勇気づけられて、この「市場社会主義」に活路をもとめようとしている。マルクスによれば、社会主義とは市場経済を廃棄(Aufheben)して、何らかのかたちで計画経済を建設することである。だから、市場社会主義などというのは、一種の形容矛盾のようなものである。どうして市場社会主義が不可能であるか、この点についてソ連崩壊の教訓に触れておきたい。そうでないと、日本共産党や不破哲三以降の市場社会主義論に振り回されて人生を誤る青年・学生があらわれるかもしれないからである。
ソ連が崩壊すると、世界中の専門家によって検討が加えられ、ソ連(スターリン)型の社会システムそのものに、ある程度を超えた段階で、経済の成長を鈍化させる要因が働いて、停滞を招くことが突き止められた。1919年に制定されたロシア共産党綱領では、生産手段の全面的国有化、「一つの全国家的計画にそって国のあらゆる経済活動を最大限に集中すること」といういわば「超」中央集権的計画経済が強行されてきた。それでも、重化学工業建設の段階では、それなりの成果を納めたけれども、1970年代、とりわけ、ハイテク時代がやってくると、ソ連型の生産様式のもとでは、さらなる経済発展のために労働者に労働のインセンティブを与えることが出来ず、個々の労働者の労働生産性のみならず、社会全体の生産力の向上が期待できないことが明らかになってきた。
日本共産党の第十三回臨時党大会(1976年7月)で、下部の党員からの質問に対して、日本共産党は、(一)経済の計画化と(二)生産手段の国有化という二点は断固堅持するものであるから、共産主義の路線はゆるぎのないものであると回答している。
勿論、30年まえの話だが、当時日本共産党が社会主義経済のモデルとして、ソ連(スターリン)型経済を念頭に置いていたという証拠としては十分であろう。
ところが、この(一)経済の計画化と(二)生産手段の国有化を二本柱とする「ソ連(スターリン)型経済システム」が破綻したのである。
1985年3月にゴルバチョフが54歳の若さでソ連の書記長に就任すると、「1975年代の後半、我が国は勢いを失い始め」経済成長率が「経済の停滞に近い水準にまで」落ち込んだと書いた。そして、「生産効率、生産物の品質、テクノロジーについて、大部分の先進国とのギャップは拡大し始めた」「山積する社会発展の矛盾」の結果、ソ連社会は「危機寸前の深刻さ」であると警告して、ソ連社会主義の全体的な「たて直し」が必要だと言う認識を示した。そして、レーニン死後のソ連史全体の見直し作業が行われた。
社会・経済改革とならんで政治改革がおこなわれ、憲法におけるソ連共産党の指導性規定の条項を放棄するなど(1990年2月)重大な改革が試みられた。
一連の経済改革のなかで、もっとも重要なものは、国有企業法(88年1月施行)である。これは、「超」中央集権的な、社会主義計画経済に多少なりとも市場(競争)原理をもちこんで経済に弾力性と柔軟性を与え、もって社会主義経済の活性化をはかろうとしたものである。不破哲三は、ソ連・東欧共産主義の崩壊以来、市場と計画の結合、市場経済を通じて社会主義へとか、盛んに市場原理を持ち上げて「社会主義」を救いだそうとしたけれども、1965年のコスイギンの経済改革以来、ソ連や東欧で試みられたすべての「経済改革」の内容は、硬直した計画経済に市場(競争)原理を持ち込んでその活性化をはかろうとしたものであって、そうでないものは一つもなかったのである。
ソ連(スターリン)型経済では、国営企業は中央計画当局の厳格な管理下におかれ、企業は経営上の自主権を保持しておらず、国家計画全体の単なる一部分・遂行単位にすぎなかった。国家から、原材料を無償で供給され、どういう製品をどれだけ生産し、幾らの価格で誰に引き渡すか、労働者にどれだけ賃金を支払うか、全てを中央機関から指示された。各企業が自主性と創意を発揮する企業努力のできる余地は、殆どなかった。そこで、ゴルバチョフは、経済問題は、市場(商品・貨幣的諸関係)の果たす役割の拡大によって解決されると考えた。企業を「本格的な損益勘定と自己資金調達」にもとづいて経営し、その生産物も計画経済によって直接分配するのではなく、企業間の契約にもとづく「卸売取引」のシステムによって分配すべきであるとした。企業は大幅な自主裁量権を与えられ、国有企業は、自ら生産計画を立案し、資金を調達し独立採算性にもとづく商品生産単位として位置づけられることになった。しかし、実際にやってみると、価格制度や資材・原料の調達制度、競争条件など、市場経済のインフラが整備されていなかったために、企業の利潤追求が経営効率や生産量の拡大を通じてではなく、独占価格を設定して暴利をむさぼったり、生産量の制限による価格上昇をはかるなど、企業の歪んだ経済活動により物不足とインフレという反社会的な結果とマクロ経済のアンバランスとを招くことになった。
国有企業法を実施した結果、国民経済の全体を改善するためには、単に企業(とその支配人)に自主性をみとめるだけでは不十分であり、商品市場には、資本市場が必要であり、さらには、労働市場も必要となること、所有改革、つまり生産財の非国有化(私有制)を認めることや、さらには、市場経済をうごかすためには、企業家マインド(シュンペーターがいう『企業家精神』)が必要であることが分かったのである。実業家は、自分の全財産と全実存をこの市場での勝負に賭ける。だから、彼はこの勝負に真剣になり、全知全能を傾ける。国営企業の総支配人には、このようなことはできない。こうして、企業活動において、所有と責任はうらはらの関係にあることも分かってきたのである。
ソ連と東欧の「経済改革」は、硬直した計画経済に何とかして市場経済の利潤・競争の論理を持ち込もうとした試みであったが、計画と市場は、所詮水と油であり、「結合」できないことが分かった。計画経済に市場経済の論理をとりこもうという全ての試みは失敗に終わった。改革を中止して、もう一度以前の計画経済にもどるか、それともさらに市場経済へ前進して、計画経済(社会主義)そのものを廃棄するか、二者択一を迫られることになった。そして、政治的決断として計画経済(社会主義)に終止符を打つことになったのである。不破哲三は市場社会主義をもちだして、もう一つのユートピアでもって下部の党員を籠絡しようとした。しかしそんな可能性があればソ連が崩壊する事はなかった。ソ連が崩壊したのは、単にソ連(スターリン)型の計画経済だけではなく、「混合経済」(計画経済に市場経済をくっつけようという試み)、計画経済を市場社会主義にとって換えようという試みなど、全てが失敗に終わったからである。
人類の「社会主義」という壮大な実験は、大きな犠牲を残して完全な失敗に終わった。
いずれにせよ、マルクス・レーニン主義(科学的社会主義)が全面的に破産した状況を厳粛に受け止め、イタリア共産党のように、一旦解散して出直すのが、いさぎよい、誠実な態度であると思う。そうではなく、歴史の真実を誤魔化して、なんとかこじつけて新しい社会主義革命像を描き出そうというのであれば、日本国民は、この党を歴史のゴミ箱に叩き込むであろう。
平成20年9月 文庫版のためのあとがきにかえて
兵本達吉