誠実に歩み続けて七十余年 ―わが共産党人生に悔いなし―
著者の丸山久明さんは、私の小学校時代の学級担任でした。
共産党の方であり、「日本軍は中国で悪いことをした」「祝日でも日の丸を掲揚してはいけない」から始まって、共産党教育を受けました。
その後、そのマインドコントロールが解けるまでずいぶん時間がかかったと思っています。
ですから、丸山久明さんが担任だったことがとても残念です。悔しいと思っても児童は先生を選べない・・・。
この本は2012年に自分史として出版されたもののようです。
担任をしてもらっていた、第三章第三節の岩沢小学校のところ(目次の緑色の部分)だけ読み(面白かったら他もと思ったのですが、結局そこだけです)ました。
分量や内容からも、当時「岩沢小学校の教諭として」ではなく「共産党員として」頑張っていたことが改めて分かりました。小学校でのことも校長と渡り合ったことしか書いてない(笑)。
「わが共産党人生に悔いなし」と副題がついています。悔いのない人生で良かったですねと申し上げたいと思いますが、共産党員としてではなく小学校教諭として振り返ってもらった時、教え子の人生(私以外の同級生はどう思っているのか分かりませんが)を考えたら、少しは悔いてもらいたいものだと思います。
良かったらこちらもどうぞ→丸山久明先生の思い出
丸山久明さんの「誠実に歩み続けて七十余年」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
第一章 幼少期と故郷大積灰下
第一節 灰下で誕生 出雲崎を経て与板で入学
/第二節 大積小中学校は故郷灰下で
/第三節 長岡高校では下宿生活
/第四節 私は生まれつきの引っ込み思案
/第五節 わが丸山家の歴史を顧みる
第二章 父祖、妻子と兄弟、義父母と義兄妹
第一節 私の父祖
/第二節 妻と三人の子どもだ
/第三節 私の三人の弟たち
/第四節 村山家の父母と兄妹
第三章 新大教育学部の四年間
第一節 教育学部長岡分校に入学
/第二節 執行委員になり書記長として活動
/第三節 日本共産党に入党
/第四節 新潟本校でもすぐ執行委員に
/第五節 世界青年学生平和友好祭
/第六節 わが最大の闘い六十年安保闘争
/第七節 安保後も活動継続の教育自治会
/第八節 大豪雪 校舎を守り校舎を新築
第四章 教員時代 わかりやすい授業と暮らしを守って
第一節 赴任地は 糸魚川市立下早川小学校
/第二節 妻のいる松之山へ…三省小学校に転勤
第三節 小千谷市立岩沢小学校
〈小千谷山古志農村労組を結成〉
赴任11ヶ月で農村労組を結成/結成大会での発言から/農作業賃金1200円にまかない付き/職安の締めつけと闘い200人の大型組合へ
〈新任校長の暴言〉
「共産党退治が私の仕事」/「赤旗を増やしているそうだが」/「予算が無くなった。屋根の雪掘りをしてほしい」
〈全国教研で「僻地の実態と農村労組の結成」を報告〉
〈子どもたちへの断ちがたい思いのなか退職〉
妻に「退職するなら離婚だ」と迫られながら
〈木村隆利先生を偲ぶ〉
第五章 農村労働者の暮らしと権利を守る
第一節 農村労組の県連・全国連の誕生
/第二節 農村労組の専従になる
/第三節 労働者の権利擁護と待遇改善(その一)
/第四節 出稼ぎ問題・豪雪対策に執念
第六章 国政選挙八回、市長選挙二回
第一節 参院選に立候補
/第二節 最後の立候補は新潟市長選挙
/第三節『赤旗』で、新潟日報で
/第四節 田中金脈の追及に燃えて
/第五節 巻原発を建設断念に追いこんだ闘い
/第六節 労働者の権利擁護と待遇改善(その二)
/第七節 住民の生活保障
/第八節 豪雪対策に執念燃やし
/第九節 騒音公害
/第十節 日本共産党員としての活動をふりかえる
第七章 退職後の津島屋での活動
第一節 津島屋に新居を建てたが(津島屋での活動その一)
/第二節 共産党専従をやめ津島屋に定住して活動
/第三節 自治会長になる
/第四節 市長への要望書など
/第五節 新潟市長選挙に出馬…善戦
第六節 通船川護岸改修工事
/第七節 行事、当初は津島屋連合などの活動だった
/第八節 行事重視の自治会活動
/第九節 企業の営業や住民の暮らしを守る
/第十節 バス路線廃止をくいとめ存続させる
/第十一節 阿賀野川堤防の安全性を求めて
/第十二節 阿賀野川堤防道路に舗道を実現
/第十三節 交通死亡事故をくり返さないために
/第十四節 3.11東日本大震災
/第十五節 新潟医療生協(木戸病院)での活動
/第十六節 旅行も大好き 寸暇を惜しんで国内外 《海外旅行》《国内旅行》
おわりに
<補足>
第三章第三節で「私にとって、長岡分校最大の思い出は1958年11月1日の日本共産党への入党です。これは私の長い人生にとって最大の転機となるものでした。」と書き出しています。
第三節 小千谷市立岩沢小学校
1966年4月小千谷市立岩沢小学校に転勤しました。小千谷市の南部に位置し、十日町市に接する地域です。各学年二学級、全校で十二学級の学校で、小千谷市の南部郷という川井、岩沢、大崩、真人の中心校でした。
信濃川は、長野県から津南町、十日町市を経たのち、北上して小千谷市岩沢で大きく東に湾曲し川口町で魚野川を合流したのち再び長岡市へと北上します。岩沢はその湾曲の位置にあります。
その信濃川に沿ってJR飯山線と国道117号線が走っており、学校へ行くには、十日町行きバスで岩沢小学校前下車、鉄道は岩沢駅から徒歩5分です。
農業が主体の地域ですが、十日町の出機を内職とする女性が多く、男性では十日町市、小千谷市、長岡市などへの通勤者が結構おりました。
<補足>
当時の岩沢小学校、「各学年二学級、全校で十二学級の学校」とお書きですがそうではなく、「各学年一学級、全校で六学級の学校」でした。
丸山久明さんの岩沢小学校勤務は昭和41(1966)年~昭和43(1968)年です。
〈小千谷山古志農村労組を結成〉
「赴任11ヶ月で農村労組を結成」
未知の新任地にきた私には、学級経営や教員組合の活動と同時に、もう一つ挑戦してみたい課題がありました。それは、松之山に続いて、もう一度農村労働組合をつくること、それをどれだけ早くやれるのか試してみたいと思っていました。
選んだ地域は、勤務終了後に、私が党組織の指導を担当することになった小千谷市の東部に位置する東山地域でした。学校を出たあと家に立ち寄り正反対の長岡市よりの位置にある東山へ行く。冬は学校へはバスや電車で往復しましたが、東山への片道6キロの道は徒歩で往復以外ありませんでした。
この地域の主な収入源は土方や出稼ぎでの収入です。高度経済成長政策と農業構造改善政策により、農業では生活できなくなって出稼ぎ者として大都市に出て働くのが一つの道。もう一つは、15年戦争で衰退しきっていた錦鯉や闘牛(これらは戦時下では絶対に繁栄できない平和的な産業であり行事です)が、高度成長の影響で活力を取り戻し、棚田を養鯉池に変える工事などが盛んになりはじめていたわけですが、その作業につくことでした。この地域は、錦鯉発祥の地として有名な二十村と呼ばれる地域です。闘牛も古くから盛んな地域でした。
私は学校の勤務が終わると足繁くこの地に通い、共産党員や地域住民を訪ねては交流を深めました。
「『仕事もそうきつくはないし、食い抜きで1500円出す』ということで7人で静岡へ行ったが、まったくひどかった。飯場から現場までトラックで1時間、ホロもない吹きさらしで骨材なみだった。そのうえ1300円しか出さない。親方とさんざんケンカして帰ってきた」
「安全な仕事では安くて暮らせない。食える日当をとるには命がけで、母ちゃんに内緒でやっている。飯場で布団に入ってやっと今日も無事だったと安堵する」
こんな話を聞きながら組合作りを話しあい、見ず知らずの地で1967年2月26日、小千谷山古志農村労組を結成し、私は書記長に選ばれました。小千谷に赴任してから11月余りでの結成で、農村労組がいかに求められているかを示すものでした。
「結成大会での発言から」
結成間もない小千谷山古志農村労組の機関紙に、「農民が一人で悩んでいるときは終わった。さあ皆んなで手を組もう」という記事が載り、結成大会での発言が紹介されています。
「子どもも大勢いて、トッツァ一人の900円や1000円の稼ぎじゃどうにもならん。血圧あ高えし足腰あ痛む。医者じゃ薬はなすなと言われてる。その薬買うゼニとりに薬片手に土方に出てるんだ。日当はどうしても1300円にしてもらいたい」
「出稼ぎには、年寄りや子どもが出るがじゃねえ。この雪の中、若手に出られて年寄りが『ヤガモガヤガモガ』道をつけたり雪掘ったり。年寄りは死ねと言っているがだ」
こうした盛り上がりのなかで、私たち小千谷山古志農村労働組合が結成されました。農業だけでは食えなくされて賃労働で生活を支えている農業農村労働者の組合です。どんな小さな要求でも、たった一人の苦しみでも自由に持ち出し話し合い、力を合わせて闘い勝ちとっていく組合です。どの政党を支持して活動しようと自由な組合です。
組合を大きくし、みんなの要求を少しでも多く解決するために、組合に入ってください。
「農作業賃金 1200円にまかない付き」
組合結成から間もない3月19日は、岩間木集落の総会でした。ここで早速、組合員たちが頑張りました。
「去年の農作業賃金は1000円だった。土方は900円でこき使われている。オヤジ一人の稼ぎじゃあとても食えず、母ちゃんも薬片手に出ていく」
「土方賃金も農作業賃金も一日最低1300円にはしてもらいたい」
総会はもめた。ついに決定は、区長、議長と農村労組の交渉に任された。農村労組は農作業賃金決定の労働者代表として認められたのだ。
結論が出た。「1200円にまかない付き」実質1300円はとれた。勝った。組合員は喜んだ。
岩間木では、部落の半数以上が農村労組に入っていた。「団結だけが俺たちの力」だった。
「職安の締めつけと闘い200人の大型組合へ」
その後、平場の山谷や片員など稲作地帯に組合づくりが広がりました。冬は土方や酒造りの出稼ぎなどに行き、夏場は失業保険を受給するかたわら稲作中心の農業をやる人たちが中心でした。
全国の職安は、「就労意志のないものには受給資格はない」として、田植えの忙しい時期をねらって「短期就労」(農繁期をねらって農業労働に紹介するもの)を紹介し、拒めば「就労意志なし」として失業保険の受給資格を奪うという、猛烈な締め付けをはじめました。出稼ぎ者たちの悩みは深刻でした。私たちは、「安定した、生涯働ける職場を紹介してほしい」「そうすればいくらでもその就職斡旋に応じるが、短期就労ではとても応じられない」「そんなごまかしで受給資格を奪うのはやめてくれ」と対応し、締めつけをはね除けました。
組合のこうした方針は、出稼ぎ者に大いに支持されました。こうして彼らを次々と農村労組に組織し、小千谷の農村労組は、県内ではじめて200名を超える県内最大の組合になりました。
〈新任校長の暴言〉
「共産党退治が私の仕事」
私の本業、学校職場はどうかといえば、岩沢小学校に勤めた2年目に、新しい校長が赴任してきました。当時、新任校長は僻地校勤務が普通でしたが、この校長は例外中の例外。会ってみると実に高圧的な物言いをする校長でした。
新学期が始まって間もなく新旧教職員の歓送迎会が聞かれました。そのあいさつには仰天しました。「新任校長の私か地域の中心校、岩沢小学校の校長になったのは、共産党を退治するという仕事があったからです」と言うではありませんか。私は、酒をつぎながら、「そういうことは退治し終わってから言うべきで、退治できなかったら恥をかくだりではないですか」とだけ言っておきました。彼は「いや違う」と言い張り前言の訂正はしませんでした。
「赤旗を増やしているそうだが」
ある日呼ばれて校長室に行くと、「君は子どもの家に赤旗を増やしているそうじやないか」と言うのです。「誰から聞きました?」「そんなことは言えない」「誰から聞いたかも言わずに、同僚の職員をなじる。だから校長先生もご承知でしょう、職場で信用がないのです。今後誰から聞いたかを言えないような話は持ち出さないようにしましょうよ」これで話は終わり、以後この話は出ませんでした。
「予算が無くなった。屋根の雪掘りをしてほしい」
冬のある職員会議で、「学校の予算がなくなった。先生方屋根の雪掘りを頼みます」こんな話がありました。私たちは同意できませんでした。「怪我をしたらどうするんですか」「毎年の屋根雪掘りは地域の人々が副収入として期待しているのです」でも校長は「わかった」とは言いません。
私は、その放課後、翌日の年次有給休暇を申請しました。使用目的を聞かれましたが、「年休は使用目的を問わないはずです」と説明を断り、翌日市役所に行きました。市長が不在だったので助役に会い事情を話しました。
助役はその場から教育長を電話で呼んで話してくれました。除雪費は出してもらえることになりました。翌日校長に「よかったですね」と言うと、「こういうことは金輪際しないでほしい]ということでした。
<補足>
ここで紹介されている校長は「佐藤浅右衛門」という方(昭和42年~昭和47年)です。
第六章第十節「日本共産党員としての活動をふりかえる」の中の、〈党勢拡大活動の覚え書き〉では②で次のようにお書きです。
丸山さんの覚え書きを見れば、校長が「君は子どもの家に赤旗を増やしているそうじやないか」と言ったそのことは事実であったろうことが理解できます。
② 七年間の教員時代にも、十人を超える入党者を迎えましたが、拡大行動の中心は読者拡大でした。
特に松之山、小千谷では徹底して家庭訪問をくり返しましたから、その中で読者が増え、「教え子の家の半分くらいは読者になってくれる」と確信していたものです。
「先生、何新聞読んでいるんだエ」
「新潟日報と赤旗」
「赤旗というのはどんな新聞? 面白いんかね」
「大学一年から読み始めたけど、ホンとのことがズバリ書いてあって面白いし為になる」
「オラも読めるかね」
こんな会話の中で読者になってもらい私か配達していました。
(P334)
〈全国教研で「僻地の実態と農村労組の結成」を報告〉
・・・「辺地教育など討議 全国教研集会(日教組・高教組の教育研究全国集会)分科会 丸山教諭(岩沢小)ら発表」という見出しの新潟日報の記事を紹介したうえで・・・
右の記事は、教育研究全国集会新潟集会を報道した新潟日報の記事ですが、下の写真に見るとおり、県民会館が満員の参加者で埋まるという盛会ぶりでした。
日本社会が高度経済成長期にむかう情勢のもと、農業が大きな困難に直面し農村の労働力が出稼ぎ者として都会にかり出され、子どもたちの学ぶ環境が危機に直面するなかで、松之山と小千谷で農村労働組合結成に成功し、全国の仲間にその経験を発表できたことは、生涯の大きな思い出になるものでした。
〈子どもたちへの断ちがたい思いのなか退職〉
妻に「退職するなら離婚だ」と迫られながら
私は、教育学部で学び、学校現場で教育にたずさわるなかで、教育の仕事が好きでたまらなくなっていました。
その一方で、教職のかたわら小千谷山古志農村労組の書記長や農村労組新潟県連の副委員長も引きうけていました。農村労組は、松之山、松代に続いて小千谷など、70名、100名、200名という組合が誕生し、専従を増やす必要に迫られていました。その白羽の矢が私にむけられたのです。
妻は、「退職するなら離婚だ」と猛反対でした。私白身も教育の仕事に心底生きがいを感じており、子どもの教育が人好きでしたから、「誰もがわかる授業」を求めて努力していました。子どもがふたたび労働力として家業にしばられ勉強やスポーツが思うに任せない環境を放置してはいけないと考えました。そのために父母にも働きかけて農村労働組合づくりにも取り組んだのです。
でも、農業だけでは生活できない農村地域の環境破壊は、かつてない激しさでした。農村での教育を守るためにも子どもたちの暮らす環境は守らなければならず、農村労働組合が今ほど求められている時代はない、これも事実でした。私の心も激しく揺れ動きましたが、次第に「農村労組の専従は私かやらなければならない」と、気持ちは傾いていきました。
妻には「農村労組も結婚生活も」と願う以外にはありませんでした。共産党の県委員会からも「専従になって頑張ってくれないか」と働きかけをうけるようになりました。妻の態度がすっきりすることはありませんでしたが、「戦意が少しずつ弱まっていった」ように見えたのを見計らって退職を決断したことを思い出します。辛く厳しい決断ではありました。