論証のレトリック
私は他人を押しのけてでも自分の意見を通すタイプではないと思うし、信念をもって他人を説得するというようなことはしない方だと思います。むしろそういうことが苦手です。
もちろんそういう場面がなかったわけではなく、人の説得に成功したことが全くないわけではありません。
でもなんとなく、上手くいかなかったことが多いのではないかと感じています。
その原因を考えるに、説得は論理的であるべきだ、さらに言えば論理的であればそれで良いというスタンスであったかもしれません。
齢と共にそういう傾向は薄れてきたように感じますが、若い頃はそういう部分が多かったと・・・、反省しています。
本書を読んで、遅れ馳せながら、おぼろげに感じていたことが理解できた気がします。
説得するためにはロゴスだけではなく、エートス・パトスが重要であった・・・。
ただ、本書に書かれている内容について理解できたのは80%程度だと思います。
例えば、「トポス」や「ディアレクティケー」についてはその概念をはっきり把握できていません。
機会があれば再読することもあると思いますが、今のところはここまでの理解で良いと考えています。
浅野楢英さんの「論証のレトリック」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
はじめに ―― 「言論の技術」とは何か 007
第一章 レトリック(レートリケー)事始め 029
第二章 アリストテレスのレートリケー理論 063
第三章 ロゴスによる説得立証に役立つ固有トポス 093
1 利害・善悪に関する固有トポス 094
2 正・不正に関する固有トポス 109
3 美醜(徳・悪徳)に関する固有トポス 121
第四章 エートスまたはパトスによる説得立証に役立つ固有トポス 129
1 エートス(品性・人柄)による説得立証の固有トポス 130
2 パトス(感情)による説得立証の固有トポス 136
第五章 さまざまな共通トポス 145
1 説得推論の共通トポス 146
2 見かけだけの説得推論の共通トポス 159
第六章 レートリケーとディアレクティケー 165
第七章 レートリケーと論理学 183
むすび 205
引用ならびに参考文献 217
あとがき 225
『論証のレトリック』文庫版解説(納富信留) 228
付録 247
【はじめに】の一部
レトリック(レートリケー)と修辞法
言論の技術といえば、まず思い浮かべられるのはレトリックや修辞法のことでしょう。『万葉集』や『古今集』にさかのぼる日本文学の伝統のなかにも、さまざまな表現の技術がみられます。直喩や隠喩はもとより、枕詞、序詞、擬人法、見立て、縁語、掛詞、その他数えだしたら切りがないほどたくさんの技術が用いられているのです。
けれども、これらはいずれもことばのあや(文彩)に関する技術であって、一口にいえば修辞法なのです。
ところが修辞法は古代ギリシアの言論の技術からみるとそのごく一部にすぎません。ここで古代ギリシアの言論の技術と呼んでいるのは、レトリック(レートリケー、弁論修辞術)のことです。そのレトリックの代表的な研究書であるアリストテレス(前384
— 前322)の『弁論(修辞)術』をみると、レトリックは説得立証法(説得するための証拠立ての方法)と修辞法と、言論(弁論)の部分の配列法の三つの課題の研究からなっています。修辞法はレトリックの一部でしかないわけです。
しかも言論の技術としてアリストテレスのレトリック理論を見ていると、関連する他の技術も視野のうちに入ってきます。それらはディアレクティケー(問答弁証術)と論理学です。私たちが言論の技術として古代ギリシアのそれを取り上げ、それから学ぽうとするのは、その展望の大きさと内容の豊かさゆえです。
専門外の事柄に関する言論の基盤
現代では学術研究の場においてだけでなく、企業活動の場においてもまた専門化がすすんでいます。それぞれの場で陣頭にたって仕事を押し進めているのは専門家たちです。現代はまさに専門家たちの時代であるというべきかもしれません。それだけにまた現代は「専門バカ」たちの時代となる危険性もおおいに孕んでいるのです。
ただの専門家というのは、いわば塀に囲まれた住居の中だけで、外からの情報を得ることもなく、生活している人みたいなものです。塀の中のことは四六時中よく見て廻っているのですが、塀の外は何も見えないし、かといって、外へ出かけていく余裕もないのです。専門家は自分の専門とする事柄についてはよく知っていても、ただそれだけだったらほとんどすべての事柄については無知だということになります。
ところが、自分の専門外の事柄についてある程度理解することができ、思慮分別(知恵)を伴った言論を展開できる人たちがいるのです。その言論は当の専門家をもうなずかせたり、一考を促したりすることがあるのです。そういった言論の基盤となるのは何なのでしょうか。それはもはや専門的な知識や技術ではなく、常識や一般的教養なのです。
常識のもつ大きなカ
アリストテレスは、『トピカ』(1010a30以下)で、大衆(多くの人々)を相手に話し合うには、「エンドクサ」(通念)に基づいて言論を展開することが有効だとしています。大衆を相手にした場合、大衆の「ドクサ」(見解・思いなし)を枚挙して、ほかの人たちの意見にではなく、彼ら白身の意見に基づいて論ぜよ、ということです。
アリストテレスは、『弁論術』でも、同じようなことを言っています。ある人たち(つまり大衆)に対しては「(専門的)知識に基づく言論」(1355a26)によって教授することはできないので、そういう人たちを説得するためにはむしろ「人々に共通な見解を通じて説得立証(説得するための証拠立て)と言論(弁論)をおこなわなければならない」(同上a27)というのです。
大衆というのは、ここでは専門的知識をもたない人たちのことを意味しています。私たち一人一人が皆、自分の専門外の事柄に関してはそういう大衆の一人だといえるでしょう。専門家がきわめて精確な専門的知識に基づいて厳密な論証をおこなっても、専門家以外の大衆には難しくてついていけないわけです。
「エンドクサ」「人々に共通な見解」というのは、常識にほかなりません。人が自分の専門外の事柄について考え、論じるときに拠りどころとなるのは常識です。そればかりではありません。専門家が自分の専門の事柄について語る場合でも、専門的知識をもたない大衆を相手にするならば、常識を通じてでなければわかってはもらえないでしょう。常識というのは、時代によっても社会によっても異なります。たとえば昔は「地球は不動である」というのが常識であったのが、いまは「地球は動く」というのが常識です。しかしまた、たとえば基本的人権の擁護というのはいまや世界の常識であっても、その人権の内容が異なるとすれば、基本的人権に関するある国での常識が他の国では通用しないこともあるわけです。
常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。単に皆がそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄に関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさをもつということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、または非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤なのです。
【第一章】の一部
ソフィストたちのいう「徳」の内容
ところで、ソフィストたちのいう、そのような「徳」の内容は実質的には何であったのでしょうか。それはプラトンの『ゴルギアス』でいわれているように、要するに、「言論(弁論)によって人々を説得する能力」(452E)にほかならなかったのです。つまり「法廷では陪審員たちを、政務審議会ではその議員たちを、民会ではそこに出席する人たちを、またその他およそ市民の集会であるかぎりのどの集会においてでも、人々を説得する能力があるということ」(同上)なのです。
民主制ポリスにあっては、人々は家柄や財産によってではなく、市民としての身分だけによって、政治的な権利を平等に与えられました。人々を説得する能力は政治的・社会的な成功をおさめるために有用な能力だったのです。そしてその能力は説得の技術であるレートリケーを学ぶことによってこそ得られるというわけなのです。レートリケーが流行した理由もそこにあります。
このようにして、レートリケーは、多くのソフィストたちによってアテナイその他のギリシア各地で教えられ、法廷弁論にとどまらず、議会弁論にも適用されるようになるのです。さらにまたそれは冠婚葬祭などの儀式に際しておこなわれる演説のたぐい ―― 演示弁論と呼ばれる ―― にも役立てられたことでしょう。最盛期のアテナイを指導した政治家ペリクレス(前495頃-前429)による戦死者追悼演説(トゥキュディデス『戦史』2巻35-46)はそういう儀式弁論の実例です。
レートリケーに対するプラトンの批判
プラトンは、当時流行していたレートリケーに対して、『ゴルギアス』と『パイドロス』のなかで批判しています。
『ゴルギアス』における批判はつぎのようなものです。
レートリケーは当時の弁論家たちによって、一般に「説得をつくり出すもの」(『ゴルギアス』453A)であるといわれていました。レートリケーとは説得術だということです。しかしその説得というのは、論じられる事柄に関する「知識(エピステーメー)をもたらす説得」ではなく、「信念(ピスティス)だけをもたらす説得」にすぎないと批判されるのです(同上454E-455A)。プラトンにとっては、「知識」というのは真なるものであり、しかも体系的な理論を伴うものでなければならなかったのです。それに対して、「信念」は真である場合もあれば、偽である場合もあるような思いなし(ドクサ)の一種にほかならないとされるのです。
いかにもレートリケーは、人々を説得し支配できるようになる能力をもたらすという点で、一種の政治術であるかのように、ソフィストたちによって喧伝されていました。しかしプラトンからみると、それは政治術つまり政治の技術ではなかったのです。
プラトンは、一般に技術は取り扱う対象の善(すぐれていること)をめざすものだと考えます。政治術は人々の心(精神)を対象とし、心ができるだけ善いものとなり人々がすぐれた市民(社会人)となるように配慮する技術だと考えるのです。これに対して、レートリケーは人々の心にもっぱら快をもたらすことだけを狙い、その快が善いものなのか悪いものなのかについては無関心である、とみなします。だからプラトンは、レートリケーは技術ではなくして「迎合」の一種にほかならないと批判するのです。
そのうえまた、一般に技術は取り扱う対象についても取りおこなう処置についても理論的な知識をそなえていなければならないのに、レートリケーにはそういうものが欠けているとみなされます。だからプラトンはレートリケーは技術ではなく単なる「経験」や「熟練」にすぎないと批判するのです(同上462B-465C、501AB)。
当時のレートリケーに欠けていた知識
当時「言論の技術」の名で呼ばれていたレートリケーの教科書の内容は、もっぱら弁論の主要部分の配列の仕方やさまざまな修辞法に関するものでした。このことは、さきにあげた『パイドロス』の箇所にも描写されていたとおりです。しかしプラトンによると、これらはいずれも技術としてのレートリケーにとっては予備的学習事項にすぎないのです(『パイドロス』269B)。
ちょうどたとえば、薬を処方して、からだを温めたり冷やしたり、嘔吐させたり下痢をさせたりすることを心得ていて、ほかにも同じようなことをたくさん知っているとしても、それらは医術以前の事柄であるのと同様だというのです。それらの処方のひとつひとつを、どういう人たちに、どのようなときに、どの程度まで、適用しなければならないかということを知るのでなければ、医術とはいえないわけです。
プラトンによると、レートリケーは「言論による一種の魂(心)の誘導」(同上261A)であり、言論の機能は魂(心)を説得によって導くことにあるのです。したがって、レートリケーは言論が向けられる人々の心と、用いられる言論と、言論の心に対する説得的な働きかけとに関する知識を伴うものでなければならないのです。人々の心にはどれだけの種類のものがあり、それぞれどんな性質のものであるのか、言論にもどれだけの種類のものがあり、それぞれどんな性質のものであるのか、どういう性質の心をもつ人々がどういう性質の言論によってどんな理由で説得されたり、説得されなかったりするのか。こういったことに関する知識をレートリケーは備えていなければならないということです。しかし当時のレートリケーの教科書にはその説明が欠けていたわけで、その点が批判されるのです(同上270E-272A)。
「真実らしいもの(エイコス)」と「真実」の違い
さらにまた、世の弁論家たちの重要な主張が取り上げられます(『パイドロス』272D-273A)。それによると、レートリケーに必要なのは、正しい事柄、善い事柄などの「真実」(真理)に与かることではないのです。大切なのは、「真実」ではなく「説得的なもの」(人を信じさせる力をもったもの)、つまり「真実らしいもの」のほうだというのです。「真実らしいもの」こそが大衆に対する説得を可能にするわけです。というのも、「真実らしいもの」はまた「多数の者(大衆)にそうだと思われるもの」(通念)にほかならないからです。
しかし弁論家たちのこのような主張はプラトンによって批判されます(同上273D、262A-C)。何が真実らしいものであるかを見出すことができるためにも、まず真実を知っているのでなければならないことが指摘されるのです。真実らしいものとは「真実に似たもの」にほかならないが、真実そのものを知らないのなら、何が真実に似たものであるのかもわからないはずだという論です。
それでは真実(真理)を知るためにはどうすればよいのでしょうか。
プラトンにとっては、その方法はディアレクティケー(同上265D-266C)でなければならなかったのです。プラトンのディアレクティケーは、要するにプラトンにとっては哲学(知を愛し求める営み)の方法なのです。レートリケーはディアレクティケーによる哲学的探究のなかではじめて技術として成立しうるということになります。そうでなければレートリケーは知識を欠くことになるので、技術であることはできない。これがプラトンの当時のレートリケーに対する根本的な批判であります。
【第二章】の一部
アリストテレスによるレートリケーの定義
アリストテレスの定義によると、レートリケーとは「それぞれどんな事柄に関してでも、可能な説得手段(説得的なもの)を見つける能力」(『弁論術』1355b25)であるということになります。
「説得的なもの」といっても、どういう種類の人にとってであるかによって異なります。また「説得的なもの」のうちにも、「それ自体だけでただちに説得的であって信じられるもの」と「それ自体だけで説得的なものを根拠にして証明されていると思われることによって説得的なもの」とがあります(同上1356b28)。単に「証明されている」だけではなしに、説得しようとする相手によって「証明されていると思われる」のでなければなりません。
「説得的なもの」とは、まず、相手としている何らかの種類の人々にとって「そうだと思われること」(エンドクサ)(同上b34)でなければなりません。さらにはそれに基づいてある主張を相手に説得しようとするならば、それを単に証明、つまり論証するだけでは不足です。相手の信頼を獲得し、相手のパトス(感情)をも誘導する説得的な仕方で論証しなければならないのです。その論証の前提となる説得的なエンドクサとその論証の論理を見つけ出す能力、それがアリストテレスのレートリケーなのです。
レートリケーは能力のうえではどんな事柄でも言論の対象として取り上げることができます。しかし実際は、アリストテレスの『弁論術』をみると、その対象は主として人々の政治的・倫理的な行為に関する事柄です。
レートリケー理論の概観図 ―― 三つの研究課題
つぎの図(本書66~67ページ参照)はアリストテレスの『弁論術』にみられるレートリケーの研究課題を整理して表示したものです。これによって彼のレートリケー理論の全体を概観することができるでしょう。
アリストテレスによると、レートリケーの研究課題は三つあります。
説得立証(説得するための証拠立て)は「一種の論証(アポディクシス)」(『弁論術』1355a五)なのですが、それがどのようにして得られるかという「説得立証法(ピスティス)」と、語らなければならないことをどのように語ったらよいのかという「修辞(レクシス 表現)法」と、弁論の諸部分をどのように配列したらよいかという「配列法」です。
アリストテレスの『弁論術』三巻のうち、修辞法と配列法の研究には最後の第三巻が当てられているだけです。それに対して説得立証法の研究には第一巻と第二巻が当てられているのです。
アリストテレスのレートリケーにおいては、説得立証の方法の研究が一番大きな比重を占めることは明らかです。
修辞法について
修辞法に関して論じられているのは、表現の優秀さとしての明瞭さと適切さ、生彩のない陳腐な表現、隠喩や直喩の使用、文法上の正しさ、重厚な表現、散文のもつべきリズム、並置された節や対置された節を含むペリオドス(始め終わりがあり、全体として見通しやすい長さの表現)、洗練された表現、目の前に浮かぶような生き生きとした表現などです。
とりわけ注意したいのは、「〔文学作品でない〕散文(ロゴス)と詩(ポイエーシス)〔文学作品〕では表現方法が異なる」(『弁論術』1404a28)というアリストテレスの当然の指摘です。ゴ
ルギアスは美文で有名ですが、彼のように弁論のなかに詩的表現を用いることが批判されているのです。詩の韻律を用いるとか、日常語として使われていない言葉で飾りたてるとかいうことです。
一般に文学作品以外の散文において、「詩人〔作家〕たちを真似るというのは滑稽なこと」(同上a35)なのです。たしかに隠喩や直喩などの比喩のように、文学作品以外の散文にも有用な修辞法がないではありません。そこで、「散文の表現に有用なのは慣用語や事柄に固有な語や比喩だけである」(同上b31)といわれます。これらの語はすべての人々が日常語として用いているものです。したがって、これらの語でうまくつくられた文は、斬新なところがあっても、技巧に気づかれることなく、しかも意味の明瞭なものとなるわけです。
配列法=弁論の四部構成
アリストテレスは、一般に弁論において、ぜひとも必要な部分は「論題提起(プロテシス)」と
「説得立証(ピシティス)」の二つであると言っています(『弁論術』三巻13章)。
論題提起というのは、弁論によって証明されるべき事柄を述べることであり、説得立証というのはその事柄を論証することです。訴訟事件に関する事実を叙述する陳述は、特に弁論の不可欠な部分であると認められてはいません。それは法廷弁論だけに属するからです。一般に、論題に関する事実の叙述といった意味での陳述は論題提起の部分に含まれます。だからアリストテレスは、弁論の部分は多くともこれらの部分の前後に「序言(プロオイミオン)」と「結語(エピロゴス)」をつけ加えた四つの部分で十分であるとします。
アリストテレスによれば、序言の役割は弁論で取り扱われる事柄を明らかにすることにあります(同上14章)。それゆえ、事柄が明らかで、簡単であるならば、序言は不要なのです。しかしまた、序言は語り手が自分についての偏見を聴衆から取り除いたり、自分への好意を抱かせたりするのに用いられます。聴衆の注意を喚起することも序言でおこなわれます。もっともこのことは弁論のどの部分でも共通におこなわれなければならないとアリストテレスは言います。聴衆は弁論の初めよりもむしろ他のところで注意をおろそかにしやすいからです。
結語の役割は、さきのプラトン『パイドロス』のなかで「概括」について言われていたのと同様です。それは語られた事柄を要約して聴衆に思い出させることですが、そのほか、アリストテレスによると(同上19章はじめ)、聴衆が自分(語り手)には好意を、自分と対立する相手には敵意をもつようにすることや、立証されたことを誇大または過小にして見せることや、聴衆を特定の感情に導くことも含まれます。
序言、論題提起、説得立証、結語という弁論の四部構成は、われわれ日本人にはいわゆる「起承転結」という詩文の四部構成を連想させるかもしれません。しかし両者を混同してはなりません。起承転結は、文学的な文章の構成法としては役に立ちます。しかし弁論、つまり人々を説得するための言論にはあまり役に立ちません。起承転結には論証性が欠けていますが、弁論には論証性が不可欠なのです。序言、論題提起、説得立証、結語という構成法は、そのような弁論的言論のためにあるのです。その核心となるのは論題提起と説得立証の部分であり、それらの部分が本論なのです。
三種類の弁論の理論的区別
アリストテレスは当時までに発展してきた種々の弁論を、理論的に三種類に区別します(『弁論術』 1巻3章)。
「審議弁論」(議会弁論)」と「法廷弁論」と「演示弁論」です。
審議弁論というのは、議会など公の会議その他の集会に集まる人たちとしての聴衆に向けられます。その弁論は「将来」のことに関して、「利益」(善)と「損害」(悪)とに着目しながら、ことをおこなうように「勧奨」したり、あるいはおこなわないように「制止」したりするものです。
法廷弁論というのは、「裁判委員」(裁判官、陪審員)たちとしての聴衆に向けられます。それは「過去」の行為に関して、「正」と「不正」とに着目しながら、相手側を「告訴」したり、自分側を「弁明」したりするものです。
演示弁論というのは、冠婚葬祭の儀式などに集まった「観衆」としての聴衆に向けられます。それは「過去」や「将来」のことにも言及しますが、主として「現在」のことに関して、「美」(徳)と「醜」(悪徳)に着目しながら、人の行為を「賞賛」したり「非難」したりするものです(右の表参照)。
この区別は、その後のレトリック理論のなかにも定着することになります。
説得立証 ―― 技術的なものと無技術的なもの
法廷弁論であれ、審議弁論であれ、演示弁論であれ、人が弁論をおこなうのは、聴き手を説得するためです。レートリケーはそのための技術であるわけです。
アリストテレスは、一般に「技術」(技術知)というのは「真なるロゴスを伴って何かを作りうる習性態」のことだといいます(『ニコマコス倫理学』1140a10)。どんな技術も、めざすもの(目的)をどうすれば作り出すことができるか(手段)について、単なる経験や熟練だけではなく、さらに理論や知識をそなえていなければなりません。「真なるロゴス」の内実はそのような理論や知識なのです。レートリケーの技術についてのアリストテレスの定義をさきに示しました。「それぞれの事柄に関して、可能な説得手段(説得的なもの)を見つける能力」ということです。これはまた、どんな事柄に関しても、真なるロゴスを伴って、説得を作りうる(説得しうる)習性態でもなければならないわけです。
このようなレートリケーの技術に属するものは、アリストテレスによると、「説得立証」(説得するための証拠立て)につきるのです(『弁論術』1354a13)。
ひとくちに説得立証といっても、レートリケーの技術によらないものと、技術によるものとが区別されます。前者は「無技術的な」説得立証と呼ばれ、後者は「技術的な」説得立証と呼ばれます(同上1355b35)。
無技術的な説得立証というのは、「法廷弁論に固有なもの」であるとされます。それには「法律、証人、契約、拷問による自白、誓言」という五つのものが挙げられています(同上1375a23)。これらは説得立証のために用いられますが、レートリケーの技術によって得られたのではなく、前もって存在していたものです。
他方、技術的な説得立証というのはつぎに取り上げる三種のもの、つまり、「ロゴス」「パトス」「エートス」による説得立証のことです。これらはレートリケーの技術によって見つけ出されるのです。
三種の技術的な説得立証
弁論の最終目的は聴衆を説得することにあります。弁論に耳を傾けて判定を下すのは聴衆です。それでは聴衆が説得されるのは何ゆえにでしょうか。
アリストテレスによると、「論証が与えられるゆえに」(『弁論術』1403b12)、あるいは「自分自身〔聴衆〕が何らかの感情を抱くゆえに」(同上b10)、あるいは「語り手をある性質〔倫理的性格〕の人物と受け取るゆえに」(同上b11)なのです。
アリストテレスによると、弁論によってもたらされる説得立証としては、三種のものがあるとされます。事柄の「ロゴス」(論理的説明)によるものと、語り手の「エートス」(品性・人柄)によるものと、聴衆の「パトス」(感情・情念)によるものの三種です(同上1巻2章)。
ロゴスによる説得立証は、「真実または真実とみえることを、それぞれの事柄に関する説得的なものから証明する」(同上1356a19)ことによっておこなわれます。その際、証明つまり論証されるのは、問題の事柄(行為)の利害(善悪)、正・不正、美醜(徳・悪徳)ということです。
しかしロゴスによる説得立証だけでは、人々を説得するのに十分ではないのです。言われたことは理解できるが、信用できない、同意同感できない、ということはよくあることです。人間の意志(願望)や感情が生じる心の欲求的(または欲望的)部分は無理性(無ロゴス)的部分であって、それは理性(ロゴス)的部分に反対するときもあれば、服従するときもあります。欲求的部分が理性的部分によって説得されるためには、さらにつぎのような説得立証による働きかけが必要なのです。
その一つがエートスによる説得立証です。それは聴衆に対して「語り手を信頼に値する者であると判断させるように言論が語られる」(同上1356a5)ことによっておこなわれます。もう一つはパトスによる説得立証です。それは、「聴衆が言論によってある感情へと誘導される」(同上a14)ことによっておこなわれます。語り手の期待するような感情を問題の事柄(行為)に対して抱くように、聴衆を言論によって誘導することです。
プラトンは、『パイドロス』のなかで、技術としてのレートリケーには、言論が向けられる人々の心、用いられる言論、人々の心に対する言論の働きかけに関する知識が備わっていなければならないとしました(本書第一章56ページ参照)。説得立証に関するアリストテレスの理論はプラトンのこの要求に応えたものということができるでしょう。
説得立証は当面の問題にだけかかわる
エートスによる説得立証、パトスによる説得立証といっても、アリストテレスのいうのは、あくまでもレートリケーの技術によるものを指します。それらは、弁論の主題となっている事柄以外のことで聴衆の信頼を得るとか、聴衆の感情に訴えるとかすることを含みません。
当面の問題とはかかわりがないのに、語り手が自分の社会的地位や過去の業績や立派な世評を語って、あらかじめ聴衆の信頼を得ることができるかもしれません。あるいは、当面の問題とは別のことを持ち出して、聴衆をある感情に誘い込み、自分の望む判定を下すようにしむけることができるかもしれません。たとえば、別のことを持ち出して、脅しで恐れの感情を抱かせたり、泣き落としで憐れみの感情を抱かせたりすることです。しかし、たとえそういったことが何らかの効果をもつとしても、それらはレートリケーの技術による説得立証ではないということです。
アリストテレスは、当時の言論技術書の著者たちが、当面の問題とかかわりなしに裁判委員の感情を左右することの研究にのみ努めていることを批判しています(『弁論術』 1354a11以下)。
論証的な説得立証の前提の性格 ―― 真実らしいこと、証拠、徴証
アリストテレスは説得推論の前提または論拠として三種類のものを挙げています。
「真実らしいこと(エイコス)」と、「証拠」(必然的な徴証)と、必然的でない「徴証」です(『弁論術』1巻2章、参考・2巻25章)。これらはさきに(本書第一章35~3ページ)見られたように、初期の言論技術(=レートリケー)のハンドブックで取り上げられていたものでしょう。それをアリストテレスが取り入れたと考えられます。
真実らしいこと
「真実らしいこと」とは「大概の場合にそうである、またはそうであると思われること」(『弁論術』1357a31、34、1402b15)です。それを述べた命題は蓋然命題です。たとえば、「妬む人は憎むものだ」「借りたものを返すことは正しい」「子供は親を愛する」などは、蓋然命題だといえるでしょう。
しかし蓋然命題ですから、これらを前提とした説得推論に異論を唱えることができます。「妬む人が皆、憎むわけではない」「狂気に陥っている人に、以前借りた武器を返すことは正しくない」「親を憎む子供だっている」というわけです。
しかし蓋然命題に対して、必ずしもそうでない、必然的でない、といって異論を唱えただけでは、反論になりません。必然的ではないということは、蓋然命題である以上、当然のことなのです。反論するためには、それが蓋然命題ですらない、すなわち、真実らしいことでない、大概の場合にそうではないということを示さなければなりません。反対例として多くの事例を挙げる必要があるということです。
アリストテレスによると、説得推論の前提は大多数が蓋然命題で、必然命題は数少ないのです(同上1357a31、22)。それはどんな理由によるのでしょうか。説得推論はレートリケー的推論です。レートリケーが取り扱う事柄は主として法や政治や倫理に関する事柄であって、その中身は人間の行為です。ところがアリストテレスによると、「為される行為はすべて他の仕方でもありうる〔非必然的な〕類のものであり、言ってみれば、どれ一つとっても必然的なものはない」(同上a25)のです。したがって行為について述べた命題は、いずれもそれ自体は必然命題ではないことになります。
必然命題と言ったのは、たとえば「三角形の内角の和は(ユークリッド幾何学の論理的必然によって)二直角に等しい」とか、「地球は(自然的必然によって)太陽のまわりを回る」とかいう命題のことです。これらの命題は、他の仕方ではありえない必然的なことを述べているのです。しかし行為を述べた命題はそうではないということです。
とは言っても、たとえば、ソクラテスがたまたま獅子鼻であったことを想い起こさせるとしても、「獅子鼻の人のおこないは正しい」というまったくの偶然命題は、説得推論の前提にはなりません。偶然命題は説得的ではないからです。説得推論の前提は、必然命題ではないとしても、少なくとも蓋然命題でなければならないのです。
徴証(セーメイオン)と証拠(テクメーリオン)
「真実らしいこと」というのは、説得推論の前提をそれ自体として特徴づけたものです。それに対して「徴証」というのは、説得推論の前提を結論との関係で特徴づけたものです。
当の結論に対して必然的な関係をもつ前提は、必然的な徴証として「証拠」と呼ばれます。たとえば、「彼は熱が高い」(前提)は「彼は病気である」(結論)の証拠です。あるいは(窃盗が罪の一種であるとして)「彼は窃盗犯人である」(前提)は「彼は罪を犯している」(結論)の証拠です。
証拠を前提とした説得推論には反論できません。「熱が高い者は病気である」や「窃盗犯人は罪を犯している」は、蓋然的に(大概の場合に)成り立つのではなく、すべての場合に成り立ちます。だから証拠といわれる前提が真であれば、必ず結論も真となるのです。
当の結論に対して必然的でない関係をもつ前提は、徴証であっても必然的ではないので証拠にはなりません。たとえば、「彼は呼吸が荒い」(前提)は「彼は熱が高い」(結論)の徴証です。あるいは、「彼はうそつきである」(前提)は「彼は詐欺師である」(結論)の徴証です。しかしいずれも証拠にはなりません。
必然的でない徴証を前提とした説得推論には、異論を唱えたり、反論したりすることができるのです。激しい運動の結果、呼吸が荒くなっただけで、病的な熱はないという場合があります。うそつきといっても、たわいないうそばかりで、詐欺罪になるほどのうそはつかないという場合があります。だから徴証としての前提が真であっても、必ずしも結論は真とならないのです。
ところがまた、熱が高ければ呼吸が荒いし、詐欺師ならばうそつきなのです。だから呼吸の荒い人が高熱でもある場合や、うそつきが詐欺師でもある場合が多いとも思われます。必然的でない徴証はいわば状況証拠に似たものです。
トポス ―― 固有トポスと共通トポス
それでは論証的なロゴスによる説得立証の前提の具体的な内容はどのようなことなのか。エートスまたはパトスによる説得立証の論拠(前提)は具体的にはどのようなことなのか。論証的な説得立証の一般型が、論理学的推論の形式とは異なるとすると、どのようなものなのか。これらの問題に対する解答がアリストテレスのトポス論なのです。
「トポス」とはギリシア語で「場所」または「領域」ということです。それは基本的には空間的な場所・領域を意味します。しかし、レートリケーやディアレクティケーに関連して、アリストテレスが「トポス」というとき、それはいわば思想・言論のそれぞれの論拠が見出される場所・領域を意味します。つまり言論の拠りどころということです。
さきに言いましたように、レートリケーの技術に属する言論の核心は説得立証にほかなりません。その技術的な説得立証としては、ロゴスによるもの、エートスによるもの、パトスによるものという三種のものが区別されました。これらの説得立証において、主題となるそれぞれの種類の事柄に固有な論拠となる命題が見つけ出されるトポスのことを、アリストテレスは「固有なもの」(『弁論術』1358a17、28)、または「種(エイドス)」(同上1358a27、30、33)と呼んでいます。その内容はさまざまの説得的なエンドクサ(通念)の集まりであり、それを表現する命題の集まりです。それは個々の種類の事柄に固有な命題からなります。
説得立証のなかでも、とりわけ論証的なロゴスによる説得立証は、説得推論または例証の形態をとります。その前提は真実らしいこと、証拠、徴証といった特徴をもっているのでした。それに基づいてさまざまな主張が結論として導き出されるのです。その論証の前提となる命題が固有トポスにおいて見つけ出されるのです。
さらにまた、その論証の一般型が見つけ出されるトポスのことを、アリストテレスは「共通な」トポス(同上1358a12、32)と呼んでいます。そこでは、法の領域であれ、政治の領域であれ、自然の領域であれ、種類の異なる多くの事柄に、共通に適用される論証の一般型が見つけ出されるのです。
すべての種類の弁論に「共通な事項」
さらにまたアリストテレスによって、固有なトポス(種)でもなく、共通なトポスでもなく、すべての種類の弁論に「共通な事項」と呼ばれるものがあります(『弁論術』1391b27、30、1392a4)。それは「可能なことと不可能なこと」「じっさい生じたことか、生じなかったことか、将来あるであろうことか、ないであろうことか」「事柄の重要性の大と小、より大とより小」に関する命題です(同上1359a11以下、1391b27以下、1392a8以下)。
たとえば、「より困難なものが可能であるなら、より容易なものもまた可能である」(同上1392a12)とか、「部分が可能であるものはその全体も可能である」(同上1392a28)など。あるいは通常、「より後から生じるものが生じたのなら、より先なるものも生じたのである」(同上1392b17)とか、「ある目的の手段となるものが生じたのなら、その目的となるものが生じるのはありそうなことである」(同上1392a6)など。あるいは、「原因が二つある場合、より大きな原因から生じるもののほうが大きい」(同上1364a15五)とか、「それの反対のものがより大きいものは、より大きい」(同上a31)などです。
論題とされる事柄や行為は、可能か不可能か、事実あったことか否か、将来あることか否か、大事な、あるいはより大事なことか否か。これらはどんな種類の弁論にとっても基本的な問題です。それを論じるのに役立つのが「共通な事項」と呼ばれる命題なのです。その事柄や行為は可能なことである。事実あったこと、将来あることである、重要な、あるいはより重要なことである。こういったことが明らかになってはじめて、その利害、正・不正、徳・悪徳が問われるのです。
これまではアリストテレスのレートリケー理論の全体について見てきました。以下の章では、アリストテレスのレートリケー理論におけるトポス論を、もっと詳しく見ることにしましょう。トポスはレートリケーによる言論の前提命題や論拠や論証の一般型が見つけ出される場所です。これらに基づいてこそ、われわれはレートリケーによる言論を展開できるようになるのです。
言うまでもありませんが、どんな種類の弁論をおこなうとしても、まず主題となる事柄や行為について、できるだけ情報を集め、事実関係を認識しておかなければなりません。それによってはじめて、その事柄や行為について、利害、正・不正、徳・悪徳を説くことができるのです。あるいはまた道徳的性格をもたせたり、聴衆の感情を動かしたりできるのです。そして勧奨や制止、告訴や弁護、賞賛や非難をおこなうことができるのです。レートリケーのトポスが役に立つのはそのときです。
まずロゴスによる説得立証に役立つ固有なトポスとして、
利害(善悪)に関する固有トポス(とりわけ審議〔議会〕弁論に有用なもの)
正・不正に関する固有トポス(とりわけ法廷弁論に有用なもの)
徳・悪徳(美醜)に関する固有トポス(とりわけ演示弁論に有用なもの)
を取り上げます(第三章)。
つぎに、エートスによる説得立証に役立つ固有トポス、さらに、パトスによる説得立証に役立つ固有トポス(第四章)、最後に、ロゴスによる説得立証に役立つ共通卜ポス(第五章)を順に取り上げます。
【第三章】の一部
3 美醜(徳・悪徳)に関する固有トポス
美しいもの(徳)と醜いもの(悪徳)
演示弁論は、冠婚葬祭の折などの集会で観衆に向かっておこなわれる弁論です。それは話題の人物やその行為の美しい(徳のある)ことを賞賛し、醜い(悪徳のある)ことを非難するものです。
演示弁論のロゴスによる説得立証においては、当の人物やその行為の美醜(徳・悪徳)を論証しなければなりません。したがって美醜の概念や命題が、演示弁論に役立つ固有トポスの内容となります。
「美しいもの」とは「それ自体のゆえに選ばれるものであって賞賛に値するもの、または善いものであって善いがゆえに快いもの」(『弁論術』1366a33)のことだといわれます。
「徳」は美しいものだということになります。徳は「善いものであり、しかも賞賛に値するもの」(同上1366a36)だからです。徳は美しいものの代表として取り上げられるわけです。その反対に悪徳は醜いものだということになるでしょう。
ところで徳とは、一般の見解では「善いものどもをもたらし、それらを保持する習性的能力であり、また数多くの大きい善いことを、しかもあらゆる場合にあらゆる善いことをする習性的能力」(同上1366a36)のことだといわれます。
そのような徳の諸部分(構成要素)として、いくつか重要なものが取り上げられ、説明されています。正義、勇気、節制、気前がよい、高邁(度量が大きい)、豪儀、思慮分別などです。またそれらと反対のものはそれぞれ悪徳であることになります。
正義とは、各人が自分の属する利益を、しかも法の命ずる仕方で獲得する原因(動機)である徳のことです。その反対に、不正とは、他人の取り分を法の命に反して取り入れる原因である悪徳のことです。
勇気とは、人々が危難に際して法の命じる仕方で立派な行動をとり、法に服従する原因である徳のことです。臆病はその反対です。
節制とは、人々が身体の快楽に対して法の命じるとおりの態度をとる原因である徳のことです。その反対が放埓です。
気前がよいとは、金銭に関して他人によくしてやることのできる徳であり、けち(さもしい)はその反対の悪徳です。
高邁(度量が大きい)とは、大きな恩恵を施すことのできる徳であり、卑屈(度量が小さい)とはその反対です。
豪儀とは、消費面で大きなことをすることのできる徳であり、卑小(細かい)とはその反対です。
思慮分別とは、思考の徳(優秀さ)であって、この徳によって、人々はもろもろの善悪について幸福のためによく思案することができるのです。その反対が無思慮だということになるでしょう。
徳や悪徳は人間における美醜の代表です。したがって他の美醜も徳や悪徳との関連によって規定されます。だから「徳を作り出す(もたらす)もの」(同上1366b25)や「徳から生じる(結果する)もの」(同上b26)もまた「美しいもの」ということになります。反対に、悪徳を作り出したり、悪徳から生じるものは醜いものであ
るわけです。
演示弁論のロゴス的な説得立証は、美と醜、徳と悪徳に関する概念や命題に基づいて、他人のエートス(品性・人柄)や行為の美醜を論証するものです。それによって当の人物が賞賛または非難に値すると聴衆に思われるようにするのです。
賞賛・非難の方法
じっさいに人を賞賛したり非難したりするときに用いられる方法として、アリストテレスはつぎのようなものを挙げています(『弁論術』 1367a33以下)。
(1)当人が現にもっている性質に関連した性質に着目。
その人が現にもっている性質とそれに近い性質を同じであるとみなして、賞賛または非難するのです。たとえば、慎重な人を冷たい策謀家として非難したり、単なるお人良しを正直者として、あるいは怒りに無感覚な人を穏やかな人として賞賛したりすることです。また賞賛するときにはいつも、相伴っている諸性質のなかから、できるだけ善いものを取り上げるということです。たとえば、怒りっぽい人や激しやすい人を一本気の人だと言い、傲慢な人を気位が高く、堂々としている人だと言うようにです。あるいはまた、度が過ぎる人についても徳をそなえている人として賞賛するということがあります。たとえば、無謀な人を勇気のある人だと言ったり、浪費家を気前のよい人だと言ったりするようにです。
(2)聴衆が賞賛するもの(性質や行為)に着目。
聴衆としては、それぞれの場合に種々のグループの人々が集まります。そこで人を賞賛するときには、それぞれの聴衆の間で尊重されているものが当人のもとにあるのだと言うことです。さらに、その尊重されているものは、一般的に、美しい立派なものだというところまで言うわけです。非難するときはその逆ということになるでしょう。
(3)その人にふさわしい行為に着目。
たとえば、その行為が当人の先祖や当人のそれまでの業績に値する場合です。それはさらに名誉を重ねることになって、美しい立派なことだからです。
(4)熟慮のうえの選択による行為であることの強調。
熟慮のうえの選択によって行為するというのは有徳な人の特徴なので、人を賞賛するに当たってはその点を強調するということです。たとえ偶然そうしたとか運よくそうしたとかいう場合でも、熟慮のうえの選択による行為だと解釈するということも含まれます。
美醜の増幅(増大)法
アリストテレス(『弁論術』1368a10以下)によると、たとえばつぎのような場合、人々やその行為の美醜を増幅させることができます。
(1)それを為し遂げたのは、当人だけであるとか、当人が最初であるとか、当人を含む少数の者であるとか、とりわけ当人であるとかいう場合。
(2)その行為が時宜に適っている場合、特にその行為が予期されない仕方でなされた場合。たとえば、ソクラテスは、生命の危険も顧みないで、ときの寡頭独裁政権であった三十人会の命令に従わなかったという行為(この政権は間もなく崩壊した)。
(3)幾度も同じことを首尾よく為し遂げたという場合(その行為は運によるのではなく、当人自身の力によると思われる)。
(4)その行為を奨励し、これを顕彰することが当人のゆえに発案され、定着するに至ったという場合(逆に、その行為を防止し、その行為に対して罰則が定められるに至ったのは、当人がきっかけであるという場合)。
(5)他の人々と比較してそれを超えている場合、つまり著名な立派な人々よりも、あるいは多くの人々よりも、優れている場合(逆に、劣悪な人々よりも、あるいは多くの人々よりも、劣っている場合)。
いずれの場合も、行為者または為された行為の美醜は、そうでない場合と比べて、より大きいものであると思われます。したがって、その点を述べることによって、美醜を増幅することができるわけです。
増幅法は、すべての種類の弁論に共通な事項のうち「より大・より小」にかかわる論法です。アリストテレスはこれをとりわけ演示弁論に最適の論法とみなします。演示弁論ではたいてい周知の事実と認められている行為が取り上げられます。したがって、残っている仕事はその行為に大きさと美しさをまとわせることだけだからです。
【第四章】の一部
1 エートス(品性・人柄)による説得立証の固有トポス
聴き手が信頼する語り手の条件
ところで何かある事柄や行為の利害・善悪、正・不正、美醜(徳・悪徳)について説明を受けたとしても、聴き手がそのとおり信じるとはかぎりません。語り手のエートス(品性・人柄)を受け入れ、語り手を信頼できる人物とみなさなければ、信じることもできないからです。
聴き手はどのような語り手を信頼するのでしょうか。アリストテレス(『弁論術』2
巻1章)によると、それは「思慮分別」(行為〔実践〕知)があり、「徳」をそなえ、聴き手に対して「好意」をもっていると思われるような語り手なのです。思慮分別のない人は正しい見解をもてないと思われるでしょう。また正しい見解をもっていたとしても、エートスの劣った徳のない人はそれを語りはしないと思われるでしょう。さらに思慮分別もあり有徳の人であっても、好意をもっていないなら、最善のことを知っていながら助言しないこともありうるわけです。
思慮分別もあり徳もそなえていると思われる語り手は、まず「エートスや徳について考察できる者」(同上1356a22)でなければなりません。そして徳や悪徳、美醜について論じるなら、そのことが語り手のエートスを明らかにすることにもなります。人の徳や立派さを賞賛し、悪徳や劣悪さを非難することによって、語り手は自分のエートスをも明らかにするわけです。それは聴き手に信頼に値すると思わせる効果をもつといえるでしょう。
また語り手は聴き手に対して好意をもっていると思われるのでなければなりません。好意の本体は自分のためにではなく相手のために善いことを願うというところにあります。そのように見える語り手を聴き手は自分たちに好意をもつ人物と認めるわけです。
エートス的な徳とは
アリストテレス(『ニコマコス倫理学』 1巻13章)は、人の心というものをロゴスをもつ理性的な部分と、ロゴスのない無理性的な部分とに区別します。さらに無理性的な部分を、ロゴスに与かる欲求的部分と、ロゴスに与かることのない生物(植物)的部分とに区別します。ロゴスに与かるというのは、ロゴスのいうところを聞き入れて従うことです。
そして理性的部分に属する徳(優秀さ)は知性的な徳と呼ばれ、知恵(理論知)や聡明や思慮分別(行為知)などがこれにあたります。
他方、欲求的部分に属する徳はエートス的(倫理的)な徳と呼ばれ、気前のよさや節制や穏和などがこれにあたります。エートス的な徳というのは、言い換えるとエートスのうえでの優秀さのことなのです。
エートスというのは、ロゴスの指図のもとでロゴスに従うことができるという心の性質のことです(『エウデモス倫理学』2巻2章)。「エートス」という言葉は「エトス」(習慣)に由来することを含意するともいわれます(同上)。ロゴスに従うといっても、それは普段の訓練によって習慣づけられていないとうまくいかないのです。そういうわけで、エートス的な徳、つまりエートスのうえでの優秀さは習慣(エトス)に基づいて生じるといわれるのです(『ニコマコス倫理学』1103a17)。
エートス的な徳と感情と行為
ところでそのエートス的な徳ということですが、アリストテレスによると、それは感情と行為にかかわります(『ニコマコス倫理学』2巻6章)。
われわれには感情をもつ能力があります。その能力の働きによってさまざまな感情をもつことができるのです。「感情」というのは、「欲望、怒り、恐れ、大胆、妬み、喜び、友愛、憎しみ、憧れ、競争心、憐れみなどのことで、総じて、快楽または苦痛を伴うもの」(同上1105b21)のことです。
ところでもろもろの感情は、人によって、過剰であったり、不足であったり、中間であったりします。過剰や不足はいずれもよくないものです。その際、感情を中間にもつように能力を働かせる習性がエートス的な徳なのです。反対に、感情を過大にまたは過少にもつように能力を働かせる習性がエートス的な悪徳だということになります。
たとえば、怒るべきでないのに怒る(過剰)とか、怒るべきであるのに怒らない(不足)とか、恐れるべきでないのに恐れる(過剰)とか、恐れるべきであるのに恐れない(不足)とかいうのはよくないということです。それに対して、「然るべきときに、然るべきことで、然るべき人に対して、然るべき目的のために、然るべき仕方で、それぞれの感情をもつのは、中間にして最善のことであり、このことこそまさに徳(エートス的な徳)に属することである」(同上1106b21)といわれます。「(エートス的な)徳はひとつの中庸であり、中間のものを目標としているのである」(同上b27)ということなのです。
もろもろの行為に関しても同様に過剰と不足と中間があります。たとえば、勇気ある行為を中間とすると、無謀な行為は過剰にあたり、臆病な行為は不足にあたります。
節制と放埓と無欲鈍感、気前のよいのと浪費とけちなどにも、それぞれ中間と過剰と不足といった関係がみとめられます(同上2巻6章、7章)。
エートス的な「徳」の定義
ついでにアリストテレスの『ニコマコス倫理学』で述べられているエートス的な徳の定義を挙げておきます。
「徳とは選択にかかわる習性である。その習性はわれわれに対する中庸において成立し、われわれに対する中庸とは思慮分別ある者が基準とするであろうようなロゴスによって規定されるものである」(1106b36)というものです。
「選択」というのは「思案のうえの欲求」のことです(同上1113a10、1139a23)。欲求には「願望」(意志)といわれる理性的な欲求も、「激昂」(怒り)や「欲望」といわれる感情的な欲求もあります。こういった欲求が原因(動機)となって、われわれは行為するのです。そして欲求が思案に基づいている場合に、その欲求は選択と呼ばれるのです。
エートス的な徳とは、要するに、感情と行為に関してロゴスに従って中庸を選択するという習性 ―― 心のもちかた ―― のことです。反対に過剰または不足を選択するという習性が悪徳だということになるでしょう。
もっとも「すべての行為、すべての感情が中庸を受け入れるわけではない」(同上1107a8)のです。たとえば「他人の不幸に対する喜び」「無恥」「妬み」といった感情や「姦通」「盗み」「殺人」といった行為は、それ自体が劣悪なのです。その過剰または不足がよくないというのではありません。
種々の聴き手のエートスに応じた説得立証が必要
ところで、ある種の聴き手にとって受け入れられ、信じられる弁論が、別種の聴き手にとってもそうであるとはかぎりません。「人は皆、自分自身のエートスに合わせて語られ、自身のエートスに似通った弁論を受け入れるものだから」(『弁論術』1390a25)です。したがって、エートスによる説得立証をおこなうためには、聴き手のエートスがどのようなものであるかを心得ていなければなりません。
同じことを説得するにしても、聴き手のエートスがすぐれている場合とそうでない場合とでは、異なった論の進めかたが必要です。どんなエートスの人を相手にしてもいつも同じ言論を展開するというのでは、相手の心を動かすことはできないのです。エートスによる説得立証をおこなうためには、語り手は聴き手の感情のもちかたをみて、そのエートスのほどを知らないといけないということになるでしょう。
人々のエートスがどのようなものであるかは、さまざまです。その人々の感情(パトス)、徳または悪徳としての習性、青年・壮年・老年といった年齢の差異、家柄のよしあしや富の大小や権力の有無といった運、さらにはその人々の属している社会や国家などに応じてそれぞれ異なります。
聴き手のそういうエートスの違いを無視してものを言ったのでは受け入れられないことになるでしょう。まず語り手は聴き手のエートスを心得る必要があります。そのうえで、そのようなエートスをもつ人が信頼できるように論を進めなければなりません。それがエートスによる説得立証となるのです。
【第六章】の一部
ディアレクティケーという言葉
ディアレクティケーというのはギリシア語です。これは学術用語としては「ディアレクティケー〔形容詞〕・テクネー〔名詞〕」のテクネー(技術知)を省略した表現です。全体の字義どおりの意味は、対話または問答の技術知ということです。
このディアレクティケーという語は、西洋哲学の歴史のなかで、ディアレクティカ(dialectica)〔ラテン語〕、ディアレクティク(dialectique)〔フランス語〕、ダイアレクティク(dialectic)〔英語〕、ディアレクティク(Dialektik)〔ドイツ語〕などのかたちをとって、各国語のなかに取り入れられています。
「弁証法」はこれらの語に対してもっとも多く用いられてきた日本語訳であるといえるでしょう。
日本で西洋哲学に関して「弁証法」といえば、それはとりわけヘーゲルのディアレクティクとして受け取られることが多いように思われます。さもなければ、ヘーゲルの思弁的な「逆立ち」のディアレクティクを、論法は同様のまま、唯物論的に「ひっくり返した」マルクスのディアレクティクとしてでしょう。
しかし、ディアレクティケーまたはそれにあたる各国語は、哲学の歴史のなかで、さまざまな意味を与えられてきました。
ディアレクティケーのさまざまな意味
古代ギリシアに関しては、「弁証法」といえば、プラトンのディアレクティケー、アリストテレスのディアレクティケーのほかに、ソフィストたちの争論術やエレア派のゼノンの反論術を意味することがあります。さらに、紀元前三世紀に始まる一つの学派にストア派と呼ばれる学派がありますが、そのストア派でディアレクティケーと呼ばれるものもあります。それは文法学、意味論、認識論、形式的命題論理学からなるものです。
西洋中世では、たとえば、十三世紀のペトルス・ヒスパヌス(最晩年は法王ヨハネス二十一世、1277没)の『論考』の冒頭で、「ディアレティカ(ディアレクティカ)」(弁証法)が「論理学」とほぼ同じ意味で用いられています。この『論考』は、後に『論理学綱要』と呼ばれ、中世後期の代表的な論理学教科書となったもので、十七世紀に至るまでヨーロッパ各地の大学で広く用いられました。その「ディアレクティカ」の内容は、推論の一般型(「格率(最大の前提)」と呼ばれている)からなるトポスによる論証、アリストテレス流の三段推論の理論(形式論理学)、中世における独創的な論理的意味論とみなされる「代表」の理論などを含んでいます。
西洋近世における例としては、とりわけカントの『純粋理性批判』のなかの「超越論的〔形而上学的〕ディアレクティク(弁証論)」や、ヘーゲルの「ディアレクティク」(弁証法)が注目されるでしょう。
カントの「超越論的ディアレクティク」は、(1)魂は不死であるか否か、(2)世界(宇宙)は、(a)空間的・時間的に有限か無限か、(b)物質的に無限分割不可能(原子からなる)か無限分割可能か、(c)その原初の原因として自由な原因が存在するか否(すべては因果の必然による)か、(d)その原因として絶対に必然的な存在者が実在するか否か、(3)神は存在するか否か、という形而上学的な問題を取り扱います。そしてこれらの問題に関して、相反する形而上学的な主張の双方をそれぞれ論証します。そのうえで、それらの論証はいずれも、理性が誤って可能な経験的認識の範囲を超えて推論した結果であると批判するものです。こういったことが、カントの「超越論的ディアレクティク」の内容なのです。
他方、ヘーゲルの「ディアレクティク」というのは、思想または存在が定立(正)と反定立(反)との対立から総合(合)に至る過程を繰り返す独特の論理的な発展のことを意味します。その内容は全体として神から始まる壮大な形而上学的存在論です。
このように、いくつかの例を簡単にみただけでも、「ディアレクティケー」という言葉(またはそれにあたる語)は、西洋の哲学の歴史のなかで、さまざまな意味が与えられてきたことがうかがえるでしょう。
プラトンのディアレクティケーとアリストテレスのディアレクティケーは、その「ディアレクティケー」という言葉が多義的に用いられるようになる出発点となったといえるでしょう。そういうわけで、この両者についてはもう少し詳しくみることにしましょう。