習近平と朝日、どちらが本当の反日か <変見自在>
高山正之さんの変見自在シリーズはどれも面白く勉強になります。もちろんこの「習近平と朝日、どちらが本当の反日か」もそうです。
より多くの人が高山さんの変見自在を読めば日本は良くなると思います。
「はじめに」で、乃木大将が建てた顕彰碑に中国人ガイドがとんでもない説明をしていることを紹介して「日本にはそういう風習はない」とお書きです。
「南京大虐殺」もそうですが、「日本軍・日本人はこんな酷いこと、残虐な殺し方をした」というプロパガンダに対しては、冷静に「日本人はそういうやり方をするだろうか?」と自問してみるのが良いのではないでしょうか?
そのプロパガンダを妄信しないために・・・。
高山正之さんの「習近平と朝日、どちらが本当の反日か」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、是非本書を手にしていただければと思います。
目次
はじめに 3
第一章 日本の本当の素晴らしさを知っていますか
ドイツ軍は北京を略奪した 19 / GE社の欠陥を隠した朝日の大罪 23 / 外国と同盟を結ぶ本当の意味 27 / ニューヨーク・タイムズは大豆油が好き 31 / 習近平の「完食の勧め」 35 / 白人がいまだに怖がる日本軍の実力 39 / 支那人は知っている「日本軍は善玉」 43 / ノルマンディで支那が外された理由 47 / 小泉純一郎が「反原発」に転向したワケ 51 / 朝日は「危ない韓国機」をなぜかばう 55
第二章 これだから支那は「立派な国」になれない
「原爆投下」以外は全て嘘で固めたエノラゲイ 61 / 最高裁は「正しい不倫」を認めたのか 65 / 新聞業界にも倫理規定が必要だ 69 / 満州王朝を倒した日本の責任 73 / 胡錦濤は朝日新聞の凋落を知っていた 77 / 朝日は李香蘭を反日にした 81 / オランダ人の祖先は韓国人という説 85 / 満州を最貧の地にしたのは支那人だ 89 / 「イスラム国」の強さの秘密 93 / 英語を話す人たちの程度を知ろう 97
第三章 嘘の伝わり方は実に様々
朝日のお家芸は「書かない嘘」 103 / 「京都を守ったのは米国人」という嘘 107 / 産経ソウル支局長の「記者冥利」とは 111 / 米国は江戸時代の日本にも敵わない 115 / 朝日が言う“コスタリカに倣え”の嘘 119 / 米国はサダムの「毒ガス」をなぜ隠した 123 / 日本にもあったキューバの衿持 127 / 米国が完成させた「最高の拷問」 131 / キリスト教徒を締め出した日本の叡智 135 / 傲慢「シヤルリー・エブド」が襲われたのは当然だ 139
第四章 世界情勢を正しく知るために
アフガンに見るイスラム圏の歩き方 145 / 「イスラム国」より残虐なのはやっぱり支那 149 / 欧米人が好きな「性器の破壊」 153 / タイタニックに乗っていた支那人 157 / 「命の価値」を肌の色で決める米国人 161 / 韓国人はどうしてキレやすいのか 165 / モディはインドの戦後を終わらせた 169 / 東京大空襲にはマニラ大虐殺が似合う理由 174 / NHKに住んでいる各国の「反日放送局」 178
第五章 70年もつき続けた歴史の嘘
JR福知山線事故の真犯人は労組だ 185 / 朴槿恵に「旭日旗は韓国のためになる」と教えよう 189 / 結局、オバマで米国は何か変わったのか 193 / 元駐日英大使・コータッチの偏見と無知 197 / 「バターン死の行進」は白人による嘘 201 / インドネシアでオーストラリア人が死刑になった理由 205 / 「馬鹿げた訴訟」を煽る朝日の根性 209 / 米国人がアジアの性被害者たちを作った 213 / 何でもナチスのせいにするドイツの悪癖 217 / 朝鮮人軍属にもこんな立派な人物が 221
解説 福島香織
はじめに
昔、産経新聞の記者だった。そのころの支那は産経の特派員を入れなかった。特派員だけでなく産経で禄を食んでいる者はすべて支那への入国を禁じられ、観光旅行も罷りならなかった。
そこまで意地になった大もとは、あの文化大革命の折に産経の柴田穂(しばたみのる)特派員が支那の真実を書き続けたことにある。毛沢東が眉根を寄せた。ああいう国だから、それだけで産経の支局は閉鎖され、特派員は追放された。
このときは結構多くの社が追い出され、北京に残ったのは朝日新聞の秋岡家栄(いえしげ)だけだった。彼は毛の意のまま、例えば2000万人が殺し合った文革を美しいと称え、埃っぽい北京の空はいつも青く晴れ渡った五月晴れと伝えた。
毛に睨まれた林彪が飛行機で逃げる途次、モンゴルの砂漠に落ちて死んだときもそう。秋岡は毛の意を忖度して1年半も「林彪は今日も元気」と報じた。
事実などにこだわらない、いかにも朝日の記者らしい振る舞いだが、追放された柴田は事実報道に徹した。林彪の件も即座に死亡説を流した。だから産経の北京支局は再開されることもなく、罪は眷属郎党に及び、産経人はすべて入国を認めないまま30年がたった。
それが江沢民治世の1998年、台北支局は存続したままでいいから、産経北京支局をどうか再開してほしいと言ってきた。支那にひたすら媚びて台湾に見向きもしなかった朝日新聞よりも優遇された対応だった。朝日のこのときの嫉妬は凄まじかったと聞くが、それにしてもなぜ江沢民が産経にOKを出したのか。
彼の父、江世俊は日本の特務機関で働いていた。それで彼は南京中央大に入り日本語を専攻した。日本語はだからぺらぺら。酔えば「月が出た出た」と歌ったものだ。尤もそれは反日中共では語ってはならない過去。日本大好きで産経の差別をやめたわけではない。
江沢民はあれで世間体を気にし、気に食わないからとちくちく嫌がらせを続ける姑息はもはや大国・支那に相応しくないと思っての措置と言われる。
かくて北京支局が開設され、係累に及んでいた禁令も解けた。で、こちらは早速、支那に入り日露戦争の古戦場旅順を旅してみた。戦跡の多くは支那人の商業主義に犯され、醜悪な変貌を遂げていたが、とりわけ東鶏冠山は酷かった。
日本側はここを落とすためにお台場から運んできた28センチ榴弾砲を撃ち込んだ。その一弾が敵司令官コンドラチェンコ少将を即死させた。
戦い済んで乃木大将は少将の健闘を称える顕彰碑を現場に建てた。
その地を訪ねると碑は昔と同じ場所に建っていたが、碑文が異様だった。「ロシサラテンコ少将戦死之所」とある。文革のとき紅衛兵がここにきた。碑を倒し、碑文をわざわざ削り取った。それが日本の観光客を呼べると分かって急ぎ建て直し、碑文も適当に彫り直した。実にいい加減な民族だ。
もっと驚いたのが支那人公認ガイドの説明だった。「日本軍は苦しめられた敵将軍の名を彫ってここに建て、石をぶつけて恨みを晴らしました」だと。
いや、それは違うとつい口を挟んだ。日本にはそういう風習はない。敵ながら立派に戦った、それを称えるための碑だとガイドに説明してやった。
しかしガイドは首を振る。「いえ、それは違う」「だれが敵を褒めるか」と言い張る。
支那では例えば汪兆銘(おうちょうめい)とか南宋の秦檜(しんかい)とか、許されざる者がいると、わざわざ像までつくって石をぶつけ、唾を吐きかける。でも、そうでない世界もある、日本には日本人の考え方があると説いたが耳も貸さなかった。
支那の旅はそれから何度か行った。北の黒河(ヘイホー)も南の拉孟(らもう)も訪ねたが、どこで会う支那人も自分たちの価値観がまずあって、それ以外は何もない感じがした。
歴史を見ても然り。近代に入って彼らは太平天国の乱、日清戦争から義和団の乱、さらに朝鮮戦争と様々な戦いをしたが、一度として捕虜を取ったためしがない。それにどんなに時代が変わっても捕虜はみな残虐に殺す支那方式をひたすら守る。
支那はいま南沙に出て東南アジア諸国を脅し、東シナ海でも日本を威嚇する。そのくせ習近平は「我々は平和を愛する民族で、我々の血には他を侵略し、世界に覇権を求める遺伝子はない」(2014年5月15日)と語る。
ベトナムを侵略した中越紛争や今まさに進行中のウイグル、チベット侵奪はでは何だというのか。
朝日新聞は安倍首相の安保法制が対支那を意識したもので「日米同盟と周辺諸国との連携を強化していくことで、中国への抑止力を高めたい」(2015年7月28日社説)と読む。その通りだ。しかし朝日はそれが「危うさをはらむ」と批判する。支那と話し合って「中国との信頼醸成をはかるのが現実的ではないか」という。
支那人に話し合って折り合う、あるいは理解する能力がないことは習近平の傲慢な平和民族説でも分かるだろう。あの国と話し合い、信頼を築こうということの方がはるかに非現実的と普通は考えるものだ。
支那はいま、周辺アジア諸国だけでなく南米のエクアドルやアフリカ諸国にも禍を広げている。この非常識国家をここまで肥大化させたことに実は日本も責任がある。
支那文化に接したころの日本人はまだ冷静だった。憧憬などなかった。だから漢字一つ入れるのも日本語を殺さない万葉仮名を創るまで5世紀もかけた。支那文化の要は奴隷制に纒足(てんそく)に宦官(かんがん)だ。日本人はそれらに見向きもしなかった。だから9世紀には学ぼうにももはやロクなものはないと遣唐使もやめた。
江戸時代、新井白石はシドッチを通して支那の向こうを見ていたし、杉田玄白は漢方を超え、華岡青洲はそれも超えて世界で初めての麻酔手術に成功する。
しかし明治期、詐欺師孫文が出てきて、もうとっくに通過したはずの支那に引っかかった。せっかくの満州王朝を潰して支那人の国を育ててやり、東亜同文書院まで建てた。
農林10号は岩手県農事試験場の稲塚権次郎が作った多収穫小麦の新種だ。戦後、米国が盗み帰り、今の小麦大国を実現したほどの世界的な発明だが、日本は昭和11年、北京に華北産業科学研究所をつくり、13年には稲塚を派遣して支那の小麦の品種改良と増産を図った。
支那の爆発的な人口増を支えたのは実は日本だった。それに加え、戦後は松下幸之助からヤオハンからJR東日本、さらには外務省の果てしないODA供与によって今の肥大化した傲慢支那の基礎が創られた。
体力が付いた支那人はいま蝗虫(バッタ)のように世界に飛び出している。日本人の愚かな錯覚と感傷がその跋扈を助長したのは間違いない。
これ以上の被害拡大を防ぐことこそ育ての親の日本の責任ではないのか。「それは回避しろ」という朝日の主張はかつての秋岡家栄と同じ、習近平の思いを忖度した代弁でしかない。
支那は余りに規格外で、そこで起きる事象はすべて常軌を逸している。書いても面白くもない。しかし、もうそんな贅沢を言っている場合ではない。今回はそれで支那をどう見るか、多少多めに触れたつもりだ。
2015年 夏 高山正之
ドイツ軍は北京を略奪した P19
蘇州の貧しい家に生まれた賽金花は13歳のとき売笑窟に売られた。
ただちょっとついていて、14歳のとき、駐ドイツ公使となる洪鈞に見初められ、その愛人として欧州に渡ることができた。
初々しい東洋女は欧州社交界の話題になったが、彼女は舞踏会には顔を出さなかった。纒足ゆえ踊れなかったからだ。
それが却って好奇を呼び、アルフレッド・ワルデルゼー将軍は手を尽くして彼女に接近し、伝記には「何度か寝た」とある。
彼女がウィルヘルム2世に目通りできたのもワルデルゼーの尽力だった。
洪鈞は日清戦争前に北京に帰任し、ほどなく病を得て死んだ。愛人ポストを失った賽金花は再び娼婦の世界に戻っていった。義和団の狼籍が伝えられ始めたころだった。
義和団が暴れ出した発端は布教にきたドイツ人宣教師らの傍若無人な振る舞いにあった。
彼らは特権を笠に着て、仏教寺院を壊してはキリスト教会に建て直していった。白人たちは専横で乱暴だった。
仏教徒は怒って抗議したが、白人宣教師と支那人信徒はそれに暴力で応えた。
争いは広がり、山西省大原ではついに230人の宣教師とその家族、尼僧らが義和団や同調する仏教徒たちによって虐殺された。
彼らは北京を目指し、その道すがら家々を襲ってキリスト教徒なら火灸りにし、あるいは生皮を剥いで殺して家財を奪った。
キリスト教徒でなければ強姦と略奪だけで済ませた。
賽金花の顧客だったドイツ公使フォン・ケトラーは怒った。強い人種差別主義者だった彼は報復に怪しい支那人を殺して回った。
お付の支那人ボーイも叩きのめし、命乞いするボーイを勢いで射殺してしまった。
これを知った義和団は各国外交官も処刑リストに入れた。最初の犠牲者は日本の外交官、杉山彬で生きたまま八つ裂きにされた。
その数日後、清国外務省に向かったケトラーの一行が義和団に襲われた。彼は耳鼻を削がれたうえ、生皮を剥がれ絶命した。彼の心臓は取り出され、暴徒たちが食ったと伝えられる。
8か国で構成する国際救援軍が派遣され、それが北京に着くまで柴五郎が奮迅の活躍をしたことは知られる。
その救援軍の司令官が賽金花のかつての浮気相手ワルデルゼーだった。
彼は義和団を蹴散らした後、ケトラーを殺した暴徒を捜し出して惨たらしく殺すと「ドイツ皇帝のための3日間の略奪」を部下に命じた。
それが終わると彼は「自分たちのための3日間の略奪」を許した。野蛮なドイツ将兵は義和団がやったのと同じに家々を荒らし、女子供まで殺し、略奪し、北京を血まみれにした。
その間、ワルデルゼーは西太后の宮殿に入って賽金花を呼び寄せ、西太后のベッドで再び枕を交わした。
賽金花はこのとき北京市民の虐殺はほどほどにと彼に頼み、将軍はそれを聞き届けたとの巷説がある。
しかしやがてナチスを生み出すドイツ人にそんな節度はなかった。市民はドイツ軍の殺戮を逃れて唯一の安全地帯だった日本軍守備街区に避難してきた。ここだけは秩序が保たれていた。
孫悟空で知られる火焔山の麓に10世紀の仏教石窟ベゼクリクがある。義和団の乱が平定された後、ドイツの探検家フォン・ルコックがきて、細密な仏教壁画をごっそり剥がして持ち去った。彼は持ち出した壁画の価値を高めるため、残りの壁画をみな破壊していった。
ドイツ人は人殺しの上に常に文明の破壊者だった。それはその後に彼ら全員が参加したユダヤ人の大量虐殺によく表れている。
先日のニューヨーク・タイムズに独ツァイト紙のヨッヘン・ビットナーが「ドイツが日本に教えられること」と題したコラムを載せた。日本人は我々のようにちゃんと歴史を見よ。安倍はユダヤゲットーに行って謝罪したドイツ首相ブラントに倣って南京に行って謝れと。
日本人はお前らと違って多くのユダヤ人を助け、北京でも南京でも支那人を守ってきた。南京大虐殺はドイツ人ラーベが握造したのを知っているだろう。
嘘で身繕いする前に日本から人の道のあり方を学んだらどうだ。
(2014年6月5日号)
習近平の「完食の勧め」 P35
「この疑い深い私かオルニチンを飲む理由」の見出しで栄養食品を勧めるコマーシャルがある。
そう語るのはクイズ番組で学生帽をかぶって素敵な脳味噌の回転力を披瀝している漫画家だ。
そんなヒトの決め台詞だから真実味が増すのだろうが、このヒトはその調子で日本の安保も語っている。
「中国人が攻めてきたら戦わずに素直に手を上げる。中国人支配の下でうまい中国料理を食って過ごした方がいい」といった内容だ。
いかにも左翼文化人らしい高みを感じさせる。平和憲法を守り、軍隊もいらない。平和を愛する者を支那人が殺すはずはないと。
いい響きだが、この文言には二つ誤りがある。
一つはうまい支那料理を食うというくだりだ。
いま北京、上海辺りで支那料理を食ってみるがいい。どぶから集めた「地溝油」を使う店ではなく、人民解放軍直営の北京国賓大飯店の飲茶だっていい。
一口目はうまい。でも二口、三口となると箸が進まなくなる。我慢して五口も食べ続けると帰国してから暫くは支那料理を食う気もしなくなる。
そうなる理由はグルタミン酸ソーダだ。あちらは鍋の底が白くなるほど入れる。
だから最初はうまいと思っても後が続かない。料理を山と残してしまう。
今は習近平の御代だ。彼はたとえ特権階級の太子党でも日本人観光客でも「光盤」をきつく命じている。
光盤の「盤」は料理を盛るお皿を言う。
「光」は日本人には馴染みない。何かを「し尽す」といった意味だ。頭髪が抜け尽して光っている状態を思えば分かり易いか。
つまり光盤は「皿の料理を残さず食い尽す」ことを言う。支那では料理を贅沢に残すのがお大尽の形だが、賄賂根絶、奢侈ご法度を言う習近平がそれを禁じた。
グルタミン酸漬けを食い尽すのは拷問に近い。
「疑い深い」漫画家は「中国人は手を上げれば殺さない」と断言する。
これが二つ目の誤りだ。
支那人は逆に無抵抗の者を殺すのが趣味だ。
蒋介石も毛沢東も村を襲って奪い、犯し、殺し尽す戦法をとってきた。
クリスチャンの蒋は毛と違って、時には村人全員の両足を切り落とすだけで許した。毛より人情味があると言いたいらしい。
ただ日本人が相手となると彼らの人情味は失せる。
盧溝橋事件直後の通州事件では支那人は無抵抗の日本人市民を丸一日かけていたぶり殺した。
中でも10歳の男の子とその母の殺し方は凄惨だった。まず母を犯し、次に男の子の指を斬り落とし、針金を鼻に通して母の足に結び付けて、引き回した挙句に殺している。
彭徳懐は自伝でこの殺光焼光槍光(殺し尽し焼き尽し奪い尽す)は日本軍が実行し、三光と名付けたと言った。
しかし日本人は、「光」は満鉄の時代から新幹線までいい意味でしか使ってこなかった。彭徳懐はそんな嘘を吐くから足を斬り落とされたりして惨めな最期を遂げた。
だから支那人に手を上げたら、その指を切られ、女は犯され、棒を突っ込まれて殺される。いい加減なデマで支那の真実を隠すのは鬘で禿を隠すよりたちが悪い。
彼ほど悪くはないものの、小保方晴子騒ぎでは別の意味で世間を誑かす言葉が出てきていた。理研の改革委委員長が語った「欧州の友人が世界三大不正の一つと言った」というくだりだ。
「欧州の友人」は私見を尤もらしく見せるために昔、新聞社の特派員がよく遣った手法だ。
「ドイツの友人は日本のテレビが俗悪すぎると言った」(毎日新聞特派員)という嘘は今もジャーナリズム評論に残っている。
それが学者世界にまで浸透してきたことに驚く。
なぜ自分の意見を「欧州の友人」に託すのか。
だいたいアドレナリンを見つけた高峰譲吉の手柄を米国人が盗んだり、癌は寄生虫が原因なんて嘘でノーベル賞を横取りしたり。欧米の科学界は昔から百鬼夜行の詐欺師集団だ。小保方さんなんてごく可愛い方だ。
支那人や白人を使って権威付ける必要はない。日本人の本音を話せばいい。
(2014年7月3日号)
オランダ人の祖先は韓国人という説 P85
日本が最初に付き合った外人はポルトガルなど黒い瞳のラテン系で、いわゆる紅毛碧眼はオランダ人が初になる。
しかし紅毛もラテンも決していいイメージは持たれなかった。
イエズス会のポルトガル人コエリョなどはキリストの福音を説きながら裏で日本女性を性奴隷に売り払い、秀吉から伴天連追放令を喰っている。
碧眼のオランダ人はもっとたちが悪い。日本人は黒人奴隷を家畜のように扱う彼らを見てほとほと愛想を尽かした。
おまけに彼らは風呂に入らない。臭く、不潔だった。彼らは1年おきに江戸城に参府するが、それを詠んだ句がある。「登城する紅毛に蝿のついて行き」。
間もなく明治ご維新というころ福島の高野廣八を頭に旅芸人一座が米国から欧州を巡業した。
パリでもロンドンでも大入りと大歓迎を受けた一座がオランダに入ると、途端に空気が変わったと廣八は日記に書いている。
街に出た廣八はオランダ人に囲まれ、悪態をつかれ、突っかかられ、「大喧嘩と相成り」。ついには「大刀を引き抜き、無二無三に振りちらして」やっと追い払った。
「人わるし。また国もわるし」と彼に酷評されたオランダは真珠湾の後、頼まれもしないのに日本に宣戦布告してきた。
日本は英米を叩いた後の昭和17年3月、彼らの宣戦に応えてジャワ島に上陸した。
主力8万の兵が龍るバンドン要塞には1個大隊700人が向かい、―週間で要塞の一角を落とした。
オランダ兵はそれを見て震え上かって白旗を上げた。
支那人雑兵を含め、日本が戦った相手でここまで臆病な敵はいなかった。
しかし捕虜になった彼らは恥じもせず、満足な収容施設と待遇を要求した。
彼らは手を組んで日本を経済封鎖した。食っていけなくなったから日本は戦端を開いた。
その貧しい日本に8万オランダ人捕虜は十分食わせろという。シンガポールでも英国人10万が、フィリピンでは米国人3万が同じように過分な取り扱いを求めた。
軍令部にあった高松宮さまは「割に合わぬ話なり」と感想を語られている。
結局、終戦まで寝て暮らしたオランダ人は戦後、日本側の待遇に因縁をつけて連合国軍の中で最多の226人を報復処刑した。
最後に処刑されたのは堀内豊秋大佐。セレベス島メナドに降下した海軍落下傘部隊の隊長で、逃げ回った現地司令官F・ティウォン大佐を捕虜にした。
戦後、この男が堀内大佐を偽りの罪で告発し、自ら裁判官になって彼に死刑を宣告した。
なぜ死刑なのかとの日本人弁護人の問いにティウォンは「なぜなら彼が日本人だからだ」と答えた。
高松宮さまがユリアナ女王に大佐の助命を乞うたが、女王は無視し、大佐は昭和23年9月25日、メナドで処刑された。ティウォンほどの卑劣漢を他に知らない。
オランダは戦後賠償でも十分にいやらしさを発揮した。当初、紳士面して賠償放棄を公言しながら陰で当時の金で36億円を取った。
さらに1991年、訪日したベアトリクス女王が宮中晩餐会の席で「日本には賠償を払う義務がある」と非礼の挨拶をし、2度目の賠償金を取り立てた。
その2年前の昭和天皇の御大喪にはオランダ王室だけが欠席した。
ちなみに昭和天皇は昭和46年にオランダを訪問されたが、オランダ人はお車に生卵や鉄製の湯たんぽを投げつけ、植樹された苗木も抜き折って歓迎した。
そのオランダの新国王訪日を前に先日、外相ティマーマンスが会見して「慰安婦も河野談話も生きている」と語った。
朝日新聞が慰安婦の虚構を懺悔したのを受けてオランダの姿勢を語ったもので、外相は「今後も両国の高官会談では常に慰安婦問題を提起する」(朝日新聞)と付け加えた。
新国王も宮中晩餐会の席上でカネを要求するという意昧なのだろう。
オランダ人の祖先が韓国人だと聞いてもそう驚かない。
(2014年10月23日号)
「京都を守ったのは米国人」という嘘 P107
戦前、白人たちはインドからこっち仏印、香港に至るまで支配し、民と資源を力ずくで搾取してきた。
仏印ではベトナムの民が圧政に抗議すると戦闘機を飛ばして機銃掃射を浴びせた。フィリピンでは米軍が独立を叫ぶ者を捕え、泥水を5ガロンも飲ませて殺した。
白人の専横は日本にも向かい、それに抗うと一方的に経済制裁を科してきた。
マッカーサーが後に議会証言したように日本は自衛のために立ち、併せてアジアの解放も目指した。
しかし日本軍がいざ立って出かけていった先々に白人の姿はなく、代わりにインド人やフィリピン人など植民地の民がご主人様のために戦わせられていた。
彼らを追い払った先でやっと白人と巡り合ったが、彼らはもうその時には白旗を握っていた。
彼らは負けたのに彼らの本国はそれを認めず、戦争を長引かせた。
資源小国の日本が付き合うには戦争期間は余りに長すぎ、戦う白人国家は余りに多すぎ、大きすぎた。
朝日新聞は敗戦の1週間後に社説で戦争責任に触れた。負けたけれど誰が悪いわけではない。臣民はベストを尽くした。戦争責任は「特定の人々に帰すべきではなく、1億国民がともに負うべきものだ」と。
鳩山一郎の一文も載せた。
「米国は原爆を投下して無辜の人々を殺傷した。それは病院船攻撃や毒ガス使用以上の明らかな戦争犯罪だ。米国人は自ら罹災地の惨状を見て、責任を自覚すべきだ」(9月15日付)
さらにGHQが「日本軍はマニラで何万もの市民を火攻め水攻めで殺し、赤ん坊を放り上げて銃剣で刺し殺した」と告発したことに「余りに荒唐無稽。きちんと検証すべきだ」(9月17日付)と堂々反論した。
日本軍がマニラ市民を虐殺したという時期は米軍がマニラを無差別爆撃した10日間と重なる。でも「死んだ市民はみな日本軍に殺された。悪いのは日本人だ」と言うのだ。
「日本軍はバターン半島から収容所まで捕虜を徹夜で何日も歩かせる死の行進をやった」とも非難した。
収容所までの距離は120キロ。半分は貨車輸送で、残る60キロをコーヒーブレーク、海水浴つきで3日で歩いた。徹夜で歩かせたら貨車にも乗らずにたった1日で着いてしまう。
朝日はいい指摘をしたがGHQは嘘がばれて照れ笑いするわけもない。朝日の幹部を呼び出し、2日間の発禁を言い渡した。またやれば廃刊にすると。
面白い、やってもらおうじゃないかと日本人なら言う。でも朝日人は違った。
発禁明けの日、この新聞は社説で改めて戦争責任を論じ、物資も工業力も日米には大差があった、負けを承知で「国民を戦争の渦中に投じた我が国指導者の責任は糾明されるべきだ」とやった。東条英機らが悪いのだと。見事なまでの転び方たった。
日本人は上から下まで「一宇」の同胞意識を持つ。それでは支配しにくいからインド人をイスラムとヒンズーで対立させたように分割統治できるネタがいる。
で、思いついたのが「国民」とその国民を「戦争の災禍に投げ込んだ軍国主義者」という色分けだ。
この形にすれば、本来は米国が問われる原爆投下の責任を「無謀な戦争をした東条ら」に転嫁できる。
GHQは朝日にこの分割統治と転嫁作業をやらせた。くだんの社説に始まり、朝日は「支那や南方での日本軍の蛮行」をどしどしでっち上げていった。
一方で悪い日本人指導者に対応する「いい白人たち」も宣伝した。
京都や奈良に空襲被害はなかった。京都が原爆投下候補地のトップで、奈良は過疎すぎたから通常爆弾による空襲はなかった、が本当のところだ。
GHQはそれを「ハーバード大の偉い先生ラングドン・ウォーナーの文化財保護勧告を受けて空襲をやめた」ことにして、古都を護ったいい米国人という嘘を朝日に書かせた。
おかげで分割統治はうまくいき、ラングドン・ウォーナーの顕彰碑が日本人有志の手で法隆寺の脇に立てられ、一方で東条の孫娘由布子や百人斬りの向井少尉の娘千恵子が「国民」に罵られ、石もて追われた。
いま慰安婦の嘘を書いた植村隆が石もて追われている。朝日は「ひどい」とか被害ぶる。それが嫌なら一度転んだ身だ、もう一度転んでみたらどうだ。
(2014年11月27日号)
キリスト教徒を締め出した日本の叡智 P135
ローマ帝国は宗教に寛大だった。
だいたいローマ人の祖からしてギリシャ神話の美の女神アフロディティの息子アエネアスで、トロイ戦争に負けて海を渡ってローマにきたことになっている。
だからローマはギリシャの神々をそのまま受け入れて信仰していた。
ローマ人はやがてギリシャの神々だけでは飽き足らなくなり、中東で人気の太陽神ミトラも入れたし、エジプトに遠征するとエジプトの神イシスも連れて帰ってきた。日本に似た多神教国家だった。
しかしどんな神さまでもいいわけではなかった。キリスト教だけは受け入れなかった。ネロは使徒のヘテロを逆さ十字架にかけ、パウロの首も刎ねた。
時代が下ってコンスタンチヌス帝になると折角の先祖の遺訓を忘れて、キリスト教の布教を許し、さらにテオドシウス帝が国教にした。
キリスト教徒は途端に牙を剥いた。我々はローマ帝国公認の唯一の宗教だと言って、ゼウスもミトラも迫害してその神殿を壊していった。
狭量さは同じキリスト教の身内宗派にも及んだ。東方正教会はミサのパンにイースト菌を使ったというだけで破門され、教会は要らないと言ったアマン派は石に括られて川に投げ込まれ、プロテスタントは見つけ次第火灸りにされた。
新天地に出たスペイン人はキリスト教化を口実にカリブ海のインディオもマヤもアステカも皆殺しにしていった。
彼らキリスト教徒の狭量さは現代にも生きる。NATOがセルビアを空爆し、ウクライナに干渉するのも理由は一つ。セルビア人やロシア人が東方正教会だからだ。
そのキリスト教は16世紀の日本にやってきた。日本には八百万の神がいる。もう一人増えても日本人は気にしなかった。
しかし狭量な彼らはローマと同じことをした。高槻城に入ったキリシタン大名高山右近は即座に城下の神社仏閣を壊していった。
彼らは信徒以外は人間扱いもしなかった。キリシタン大名は硝石1樽を女50人と引き換え、イエズス会はその女たちを奴隷に売って大金を稼いだ。
日本はローマより偉かった。秀吉は宣教師に神社仏閣と仲良くするよう、それから奴隷売買は悪いことだからやめるよう説得した。
10年待ったが、反省がないので26人を処刑した。
徳川幕府もこの狭量の宗教を諌めた。道を外れた民には踏み絵を踏むだけで許した。異教徒は皆殺しにするキリスト教では考えられない寛容さだった。
しかし彼らは反省もなく島原の乱を起こす。この経緯を踏まえ日本はキリスト教を邪宗として禁じた。ローマ帝国もやらなかった世界で初めての試みで、おかげで日本は宗教戦争から離れて暮らすことができた。
このキリスト教禁令は明治維新以降も五榜の高札に掲げられ、明治憲法の発布まで邪宗入信を戒めた。
こうした日本の対応はときに悪しざまに罵られる。
例えば司馬遼太郎は島原の乱に触れた作品で「日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」と書いている。
百姓を苛め、とくに「切支丹は松倉親子で弾圧し、一揆を起こさせた」と続ける。
しかし司馬はこの宗教の持つ危うさには触れない。
切支丹側に立って最大限の非難を加えながらその根拠は出所不明の文書ばかり。そこに「最も残虐な蓑踊り」が出てくる。
百姓に蓑を着せて火を放つ。百姓は踊り狂うように焼け死んでいくと。
何と残忍なと思う。同時に日本人がこんなことを発想するだろうかとも思う。
司馬に代って調べると松倉の時代のはるか前にラス・カサスが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を出している。スペインの残虐さがそれで知れ渡った。
その中に蓑踊りの図とそっくり同じ「インディオの体に藁束を縛りつけて焼き殺す」描写が出てくる。
切支丹を追い出した日本はこんなに残虐だったと、キリスト教徒がラス・カサスの紹介した残虐話を流用したと考えられないか。
いま「長い弾圧の歴史をもつ長崎の教会群と秀吉が処刑した二十六聖人を世界遺に」と政府が言い出した。
信教の自由はあっていい。しかし歴史評価は違う。先人が示した叡智をなぜ現代の日本人が貶めるのか。
(2015年1月22日号)
「イスラム国」より残虐なのはやっぱり支那 P149
邦人2人に次ぎヨルダン軍パイロットを焼殺したイスラム国について安倍首相は「非道」と言った。
非道の一つは「捕虜は殺さない」ルールの違反だ。このルールは南北戦争をきっかけに生まれた。
だいたい米国はそれまでの長いインディアン戦争で捕虜は皆殺し、非戦闘員も皆殺しの悪虐を公然とやってきた。
シャイアン族との戦いでは男たちが狩りに出た隙にサンドクリークの宿営地を襲い「白旗を掲げる幼女を撃ち殺し、その母親の腹を割き、頭皮を剥ぎ、指を切り落として指輪を奪った」(ロバート・ペント報告書)。
南北戦争も戦い方は同じ。両軍とも捕虜を殺し、敵の街では市民も殺し、トータルで62万人もが殺された。
米国はよその国も同じことをやっていると思い込んで19世紀末のハーグ国際会議で、偉そうに陸戦条約を提案した。捕虜は殺すな、非戦闘員も殺すなのごく当り前のルールが出来上がった。
しかし同じ時期フィリピンの植民地化戦争をやっていた米国はすぐ抜け道を作った。「陸戦条約は正規軍のみが対象でゲリラには適用されない」と。
発案者はあのダグラス・マッカーサーの親父のアーサーだ。
彼は抵抗するアギナルド将軍以下のフィリピン軍を一方的に「非正規軍」つまりゲリラと認定し、捕虜を拷問し、処刑もした。
「一週間銃殺」も発明した。月曜に右肩を撃ち抜き、火曜は左膝、水曜に左肩、木曜に右膝を撃ち、金曜日にやっと心臓を撃って殺した。苦痛と死の恐怖を1週間も味わわせた。
支那も米国と同じ傾向を持つ。日本人はそれを日清戦争開戦直後に知り、山縣有朋が「生擒(捕虜)になるな」とする訓示を出している。「生擒に遭わば死に勝る苦痛を受けついには野蛮惨毒の所為をもって殺害せらるるは必定なり」。
野蛮惨毒とは「耳を削ぎ、鼻を削ぎ、目玉を抉りだし陰茎を斬り落として喉に詰め、やっと鈍ら刀で首を引き斬っていく」(秋山好古の副官報告書)。
ジハーディ・ジョンは縛められた後藤健二の首を引き上げて頚動脈を断ち切った。ほぼ即死するのに対して支那人のそれは数時間も続く。
ジョンは首を斬り落とすと遺体を寝かせ、その胸の上に首を据える儀式をする。
支那にも死後処理がある。捕虜を斬首したあと胸から腹を截って心臓を取り出し、あとに石を詰めて死体を冒涜する。
手足は切断して民家の軒先にぶら下げた。
「日本軍は戦友の傷ましい姿にもじっと感情を抑え、支那人捕虜に報復することもなかった」(ベルギー公使アルペール・ダネタン)
イスラム国はヨルダン人パイロットを檻に入れ火を放ち下から焼き殺した。残忍だが、蒋介石軍はもっと野蛮だった。
日支事変のさなか、日本兵が拉致され、半焼きにされ、まだ軍服がくすぶっている状態で日本側駐屯地近くに放置された。兵士は苦しみ抜いて死んだ。
イスラム国は戦闘で捕えたイラク軍兵士らをまとめて銃殺し、その映像を送りつけてきてもいる。
捕虜殺害というルール違反では米中に並ぶが、残虐な殺害方法ではイスラム国はまだ支那に劣るところがある。
首相の言う非道のもう一つはイスラム国の過酷すぎる刑罰だ。
男の宗教心を乱さないよう女は髪と体の線を隠すニカブを着る。それに背いたというだけで30代の女がアレッポ近くの街で「首まで地面に埋められ、石を投げつけられ」(朝日新聞)て殺された。最も残酷と言われる石打の刑だ。
処刑の残酷さでも前述した1週間処刑があるように米支はその上を行く。
とくに支那は残酷の極みを行く凌遅刑がある。太平天国の乱では首謀者がすべてこの刑に処せられ、生きながら体の肉をそぎ落とされた。民衆はその肉片を薬として珍重した。
一昔前にあった福岡一家4人殺しで犯人の支那人留学生はこの凌遅刑を家族に行っていた。
日本人の多くはイスラム国の残虐さに驚いたはずだが、実はもっと残忍な国がほんの傍にあることをこの機に思い出すことだ。
(2015年2月19日号)
韓国人はどうしてキレやすいのか P165
支那で初めて電気の灯が点ったのは北京郊外頤和園の西太后の寝室だった。
アイヤーとか感激した西太后は点したドイツ人に電気事業の一切を授けた。
ドイツ人が今でも支那で大きな顔をし、メルケルが大事にされる理由がここにある。
西太后は走る汽車にもアイヤーと驚き、これも外国企業にすべてを任せた。
基礎を学ばず、でき合いを外国に頼んできたから支那人は今も電気がなぜ明るいのか、汽車がなぜ走るのか分かっていない。新幹線を真似ても前に進むよりは下に落ちるものしかつくれないのもこうした歴史が背景にある。
その点、日本は違った。外国に任せず、外国人を呼んでノウハウを学び、基礎から日本人がつくる方式を取ってきた。
だから明治5年には自前の鉄道を走らせ、明治20年には火力発電所が運転を始め、やがて日本製のフィラメントが点るようになった。
ただ、学ぶために招いたお雇い外国人がみな立派かというとそうでもないものもいた。
たとえば支那の定遠に敵う海車力をと頼んだフランスの技官エミール・ペルタンは4000トンの艦に1万トン級の軍艦が載せる巨砲を、それも後ろ向きに取りつけた。日本は危うく日清戦争に負けるところだった。
外務省が雇った米外交官ヘンリー・デニズンはもっといかがわしかった。
彼は明治13年から大正期まで実に35年間も日本外交を仕切った。表向きは不平等条約の改正に励み、日清戦争の下関条約を華麗な英文にし、日露戦争講和では小村寿太郎をよろしく助けたことになっている。
しかし歴史ははっきり異論を付ける。例えば遼東半島についての三国干渉だ。白人国家の専横に対しデニズンは論議を避け、黙って受け入れることを勧めた。
日露戦争ではロシア艦隊を殲滅した日本は「800万トンにのぼるロシア商船の無制限拿捕も可能。もはやロシアの敗北は決まった」(ニューヨーク・タイムズ紙)状態だった。
だからシペリアの半分は日本のものと言われたのにデニズンがアドバイスしたポーツマス条約は領土も賠償金もゼロ。赤ん坊がやったって変わらなかった。
不平等条約も伊藤博文の顧問ダーラム・スティーブンスが実際にメキシコとの間での交渉を行い不平等撤廃の道を開いた。
日本には横腹にナイフのような形で朝鮮半島がある。そこが揺れるたびに日本は戦争に巻き込まれてきた。
半島はそのまま日本の安全保障に繋がるが、デニズンは動かない。対してスティーブンスは朝鮮の外交権を日本が預かる形を伊藤に勧め、実際、彼が朝鮮政府の外交顧問に就いて暴走を防ぐ役割を担った。
ルーズベルトも同じ。朝鮮に国家としての能力がないと判断し、朝鮮にあった米公館を早々に閉じた。
ついでに日本に朝鮮併合を促したが、彼らを知る日本はそれを謝絶していた。
そんな折、一時帰国したスティーブンスがサンフランシスコで日米の朝鮮問題の取り組みについて記者会見した。
彼ははっきり朝鮮王室も政府も腐敗しきっていること、両班が民を好きに略奪し、民は愚昧のままおかれていること、国としての形もないことを語った。
「いま日本の存在感が増していくのに伴って民は大きな恩恵を受けている」と会見を結んだ。
翌日、新聞を読んだ4人の在米朝鮮人がホテルに押しかけ、彼の発言に抗議した。「国に戻って自分の目で確かめてみれば」と諭す彼を4人は椅子で殴り倒した。
その翌日、フェリー乗り場で待ち伏せしていた別の朝鮮人2人が彼を銃で狙撃し、デニズンより優れた米国外交官は死亡した。
襲った6人には特別の背景はなかった。朝鮮人なら誰でもがそうするように腹が立つと見境がなくなって相手を椅子で殴り、あるいは殺してしまう。
米紙は理解を超えた朝鮮人の国民性に強い警戒感を訴えたが、先の戦争では日本と朝鮮の立場を入れ替えた。日本の方を「警戒すべき国民性」に仕立てた。
スティーブンスが撃たれてから1世紀。今度はソウルで米大使が斬られた。(リッパート駐韓大使襲撃事件)
襲った犯人は米国務次官の談話に腹が立ったからとその動機をいう。あの国民性は100年変わらない。
(2015年3月19日号)
NHKに住んでいる各国の「反日放送局」 P178
北朝鮮で行われる公開銃殺刑は処刑人に一手間余計な仕事がある。
公衆の面前で判決が読み上げられた後、処刑人の一人が目隠し幕を垂らし、その陰で別の処刑人が咎人を寝かせ、顎を銃の台尻で砕き、口に砂利を詰め込む。
それが終わって咎人は銃殺用の杭に縛られる。
顎を砕いて砂利をかませるのは処刑前「構え」「撃て」の合間に、金正日なり正恩なり、首領様に悪態をつかせないためだ。
そうしたアイデアはどこから来たのか。独創性が極めて希薄な民族だから誰かに教わった可能性が高い。
調べたら『「死体」が語る中国文化』(樋泉克夫愛知大教授)に同じような咎人の口封じが出てくる。支那では漢民族が支配者になるとやたら残酷刑が流行る。最期の一言封じの措置もやはり漢民族の明王朝の時代にあった。
明の残酷刑は生きたまま肉を削ぐ凌遅刑だ。10切れ削ぐと気絶する。処刑人は気合をかけ咎人の意識を戻させ、また肉を削いでいく。
1日目が終わると牢に戻し、おいしい料理を与えて2日目にまた削ぐ。
最期の日は咎人が苦痛に耐えかねて皇帝朱元璋に対し「禿げ坊主」とか罵る可能性が高いため、処刑人は「大きな桃を押し込んで口を塞ぐ」とある。
樋泉教授によれば処刑人には刑を執行する前にも仕事がある。咎人に大声で「皇帝の慈悲、父母の恩に感謝し、己の罪を悔いる」口上を語らせるのだ。
残忍な処刑を前に感謝と反省を語らせるのは残酷な仕打ちと思うが、それがマナーを知らないと言われる支那人が伝統的に守ってきた唯一のマナーなのだそうだ。
明の次の漢族支配者となる毛沢東もこの処刑前の口上をやらせた。
文革期、処刑人紅衛兵に囲まれて走資派がやらされた自己批判がそれだ。
その伝統は今に生きると支那人作家・慕容雪村(ムーロンシュエツン)がニューヨーク・タイムズに書いていた。彼自身、14歳のとき、学校をサボった罪により全校生徒の前に立たされて「私は規律も守れないダメ人間。立派な先生の期待を裏切った」と懺悔させられた経験がある。その伝統が習近平の御代、さらに派手に、賑やかになったという。
習の処刑人役は中央電視合(CCTV)で、彼らは弁護士も入れない刑務所の奥までカメラを持ち込み、雪村によれば「まだ判決も出ていない」推定無罪の咎人に「罪を告白」させる。しかも咎人に「黙秘も許さない権限が与えられている」という。
政府関係企業の不正を暴いた「新快報」記者・陳永洲も手錠姿でCCTVのカメラの前に立たせられ「カネを貰って嘘記事を書いた」と告白した。暫くして法廷が開かれ、判決が出たのはそれから1年後だった。
習近平体制を揶揄するブログを書いた大物チャーリー・シューこと薛必群も捕まり、CCTVに売春婦と寝た話を告白させられた。
今や習近平に逆らう者は何人も許さない「閉ざされた言語空間」が現出していると慕容雪村は指摘する。
処刑人役のCCTVは、おかげでというか大躍進を遂げつつある。
胡錦濤時代には17か所だった海外支局が今や70拠点に増え、習近平を宣伝する外国語放送も英、仏、アラビア、スペインなど6か国語に増やした。
日本にも出てきた。拠点は東京・渋谷のNHK放送センターの中。中立公正を誓って国民から受信料を徴収するNHKがなぜ習近平の処刑人のために広いスペースを用意しているのか。
この疑問にNHKは「米国のABCも韓国KBSも入れている」と開き直る。
いかにも公平そうに言うが、ABCと言えば米国では名だたる反日放送局だ。トヨタ車に暴走の濡れ衣が着せられたとき、握造した「暴走するタコメーター」映像を流した局だ。
KBSも然り。「韓国のTBS」と言われるほど反日番組で知られる。
そんな札付きを並べ、だからCCTVも入れて当然とはどういう神経か。
それに日本は習の最大の戦略対象国なのに、なぜCCTVに日本語放送がないのか。
それは習の言い分も、捏造を含む対日批判放送もすべて「NHKが率先代行している」から。NHKを習の日本語放送と思ってほしいというのだ。
籾井はCCTVを追い出して潔白を示すときだ。
(2015年4月9日号)
「バターン死の行進」は白人による嘘 P201
マッカーサーは本当に臆病者だった。日本軍がリンガエン湾に上陸したと聞くとすぐマニラを捨て、バターン半島の先のコレヒドール島に逃げ込んだ。
半島には幾重も防塁が備えられ、米軍の盾となるフィリピン軍が6万、米兵も1万ほど展開していた。
日本側は大きな犠牲を払って昭和17年4月、ここを落とした。米比軍はほとんど無傷だった。ただマッカーサーの無策で医薬や糧食が欠乏し、かなりへばっていた。
戦車隊員レスター・テニーはドル札の焼却を命ぜられたが、勿体ないから木の洞に隠した。部隊のトラックも「ジャップに鹵獲されるのが癪でぶっ壊した」と自伝に書いている。
そういうケチな根性をしていたから、半島からはるか先の収容所へ移動する段になってさあ困った。
トラックを残した部隊はそれに乗っていけたが、テニーたちは歩きになった。
日本軍は衰弱気味の米兵のために途中何か所もの救護所を置いてめんどうをみた。さらに朝昼晩にはお握りも与えた。1日につき21万個もだ。
フィリピン兵はコメの飯に感激したが、米兵は「パンを出せ」と文句を言った。
結局1日目は16キロ先で野営。翌日は20キロ先のバランガで休んだ。ここでは地元民が食べ物を手に米軍に徴用された身内フィリピン兵の安否を尋ねてくる。何人かはその人波に紛れて逃げた。
先日、その道をたどった。ガイドの女性は「大叔父もこの道を歩んだ一人で、疲れて道端で寝ていたら日本兵が見逃してくれて逃げられた」と話していた。
日本軍はフィリピン人と戦争したつもりはない。彼らが逃げてくれれば捕虜収容所での食い扶持も助かる。
南京攻略戦のあと俘虜になった徴用農民兵もそれで逃がしてやっている。
比島戦のさなか、インドネシアを制圧した今村均中将はオランダ人の盾にされたインドネシア人兵士に塩を持たせて「家族に届けてこい」と放した。
誰も戻らないと思ったら、ほとんどが戻ってきた。それを見た中将は彼らの軍隊ペタを作ってやる気になったという。
いずれにせよ日本は悪い白人とのみ戦った。
行軍は4日目にサンフェルナンド駅に着き、貨車で収容所に運ばれた。
溝口郁夫『絵具と戦争』には行軍の途中、捕虜の士官に紅茶が振る舞われる写真や海水浴を楽しむ米兵の姿が記録されている。
安倍首相が米議会で演説する前に「バターン死の行進」保存団体から両院議長宛てに「飢餓状態の捕虜たちには水も食料も与えられなかった」「少しでも休めば殴られ、銃剣で刺された。射殺される者もいた」と抗議し、「安倍にバターン問題を謝罪させるべきだ」(ロイター電)とする書簡が届けられた。
彼らが飢え、病にかかったのは目の前の部下の窮乏にも手当てしなかったマッカーサーのせいだ。
それでも日本軍は1日当たり21万個ものお握りを握って配ってやった。
マッカーサーはそれに感謝するどころか、独りメルボルンに逃げたあと、この「死の行進」の与太話を創作して世界に振り撒いた。
彼の嘘に乗ってテニーも「日本人士官は馬上から捕虜の首を刎ねた」とか嘘に嘘を重ねた。民主党の岡田克也は彼を日本に招き、揉み手して謝罪している。
今回は外務省が愚かにも彼を日本大使館の晩餐会リストに入れ、まるで彼の主張が 正しいかのような印象さえ与えた。彼をリストに入れた外務官僚は即刻クビにすべきだ。
ところでこのバターン攻略戦のように、自軍の何倍もの「食わせなければならない捕虜」が出たときに白入国はどうしたか。
例えば終戦時、各戦場では数十万の降伏日本兵が出たが、狡い白人はこれをPOW(捕虜)と呼ばず、JSP(降伏日本人将兵)とか名付けて糧食の提供すらしなかった。
ために日本兵たちは仏印カプ・サン・ジャックなどに自分たちで収容所を建て、畑をつくったりして自活してしのいだ。
日本人の親切心はいつも裏切られる。
(2015年5月21日号)