中学歴史 平成30年度文部科学省検定不合格教科書
竹田恒泰さんはネット番組で拝見します。
ある番組で教科書を作ること、検定不合格になったこと、次回の合格を目指しつつ不合格になったものを出版することなどを話していらっしゃいました。
その際、「自由社と育鵬社の歴史教科書は右寄りだと批判される。ならばもっと右の教科書を作ってそれらの教科書が中道に見えるようにしようと考えた。」と冗談交じりに話していたのが思い出されます。
『国史教科書』の特徴に、「捻じ曲げられた歴史を正す」として『これまでの自虐史観に基づいて、事実と誤ったことが浸透してしまっていることがある。たとえば南京事件である。「国史教科書」はこれをただ無視して書かないのではなく、書いたうえで、事実ではないと思わせる指摘をいくつか載せることで、生徒たちが自ずと虚偽であることを知るような書き方を心掛けた。』とあるります。
ねつ造された歴史は修正されるべきであり、この点も竹田教科書に期待したいところです。
竹田恒泰さんの「中学歴史 平成30年度文部科学省検定不合格教科書」 を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
刊行に寄せて
平成25年に福岡県で行われた高校生建国意識調査によると「日本はいつ建国したか」「日本を建国したのは誰か」という二つの問いに対して、正しく回答できた生徒は、それぞれ約2パーセント程度しかいなかったという(山本みずき「18歳の宣戦布告国家観なき若者に告ぐ」『正論』平成25年5月号)。
もし米国の高校生に「米国はいつ建国したか」「初代大統領は誰か」と問うたら、ほとんど全員が即答するだろう。中国の高校生に「中国はいつ建国したか」「初代国家主席は誰か」と問うても、やはり同じように全員が即答するはずである。
その理由は「学校で教えているから」に他ならない。世界に国連加盟国は193力国あるが、学校で建国の歴史を教えていない愚かな国は、おそらく日本をおいて他にない。
日本人が外国に留学すると、現地の生徒たちから日本のことを色々聞かれるが「今年で日本は建国から何年か」「初代の天皇は誰か」といった質問に答えられないと驚かれることになる。いや、驚かれるどころか、軽蔑の眼差しを向けられるに違いない。米国に生まれ育っておきながら、しかも高校や大学にまで進学しておきながら、米国初代大統領の名前を知らない人間などいるはずもない。日本に生まれ育って初代天皇の名前を知らない大学生かいること自体、世界の人にとっては信じられないことなのである。
日本の高校生たちが日本の建国の経緯を知らない理由は、「学校で教えていないから」である。自由社と育鵬社を除き、普及している約96パーセントの中学歴史教科書には、建国の経緯が書かれていない。そして高校では日本史は選択になるため、多くの日本人にとって日本史を学ぶ最終段階が中学の歴史の授業ということになる。その結果、高校生の約2パーセントしか建国について知らない。
そして、日本の教科書が建国の経緯を書かない理由は、戦争に負けたことが原因である。GHQがあらゆる出版物に適用した『プレス・コード』も然ることながら、教科書検閲に用いたGHQの『教科書検閲の基準』の影響が大きい。GHQは同基準に明記された次の5点について、教科書から徹底的に排除したことが現在にまで影響を与えているのである。
・天皇に関する用語
・国家的拡張に関する用語
・愛国心につながる用語
・日本国の神話の起源や、楠木正成のような英雄および道義的人物としての皇族
・神道や祭祀、神社に関する言及、等々 (高橋史朗『検証 戦後教育』広池学園出版部)
このなかで特に注目すべきは「道義的人物としての皇族」は教科書に掲載してはいけないということ。元寇に当たり、自らの命を差し出してでも国民の命を救って欲しいと伊勢の神宮に祈った亀山上皇の話、不作で飢えに苦しむ国民に3年にわたり税を免除した仁徳天皇の「民の竃」の話などは、教科書に掲載できなくなった。
また「楠木正成のような英雄」も教科書には書いてはいけないとされ、たとえ名前を紹介することはあっても、英雄的な逸話は教科書には書けなくなった。
また神話の起源や、神道や神社についても教えることができなくなった。教科書に『古事記』という書名を見ることはあっても、神話の内容は書かれない。そのため、現在の子供たちは日本神話を知らないまま大人になってしまう。
我が国を建国した神武天皇の話は「道義的人物としての皇族」「楠木正成のような英雄」「神話の起源」の三つの意味において、教科書には名前すら紹介されない。ゆえに、普及している中学の歴史教科書には、日本の建国の経緯が書かれていない。神武天皇について触れないのであるから当然の帰結である。
とはいえ、教科書が建国について触れなければ、教科書にぽっかりと穴が開いてしまい、極めて不自然な内容になってしまう。弥生時代から、いきなり奈良の都が整備された律令国家の時代に飛んでしまっては生徒も訝しがるに違いない。
そこで、占領下の教科書執筆者たちは考えた末、一つの奇策を思いついたようである。それは、建国の時代は考古学の知識で埋め尽くすことにより、建国の経緯に触れずに、切れ目なく日本列島の状況を教科書に収録することができるということである。考古学が文字を研究対象としない点に注目したのではないか。建国から統一までの間を考古学で説明すれば、天皇に一切触れずに説明できてしまうのである。
たしかに、大型古墳が造営されるようになり、それが全国に広がっていくことを考古学的に説明すれば、奈良を本拠地とする勢力が全国に拡大して列島を統一したことを説明することはできる。
しかし、その結果、古墳時代から飛鳥時代への接続が極めて不自然になってしまった。先土器時代から古墳時代までは考古学、飛鳥時代以降は歴史学で語られるため、その境目で違和感が生じることになる。感の鋭い生徒はその違和感に気づいたのではあるまいか。
具体的には古墳時代までは出土物と遺跡などの遺構の話に終始し、年号や固有名詞が登場しない。考古学は文字を研究対象としないため当然である。ところが、飛鳥時代以降は、年号と固有名詞が列挙される。
考古学と歴史学は全く別の学問で、研究対象も違えば、研究の手法も異なり、両方の学問の間の交流も乏しい。「考古学の教科書」だったものが、章をまたぐことで突如「歴史学の教科書」に変化するのであるから、その異常さは決して小さなものではない。
実際、普及している中学の歴史教科書は、古墳時代までを考古学のみで説明している。その結果、大和朝廷が成立してから、古墳時代が終わる六世紀末まで、歴史資料に一切触れず、また年号と固有名詞にも一切触れずに説明してしまっているのである。普及している中学の歴史教科書は、天皇(もとは大王)の成立や、大和朝廷の成立と拡大について、何ら説明していない。
このようにして、天皇の成立と我が国の建国と統一の経緯は、歴史教科書から完全に排除されてしまった。
これでは、どれだけ教科書を熱心に読み込んでも、我が国の成り立ちを知ることはできない。民族とは、神話と歴史と言語を共有する人たちを意味する。このような教育を何十年も続けていたら、
日本人の民族性は失われていくに違いない。
天皇や皇族に関する誇らしい逸話や、国民的英雄の逸話をはじめとする、GHQによって消された部分は、占領が解除されても教科書に戻ることはなく、現在に至る。我が国が独立を回復してから教科書検閲は行われなくなったものの、『プレス・コード』と『教科書検閲の基準』は不文律として今に残っているように思える。天皇の英雄的逸話を掲載すれば「軍国教科書」と罵られる。現に自由社と育鵬社の歴史教科書はそのような扱いを受けてきた。
昭和20年代後半の、共産主義者たちが武力闘争に励んでいた時期、日本共産党幹部の志賀義雄は次のように武力闘争を批判した。
「なにも武力革命などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育をほどこせば、30~40年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」
教科書さえ書き換えれば、武力闘争などをせずとも共産革命すら可能だというこの言葉は恐ろしいながらも真理を述べていると私は思う。実際、中学の歴史教科書に、極めて反日色の強い不適切な教科書が長年使われてきた結果、日本はおかしくなってしまった。
しかし、その逆もまた然りである。もし真っ当な教科書が普及したなら、真っ当な青年が育ち、将来日本の指導者になって、その時に本当の日本が復興するのではあるまいか。正しい教科書を普及させることの価値は実に大きい。
そのために有志が集い、始まったのが『国史教科書』編纂計画である。主筆である私と、竹田研究会学生部の大学生4名で書き上げることになった。
約1年かけて5名で『国史教科書』を書き上げ、平成30年4月に文部科学省の教科書検定に申請するも、同年11月に文科省から「検定申請図書に係る検定審査不合格の理由の事前通知について」という通知を受け、その後申請自体を取り下げることになった。
平成31年からは改訂された新学習指導要領が施行されるため、我々は、受け取った不合格理由を精査し、新学習指導要領に合致させるために必要な改定を施し、新しい教科書を書きあげることができた。平成31年4月に改めて文部科学省に提出する運びである
我々の教科書作成の取り組みを一人でも多くの人に知って頂きたいという思いから、今般、昨年不合格になった『国史教科書』(中学社会・歴史的分野1-3)を『中学歴史文部科学省検定不合格教科書』と題して上梓することにした。それが本書である。
本書は、文科省とのやり取りのなかで判明した誤りを正した他にも、削除加筆した個所があるため、検定に提出した原稿と同一ではないことをお断りしておく。
文科省からは平成30年8月に40点の根拠資料の提出を求められ、同月中に全ての点について資料を提出した。本書の巻末に、文科省から根拠資料の提出を求められた個所や、それに対して文科省に提出した資料、また通知された検定不合格の理由を掲載したので、参照されたい。
ただ、本書は不合格版なので、教科書検定を通過するには不十分な内容であることを予めお断りしておきたい。来年には、検定に合格し、合格版を上梓できるように努力していく所存である。
学校教科書を世に送るために、私は平成書籍株式会社という出版社を設立した。平成31年4月1日に新元号が発表されたため、同日をもって令和書籍株式会社に商号変更したことをお伝えする。また、本書の売り上げによる収益金は、今後の教科書作成のための費用に充てさせて頂くので、この場を借りて、本書をお求め下さった方々に御礼を申し上げたい。
平成31年4月3日
『国史教科書』主筆 竹田恒泰
『国史教科書』の特徴
■日本人のための教科書
この教科書は「日本人の日本人による日本人のための教科書」であり、『国史教科書』と名付けたのはそのためである。
終戦まで日本の学校には「国史」という教科があった。しかし、GHQの指示により「国史」教育は停止され、後に中学では「歴史」、高校では「日本史」という教科名に変更して再開することになった。
教科名が変更されただけでなく、内容も一変した。「日本史」になったことで「外国人が学ぶ日本の歴史」と同じものになってしまったといえる。
アメリカ人が学ぶアメリカ史と、外国人が学ぶアメリカ史は、表現やまとめ方が異なるはずであり、それは日本でも同様である。アメリカには「アメリカ史」という教科はなく「国史」(National History)という教科がある。また中国の学校にも「国史」という教科がある。
残念ながら、普及している中学歴史教科書の多くは、各章が中国→朝鮮→日本の順序に書かれているものや、日本人にとって誇りに思える逸話が消されたままになっているなど、「日本人の日本人による日本人のための教科書」とはかけ離れたものが多かった。
この教科書は、タイトルに「国史」が入っているだけでなく、内容も「日本人の日本人による日本人のための教科書」といえるに相応しいものを目指した。
そのため、神話教育に一定の紙幅を費やし、また学問的見地から我が国の建国の経緯を明らかにし、2000年以上ひとつの王朝が継承されたことに主軸を置いて、各章を構成した。各時代の冒頭は日本の話から書き始めているのはそのためである。
■建国を歴史学と考古学の両面から探究した
普及している大手の中学歴史教科書では、考古学で古墳時代の終わりまでを説明しているが、『国史教科書』では歴史学と考古学の両方を用いて弥生時代後半から古墳時代を表現した。
これにより、神武天皇が日本を建国し、その後の歴代天皇が国の礎を定めた経緯を克明に描写することができた。
■時代区分を日本国史の視点から区切りなおした
中学の教科書を読んでいると、変なところで時代が区切られているのに気づく。たとえば、平安時代の途中で章が変わり、「古代」から「中世」に入ったり、江戸時代の天保の改革あたりで章が終わり、「近世」から「近代」に入ったりする。
この矛盾は、「古代」「中世」「近世」「近代」という歴史区分を、ヨーロッパの歴史を基準に組み立てているから生じることである。
日本国史を基準に見るなら、平安時代が終わるときが「古代」が終わるときで、江戸時代が終わるときが「近世」が終わるときになるはずではあるまいか。
そこで、『国史教科書』では、平安時代までを「古代」とし、鎌倉時代・室町時代を「中世」とし、戦国時代・江戸時代を「近世」とし、明治時代から終戦までを「近代」とし、終戦後を「現代」とした。これにより、時代の途中で章が終わるという矛盾を排除した。
■縦書き
検定済の中学歴史教科書は全て横書きである。日本国史の教科書に横書きは馴染まないため、『国史教科書』は縦書きにこだわった。
そもそも日本語は縦に書くことを基本としている。これだけ多様な時代であっても、新聞は縦書きを基本としているし、書店に並ぶ書籍の大半は縦書きである。しかも、電子書籍も同様であるばかりか、若者が読む漫画も縦書きが基本である。
化学式や数式などがならぶ理科学系の書籍ならまだしも、なぜ日本の歴史を学ぶ教科書が横書きであるのか。そもそも横書きを選ぶこと自体、著しく不適切と言わねばならない。
『国史教科書』は全編、縦書きで構成されている。横書きに比べて、読みやすく理解しやすい教科書に仕上がっている。
■幕府ではなく朝廷を軸にした
これまでの中学歴史教科書は、幕府を中心とした政治史を綴るものであった。しかし、幕府は時代とともに栄枯盛衰があり、権力者は移り変わるものであるのに対し、朝廷は短く見積もっても2000年以上、万世一系によって継承されている。
ならば、日本の歴史は幕府を軸として語るのではなく、朝廷を軸として語るべきではあるまいか。
そこで「国史教科書」は、どの時代も朝廷を軸に語ることを心掛けた。それにより、時の権力者が移り変わっても、朝廷が日本の歴史の中核になっていて、国家が継続していることを理解できるように仕上がった。
■日本の歴史に興味が持てる作り
普及している中学歴史教科書は、日本人が誇りに思える逸話を意図的に避けて作っているように見受けられる。
占領下の教科書検閲により、日本人が誇りに思える逸話は全て削除されたが、占領が解除されてから間もなく70年になる。誇りに思える逸話を教科書に書くことは、むしろ日本人が日本を理解するうえで必要なことではなかろうか。
そのため、『国史教科書』では、生徒たちが日本の歴史に興味を持ちやすいように、随所に工夫を凝らした。その一つが、我が国は現存する世界最古の国であることを述べた巻頭言である。また、2000年間日本だけが唯一切れ目がない世界史の年表、125代にわたる皇位継承図などを冒頭に掲載したのもそのためである。
その他、仁徳天皇の「民の竈」の話や、昭和天皇がマッカーサー元帥と対面なさったときの話など、日本人として知っておくべき重要な逸話を多く盛り込んだ。
■捻じ曲げられた歴史を正す
これまでの自虐史観に基づいて、事実と誤ったことが浸透してしまっていることがある。たとえば南京事件である。「国史教科書」はこれをただ無視して書かないのではなく、書いたうえで、事実ではないと思わせる指摘をいくつか載せることで、生徒たちが自ずと虚偽であることを知るような書き方を心掛けた。
また、慰安婦問題については、コラムに朝日新聞の誤報問題を取り上げ、新聞でも大きな過ちを犯し得ることを明確に示した。
また、世界三大文明か虚偽であることは学問上決着がついているにもかかわらず、普及している大手の中学歴史教科書は、いまだにこれを述べている。「国史教科書」はその誤りを指摘した。
これまで米は朝鮮から伝わったと教科書で書かれてきたが、日本から朝鮮に伝えたことがDNA鑑定で判明したが、これを指摘する中学歴史教科書はこれまでなかった。「国史教科書」はその点も明確に説明した。
このように捻じ曲げられた歴史を訂正する個所は多数あるので、本文を確認して頂きたい。
■自虐的歴史用語を排除
これまで自虐史観に囚われた歴史学者たちが、我が国を貶めるために作り上げた歴史用語があり、それらが中学歴史教科書に多用されてきた。
そこで「国史教科書」は、そういった自虐的な歴史用語を使用しないことにこだわった。たとえば、「日中戦争」という用語は一般的に教科書で使われているが、当時「中国」という国はなく、中国大陸は中央政府のない混乱期であった。したがって日本と中国という二つの国が戦争をした事実はないため日中戦争という表記は妥当性を欠く。そこで「国史教科書」では「支那事変」という用語にこだわった。
自虐的な用語は対外関係だけではない。後鳥羽上皇が挙兵して北条方に敗れたことは、一般的には「承久の乱」と表記される。しかし、上皇こそが官軍であり、鎌倉幕府軍は朝敵であったはずであるから、上皇が乱を起こしたというのは日本の価値観に合致しない。ここは「承久の変」というのが正しい。
その他にも、「国史教科書」は用語にはこだわったので本文を確認されたい。
■先の大戦について
普及している大手の中学歴史教科書は、先の大戦について勝ち目のない戦争と評価しているが、「国史教科書」は勝ち目のあった戦争であると評価している。これは単なる憶測を述べたのではなく、日米の兵力差等のデータを示して、根拠をもって指摘した。
勝ち目のない戦争をしたことが罪であるなら、日清戦争と日露戦争も罪にならなくてはいけない。日清日露戦争は勝ち目のない戦争に勝ってしまった事例であり、対米戦争は勝ち目がある戦争に負けてしまった事例である。このことを明確に記した。
また、米国による原子爆弾の使用について、その意思決定の経緯を詳述し、米国の無差別虐殺の実態を正確に伝えることに努めた。
■イロ八二ホヘトを採用
通常、アイウエオ、ABCDEなどで順番を示すことが多いが、「国史教科書」は漢数字とイロハニホヘトを採用した。
■紀年法は元号を軸に
普及している大手の中学歴史教科書は、常に西暦で書かれていて、元号は必要最低限、しかも括弧書きで書かれている。
そこで「国史教科書」は常に元号で表記することにし、西暦は「年」を省いて括弧書きにした。
■大きさへのこだわり
これまでの中学歴史教科書はJIS規格とは外れる大型の変形版で、平らな机に広げて読むのが基本であった。
やはり文字を中心とする書籍は、両手に持って読める形状の方が読みやすく、頭にも入りやすいのではないかと考えた。そのため「国史教科書」はA5版を採用した。この版であれば、机に広げて読むだけでなく、手に持って読むことも容易であり、公園のベンチに座りながら、あるいは電車やバスの中で読みやすい大きさになるようにした。
巻頭言
現在、国連加盟国は193力国あります。そのなかで、最も歴史が長い国は「日本」です。たしかに日本より古い国はありました。中国大陸の商や殷という王朝や、エジプトの早期王朝などがそれにあたります。しかし、日本よりも古い国はすべて滅びてしまいました。現存する国のなかで、世界最古の国は「日本」なのです。
日本が成立したのが何年前であるか、その年代を示すことは困難です。なぜなら、古すぎてよく分からないからです。日本列島で最初に文字が書かれたのは、五世紀のことです。それ以前に日本列島に文字はありませんでした。日本の建国は五世紀より以前のことなので「文字のない時代の出来事」ということになります。文字のない時代のことは、文字がないのですから、固有名詞や年月日はいっさい伝わりません。
しかし、それは、我が国が建国しなかったことを意味しません。考古学の成果により、最も短く見ても過去1800年間、一度も王朝交代がなかったことが分かっています。1800年前の大王(後に天皇と呼ばれる)の居所や墓がかなり巨大であることから、起源はさらに数百年遡れると考えるのが一般的です。我が国は2000年以上続いているといえます。
日本に次いで古い国はデンマークが約1000年、三番目はイギリスの約950年で、アメリカやフランスは比較的に新しい国になります。中華人民共和国や大韓民国は戦後建国した新しい国です。
この次に掲載してある世界史の年表を見てください。人類の歴史は国が建国しては滅亡することを繰リ返してきたことが分かります。ところが、地球上で一ヵ所だけ切れ目がなく帯になっている地域があります。それが日本列島です。
その次に掲載してある系譜も見てください。これは初代天皇から第125代の現在の天皇陛下までの皇位継承図です。このなかには一部の歴史学者が実在を疑問視している天皇も含まれますが、少なくとも2000年前の天皇の子孫が現在の天皇陛下であり、万世一系の皇統が切れ目なく現在に継承されていることが分かるでしょう。
では、世界の歴史が王朝交代の歴史であったのに、なぜ日本だけが一度の王朝交代もなく今に至るのでしょう。その答えは、諸君がこの『国史教科書』をしっかりと読み、自分で興味を待ったことを調べ、そして友達と議論して、自分の力で発見してください。
自分の生まれ育った国の歴史を知ることは、自分の起源を知ることと同じです。ワクワクドキドキの連続になると思います。この教科書はその旅の入り口です。
[注釈]
一部の歴史学者には、律令国家に成熟しなければ国とみなさないという考えの人がいます。その考えによれば、日本は八世紀の平城京遷都によって成立したことになります。しかし、遅くとも三世紀までには関西一帯を統治した王権が成立していて、巨大古墳を造営するほどの力を持っていたわけですから、これを国と見ることは自然なことです。この見地に立てば、日本は建国から短く見積もっても2000年といえます。
日本列島の誕生
今から約1300年前の奈良時代、第40代天武天皇の命令によって二つの文書が編纂されました。『古事記』と『日本書紀』です。両方を合わせて「記紀」といいます。『古事記』は日本の神話と日本の国の成り立ちを伝えるため、また『日本書紀』は日本の歴史を公式に伝えるために編纂されたと考えられています。
『古事記』は今に伝わる書物のなかでは日本最古で、そこには、日本列島誕生の神話や日本建国の物語が書かれています。『古事記』は、宇宙空間に最初に出現した神々の末っ子の伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が、日本列島の島々を生んだ話を次のように伝えています。
『古事記』国生みの物語
この世の初めに高天原(天上世界)に成った神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)でした。しかし、この神はすぐに姿をお隠しになりました。その後、まもなく高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かみむすびのかみ)が成りましたが、同じようにすぐに姿をお隠しになりました。
このとき、大地はまだ若く、水に浮く脂のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした。ところが、葦の芽のように伸びてきたものから、宇摩志阿斯詞備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)と天之常立神(あめのとこたちのかみ)が成り、また姿をお隠しになります。これまでに成った五柱(神は「ひとり、ふたり」ではなく、「一柱、二柱」で数える)の神は、宇宙が誕生した早い時期に成った特別の神な
ので、別天神(ことあまつかみ)と申し上げます。
その後、国之常立神(くにのとこたちのかみ)と豊雲野神(とよくもののかみ)が成り、姿をお隠しになりました。そして次に初めて男神(おがみ)と女神(めがみ)が成ります。宇比地邇神(うひじにのかみ)と妻の須比智邇神(すひぢにのかみ)を始め、五対の神が成りました。そのうち、最後に成ったのが伊耶那岐神と妻の伊耶那美神です。国之常立神から伊耶那岐神と伊耶那美神までの七代の神を「神代七代(かみよのななよ)」と申し上げます。
別天神と神代七代の神々は、末っ子の伊耶那岐神と伊耶那美神に、下界の海をお指し示しになり「この漂っている国を固めて治めなさい」と命ぜられました。二柱の神は、天空に浮いてかかる天浮橋(あめのうきはし)から海に矛(ほこ)を下ろし、海水を「こおろ、こおろ」と掻き鳴らして矛を引き上げました。すると、その先から海水がしたたり落ち、塩が固まって島ができました。これが淤能碁呂島(おのごろじま)です。二柱の神はこの島に降り立ちました。
このとき、伊耶那岐神は、自分の下半身に何か不思議なものかぶらさかっているのにお気づきになり「あなたの体はどのようになっているか」とお尋ねになりました。すると伊耶那美神は「私の体はすでにでき上がっているのですが、一ヶ所だけ何か足りずに、くぼんでいる所があります」とお答えになったので、伊耶那岐神は「私の体もすでにでき上がっているが、一ヶ所だけ何か余って、でっぱっている所がある。私のでっぱっているものを、あなたのくぼんでいる穴に挿し入れて、塞いで、国を生もうと思う」と仰せになると、伊耶那美神はこれに賛成なさいました。
そして、まぐわい(夫婦の交わり)をして、国を生むことになさいました。二柱の神は左右から天之御柱(あめのみはしら)を回り、出会った所で、伊耶那美神が「あなたは、なんていい男なんでしょう!」、続けて伊耶那岐神が「あなたは、なんていい女なんだろう!」とおっしゃいました。そして、二柱の神は神殿の寝室で、まぐわいをなさいました。
しかし、生まれてきたのは手足のない水蛙子(ひるこ)でした。二柱の神はお悲しみになり、その子を葦の船でお流しになりました。ところが、次に生まれたのも淡島(あわしま)で、泡のような未熟な島でした。
二柱の神はご相談なさり、ともに高天原にお帰りになって、神々の指示をお求めになりました。神の命令に従って占うと女神から先に声をかけだのが原因だったことが分かりました。
さっそく二柱の神は淤能碁呂島にお戻りになり、柱を回って、今度は伊耶那岐神から先に声をかけ、再び交わりました。そうすると、次々と立派な国が生まれました。一番初めに生まれた島は、淡路島(兵庫県)、続けて四国、隠岐諸島(島根県)、九州、壱岐島(長崎県)、対馬(長崎県)、佐渡島(新潟県)、そして本州(特に畿内を中心とする地域)が生まれました。このように、八つの島が先に生まれたことで、我が国のことを大八島国(おおやしまのくに)というのです。
二柱の神は高天原にお帰りになるときに、さらに六つの小さい島をお生みになりました。これで「国生み」が終わり、日本の国土が完成しました。
さて、宇宙と世界がどのようにできたかについては、いろいろな考え方があります。たとえば、キリスト教とユダヤ教の聖典である『旧約聖書』の創世記は、神が5日と半日で宇宙と世界を創ったと伝えています。イスラム教の聖典である『コーラン』は、アラー(アラビア語で「神」を意味する)がすべてを創造したと伝え、また仏教は、宇宙には始まりも終わりもなく生と滅を繰り返しているという「無始無終(むしむしゅう)」を説いています。
『古事記』は宇宙の起源について記していません。他方、現代科学の知識によると、地球は約46億年前に隕石同士が衝突してできたことが分かっています。
ソ連参戦か原爆投下か
ヨーロッパ戦線では、アメリカが参戦したことで連合国軍が反攻に転じました。ドイツ軍がスターリングラード攻防戦でソ連軍に敗北し、これを機にドイツは敗退を重ねることになります。
昭和20年(1945)2月、アメリカとイギリスとソ連の三首脳はヤルタ会談を開き、戦後処理について話し合いました。そのなかで、ドイツ降伏から90日以内にソ連は対日参戦すること、南樺太と千島列島はソ連に引き渡されることなどが密約として交わされました。
そして昭和20年(1945)4月30日にヒトラーが自殺し、5月8日にドイツは降伏しました。この時点で、連合国と戦う国は日本だけになりました。ソ連の対日参戦の時計の針が動き始めました。
しかし、そのような密約があることを知らない日本は、ソ連に終戦の仲介をしてもらおうと考えていました。7月12日、昭和天皇は近衛文麿元首相を特使に任命し、ソ連に特使派遣を打診しました。アメリカはその暗号電報を傍受・解読して、トルーマン大統領に報告していました。日本が和平に向けて本格的に動き始めたことを大統領は知っていました。
7月16日、アメリカで人類史上初となる核実験が行われました。トリニティー実験です。核実験が成功したという報せは、ドイツのポツダムにいるアメリカのトルーマン大統領に届けられました。7月17日からはアメリカ、イギリス、ソ連の三首脳が戦後処理と対日戦争の終結などについて話し合うポツダム会談が開かれることになっていました。
トルーマン大統領の気がかりは、本当にソ連が密約を実行して参戦するかどうかでした。大統領に助言する高官たちは、ソ連が参戦すれば日本は降伏すると分析していたからです。
7月17日、トルーマン大統領はソ連のスターリン書記長と会談しました。その席でスターリン書記長は8月中旬までに参戦することを約束したのです。トルーマン大統領はその日の日記に「彼は8月15日までに対日戦争に参戦する。そうなったらジャップ(日本を蔑む言葉)も終わりだ」と書きました。トルーマン大統領は、ソ連参戦で日本は降伏すると確信していました。
7月21日には、核実験の詳細が大統領のもとに届けられました。原子爆弾の威力はTNT火薬15,000トン以上で、爆発台になった高さ21メートルの鉄骨の塔を瞬時にして気化させたという内容でした。大統領はこの日を境に別人のようになったといいます。
ところが、大統領に助言する高官たちは、原子爆弾を日本に使用しても日本は降伏しないと分析していました。なぜなら、すでに東京をはじめとする66の都市が激しい空爆を受けているにもかかわらず、日本は戦闘意欲を失っていないので、67番目の都市が消滅したところで、それが理由で日本が降伏するとは考えにくいと見ていました。そのため、彼らは日本に原子爆弾を使用することに反対しました。多くの民間人を殺傷することも危惧されました。しかし、大統領側近のなかで、バーンズ国務長官だけが原子爆弾の使用に積極的でした。
アメリカには対日戦争を終わらせるために三つの選択肢がありました。一つは本土決戦を実行して日本を軍事制圧することです。しかし、これは犠牲が大きいので優先されませんでした。あと二つが、天皇の地位を保障することと、ソ連が参戦することでした。いずれかによって、日本はただちに降伏するものと考えられていました。スターリンが参戦を約束した今となっては、ソ連の参戦をただ待てば、自動的に日本は降伏するはずです。それにもかかわらず、トルーマン大統領は原子爆弾の使用にこだわりました。
7月24日、大統領はスターリン書記長に、原子爆弾の開発に成功したことをそれとなく伝えました。スターリンは「それを日本に対しうまく使ってほしい」と述べましたが、宿舎に帰るとソ連の諜報部門の長官に電話して、事前にアメリカの核開発の情報をつかめなかったことを厳しい言葉で批判しました。もし原爆投下により日本が降伏したら、ヤルタ会談で認められたソ連の権益は失われます。スターリンはアメリカが原子爆弾を使用する前に参戦しなくてはならないと考え、参戦日程を前倒しするように指示しました。
他方、アメリカは、ソ連が参戦したら日本は降伏すると考えていたので、原子爆弾を使用するなら、ソ連が参戦する前でなければなりませんでした。トルーマン大統領は、原子爆弾の使用を決断します。
ソ連の参戦が先か、アメリカの原子爆弾投下が先か二国間で競争が始まりました。アメリカは原子爆弾投下を8月3日から10日に予定していました。ソ連の参戦は前倒しして8月8日か9日を目標としました。いずれもよい勝負です。
ポポツダム宣言と原爆投下
7月25日、トルーマン大統領は、原子爆弾を日本に投下するように口頭で命じました。天候が良くなり次第、一つ目の原子爆弾を、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下し、二つ目は準備が整い次第、他の候補地に投下することを指示する命令書が伝達されました。四つの候補地は、原子爆弾の効果を観察するため、ほとんど空爆していませんでした。原子爆弾用にとってあった都市なのです。二つの原子爆弾の投下が同時に命令されました。一発目を投下して、日本が降伏しなかったから、仕方なく二発目を投下したという事実はありません。ところで、アメリカは原子爆弾
を二発しか所有していませんでした。
7月26日、ついに日本に対する降伏勧告であるポツダム宣言が発せられました。当初、合衆国政府案には、天皇の地位を保障する文言が入っていましたが調印直前になって、その一文は削除されました。
大統領に助言する高官たちは、日本が降伏に応じるためには、天皇の地位の保障が第一条件であると分析
していたので、この一文を入れることで日本は確実に降伏すると見ていました。
実際にアメリカ政府の分析は正しく、日本の政府と統帥部は天皇の地位の保障を終戦の絶対条件と考えて
いました。ポツダム宣言を受け取った日本では、ポツダム宣言に天皇の地位について記載がなかったので、政府と統帥部のなかで大論争が巻き起こりました。
トルーマン大統領は7月25日付の日記に「日本に対して、降伏してこれ以上死者を出さないよう警告を出そう。日本が受諾しないことは分かっているが、チャンスは与えてやろう」と書いています。
大統領は、天皇の地位を保障する一文を削除したため、日本は受諾しないと分かっていました。むしろ、日
本が受諾できない文面を作成したと見られます。日本がポツダム宣言をただちに受諾してしまったら、原子爆弾を投下することができなくなります。原子爆弾を投下するためには、ポツダム宣言は日本によって一度拒絶される必要があったのです。
ポツダム宣言が発せられてから二日後の7月28日、鈴木首相はポツダム宣言について「重視する要なきものと思う」と述べたところ「政府は黙殺」という記事が朝日新聞に掲載され、世界のメディアは「日本はポツダム宣言を拒絶した」と間違って伝えました。これで米国は原子爆弾を投下する口実を得ました。「リトル・ボーイ(おちびちゃん)」と命名された一個目のウラン型原子爆弾の準備が完了したのが7月31日でしたが、台風が接近していたため、8月5日になって、翌日の作戦実行が決まりました。原子爆弾を搭載した爆撃機B29「エノラ・ゲイ」がマリアナ諸島のテニアン島を離陸したのが現地時間の午前2時45分で、日本時間の午前8時15分、第一投下目標の広島に原子爆弾が投下されました。
投弾目標は広島市の市街中心部で、投下された原子爆弾は上空533.4メートルの地点で爆発しました。炸裂直後にできた火の玉の直径は約100メートルで、その温度は数百万度から1000万度と、太陽の内部温度に匹敵しました。広島の上空に太陽が出現したのと同じような状態です。重量4トンの原子爆弾そのものは、炸裂した瞬間に気体となって消滅しました。
炸裂した瞬間に発せられた熱線は、光の速さで地面に到達し、あらゆるものを焼き尽くしました。地面は
放射熱と伝導熱でおよそ1000度に達したと見られています。超高圧の火の玉は衝撃波をともなって秒速90メートルで膨張し、広島の街を呑み込んでいきました。発生した衝撃波は秒速350メートル以上の速度で地面に広がっていき、家屋を吹き飛ばしました。そして、巨大なキノコ雲が立ち上りました。広島に原子爆弾が投下されたことで、10万人から14万人が即死し、その後5年でさらに10万人が死亡することになります。
ソ連参戦と戦争終結
トルーマン大統領が原子爆弾投下に成功したという報せを受けたのは、太平洋を航行中の巡洋艦オーガスタの船上でした。大統領は舞い上がり、そのメモを手渡した海軍大佐の手を握って「これは歴史上最も偉大な出来事である」と言いました。アメリカ政府はこの日、事前に用意してあった大統領声明を発表しました。次のような内容です。
「我々は開発した爆弾を使用した。真珠湾で我々に通告せずに攻撃した相手に、アメリカ人捕虜を飢餓にさ
らし、殴打し、処刑した相手に、そして、戦時国際法を遵守する素振りさえかなぐり捨てた相手に、原子爆弾を使用した。我々は戦争の苦しみを早く終わらせるために数多くの命を、数多くのアメリカの青年を救うために、原子爆弾を投下したのである」
原子爆弾の使用によって戦争終結が早まった事実はなく、よってアメリカ軍の青年の命が救われた事実は
ありませんが、このときの声明文を現在のアメリカ政府は踏襲しています。
原子爆弾投下の翌日、日本政府は中立国スイスを通じて、アメリカ政府に次の抗議文を発しました。次のような内容です。
「このたび米国が使用した原子爆弾は、その性能の無差別かつ残虐性において、毒ガスその他の兵器をはる
かに凌駕するものである。従来のいかなる兵器にも比較できない無差別性残虐性を有するこの爆弾を使用するのは人類文化に対する新たな罪悪である。帝国政府は、自らの名において、また全人類および文明の名に
おいて米国政府を糾弾するとともに、即時このような非人道兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求する」
やはり、アメリカ政府高官たちの予想通りでした。原子爆弾が使用されても、終戦の手続きは進みませんで
した。8月7日の朝に関係閣僚会議が開かれますが、東郷茂徳外務大臣がポツダム宣言受諾を口にするも、大勢に反対で却下され議題にも上りませんでした。しかし、昭和天皇は原子爆弾投下の報せを受け「このよ
うな新武器が使われるようになっては、もうこれ以上戦争を続けることはできない。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ」と仰せになりました。
原子爆弾が投下されても、日本政府はソ連を通じた和平交渉にこだわっていました。8月6日にも特使派遣について返答がほしいと、再度ソ連側に要請しています。日本とソ連との間には日ソ中立条約があります。ソ連がまもなく日本に攻め込んでくることなど、日本側は想像もしていませんでした。
日本時間の8月9日午前零時、日ソ中立条約があるにもかかわらず、極東に集結した150万のソ連軍は、満州と朝鮮に一斉に攻撃を開始しました。
ソ連参戦を知った日本の政府と統帥部の首脳は愕然としました。我が国は本土決戦の準備を進めていましたが、これはソ連が中立であることが前提でした。アメリカとソ連の両方を相手に戦うことは想定されていません。こうなればポツダム宣言を受諾する以外の選択肢はなくなります。
この日の朝、鈴本貫太郎首相は自分の内閣で終戦すると決意しました。ソ連参戦の報せを受けた昭和天皇は終戦を「決定」するように仰せになります。広島の原爆投下では「努力」でしたが、ソ連参戦で「決定」に格上げされたことが分かります。
午前11時前から宮中で、ポツダム宣言受諾を決定する最高戦争指導会議が聞かれました。ポツダム宣言受諾の方針は決定したものの、天皇の地位を確認することだけで、それ以外に条件をつけないとする東郷外務大臣と、占領、武装解除、戦争犯罪人の処罰などの除外を条件とする阿南惟幾陸軍大臣が対立し、三対三に分かれた議論は平行線になり、閣議に持ち越されることになりました。
長崎に「ファットマン(太っちょ)」と名づけられたプルトニウム型原子爆弾が投下されたのがこの日の11時2分でした。約7万人が死亡しました。二つの原子爆弾による犠牲者の数は約30万人となります。最高戦争指導会議の途中に長崎への原子爆弾投下が伝えられましたが、そのことが会議に特別な影響を与えた形跡はありません。
結局、外務大臣と陸軍大臣の意見の対立が解消しないまま、午後11時30分の最高戦争指導会議の御前会議が聞かれました。すでにこの日だけでも約8時間半議論してきましたが、この会議でも3時間ほど白熱した議論が戦わされました。十分意見が出そろったところで、議長である鈴木首相が昭和天皇の御聖断によってこの会議の決定としたい旨を述べると、昭和天皇から外務大臣の案に賛成であるとの御聖断が下り、条件を付けずにポツダム宣言を受諾することが決定しました。
二度目の御聖断が下る
8月10日の午前中に、日本政府はスイス政府とスウェーデン政府を通じてポツダム宣言を受諾する旨を電文で通知しました。そこには「天皇の国家統治の大権を変更する要求が含まれていない了解の下にポツダム宣言を受諾する」という文言が使われました。ポツダム宣言自体には天皇に関する項目はなかったため、それを確認したのです。
これに対してアメリカのバーンズ国務長官から返電がありました。電文は次のような内容でした。
「降伏のときより天皇及び日本国政府の国家統治の権限は〔中略〕連合国軍最高司令官の制限の下に置かれ
る。最終的な日本国の政府の形態は、ポツダム宣言にしたがい日本国国民の自由に表明する意思により決定
されるものとする」
このような表現になったのは、アメリカの世論の9割以上が、交渉なしに日本を降伏させるべきであると見ていたため、アメリカ政府には、日本に譲歩したかのような印象は持たれたくないという事情もあったようです。アメリカはこれまで頑なに天皇の地位の保障を拒んできましたが、原子爆弾が投下されてわずか4日後に日本から降伏の申し入れが届くと、瞬時にこれを快諾しました。
天皇の地位を保障すると日本は降伏するというのが政府高官のほとんど共通の見解でした。原子爆弾の投下が完了するまでは「天皇の地位の保障」を拒み、投下が完了したあとは、むしろ早く日本が降伏した方が都合がよいので「天皇の地位の保障」を伝えたものと見られます。もしそれが正しければ、天皇を尊ぶ日本人の気持ちが、原子爆弾を使用するための道具として弄ばれていたことになります。
バーンズ国務長官からの回答を受け取った日本では、その内容をめぐって再び議論が蒸し返されました。外務省は、暗に天皇の地位を認める内容と見ていましたが、陸軍省は、これでは天皇の地位は保障されないと考えました。
そして運命の8月14日、宮中で御前会議が開かれ、再び外務大臣と陸軍大臣の間で大論争となりました。そこで鈴木首相が再び御聖断を仰いだところ、昭和天皇から次のようなお言葉がありました。
「反対側の意見はそれぞれよく聞いたが私の考えはこの前に申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える。国体問題について色々疑義があるということであるが、私はこの回答文の文意を通じて先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが私はそう疑いたくない。要は我国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことは誠に堪えがたいことでそれらの心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。祖宗の霊にお応えが出来ない。和平の手段によるとしても素より先方のやり方に全幅の信頼を措き難いことは当然ではあるが、日本が全く無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらに復興という光明も考えられる。私は明治大帝が涙を呑んで思い切られたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、この際耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う。(中略)どうか私の心をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、良く治まるようにしてもらいたい。(中略)この際証書を出す必要もあろうから政府は早速其起案をしてもらいたい。以上は私の考えである」(下村宏『終戦記』)
二回目の御聖断が下りました。これにより、我が国はポツダム宣言を受諾することになりました。日本の約200万人の軍人と約100万人の民間人が死亡した日華事変から対米戦争へつながる大東亜戦争は、ここに終結しました。
日本が最終的に降伏する決定を下したのは、原子爆弾やソ連参戦ではなく、実はこのバーンズ国務長官からの回答文だったのです。最終的にはこの回答文のなかに見え隠れする、暗に天皇の地位を保障するように読み取れるかもしれない部分に、アメリカの誠実なることを期待して、ポツダム宣言を受諾することを決定したのです。
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(※このまとめ記事は申請図書にはありません)
第五章は、明治時代から先の大戦の終戦までの日本の近代を扱いました。長年鎖国していた日本でしたが幕末に外国の圧力により半ば強制的に開国させられました。当時の日本は、たった4隻の船に威嚇されただけで手も足も出せない弱小国だったのです。
明治政府は、開国させられたことを逆手に取って、日本製品を世界に売りさばくことで欧米列強と並ぶ大国となることを目指しました。我が国は日清戦争と日露戦争の二つの戦争に勝利を治め、そして半世紀程度で本当に世界の大国にのし上がりました。
大正時代には経済大国になり、第一次世界大戦の戦勝国として国際連盟の常任理事国となって五大国の仲間入りを果たしたのです。海軍力もイギリスとアメリカに次ぐ世界第三位となりました。近代のはじめに経済弱小国だった国のなかで、躍進して経済大国となり列強に加わった国は、日本だけです。