<書籍名は分からなくなってしまったが、数十カ所の小千谷の文化財について書かれた本だった。>
岩沢地内飯山線岩沢駅の東方、桜峰(さくらずんね 標高377m)の北側から出た尾根の上にあり、眼下に信濃川を見おろし、妻有荘(中魚沼郡)の北の玄関口ともいうべき位置にある。
伝承によれば建武中興の時(1334年)新田義貞の一族、粟田左近頭により築城されたといわれ。粟田氏戦死後は、その一党田中筑後守有重が居城した。さらに正平17年(1362年)には、上杉憲房の将泉沢氏がこれにかわり、文明年間には、上杉家重臣泉沢河内守年親が拠っていたという。
本丸は、東西約30メートル、南北約40メートルで東と西側に空壕があり、東に三角形の郭がある。
西方約50メートルのところにも空壕があり、径10メートルの郭を中心に
北西に各三段の小郭がつらなっている。
<小千谷市史 上 P151>
岩沢には「立ノ内(たてのうち)」(館ノ内)があり、その東方に「城ノ入」・「城ノ腰」がある。これが函山城と呼ばれるもので、岩沢の集落は、この館の下方に成立した城下町と見るべきものである。城山の頂上は「粟田平(あうただいら)」と呼ばれ、その中腹に薬研堀・井戸・馬場の跡などがわずかに残っている。
伝承によれば、建武中興のとき、新田義貞(越後守護)の一族粟田左近頭(あうださこんのかみ)がこの城を築き、越後守護として入部した上杉憲房の軍と戦って戦死した。その一党田中筑後守有重がこれにかわり、さらに正平17年(1362)になって上杉憲房の将泉沢某がこれにかわり、文明年中には泉沢河内守年親が拠っていたという。
田中氏は内ヶ巻城主と同族であろうし、泉沢年親はまた上杉家重臣として実在した武家で、文禄四年の「定納員数目録」では5,643石で、三三八人半の軍役を負担し、尾崎大和入道の娘を妻とする泉沢河内守が登場している。この目録も泉沢氏が写したもので、後に景勝会津在城のときは四千石を領した。
なお岩沢の関口清左衛門家には、鑓一筋・輿一台・轡・八斗入の水瓶などが所蔵されているが、これらは函山城主の遺品と伝えられている。また北蒲原郡安田町の孝順寺所蔵の「伝親鸞筆九字名号」は、田中有重の寄進したものであると言われている。
城主の菩提寺は、城の鬼門に建てられた不動堂であったらしい。これが後に低地部におりてきて現在の不動寺となったのである。
また岩沢の小字「蟹沢(がんぞ)」には、「城ノ内」という地字がある。その崖の下を信濃川が流れ、「城ノ内」の城址に濠の跡も残っている。しかし城主およびその興亡の跡は知るよすがもない。
渡邊三省さんは小千谷市岩沢が岩沢村だったころの村長さんです。お生まれも岩沢で「筆者は少年時代に草鞋をはいて六キロの山道を歩き、毎日この松(函山城跡にあった大松)の下を通り、学校へ通った時代があったのだ。」ともお書きです。
渡邊さんは小千谷市史の編纂にも係わっていらっしゃいます。
「越後歴史考」では「田中又治郎こそ、粟田左近頭その人と考えられる」と見ていらっしゃいます。
渡邊さんによれば、永正の乱(1506~1518だと思う)の論功行賞の結果田中又治郎は岩沢に函山城を築いたということですが、そうすると渡邊さんもお書きのように、年代が逆転してしまい、「中魚沼郡誌」やそれを元にした函山城跡の記述がおかしなことになってしまうと思います。
泉沢某が初めて函山城主となったという正平十七年(1362)は永正の乱の前ですから・・・。
ん~、わけが分からない・・・、誰か教えて。
<渡邊三省著「越後歴史考」 函山城とその城主(P51~P58)>
岩沢の函山城
小千谷市岩沢(旧岩沢村、筆者の出身地)に函山城跡があるが、この城も新田系田中氏と関係が深い城である。岩沢村の中央に修験の聖地桜峯があり、その稜線が約一キロほど北方に延びた山脈の突端に城跡がある。信濃川を眼下に見下ろす要害の地で、周辺に「立ノ内」(舘の内)・「城ノ入」・「城ノ腰」などの地名があり、現在では山全体を城山と呼んでいるが、昔は函山城と呼んだ。
『中魚沼郡誌』にこの城のことが出ているので、まずそれを掲載しよう。
函 山
岩沢村の東方城山の頂上に在り、又アフタ(粟田)平といふ。其中腹に壕井及び馬場の跡等僅に存す。伝へいふ、建武元年新田義貞の越後の国守たるや、其の族粟田左近頭をして、ここに城きて居らしむ。後足利尊氏上杉朝房を越後の守護となし、春日山に城せしめしより、新田上杉の両族、互に攻襲して、戦闘止む時なかりしが、新田の諸城、漸く陥落し、将士も多く戦没す、粟田も亦戦死し、其党田中筑後守有重代り守り、正平十七年に至り、上杉憲顕の将泉沢某取て之れに代り、文明中河内守年親といふもの又之に代ると。
因にいふ、岩沢の関口清左衛門家に、鎗一筋、輿一台、轡及び八斗入の水瓶等を蔵す、当城主の遺品なりといふ。又北蒲原郡保田村孝順寺に蔵する、親鸞聖入筆の九字名号は、田中有重の寄する所なりと、同寺の記録に見ゆといふ。
粟田左近とは何者か
少し長いが、必要あって全文を引用した。さて、粟田左近頭、田中有重とは、何者であろうか。従来、これについては郡誌の記述から一歩も出ることができなかった。また、北蒲原保田村の孝順寺とはどんな関係があるのだろうか。筆者は保田村について調査をはじめ、孝順寺に宝物が今でも保管されてあるか否か照会してみた。すると、宝物は保管してあるが、年一回の何月何日の虫干しの日でなければ拝観できないということだった。
なお、興味があるのは次の文書である。
蒲原郡粟生田内、田中又次郎分事、為忠賞可令知行之状如件
永正七年庚午八月廿三日
定實(花押)
土沢掃部助殿
(読史堂古文書、越佐史料所載)
永正の乱というのは、上杉顕定が長尾為景を討伐するために関東から越後に攻め込んで敗れ、かえって上田の長森原で戦死し、以後の越後の覇権が為景の手に掌握された画期的な事件であった。この乱における土沢の功を賞するために、粟生田地内の元田中又治郎の領地を与えたのである。定実というのは守護上杉家の最後の人であるが、このころは、全く為景のロボットに過ぎない人物であった。
函山城と田中氏
田中又治郎こそ、粟田左近頭その人と考えられるのであるが、彼は蒲原郡粟生田の地を領していたので、この地の孝順寺に宝物を寄付したのである。どのような理由であったかわからないが、彼は知行地の移動を命ぜられ、粟生田から岩沢の函山城に移ったのである。そして、領地粟生田を名字として名乗っていたのであるが、長い年月のうちに粟生田の生か抜けて、粟田左近頭として後世に伝わったのである。
郡誌には函山城主は初代が粟田左近、その次が田中有重とあるが、左近は有重の父であろう。有重は粟生田の地を離れたので、本姓の田中に返ったと考えられる。田中又治郎とあるのは、田中系図の中には田中又太郎という人もおり、又の字は田中一族の通称によく使われる字であったようだ。
なお、郡誌に粟田と書いてアフタと仮名が振られているのは、明らかに粟生田の発音がそこに残っていたことを示している。
田中有重については、先に述べた「越後源姓田中系図」の中に該当人物がいるか否かを調べてみよう。
田中七郎経就 経堅 河井地頭 |
岩沢・田中八郎 就重 筑後蔵人
|
田中源七郎 就堅 左近蔵人・正嫡
|
この就重(ナリシゲ)が長い間に有重(アリシゲ)と誤伝されたのである。就重は岩沢の田中八郎であり、筑後蔵人であるから、ここに田中筑後守有重がはっきりと姿を現したのである。粟田左近頭については、就重の兄就堅が左近蔵人と名乗っており、左近・右近というのは田中氏系の名前によく出てくる。
さて、これまでは主として『中魚沼郡誌』の記事を中心として、函山城と田中氏の関係を述べてきた。この記事は、岩沢村の古い庄屋関口清左衛門家の覚書に拠って書かれたものと考えられるが、正確な史料によって裏付けられるような文書ではなく、単なる口承や伝承を記したものであったようである。関口家は近年火災に遭つて文書が失われてしまったので、それを再調査することはできない。
函山城が建武年間に築城されたということはそれでよいが、最初に粟田左近守を当城に置いたということには再考の余地がある。というのは、粟田左近と考えられる田中又治郎に関する史料が、建武年間より百七十年も後の永正年間のものであるからである。
城跡の現状
城跡の現状を見るに、頂上の本丸がすなわち粟田平で、東西三十メートル・南北三十八メートルあって、東側と西側に空濠がある。西方約五十メートルにある二の丸は径十メートルほどあり、西方の斜面にはいくつかの小郭が連なり、井戸・馬場・薬研堀などの跡が見られる。
信濃川を眼下にし、波多岐庄・妻有庄から信州に通じる善光寺街道の咽口を扼する要地なので、田中系実力者が当城に配せられることになったのであろう。信濃川方面から本丸に登るには二筋の道があるが、いずれも急傾斜地であるので攻め上るのは難しい。
本丸の東側の縁に周囲四メートルもあると思われる松の巨木が立っており、その枝振りが素敵で、いかにも古城の風格を保っていた。村人はこれを城山の大松と称して親しんでいたが、残念なことに数年前つまり昭和の末期に枯れてしまった。酸性雨のためであろうか。その枯木は今でも白い肌を見せ、無惨な姿で立っている。筆者は少年時代に草鞋をはいて六キロの山道を歩き、毎日この松の下を通り、学校へ通った時代があったのだ。本丸の北方をわずかに下った崖下に、こんな高所にしては珍しいこんこんと豊富な泉が噴出していて、城の将兵たちが利用していたに相違ないが、筆者もまた学校往復の途次に天然の美味を惜しみなく味わったものだった。
泉沢氏について
『中魚沼郡誌』には正平十七年(1362)に至り、上杉憲顕の将泉沢某が函山城主となり、文明年中河内守年親がこれに代わったとある。泉沢氏は謙信・景勝の時代には上杉政権の重鎮として、その事績が明らかである。しかし同氏の由来、その先祖についての詳細は、上杉家文書の中にも述べられていること余りにも少なく、「五十騎組先祖書」の中にも、はるかに後年になって泉沢河内に子がなく名字退転となったところ、青木家から入嗣して家名再興したという所から始まっている。したがって、それ以前のことはほとんど知られていなかった。
新田義貞を主神とした越前の藤島神社が大正七年(1918)に発行した藤田精一著『新田氏の研究』によって、初めて泉沢氏の先祖のことが明らかになった。同書に載っている「新田氏蔓衍系図」によると、新田氏の始祖義重の子義季は得川氏を称したが、その子頼氏が世良田氏を称し、その子経氏は世良田氏を継ぎ、経氏の子重氏が泉沢氏を創始したとある。
すでに新田氏の項で詳記したように(別稿「越後の新田系諸族」参照)、新田氏は同族繁栄のために子弟を近辺諸郷に入植させ、郷名をもって苗字にさせたのであるから、泉沢氏は泉沢郷に入植したことは間違いない。それならば、泉沢郷はどこにあったか。
同書は四十家に大膨張した新田系諸氏の発祥地たる郷名を丹念に調査発表しているが、泉沢氏についてだけは、「経氏の子重氏は、その居所泉沢(今不詳)に因みて新に泉沢を苗字とし……」として、その郷名がどこにあったか不詳としている。要するに、上野国には泉沢の地を発見することができなかったのである。
現在の北魚沼郡広神村に泉沢新田の地名があり、かつては一村となっていた。この地こそ泉沢氏発祥の地と考えられ、大井田氏・中条氏・下条氏・上野氏などと同様に、最初から越後に入植し、一家を起こした新田一族である。すなわち生粋の上田衆であり、後に景勝の親衛隊五十騎組の一員として春日山に入った。泉沢氏が初めて函山城主となったのが正平十七年という早い年代であったことを考えると、この城に入ったのは田中系よりも早かったのである。
河内守年親というのも、また泉沢氏のことである。泉沢氏は河内守という受領名を名乗ったことが多かったのではないかと思われる。景勝の時代には河内守久秀は重臣中の重臣で、函山城に在番せず、つねに中央にいるいわば閣僚であった。「文禄定納員数目録」の越後侍中の泉沢河内守は「三百三十八入半・五千六百四十三石」とあって、その石高は、侍中においては二番目の高禄を与えられていた。右員数目録の八百七十七人の名を記した最後に、泉沢久秀判となっているのは、彼が藩の総理としての実務にたずさわっていたことを示すものである。