信濃川発電所の建設
国鉄信濃川発電所(現JR東信濃川発電所)は宮中ダムで取水した信濃川の水を利用する千手・小千谷・新小千谷の3つの発電所の総称です。
ここで紹介しているのは千手・小千谷発電所を建設するために行われた第1期工事~第3期工事のことです。小千谷市に関係する事柄について「小千谷市史 下巻」の記録を紹介しています。
小千谷市史下巻は昭和42年(1967年)に出版されていますから、昭和32年~44年にかけて行われた第4期工事は一番下の記事のように「現在進行中」ということになります。
信濃川発電所の各施設については、良かったらこちらでどうぞ→信濃川発電所
信濃川発電所の施設は信濃川左岸側に設置されていますから、右岸に位置する岩沢には無関係のように見えますがそうではありません。
岩沢地区と、信濃川を挟んだ対岸の工事区を索道で結んでいましたし、工事現場で仕事をした方もいらっしゃったでしょう。
新小千谷発電所を建設した第5期工事は昭和60年から平成2年まで行われたわけですし、長期間にわたって地域の経済にも影響を与えたのではないでしょうか?。
岩沢地区と工事区を結んでいた索道<国鉄の資料>
国鉄の信濃川発電所隧道工事に関する略図を見ると岩沢駅から対岸の市之沢工事区に索道が設けられていたことが分かります。
2系統の索道
当時をご存知の方によれば2系統の索道があったそうです。
一つは紫色で示した、岩沢駅の南西側から対岸へ架設されたもので、これは鉄道で岩沢駅に着いた工事用資材を運ぶためのものです。
もう一つは緑色で示した、信濃川の砂利を対岸に運ぶために架設されたものです。河川敷から河岸まで、2本のワイヤーの上に渡した板状の運搬具(古い写真で見たことがあります)で砂利を運び上げ、それを索道で対岸まで運んでコンクリートの骨材に使ったのだそうです。
今の安全基準では考えられないようなものですね・・・。
ここから下は信濃川発電所建設に関する小千谷市史の記述です。
信濃川発電所工事の挫折 <小千谷市史 下巻>
大正12年の関東大震災の復興のために信濃川発電所の本工事は13年に中止され、信濃川電気事務所も大正14年3月に廃止されてしまいました。
しかし鉄道省内で調査研究は続けられ、発電計画を1段開発(田沢~小千谷)から2段開発(田沢~千手~小千谷)に変更し、昭和15年には田沢~千手の工事を完成させることができました。
千手~小千谷の第3期工事は昭和19年3月に着工したものの、戦争の影響により中断されてしまい、戦後の再着工を待つことになりました。
工事の挫折
ところが大正12年9月1日関東大震災が起こって鉄道省はその復旧に追われ、経済不況による民間電力の過剰と相まって工事は13年ついに中止され、信濃川電気事務所も大正14年3月廃止された。しかし鉄道省は開発を断念したわけではなく、省内で調査研究を続けていた。「大正10年当時の計画は田沢・小千谷間を1段に開発し、小千谷に発電所を設け、総落差100m強で発電するものであったが、再検討の結果、2段開発として、千手と小千谷に落差各50mの2発電所を設け、各発電所とも水路を2条として、工事をそれぞれ2期に分割し、千手の渇水量を対象とするものを第1期工事、同平水量を目標とするものを第2期工事、小千谷の渇水量を対象とするものを第3期工事、同平水量を採るものを第4期工事とする案に変更された」(同発電所工事誌)ので、小千谷としては、第3期・第4期工事に期待をかけるほかはなかった。
昭和5年、不況の絶頂期に第1期工事計画が議会を通過し、6年4月中魚沼郡千千町に信濃川電気事務所が設置され、14年第1期工事が完成して5万キロワットの発電を開始した。第2期工事は15年4月着工して、19年4月完工した。
第3期工事は、太平洋戦争中軽金属増産に寄与するために方針が切り替えられ、2ヵ年完成の目標のもとに昭和19年3月一斉に工事に着手したが、生産力低下のため資材の補給が続かず、まもなく工事を中止し、20年2月工事請負契約を解除した。
こうして、戦前の不況以来20余年にわたって渇望されたこの工事は、ついに陽の目を見なかったのである。
信濃川発電所再着工と工事ブーム <小千谷市史 下巻>
終戦後昭和21年10月25日に失業対策の名目で工事を再開しましたが、22年4月に再中断となってしまいました。
しかし、激増する東京近郊の輸送を果たすために、日本国有鉄道は第3期工事完成の必要に迫られ、
昭和23年に再々着手になりました。
再着工とエ事ブーム
終戦後産業が漸次復興すると、激増する東京近郊の輸送を果たすために、日本国有鉄道は第3期工事を完成する必要に迫られた。昭和23年11月14日小千谷小学校で起工式を挙行したが、これは再々々着手ということになる。発電所の位置は吉平から山本へ変更され、ここが工事の中心地となった。町当局・町議・商工会等が一丸となって工事協力のための協議会を作り、連絡事務所の設置、あるいは金融の活発化等を相談した。工事は厳寒骨をさす中で突貫工事を進め、大型トラックの往来は1分間3台にものぼり、そのために道路は荒廃し、まるで泥沼のようになった。24年11月15日には千手にあった工事事務所が東小千谷に移転して、麻真田捲糸組合の工場を買収して事務所とし、中子付近と栄町に官舎村が出現した。
商工業者は売込みのため建設業者と懇談したが、「小千谷ノ業者ハ愚鈍ナノカ、金ガアッテアセラヌノカ、不活発ダ」と酷評され、金物・海産物・食料品等ほとんど値段が折りあわず、理髪屋の現地出張の話も業者間の話しあいがまとまらぬため実現せず、24年10月に第1回の合同出張販売をしたが、これまた見るべき成果をおさめることができなかった。
しかし人口は急速に増加し、24年の21,553人が25年には25,724人(国勢調査)となった。
22年末には各種の飲食店は11軒にすぎなかったが、25年3月には一般食堂25軒・喫茶店2・仕出屋13・すし屋2・そば屋2・氷菓子屋3・肉店7・料理屋12という驚くべき盛況で、町は泥靴と地下足袋でわきたつようなにぎわいを呈した。
ドッジの均衡財政とシャウプの税制改革によって日本の経済界が大手術の苦痛に呻吟(しんぎん)していたとき、小千谷は例外的繁栄を誇った。日銀小千谷代理店によって工事関係者に支払われた資金は、昭和25年1,891,178,841円、昭和26年1,013,923,741円、昭和27年677,119,895円の巨額にのぼった。また煙草の売上高も昭和26年47,044,456円、昭和27年42,012,281円にのぼった。
この数字で明らかなように、工事の最盛期は25年であった。芸妓の数も急増したので、料理置屋組合では新人の教育と旧人の再教育のため芸妓十訓を作成して芸妓や業者に配布した。その第五訓には「芸妓は客に対し不自然な上下の区別をせず、平等のサービスをせねばならない」、第十訓には「芸妓は自己の尊厳に目覚め、必要以上のへり下りはしてはならない」とあって、時代の空気がもりこまれていた。
工事中の発電所 <小千谷市史 下巻>
落盤の大事故 <小千谷市史 下巻>
昭和25年9月3日午後4時10分、輸水路隧道工事熊谷組施工中の第七隧道に突如45mにわたる大落盤が起こり、土工45名が一瞬にして生埋めとなる大惨事が起こってしまいました。
落盤の大事故
昭和25年9月3日午後4時10分、輸水路隧道工事熊谷組施工中の第七隧道に突如45mにわたる大落盤が起こり、土工45名が一瞬にして生埋めとなる大惨事が起こった。場所は細島付近の雪峠下あたりの地下で、両端にいた12名ほどの者は風圧で吹き飛ばされ、かろうじて脱出することができた。付近の分業請負をしている各建設会社では、急拠特別救出隊を編成して救助に努めたが、なお小落盤が続いて近寄れない状態であった。
この日は朝から危険の徴候があって補強工事をしていたが、全く予想していなかったコンクリート塗装ずみの部分から落下しはじめ、この大落盤となったのである。当日は日曜日で官庁関係の連絡が遅れ、すべてが停滞しがちであったが、細島付近は遭難者の家族や関係者、見舞いに駆けつけた人等でごったがえした。そして、それらの人の祈りもむなしく、45名は全員死体となって発掘されたのである。
掘鑿が進行した同年11月ころになると、高台にある池ヶ原部落の田地30町歩が全部干上がってしまい、地下水位も低下して一部の家では飲料水の井戸が枯れてしまった。住民は工事事務所へ集団陳情したり、町役場や町議に実情を訴え、同部落は濯漑用水と飲料水に対して永久的補償を受けることになった。
塩殿発電所は用水の全部を吸収されて発電不能となり、国鉄に買収された。明治37年12月、山口権三郎等によって開設された日本有数の古い発電所も、その使命を終って8月1日閉鎖された。
落盤事故を伝える新聞<小千谷市史 下巻>
小千谷発電所の発電開始と固定資産税 <小千谷市史 下巻>
小千谷発電所は26年8月1日には5万Kwの発電を開始ました。
一方、小千谷市は信濃川発電所の固定資産税で潤うことになりました。
発電開始と固定資産税問題
工事は予定より2ヵ月も早く、8月初めに発電開始の見通しとなり、6月21日通水試験がおこなわれた。昭和26年8月1日、藤井松太郎所長の手によって歴史的な発電開始のスイッチが入れられた。8月10日には、小千谷小学校で千余名の来賓出席のもとに盛大な開業式があげられた。町では信電祭を挙行し、9日夜の前夜祭から26日の花火大会まで、半月以上にわたって万灯コンクール・のど自慢大会・燈籠流し・野球大会等の催し物をおこない、信電一色に塗りつぶされた。
信電ブームも終った27年6月ころになって、別の方面から「神風」が吹く気配がしてきた。シャウプ勧告で固定資産税が新設されたが、この巨大な資産に対して全く課税しえないとは納得しがたいと、関係町村が一致協力して猛運動したかいがあって、政府および国会方面でも漸次課税に傾いてきた。28年10月閣議で正式決定し、国鉄の電気設備に対する税額1億2千万円のうち第7表に示した分が小千谷町へ転げこむことになった。11月12日午後2時、関係3町8ヵ村の関係者約600名が明治座に参集して、「信電国鉄固定資産税確定感謝、信電第4期工事促進要望、関係郷民大会」という大変長い名称の会合が開催された。岡田知事をはじめ関係官庁の官吏や代議士等も出席し、関係町村長にみなそれぞれの役割がふりあてられてなごやかに議事進行し、一同この「神風」を喜びあった。
信濃川発電所が固定資産税で小千谷市をうるおしている額は第7表のとおりである。
第7表信濃川発電所固定資産税課税額 <小千谷市史 下巻>
信電工事郷民感謝大会 <小千谷市史 下巻>
信濃川発電所の規模 <小千谷市史 下巻>
信濃川発電所の電力は、東京を中心とする関東・東海道一帯の国鉄電車運転用電力を供給するものですが、東京近郊の運転用電力は時間により必要電力量の差が大きいので、これを調整するために山本と谷内の間に調整池が作られることになりました。
小千谷市史が書かれた時点では第4期工事が進行中です。
発電所の規模
信濃川発電所の電力は、東京を中心とする関東・東海道一帯の国鉄電車運転用電力を供給するものであるが、東京近郊の運転用電力は時間により必要電力量の差が大きいので、これを調整するために山本と谷内の間に調整池が作られることになった。両部落の農民たちは広大な耕地がつぶされるので大反対をしたが、結局田は1反歩12万円、畑はその7割、その他農道の迂回料等を出すことで妥協した。この工事は昭和29年11月にいたって完成した。
なお第4期工事は昭和32年ころから着手されたが、これはきわめて緩慢に施工されており、町にはほとんど影響を及ぼしていない。
小千谷発電所の規模は有効落差が48.2m、使用水量は最大毎秒180㎥である。水路隧道の長さは15.7Kmで、このうち90.5mは真人沢に水路橋となって地上に現われているが、他は全部地下を走っている。隧道の断面は馬蹄型になっており、幅・高さともに7m、発電機は2万5千キロワット水車竪軸渦巻型発電機4台を備え、発電力は常時5万キロワット、最大7万5千キロワッ卜、千手発電所と合わせて最大19万5千キロワットの出力があり、国鉄輸送に大きな貢献をしている。なお第4期工事は現在進行中であるが、完工後は総出力12方5千キロワットになるという。
小千谷発電所調整池 <小千谷市史 下巻>
国鉄信濃川小千谷発電所 <小千谷市史 下巻>