谷内鉄路さんの「でばがめ岩沢史(2)」です。
P45『「カイド」の地蔵様』から一部をコピペさせていただきます。
「青文字の( )書き」は私が追加しました。
中学校(現在中越住電装があるところ)から二百米程の処に「ガイドの地蔵様」というのがあった。
高さ二米、周囲二〇米ほどの明らかに盛り土されたと思われる小さな塚の中腹に建っていて、屋根つき、囲いつきであった。
雪どけ時の晴れた日は暖い日だまりとなって小供達にとって絶好の遊び場だった。幾十本かの椿が無数に赤い花びらを付けて、小供心に春の訪れに胸をはずませたものだ。
ここは鬼ごっこ、陣取り遊びの拠点でもあったようだ。当時、この旧道(現在の私道のことだと思います)は自動車の通行などはまず考えられなかった。だからこの地蔵様前は道路巾と地蔵前の少さな広場とが+されて、五人や十人の小供らがたむろしても通行の障害となることはまずなかった。地蔵様の裏の一枚田の乾田は、雪消えから田植、そして苅取りから降雪までの時期には、短くはあるが一寸したグランドの役を果して小供遠のカン高い声を暗くなるまで響かせていた。
この「カイドの地蔵様]の真前えにある家が屋号を「カイドウ」さんといった。そしてこの地蔵様のお世話をしていたのがカイドさんであって、私などは「だからカイドの地蔵様なんだ」と勝手にきめていたものだった。
ところが、「カイド」さんの本家は高橋さんであるが、道路拡張後この地蔵様は高橋本家の屋敷内に移転しているところをみると、そうではなくて、道のはたにあるので「カイドの地蔵様」と呼ばれていたのであったらしい。
<中略>
桜や赤い椿に囲まれ、赤いよだれ掛け、黄のヅキン、明るい日射を一杯に浴びて建っていたこの地蔵様は子供たちに仲々人気があった。それには、お地蔵さんのお世話をしておられたカイドさんのおぱあちゃん(当時は若かかった)の人柄にあったようだ。それは後の機会にゆずりたい。
<中略>
カイドウさんの宅は地蔵様の真ん前にあって、道路から直角に大もんを入るとこめ屋の玄関であった。そして、この屋の座敷の部分が一寸変った洋風になっていた。その昔郵便業務を請負っていたとのことで、その頃、窓口だったらしい遺構がずっと後まで残っていた。たしか鉄骨子の扉だったと思う。もちろん当時では使用していないので、押しても引いても開かなかった。
実(みのる)さんはこの屋の息子さんであったが、体が弱く三十才にもなられず夭折された。私より四、五才年長であった。実さんの小学校時代のことはほとんど憶ぽえていないが、あの人は私のようにわめいたり、ほえたりしなかったように思う。
実さんがたしか中野無線電信学校だったと記憶しているが、休暇で帰省された折、昔の海軍将校と同じ胸のところをホックで止める服を着てさっそうと歩いているのがなんともうらやましい限りだった。
この頃、実さんはすでに病にむしばまれていたのであろう。そして学業も空しく中退を余儀なくされたように思う。そしてそれから十余年の斗病生活中に実さんは無類の天才ぶりを発輝された。
ややましなガキ、二〇才前後に成長した私はよく実さんを訪れた。炉ばたでソダを燃しながら話をお聞きした。戦後で岩沢も荒廃していた。
「人民戦線をなぜ早く作らないんだろう」実さんはソダを析りながらポツンといわれた。その意味が解らなくて困った。実さんと私との能力の差があまりに開き過ぎていた。
「落はくの 土蔵ありけり 柿うるる」
実さんの句である。俳句も短歌もなんでもこなされた。戦後の田舎しばいの脚本を書かれたのもこの頃である。
その後上京した私が、実さんの亡くなられたのを知ったのは四・五年後の事であった。
カイドの地蔵様もいまはない。戦さごっこでころがり落ちた長い石垣も姿を消した。そして今は、ごつごつした石が広くなった道路をころかっている。