農業の振興 岩沢組合~岩沢農業協同組合
明治末期から第2次世界大戦まで続いた日本の代表的な農業団体に「農会」と「産業組合」があります。
農会は明治32年(1899年)「農会法」の公布に基づき、農事の改良・発達を図ることを目的として設立された地主・農民の団体です。
府県・郡・市町村に系統的に組織された農会を系統農会といい、明治43年(1910年)の農会法改正によってそれらを全国的・系統的に組織する中央農政機関として帝国農会が設立されました。
産業組合は明治33年(1900年)の「産業組合法」に基づいて設立された農村協同組合で、現在の農業協同組合、信用金庫、生活協同組合の母体になりました。
組合の事業は信用・販売・購買・利用の4種とされ、日露戦争後各地に普及し、中央会・事業別全国連・県連も漸次整備されました。
昭和18年(1943年)には農業団体の統合を目指して農業団体法が成立し、中央では帝国農会・産業組合中央会などが解散して中央農業会・全国農業経済会に再編され、地方では農会・産業組合などが解散し市町村・道府県単位で農業会に再編されました。
敗戦後の昭和22年(1947年)に農業協同組合法が施行されると中央農業会が廃止され、農業協同組合及び農業協同組合連合会が設置されました。
これを踏まえて、小千谷市岩沢の様子を小千谷市史の記述から見ていきたいと思います。
ちなみに現在の岩沢には「JA越後おぢや南部支店」があります。
昭和55年12月に現在地に移転する前は、現在「山紫」が建っている場所に事務所があり、その国道側が倉庫(現在その建物は地域活性化の団体が活用しています)でした。
産業組合法に基づく「岩沢組合」の設立 <小千谷市史 下巻>
岩沢村の産業組合は岩沢組合として明治39年に設立され、初めは信用事業でスタートし、その後に購買・販売事業を手掛けるようになりました。
<産業組合>
当時の世相については「不信用ナル者増加シ、為二金銭ノ貸借ニアリテハ利率暴騰シテ、最高年一割五分トシ、年四回即チ三ケ月毎ニ重利ヲ取ルト云フ有様ニテ、資金ヲ借入レテ事業ヲ発展セントスル者ハ全部失敗二終ル。(中略)加フルニ日清日露戦後ノ経営等ノ為、村費ハ数倍ニ膨張シ、村民ノ哀退見ルニ忍ビ」ざるものがあった。(『岩沢村誌』)。
それで、先覚者の主唱により、各地にまず信用組合設立の気運が醸成された。
岩沢組合
岩沢村の組合は、明治39年1月28日に設立された。初めは信用事業だけであったが、42年7月、総会の決議により、日露戦役記念として、購買・販売部を併設した。44年末現在の組合員数183人、出資口数380(1口2円)、払込済金720円余、準備金141円71銭1厘、貯金高1,009円であった。
初代組合長は関口大三郎で、その居宅を事務所としていたが、後に県道沿いの民家に移した。店頭には陶器製の二宮尊徳像を安置し、奥の間には「父母根元在天地之令命」に始まり「年々歳々不可忘報徳」で終る、同翁の12ヵ条の報徳訓が掲げてあった。盆正月の前には山地の学校へ出張して大売出しをした。このときには尊徳像もともに出張し、その前に灯明を点じ、賽銭を上げて礼拝する人もいた。この像は今でも岩沢の某家に保存されている。
このようにして村の消費生活は大いに進んだ。 (P203・205)
岩沢組合の尊徳像
苦悩する産業組合 <小千谷市史 下巻>
大正から昭和初期にかけては日本経済界の最大の激動期で、産業組合にとっても波乱の時期でした。
現存の組合の中で最も古い岩沢組合も大打撃を受け、昭和2年ころに1口10円の出資金をついに2円にまで減資し、後さらに8円の増資をしましたが、その後も経理内容は健全と言えず、しばしば荒療治をしてようやく立てなおしたのだそうです。
<苦難の時代>
大正年間に入ってから創立された産業組合に、山新田・川井・東山・小千谷・山辺等がある。
大正から昭和初期にかけての25年間は日本経済界の最大の激動期で、産業組合にとっても波乱の時期であった。
明治42年の産業組合法の改正で組合連合会を設立しうることになり、さらに大正10年の改正で連合会を会員とする連合会を組織することが可能となった。県販売・購買・利用組合連合会が長岡城内町に設立されたのは10年4月で、信用組合連合会が新潟市東仲通りに設立されたのは10年9月である。
このようにして町村産業組合は県連合会・全国連合会に系統的に組織され、また12年には産業組合中央金庫法が公布され、孤立した単独組合の場合とは比較にならぬ安定性を持ちうることとなった。
<反産運動(産業組合の発達と政策的支援に反対する運動)>
このように組織が強化されたにもかかわらず、組合の理事者は農民であって、激動する経済に対処することに慣れていないために、商取引きにも敏捷を欠き、大きな損失を招くことがあった。また組合員も組合精神の理解が不十分で、些少の過失や役員の人事問題から、たちまち組合の基礎をあやうくするような事態が起こりがちであった。
政府は補助金・免税等の措置により組合の育成をはかってきたが、昭和初頭の深刻な不況に見舞われると、このことはかえって零細商人の嫉視の対象となり、いわゆる反産運動が全国的にまき起こされることとなった。
<岩沢組合の苦難>
各地の産業組合は大正9年頃まで躍進を続けたが、その後は経済情勢の急転によって経営が困難な時期になった。
昭和の経済恐慌は組合の運営を行き詰まらせた。
現存の組合の中で最も古い岩沢組合も大打撃を受け、昭和2年ころ。1口10円の出資金をついに2円にまで減資し、後さらに8円の増資をした。その後も経理内容は健全と言えず、しばしば荒療治をしてようやく立てなおした。
空籾事件 <小千谷市史 下巻>
昭和8年の籾貯蔵奨励実施法により倉庫の建設に補助金が出されることになりました。
岩沢にも岩沢倉庫が建設されました。
<空籾事件>
いわゆる空籾事件はこの時期に起きた。
昭和8年は未曽有の大豊作と言われたが、米価は暴落し、豊作飢饉の声が起こった。政府は11月29日籾貯蔵奨励実施法を公布し、籾600万石貯蔵を目標に、貯蔵石数に応じて倉庫の建設資金を補助することになった。
新潟県では極力倉庫の建設を奨励し、建設費の3分の2を補助することになった。しかし、この決定および倉庫の建設が遅れて籾の貯蔵時期とずれてしまい、予定の石数の貯蔵が不可能となったので、自宅貯蔵を認めることが県と産業組合の暗黙の了解事項となっていた。
ところがこれが一旦外部にもれると、反産運動激烈のおりから世論は沸騰した。9年8月27日、小千谷を含む13の警察署が一斉に摘発を開始した。組合理事者は公文書偽造・補助金詐取・公金消費等の罪名で続々召喚された。
このときの籾倉庫建設に
は、吉谷・岩沢・真人・片貝・川井・城川その他大部分の組合が関係していたと考えられ、その倉庫は現に残っている。
事件は全県下をゆるがし、中央でも問題となったが、真相が判明するにつれて関係者はすべて起訴猶予あるいは不起訴となり、返還を要する補助金も翌々10年にいたって種々の名目で緩和され、さしもの大事件も泰山鳴動して鼠1匹の結果となった。また、反産運動も統制時代に入ると影をひそめるのである。
岩沢倉庫 <小千谷市史 下巻>
記憶力が良くない私もこの倉庫があったのは覚えています。
私が見ていたのはもちろん産業組合の時代ではありませんから、「農協の倉庫」になっていたのだと思います。
画像中央に写っている塔は火の見やぐらで、当時は半鐘が取り付けてありました。
岩沢農業協同組合の設立 <小千谷市史 下巻>
昭和18年に、農業経済の自主的機関である産業組合と、半官半民の指導機関であった農会を解散して、国策遂行の末端機構に切り替えるために農業会の成立が計られました。
戦後はGHQの命令で農業会が解体させられ、農業協同組合の設立が許されました。
<農業会の設立>
太平洋戦争も末期に近づいた18年3月11日農業団体法が制定され、産業組合と町村農会の合同が命ぜられ、農業会が発足することになった。物資の不足、とりわけ食糧不足に対処するためには強力な農業統制をおこなう必要があり、農業経済の自主的機関である産業組合と、半官半民であるが単なる指導機関であった農会を解散して、国策遂行の末端機構に切り替えたのである。
小千谷農業会は19年3月29日に創立総会を開き、各町村でもそれぞれ農業会が成立した。
<農業協同組合の設立>
産業組合は戦時中農会と合体して農業統制機関としての農業会に改組されていたが、戦後は当然アメリカ軍政部によって解体が命ぜられた。
進駐軍は農業会を財閥と見ていたから、財閥解体の一環としてそれは避けられない道であった。全国の農家を強制加入させ、町村農業会から郡支部、県農業会、全国農業会とピラミッド型に組織された偉容は、かれらの目を驚かしたにちがいないが、集中された資本力を動かす財閥と零細農家の集合体である農業会との本質的相違を、かれらは認識していなかったようであった。
農業会の代わりに設立を許されたのが農業協同組合である。昭和22年11月19日に農協法が公布され、農民の自主的組織として、加入脱退の自由の保証、官庁監督権の極度の縮小、出資額によらない1人1票の発言権、生産協同体としての性格の強化等が規定された。これによって新しい農村経済体制に即応して再出発することになった。そして、この組合法施行以後8ヵ月以内に農業会は解散しなければならなかった。
農業協同組合は、発起人15人以上で設立しうることになっていた。そこで小千谷町では各所にそれぞれの農協設立運動か起こり、秘密裡に組合員の獲得運動が進められた。ふたをあけてみると、小千谷町には小千谷農協・中央農協・吉谷農協の3組合が設立されることになった。
一方市域の他の町村は各1農協を設立し、農業会の看板の塗り換えだけで簡単に終ったところもあった。
岩沢農業協同組合
岩沢に農業協同組合が設立されたのは23年5月11日でした。
所在地は岩沢1019番地(現在「山紫」が建っている場所)、駅前通りにありました。設立当時の組合長は駒井捷治さんだと思います。
以下は「小千谷市農業協同組合30年史」の記述です。
岩沢農協の事務所は駅前にあり、農業倉庫が併設されていた。
当時の岩沢における農林産物の主なものは、米、養蚕、養豚、肥育牛等であった。
畑作では葉タバコが栽培されていた。立地的条件から養蚕がさかんであり、山林を多く有しており、炭焼き窯が7つあり、木炭の生産も盛んであった。冬期間は藁加工品として縄、叺などがつくられていた。
当時、岩沢農協の2階に米の検査員の駐在所があった。検査地域は、岩沢、真人、川井であり、昭和30年1月1日の町村合併までは中魚沼郡であったので、十日町農協にも検査に出かけた。
岩沢農協も4種兼営であり、戦後の自由化経済が進展するなかで、きわめて厳しい経営をせまられたが、組合員、地域の信頼を得ながら出張収売や製粉機を導入してこなひきを行うなど、農協は農家経営の拠点としての役割を果たしてきた。
そして時代の変遷から、昭和38年の合併へと推移した。
組合貝400名(正組合員355名 准組合貝45名)
職員8名(男6名 女2名)
出資金379万7000円 固定資産225万円
預金1431万1000円
貯金3945万7000円
貸付金2106万1000円
共催保有高820万5000円
購買品供給高3224万6000円
販売品販売高 5143万6000円
(小千谷市農業協同組合30年史)
岩沢農協事務所(小千谷市農業協同組合30年史)
小千谷市農業協同組合の誕生 <小千谷市史 下巻>
市史はまだ有線放送があった頃に編纂されたので現在形で書かれています。
有線放送は覚えていますが画期的でした。定時放送に「農民体操の時間」があったと記憶しています。
今で言えば防災無線の役割も担っていましたね。
<農業改良普及員と米の増産>
農業生産の指導はもともと農会の仕事であったが、戦時中農会と産業組合が合体して農業会となり、さらに戦後農業協同組合となったので、この指導もそのまま農協に引き継がれていた。しかし一種の営利団体である農協に、営利を度外視した徹底的指導ができないのは当然である。そこで新しく組織化されたのが農業改良普及員制度である。
<小千谷市農業協同組合の誕生>
38年7月1日 岩沢農業協同組合等小千谷市内の農協(片貝農協を除く)が合併し小千谷市農業協同組合になった。
合併直後に有線放送電話施設を完成したが、その普及率は第八表Eのように高く、やがて市内電話直通となり、農村の通信機関として画期的意義を持つものとなった。またこの電話は、ニュース・農業知識・音楽等を定時放送により一斉に流すことによって、農村文化の向上にも役だっている。
第8表E 農協有線電話加入状況
ちなみに、家の傍に当時の有線電話の電柱があります。譲り受けて「ハサ木」か何かに利用したのではないかと想像します。
この2本の他にもう2本、合計4本です。
有線電話のプレート「岩沢引込 六一」とあるように見えます。
これは「岩沢幹線 一〇三」と読めます。