小千谷市 岩沢

新潟県小千谷市の南端に位置する岩沢の紹介です。

大崩煙草(おおくずれたばこ)

ここでは、「小千谷市史」の記事を紹介させていただきます。
小千谷市史は『江戸時代から明治期にかけて幾多の産業の浮沈興廃があったが大崩煙草(おおくずれたばこ)もその一つで、かなりはっきりした足跡を残している。』と紹介しています。


「越後土産」の越後産物番付に見る大崩煙草

小千谷市史では『大崩部落の伝承によれば当時宇右衛門家所有の通称馬伏場という畑一帯が大崩煙草の発祥地とされており、将軍家へ献上の煙草はこの畑のものであったという。』と紹介しています。

 江戸時代から明治期にかけて幾多の産業の浮沈興廃があったが大崩煙草(おおくずれたばこ)もその一つで、かなりはっきりした足跡を残している。

 「温故の栞」には、正保年間からすでに名産地として知られていたとあるが、大崩部落の伝承によれば当時宇右衛門家所有の通称馬伏場という畑一帯が大崩煙草の発祥地とされており、将軍家へ献上の煙草はこの畑のものであったという。「宇右衛門煙草」という名称もあったというから、同家が煙草の普及について何らかの寄与をしたものと思われる。幕末のころには、有力な地方特産として広く国境を越えて売り出されていたことは確かである。

 幕末の元治元年(1864)に刊行された紀興之の著『越後土産』には、写真のような興味ある越後産物番付が載っている。
 この中で、小千谷に直接関係あるものについて一言すれば、大崩煙草のほかに、西前頭三枚目に片貝酒とあるのは、当時片貝村には佐藤佐平治家をはじめとして約15軒の酒造家があり、その産額は大きかった。東前頭四枚目の小千谷蝋については、上巻で詳細に述べられたとおりである。終りちかくに「小千谷きづかけ女」というのがある。これについては『小千谷縮布史』に「縮布にキヅを生じたる場合に之を補修することをキヅカケと称す」とあり、鈎状の針で巧みに修理する女工のことで、西側の堀之内糸とり女と取り組ませているのである。

 この番付は勿論正確なものとは言いがたく、その序列等にも多く問題はあろうが、大崩煙草が広く知られていた一つの証明にはなろう。

大崩煙草の興隆
小千谷市史では『大崩煙草の生産地域は広く、岩沢から真人・下条・川井方面、後には北魚沼一帯、中魚沼北部産のものはすべて大崩煙草の名称で長岡の問屋に買い取られ、中頚城の大鹿と並ぶ県下生産地の双璧であった。』と紹介しています。

 大崩煙草の生産地域は広く、岩沢から真人・下条・川井方面、後には北魚沼一帯、中魚沼北部産のものはすべて大崩煙草の名称で長岡の問屋に買い取られ、中頚城の大鹿と並ぶ県下生産地の双璧であった。

  毎年9月下旬の収穫前になると、長岡商人は農家にいちいち手付金を置いて予約しておくので、ほとんど他の商人の入りこむ余地はなかったという。信濃川や魚野川の舟運によって長岡に運ばれたが、船の送状等によって、産額や取引先を知ることができる。
  長岡の煙草問屋志賀定七の記録するところによれば、長岡へ出荷したものだけでも、100斤1梱としたものが年間2,000箇以上に及んだ。長岡は煙草の集散地で、これを加工して売り出すのであるが、職人の不足で関原村の農家に託して刻ませた。同村には家内労働による煙草刻み工が170~180人もいて、これが後年関原に専売局の煙草工場が建設され、また同村が有力な生産地となる基礎となった。

 明治10年編集の『岩沢村誌』によれば、同村の煙草の産額は42,650斤、代金92,520円62銭であって、米価で換算すると米1,688俵に相当する。しかし、明治14年の北魚沼郡移出入高表によれば葉煙草の生産量は24,275斤となっていて、この地域ではすでに養蚕業の興隆にともなって煙草の衰退はいちじるしく、収量は激減していたのであるが、最盛期にはこの7~8倍は生産されていたものと推定される。
 大崩煙草には独特の芳香があり、また火のつきがよく、火打石で点火するのに適していた。すこぶる良質な煙草として数々の伝説が残っているが、その中の一つを紹介しておこう。

  大崩の某が江戸へ行くため、三国峠を越えた。かれは上越国境にある唄の文句で知られた権現様の前を、くわえ煙管(きせる)で通過した。権現様の縁側に一人の旅人が休息していたが、かれははるかに行き過ぎた某を「おーい、おーい」と呼び返した。そして、おまえは珍しい煙草を喫っているがと煙草の名を問い、かつ一ぷくを所望した。旅人は深くこれを味わってから、「俺は薩摩の、日本一の国分煙草の産地の者だが、この煙草は国分に劣らぬものだ。江戸へ売り出したら必ず大いに売れるだろう」と折紙をつけたという。

 煙草の葉ははなはだ虫のつきやすいものであり、消毒法のなかったころのことなので、虫拾いが大切な仕事であった。また同地方の農家の造りは、煙草を陰干しにするのに都合のよい梁間と構造とを持っている。

大崩煙草の衰退
小千谷市史では『明治31年、葉煙草専売制度が布かれるに及んで、この仕事は全く衰え、数年ならずしてさしもの名産もその影を消してしまった。』と結んでいます。

 この有力産業も、養蚕が普及するにつれて急速に衰えはじめ、明治10年ころには産額が激減した。
 煙草を作ることは蚕児に害があり、結局両立することが困難であったからであった。もう一つの衰退の原因は、品種を改良しなかったためと思われる。
 従来の品種は剣葉というもので、収量は少なかった。他の産地では野州種の丸葉の品種を採用するようになったが、これは反当収量350斤ほどで剣葉より100斤も多いというから、当然品種を改良しないものは脱落するほかなかったのである。

 明治10年ごろの価格は1円にどれほどという計算方法で、上葉は1円に13斤(1斤は160匁) 中葉は16斤、下葉は20斤くらい、すなわち反収15円ほどで、繭10貫に相当する程度であった。

  明治31年、葉煙草専売制度が布かれるに及んで、この仕事は全く衰え、数年ならずしてさしもの名産もその影を消してしまった。

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