小千谷市 岩沢

新潟県小千谷市の南端に位置する岩沢の紹介です。

岩沢の青年会と婦人会

以前は岩沢でも各集落ごとに盆踊りを行っていました。

岩沢の桂地区でもそうでしたが、中止する前は町内会の行事として行っていました。
それ以前は「桂青年会」が主催していたのですが、青年会の解散(昭和48年頃)によって町内会行事になっていたのでした。

私が子どもの頃には、具体的な活動内容は知りませんでしたが「婦人会」という名も耳にしていました。

岩沢にもあった青年会と婦人会について、小千谷市史の記述を見たいと思います。


<小千谷市史 下巻>
岩沢村では明治39年、里地に岩沢青年会、小土山校区に三興会、大崩に大崩青年会、池之平に振興会が誕生し、45年4月これらの会を合わせて岩沢村連合青年会が組織されました。

その後の展開は不明ですが、桂地区の青年会が解散した頃の会員の方に伺うと、次のようでした。
・各町内に青年会があり、祭り・盆踊りを主催していた。
・岩沢地区全体の組織として青年団があった。
・青年会の解散は一斉に行われたわけではなく、桂地区青年会は最後まで存在していた。
・女性会員も数名あった。

機会を見つけて当時の話を伺ってみたいものですね・・・。

  <青年団>
  もともと各部落の青年は、若連中または若者組などと称する自主的な組職を持っていて、社寺堂宇の清掃、夜警消防等の活動、「磐持(ばんもち)」と称する巨石をかつぐ競走、馬跳ばせ、相撲等の運動や農休日の決定、春秋二季二日間くらい宿を定めて材料持ち寄りで酒食や遊楽をする「かくせつ」という行事の主催、入会山管理の規定を作りまたその執行を監視すること等幅広い活躍をしたが、中でも年一回の鎮守社の祭礼は、かれらが最もはなばなしく活躍する舞台であった。しかし、未婚の男女の公然たる交際が認められない社会のこととて、この集団が卑猥な陰の性格を持つことも避けられなかった。
 しかし明治37~38の日露戦争を契機として、政府は青年団の組織化と訓練の必要を痛感し、そのために青年団は国家主義的色彩をおびてくる。小千谷町青年会は39年5月15日に発会式を行った。

 各町村とも、この年以後急速に青年団の組織化がおこなわれたと考えられる。たとえば岩沢村では、この年里地に岩沢青年会、小土山校区に三興会、大崩に大崩青年会、池之平に振興会が誕生し、45年4月これらの会を合わせて岩沢村連合青年会が組織された。
 
会則第2条には「本会ノ目的ハ、岩沢全村青年ノ気脈ヲ通シ、親睦ヲ謀リ、能ク国家ノ忠良ナル第二国民トシテノ中健タルニ努ムルニアリ」と、その目的を明示している。会員の年齢は15歳から27歳までの男子全部で、年齢を超過しても賛助員として残る場合もあった。会員からは会費を徴収したが、種々の事業をして費用の一部にあてる会もあった。たとえば大崩青年会・三興会等は入会地を開墾して桑園を作り、休日の午前に耕作して桑葉を競売して収入を得ていた。
 大正2年ころの岩沢各青年会の事業を見ると、夜学会・青年文庫・統計調査・道標建設・記念林・視察旅行・共同農作業・試作田・撃剣・銃剣術等の活動をおこなっている。もはや若者組のような土着的集団ではなく、明らかに国家目的にそった団体であり、連合会の会長等は正会員でなく、いわゆる土地の名望家・町村長等がなる場合が多かった。
 なお32年に、北越矯風会小千谷支会が結成された。「社会ノ弊風ヲ矯正シ、兼テ勤倹ノ美徳ヲ発揮スル」目的で、会員120名を持っていた。

「昭和26年7月15日桂青年会一同」と記されていた写真です。
皆でどこかの海に出かけたのでしょうか・・・。

この画像では分かりにくいのですが、大きく引き伸ばしてみると「あれ、この人は〇〇さんかな・・・と思うお顔がありますし、我が父親(阿部孝市)はこれかなと思えたりします。」

昭和26年7月15日桂青年会一同の写真。

上の画像で「皆でどこかの海に出かけたのでしょうか・・・。」と書きましたが、写真に写っている方にお話を伺ったら、鯨波に行った時のものだそうでした。
お話を伺ったのは前列左から4番目の方ですが、面影があるので写真を持ってご本人に伺いに行ったのです。
ちなみに前列一番左の方も左から2番目の方も、何方なのかが分かります。

また、その後この写真も見つけましたので、追加アップしました。

昭和26年7月15日桂青年会一同の写真。

「昭和23年5月1日写す 桂青年会一同・岩浪座一同 44名」と記されていた写真です。

昭和23年5月1日 桂青年会一同・岩浪座一同の写真。

撮影日は不明ですが、昭和20年代のものと思われる写真です。
不動寺の階段に並んだ若者たち。
この画像であれば分かります。(向かって)前列右端は阿部孝市(健在であれば、平成30年1月で88歳)、私の父親です。

阿部孝市は(向かって)前列右端に写っています。

<小千谷市史 下巻>
岩沢村婦人会は、同村西岩寺住職渡辺俊道の首唱によって、明治39年11月23日に岩沢村仏教婦人会として発足しました。

  <婦人会の結成>
 婦人会も結成された。封建制度下における男尊女卑の思想は明治の新政となってもあまり変わらなかったが、やがて新しい婦人運動が起きてくる。奥村五百子によって組織された愛国婦人会は全国各地の婦人会結成の指標となり、日露戦争を機として全国にひろまった。
 明治37年11月「小千谷町婦人会」は慰問袋5,000個を贈る計画をたて、会長久保田倫子は小出婦人会と提携し、幹部とともに各町村の婦人に呼びかけ、12月27日までに小千谷地区で2,800個の応募者があり、小出地区の分を合すれば4,300個に達したと報じられている。愛国婦人会は上層家庭婦人の団体で、その定款第4条には「本会は戦死並に準戦死者の遺族及び廃兵を救護するを目的とす」とうたってあり、戦時になると活発に活動した。
 彼女らの活動は末端に婦人団体組織の気運を醸成したと見られ、これと直接関係のない地域婦人団体が各町村に結成されることとなった。史料の不足から各町村の婦人会について言及することはできないが、その一例として岩沢村の場合をあげる。

 岩沢村婦人会は、同村西岩寺住職渡辺俊道の首唱により、明治39年11月23日に岩沢村仏教婦人会として発足したものである。その会則第4条には、
  一、仏教ニ依り女徳ヲ養ヘ自重心ヲ高メ、賢母良妻タラシメ、家庭教育ニ遺憾ナカラシメン事ヲ計ル事
 二、殖産興業ヲ奨励シテ、国益ヲ計ル事
  三、成シ得ル限り有ヨル慈善事業ヲ行フ事
  四、女風ヲ矯正シテ女子ノ徳操ヲ全フシ、社会ノ悪風ヲ防止シテ之カ改善ヲ計ル事
  とある。
 この会は第2項の産業関係についてかなり特色ある活動をしており、そのころ養蚕はもっぱら・婦女子の仕事であったところから、蚕業講話・生繭持寄品評会・生糸持寄品評会・真綿講習会・裁縫講習会等をしばしば開いている。また会員が結婚するときは会銘を入れた鏡を記念品として贈った。

岩沢婦人会の養蚕講習会記念写真 <小千谷市史 下巻>

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