岩澤村の忠魂碑
「岩澤村の忠魂碑」と名付けられているわけではありませんが、その忠魂碑は現在、小千谷市岩沢市ノ口地区にある西岩寺の境内に建っています。
揮毫は鈴木壮六陸軍大将です。
家にあった昔の写真に忠魂碑が写っているのを見て、これはどこで写したものなんだろうと思い、その当時のことを知っていそうな方に尋ねました。
数人の方に伺ったところ、「岩沢国民学校」の傍に建っていたことを教えていただきました。
その段階で想像したのは、敗戦でGHQに占領された際に破壊を命じられたのだろうということでした。
ところがその後、別の人に忠魂碑についてお話を伺った際、西岩寺の境内に移動されていたということを教えていただいたのです。
お聞きしたのは降雪の時期だったので、春まで待って、西岩寺を訪問(令和3年4月16日)しました。
国民学校について、ウィキペディアでは次のように解説しています。
国民学校(こくみんがっこう)とは、支那事変後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校。
1941年の国民学校令によって設立される。教育勅語の教えを奉戴して皇国の道に則って初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を目的とし、国家主義的色彩が濃厚に加味された。
小学校尋常科を国民学校初等科(修業年限6年)、小学校高等科を国民学校高等科(修業年限2年)に改組。
この写真には私の父親が写っています。
「二六〇〇記念 尋五」と書かれた板も写っていますので、皇紀2600年を記念して尋常小学校で写したものだと思います。
皇紀2600年は昭和15年ですから、この年は国民学校ではなく、まだ尋常小学校です。
画像左上に忠魂碑が写っていますが、この場所は撮影スポット・撮影の好適地だったのではないでしょうか。
この写真は「昭和18年度 岩澤国民学校 修了記念写真帖」にあったものです。
写真帖には生徒たちの集合写真が2枚(1枚は初等科の修了生、1枚は高等科の修了生のもの)と、この写真が収められています。
教職員の写真です。
この時の高等科修了生だった駒井軒和さんに伺ったところ、写真中央のしゃがんでいる方(ネクタイをつけている)は高野校長で、その後ろに立っている方(ネクタイをつけている)は宮沢先生だそうです。
これにも忠魂碑が写っています。
「昭和18年度 岩澤国民学校 修了記念写真帖」です。
ちなみに、この写真帖が家にあった理由は私の父親が国民学校高等科の修了生だったからです。
「昭和18年度 岩澤国民学校 修了記念写真帖」の中の1枚、高等科修了生の写真です。
この写真に高野校長も宮沢先生も駒井軒和さんも私の父親も写っています。
この写真も家にありましたから縁のある写真なのだと思います。
どういう時のものなのか、誰が写っているのか分かりませんが、忠魂碑の前で写した写真です。
ここから下は現在(令和3年4月16日)のものです。
市ノ口にある西岩寺の参道入口です。
石段を上ります。
石段を登り切ってすぐのところに飯山線の踏切があります。
画像正面が本堂です。
この画像左側に忠魂碑が写っています。
本堂との位置関係が理解できると思います。
忠魂碑方向を写しました。
忠魂碑です。
近づいて忠魂碑の正面を写しました。
「陸軍大将鈴木壮六書」と刻まれています。
鈴木壮六(すずき そうろく)について、ウィキペディアでは次のように解説(一部)しています。
1865年(元治2年):越後国蒲原郡三条町二ノ町(現・三条市)に鈴木高次の三男として生まれる。
1883年(明治16年):新潟師範学校を卒業し、新潟市の尋常小学校に奉職。陸軍士官学校の入学試験に不合格。
1891年(明治24年):陸軍大学校(12期)に入学。
1904年(明治37年):日露戦争で奥保鞏陸軍大将の第2軍参謀を務める。
1926年(大正15年):陸軍参謀総長
1930年(昭和5年):停年退役・枢密顧問官・勲一等旭日桐花大綬章
別角度です。
忠魂碑の背面を写しました。
忠魂碑の背面中央には「昭和十一年十一月建立 岩澤村」と刻まれています。
忠魂碑の背面左下には、「石匠 小林斧七」と刻まれています。
別角度です。