旧魚沼橋<岩沢村の悲願>
「小千谷市史」の記事を中心に旧魚沼橋(当初は「岩沢橋」として計画)建設の経緯等を、私が写した画像で旧魚沼橋の面影を紹介させていただきます。
現在の魚沼橋は、一番下の画像に印したように、国道117号にあって岩沢~時之島間を結んでいます。
なお、私が写した画像は「旧魚沼橋が掛かっていた地点」という点は間違いないと思いますが、主塔の基礎のように見えたコンクリートブロック等は旧魚沼橋の遺構ではないだろうことを最初に申し上げておきます。
詳細をご存知の方、お教えいただければ幸いです。
「岩沢在住のT」様から次の情報をいただきました、ありがとうございます。(2018年1月19日)
旧魚沼橋の芋坂側のコンクリート塊は吊橋のワイヤーを支えていた建物で間違いありません。
かつて岩沢小学校でやっていた行事の際に現地で説明を受けたので間違いないかと思います。
確か当時は正面右上に太さ約10cm長さ30cm程度の切断されたワイヤーの残骸がコンクリート塊にぶら下がっていたと記憶しております。
舟橋時代<小千谷市史から>
県道魚沼線が開通し、架橋の必要性を痛感した・・・。
魚沼橋は、岩沢村の第一区から真人村の時之島間で信濃川を横切っている橋で、現在は国道117号線の一部となっている。この地点は妻有郷の咽喉を扼す、古来の善光寺街道の要衝として知られていた。
渡舟があったが、明治19年県道魚沼線が開通してから交通量は増加し、ここに架橋の必要なことは誰もが痛感するところだった。
岩沢村では、県道開通以前、すなわち明治17年に村の事業として測量・企画して、すみやかに架橋するようその筋へ請願したが、時機が熟さず許可にならなかった。県道開通後、明治20年12月民設舟橋が架けられ、橋銭をとっていたが、急流の場所なのでわずかの出水にも流失し、危険で損害も多く、交通を阻害することはなはだしかった。地元各町村は数次にわたって架橋の請願をくり返してきたが、明治28年になって県庁もようやく測量を開始し、翌29年の県会に発案のはこびとなった。しかしこの年に大水害があり、翌30年は空前のうんかの大虫害が発生し、ついに発案見合せとなった。
岩沢の舟橋(写真集ふるさとの100年)
明治20年、上郷村(現津南町)の半藤氏が架橋したが有料であった。
明治41年に魚沼橋が完成するまで、この舟橋は善光寺街道の要衝の役を果たした。
県会の政争熾烈となる(その1)<小千谷市史から>
「岩沢橋」として岩沢村に架橋することが県会で議決されたが・・・。
33年にようやく三ヵ年継続事業として発案されたが、延期の主張が多く否決となった。県会に上提されたとき、「須藤老人(時俊)曰く、県道に橋のない理屈は御座らぬ」と賛成すると、同じ選挙区から出ている坂口仁一郎が反対して、「県道に必ず橋を要するとせば、大河津は如何。延期の精神にてこれを否決せん」というぐあいで、この橋が将来大きな政争の渦に巻きこまれることを早くも暗示していた。
明治34年度、知事はふたたび発案したが、通常県会議決事項によれば次のようになっている。
岩沢橋架設費継続年期及支出方法議案
仮定県道魚沼線に係る岩沢橋は、従来民設船橋若くは渡船を以てわずかに往来の便に供し来りしも(中略)出水期間交通杜絶すること一年数回(中略)其架橋の位置は信濃川上流に位し水勢急激にして、構造頗る堅牢を要するが故に(中略)之を三ヵ年の継続事業として37年度において完了せしめんとて、之が架設費59,948円75銭を発案し、県会之を可決せり。
これによって明らかなように、橋の名称は「岩沢橋」であり、県会は一旦議決したのである。ところが、当時岩沢村から県会議員高橋栄太郎が出ていたが、県会は憲政会系が多数を占めているのに高橋が政友会に属していたから、県会の風向きがあやしくなってきた。憲政会派はこの架橋が高橋の功績となることを嫉視して、にわかに位置変更の策動を始め、強引に真人村から下条村新光寺へ架橋するよう計画を進めていた。驚いたのは岩沢村の住民であった。古来岩沢村は小千谷・十日町の中間に位し、善光寺街道の宿場として繁栄し、茶屋・旅館・鉱泉宿等が軒を並べ、人力車の重要な中継所として岩沢組というものができていたのであるが、万一橋が下条村に移るようなことになれば、これらの人々はみな失業するので、文字どおりそれは村の死活問題であった。岩沢村では村長高橋を先頭に村民一致団結し、沿道の町村を糾合して必死になって無謀な下条村架橋説の阻止に乗り出した。村内全戸主339名の署名を取りまとめ、35年4月26日陳情書を県および内務大臣に提出した。
しかし県では、下条説についてはまだ実測もしていないから反対陳情は不穏当だと、却下してしまった。
県会の政争熾烈となる(その2)<小千谷市史から>
橋の位置は岩沢村とし、一方で名称を「岩沢橋」から「魚沼橋」に変更することとなった。
岩沢村がさらに陳情運動を展開している間に、県会の圧力で新光寺の架橋測量がおこなわれ、同年9月県参事会に再諮問があり、強引に位置変更の議決がなされた。
明治35年10月4日付『新潟新聞』には、岩沢橋の位置変更反対の陳情書を地元各町村が内務省と第三土木監督署に提出した記事が出ているが、このとき陳情した町村は小千谷町・岩沢村・真人村・川治村・十日町・下条村となっている。この中に真人村と下条村が入っていることはきわめて重大で、この記事を真なりとすれば、沿道の関係町村の中に位置変更を望んでいる者は一人もいないことになる。これは全く県会内部の醜い党利党略の争いで、ために巨費を使ったばかりでなく、橋の架設を6年間も遅延させたのである。そして、そのために誰もが想像することのできなかった悲惨事や不祥事が起ころうとは。
さて、県では参事会の議決なので、同年12月位置変更の手続きをした。しかし岩沢村を中心とした地元各町村の真剣な反対運動が功を奏して、内務省はついに位置変更不許可の鉄槌を下した。ここで架橋問題は一旦白紙に返され、県会に再提案されるわけであるが、36年11月10日付『新潟新聞』によると、「岩沢橋は内務省の許可を得ざりしを以て、従前の位置(注・岩沢村)に変更し架設せんとする事件は、通常県会へ発案さるることとなりしが、本案は本年県会における一大問題なるべし」と報じている。しかし36年9月県会議員の改選があり、県会の空気も一変して妥協案が作成された。それは次のようなものであった。
一、橋の位置は岩沢村とすること
一、橋の名称は魚沼橋とすること
一、川西線を県道として開鑿すること
しかしこの案も、明治37年国運を賭した日露の大戦に突入することとなり、お預けとならざるをえなかった。明治37年6月2日、徴兵検査に臨むべき真人村の壮丁9人は、村長藤巻幹三郎に引率されて勇躍出発した。下条村の新光寺へ渡舟で行き、それから歩いて十日町へ行くのである。渡舟場には一人の大きな負籠を背負った女がかれらと一緒に乗船した。ところがこの舟が川中で転覆し、村長や船頭をはじめあたら壮丁が全員溺死するという大悲惨事が起きたのである。かの籠を背負った女だけは、籠が浮子代用になって浅瀬へ流され、あぷなく命を助かった。これは、船が魚沼橋位置変更の測量の際に打った杭に突き当たり、転覆したのであったと言われている。
架橋ようやく実現<小千谷市史から>
日露戦役は輝かしい勝利のうちに終ったので、40年10月ようやく魚沼橋は請負に付されることとなった。高鳥組が落札したが、戦後の物価騰貴によって途中で二度も工事費の割増し請求をしたため、県では断乎解約して、東京の松井組にあたらせるという混乱もあった。
明治41年12月、晴れの竣工式を挙行する日がきた。この日知事清棲家教をはじめ県下の名士が列席し、沿道各町村民の熱狂的歓喜のうちに渡初式がおこなわれた。知事は、当時としては全国にも類例がないと言われたほどの鉄塔吊橋の結構を讃えた後、次のような狂歌をものした。
「こんな橋誰が架けたと橋にきけば 橋はだまってなにもいわさわ」
この橋のために要した県費の額は、66,410円にのぼった。
当時わが国の工業はきわめて幼稚なものであったために、この橋の鉄材はすべて外国から輸入したもので、したがってその費用も巨額にのぼった。「其構造、範を欧米に採り、堅牢を旨とし、石柱深く河底に入り、鉄梯高く穹天に聳ひ、鉄索巧に橋材を連結す。(中略)其の壮観なること、蓋し本邦稀に観る所なり」と『中魚沼郡誌』は述べている。当時の文明開化の象徴として仰がれ、小学生の遠足の目的地としても大切な場所となった。
その構造は、鉄材で吊った部分が52間、木材で吊った部分20間、普通橋梁の部分20間、その幅は2間半で、万代不落を誇っているように見えた。
例の妥協案によって、明治40年8月1日川西線真人-上野間の道路開鑿工事が請負に付され、植木亀之助が10,720円で落札し、橋と並行して工事が進められたのは、まずもってめでたいしだいであった。
大正期の魚沼橋(写真集ふるさとの100年)
この写真は時之島側から写したものです。
県政を揺るがす政争の末明治41年12月、近隣住民の悲願が実り架橋された。
しかし、その後たびたび大洪水等で大被害を受けている。
魚沼橋(小千谷文化130・131合冊号)
『『魚沼橋』について(小千谷文化130・131合冊号)
この写真は 昭和16年頃、当時中魚沼郡岩沢村島から真人村時之島を結ぶ、信濃川に架けられた『魚沼橋』を、時之島の崖の上から俯瞰したもので、後に小千谷で「桂光芸社」を起こした高橋重成氏の撮影された珍しい
カメラアングルの写真である。
魚沼橋は、明治39年着工、六万八千余円の工費と3年の工期を経て竣功とのことである。
コシヒカリの自主流通米と、当時の米価を比較すると約4,640倍(当時は4斗米1俵5円28銭)換算してみると、3億2千万円位に成るが、米価の上昇率は他のものに比べ低いので、今ならその倍位掛かっても出来ないのではないだろうか。
当時としては珍しい鉄骨と綱索による橋で、その壮観たるや蓋し本邦稀に観る所なり。と中魚沼郡誌に記されている。その構造は範を欧米に採り、堅牢を旨とし石柱深く河底に入り、鉄梯高く大空に聳え、鉄索巧みに橋材を連結す。其鉄材を以て釣りたる部分52間、木材にて釣りたる部分20間、普通橋梁なる部分20間にして、各部相接する所、石台ありて之を支う。
北北西、時之島に接する所は、断巌絶壁なるを以って直に之を利用し左右ケーブル留の針索も亦之に支い南南東、島地内は、磧頭なるを以って石台を築きてケーブル留を支う。岩沢村は明治17年、村費を以て之が測量設計をなしその筋へ出願せしも省みられず。着工までに実に20数年。竣工時の村民の喜びは察するに余りがある。
その後、大正3年、大正8年、昭和20年と三回も大洪水により大被害を受けた。時之島側か急角度のためもあり時代の趨勢も有って、昭和41年、当初の位置より約200m下流の現在地に新技術による新『魚沼橋』が誕生し、6月2日渡り初式が行われた。(谷内正質)
その後の魚沼橋<小千谷市史から>
完成後3度の災害に見舞われながらも人々の暮らしを支え続けた・・・。
万代不落を誇っているように見えた魚沼橋も、実はそれほど堅牢なものでないことが、わずか6年後に証明された。大正6年8月14日(下巻P414には大正3年とある)、突如襲来した信濃川大洪水はたちまち木橋部20間を押し流し、ケーブル留の石台もまた破損したので、翌年2月修築工事にかかり、木橋部を71間に延長し、全長143間として取付箇所を高く築き立て、ふたたび水害のおそれのないようにした。
その後大正9年になって、ケーブルを留めておいた鉄環が破壊され、鉄橋部が横向きになって墜落してしまった。そのため、一年以上も渡舟の不便を忍ばねばならない時代が続いた。
昭和21年、ふたたび前回と同じ箇所の破壊のため墜落してしまった。戦後疲弊のどん底にあった時代のこととてこの復旧は容易なことでなく、沿道町村の数次の陳情にもかかわらず放置されていたが、施工者県土木工業協同組合によって起工式をあげ、昭和23年12月5日竣工式を挙行、知事岡田正平も列席した。
その後、時代の推移とともに年々増加する交通量のためこの橋の機能は限界にきた。鉄橋部は旧のままの幅員なので、自動車は一方交通しかできない。そのうえ真人側の取付箇所は急カーブになっていて、大型自動車ははなはだ困難する。そのため橋の架替えが企画され、この橋より約100m下流に新橋を架設した。全長205m、幅
員7m、事業費17,383万円、施行者は新潟県で、37年3月着工以来3ヵ年間を要して、41年3月に完工、同年6月2日盛大に完工式がおこなわれた。
上の記述の中に「大正6年8月14日に洪水によって被害を受けた」というように書かれていますが、大洪水は「大正3年8月14日」である旨の別記事(市史下巻P414)もあります。
大正3年の大洪水 <小千谷市史 下巻 P414>
大正3年8月14日、白髭水以来最大とも言うべき大洪水が襲来した。
(中略)
岩沢村では魚沼橋の木橋部が流失し、橋詰にあった3戸も流失、死者3人、豊久新田、桜木の堤防も破壊された。このとき流れてきた巨木が、平水の20尺も上にある魚沼橋石台の上にかかったまま減水となり、この木は数年間そのまま残っていた。
白髭水(「白髭(髪)の水」とも):延宝8年(1680)の大洪水
さて、ここから下は、私が平成29年12月に写した画像等を紹介します。
岩沢側、国道117号から写した、旧魚沼橋跡へ通じる道です。
上の画像の道を信濃川(右岸)方向に進みます。
さらに進みます。
上の画像に写っている道の終端から、対岸の時之島を写しました。
この画像中心部が旧魚沼橋の時之島側の取り付け部です。
上の画像の所をズームで写しました。
さらにズームです。
画像下側に写っているのは旧魚沼橋の主塔が建っていた場所、上側はアンカーレイジ(橋台)と想像できる遺構です。
場所を移動して、時之島側に来ました。
上の画像の、雪が写っている付近の画像です。
ここに旧魚沼橋の主塔が建っていたのだと思います。
主塔が建っていたと思われる場所から、対岸の岩沢側を写しました。
上の画像を写した場所で振り返ると、このアンカーレイジ(橋台)と思われる遺構があります。
アンカーレイジは吊り橋のメインケーブルを繋ぎ止める碇 (いかり:アンカー)です。
「岩沢在住のT」様からいただいた情報によると、やはりこれはアンカーレイジだそうです。
上方にある画像を切り取って赤い線で印しをつけました。
旧魚沼橋の主塔(岩沢に向かって左側の主塔)が建っていたであろう付近にコンクリートの基礎が残っていました。
「もしかしたら、旧魚沼橋の主塔の基礎か!」と小躍りしたのですが・・・。
つまり、上の画像の赤い線で囲った場所ではないかと思ったのです。しかし、上の画像に写っている人と比較した主塔基礎の大きさを想像してみると、この画像の基礎はそれより小さいように思われます。
上の画像に写っている鉄の痕跡です。
これも主塔を構成する鋼材と考えるには貧弱すぎますね・・・。
これは上の画像の対面側です。
上の画像のズームです。
4つ上の画像中央部に写っている、アンカー的な部品だと思います。
しかしこれもまだ新しく、とても50年経過しているようには見えません。
記憶力が良くない私の頭を叩いてもはっきりしたものは出てこないのですが、旧魚沼橋が掛かっていた辺りでワイヤーロープのようなものが信濃川をまたいで張ってあったことがあったように思います。
岩沢側にある田を耕作している方に伺ったところ、やはりそういう施設が最近まであったと教えてくれました。
なので、その時の施設跡かもしれませんね。ご存知の方、ご教授いただければ幸いです。
別角度でアンカーレイジ(橋台)と思われるものを写しました。
さて、これは当時の遺構なのかどうか・・・?。
ワイヤーロープのためのものにしては大きすぎるし、コンクリートの具合からするとそれ程古くない気もするし・・・。
ただ、昭和41年まで使われていたのですから、補修が行われていたことも考えられますね。
ご存知の方、お教えいただければ幸いです。
さて終わりに、旧魚沼橋が、上に示した「小千谷市史」の記述にあるような「真人村~下条村新光寺」で架橋されていたとしたら、国道117号がどういうルートになっていたのかを勝手に想像してみました。
現在岩沢を通っている国道117号ではなく、赤いラインのようなルートになった可能性があり、そうであったなら、岩沢は今のような姿ではなかっただろうと想像します。