【 金沢柵跡 】

金沢柵(かねざわのさく)は、出羽国に置かれた古代日本の城柵の一つで、「後三年の役」の舞台にもなりました。

後三年の役では、沼柵から金沢柵に移った清原家衡・清原武衡が籠城して抗戦し、源義家は攻略に手を焼きましたが、兵糧攻めによって1087(寛治元年)に落城したのだそうです。

金沢公園は、その比定地とされる、戦国時代の山城である「金沢城」を中心に整備された公園です。

(2011年10月8日訪問)
 
「現在地」にあった案内板の地図です。
「現在地」にあった案内板の、大正時代に撮影された写真「兜八幡神社・兜杉・兜石」です。
兜杉は下の方でご案内しますが、昭和58年に、幹を残して焼失したのだそうです。
「現在地」にあった案内板の、大正時代に撮影された写真「景政功名塚の老杉」です。
景政功名塚は下の方でご案内しますが、この老杉は昭和23年の火災で、幹だけを残して焼けてしまったのだそうです。
「現在地」にあった案内板の、大正時代に撮影された写真「金沢八幡宮」です。
12:38頃、兜杉・金沢八幡宮に通じる参道です。
上で紹介した「現在地」の案内板は、この画像の左に半分写っています。
上の画像右側に写っているこの碑は、「納豆発祥の地」の碑です。
参道の石段を上りながら、別角度で写しました。
ここを左に行くと金沢八幡宮方向、右に行くと本丸跡方向です。
最初に金沢八幡宮方向に行き、戻ってから本丸跡方向にも行ってみます。
参道の向こうに、「兜杉」に設置された屋根が見えます。
兜杉と、画像右側に兜八幡神社です。
兜杉の案内板です。
兜八幡神社です。
兜石です。
兜八幡神社・兜石の案内板です。
別角度で、兜杉です。
樹皮が残っているだけという状況です。
別角度で、兜杉です。
兜杉側から、金沢八幡宮へ続く石段・鳥居です。
石段を上りきった所、鳥居の下から拝殿方向です。
金沢八幡宮の案内板です。
拝殿と本殿です。
本殿です。
拝殿前から、石段・鳥居方向です。
金沢八幡宮境内にあった石柱です。
12:48頃、金沢八幡宮方向と本丸跡方向の分かれ道の所に戻りました。
今度は本丸跡方向に行きます。
上の画像の右側に写っている場所です。
上の画像左部分に写っている石柱の場所は、ここ兵糧倉跡です。
兵糧倉跡の案内板です。
兵糧倉跡の前付近から本丸跡方向です。
この画像右奥方向に進みます。
上の画像を写した場所から100mほど進んだところです。
この100mほど先が次の画像です。
本丸跡の入口です。
この画像中央付近まで進んで、左後ろを振り返って写したのが次の画像です。
本丸跡です。
12:58頃、駐車場のところ(参道の入り口)まで戻って、西の丸跡への通路方向です。
13:07頃、場所を移動して、景政功名塚の入口です。
景政功名塚の手前にあった石碑です。こういう時代もあったのですね・・・。
画像左奥が景政功名塚です。
景政功名塚です。
上の方でも紹介した、大正時代に撮影された写真「景政功名塚の老杉」です。
下に写した案内板にあるように、その後火災で焼けてしまったのだそうです。
景政功名塚の案内板です。
杉の背面です。
13:19頃、「後三年の役金沢資料館」です。
入館しましたが、館内撮影禁止でした。

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