【 八甲田丸 】

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸(せいかんれんらくせんメモリアルシップはっこうだまる)の周辺を散策しながら八甲田丸を写しました。
時間的に船内を見学することは出来ませんでした。

青森港には青函連絡船の岸壁が3つ設置されていたそうですが、八甲田丸が係留されているのは第2岸壁です。

(2013年7月7日訪問)
 
8:09頃、アスパムの海側に整備されている「青い海公園」からズームで写しました。
8:26頃、青森レインボーブリッジ側から写しました。
可動橋と車両搬入口です。車両と言っても、もちろん鉄道車両です。
別角度で、可動橋と車両搬入口です。
青森駅のホームから連絡船へ通じる通路です。
昔、一度だけ青函連絡船に乗ったことがありましたが、駅からどのようにして船まで移動したのか覚えてはいません・・・。
ホーム側をズームで写しました。
8:39頃、4つ上の画像右下に写っている展望台前に来ました。
展望台から写した八甲田丸です。
上の画像の左側です。可動橋を昇降させる施設を写しました。
8:46頃、可動橋付近に来ました。
八甲田丸の船尾が左後ろ側にある位置関係で写しています。
可動橋の昇降施設です。
八甲田丸の船尾です。
船尾には、船内に車両を引き込むための線路が設置されています。
ズームです。
船尾の上部をズームで写しました。
可動橋の昇降施設です。
8:36頃、「青函連絡船戦災の碑」がある所に来ました。
青函連絡船戦災の碑です。
碑には次の内容が記されています。

青函連絡船は、 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月14日、米海軍艦載機の攻撃により「翔鳳丸」 「飛鸞丸」「第二青函丸」「第六青函丸」が、8月10日には 「亜庭丸」が青森湾で撃沈され、131名の犠牲者を出しました。
また、7月14日・15日に津軽海峡と函館湾でも攻撃を受け、 青函連絡船は全滅をし、乗員乗客424名の尊い人命が失われました。
今も、津軽海峡には「津軽丸」「第三青函丸」「第四青函丸」が、 この航路に殉じた人々と共に、永久の眠りについています。
被災の位置を示した図です。
1945年(昭和20年)7月14日に、米海軍艦載機の攻撃を受ける「翔鳳丸」です。
8:43頃、場所を移動しました。
可動橋です。
可動橋の付け根です。
可動橋と車両搬入口です。
可動橋と車両搬入口です。
上の画像を写した場所で、右を向いて写しました。
上の画像を写した場所で、右を向いて写しました。
上の画像を写した場所で、右を向いて写しました。
上の画像4枚のところ、ぐるっと映しました。
第1岸壁だった場所です。
前回訪問した時(2007年)と比べると、きれいに整備されています。
前回訪問した時(2007年)の画像です。
写した向きは反対ですが、上の画像と同じ場所です。
9:20頃、青森駅のホームで八甲田丸方向を写しました。
乗客が乗継に使った階段です。

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