【 別子銅山 東平地区 】

別子銅山東平(とうなる)地区は、大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで、別子銅山採鉱本部が置かれていました。

そこには多くの人が鉱業に従事し、その家族も生活し、小中学校まであった「街」が存在したのだそうです。

資料館には当時の様子を伝える写真などが展示されていました。
現在は当時の施設跡が残されているだけで、時代の流れの凄さを感じます。


別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山で、元禄3年(1690年)に発見され、翌年から昭和48年(1973年)まで操業されました。
住友が巨大財閥となる礎になった鉱山だそうです。

(2012年8月21日訪問)
 
現在地にあった案内図です。
10:21頃、貯鉱庫跡です。
上の画像の右側です。
2つ上の画像の左側にその一部が写っている場所を、別角度で写しました。
ここから鉱石を投入し、その下にあるホッパー状の施設に落ちていくのではないかと想像します。
上の画像の施設の下部、ホッパー状の施設です。
2つ上の画像に写って(左側に写っているほう)いるものです。
2つ上の画像に写っている施設と同様なものが、一対状に、もう一つあります。
これは、右側の施設です。
ホッパー状の施設(この画像下側に写っています)の向こう側をズームで写しました。
索道基地跡方向です。
現地にあった案内板の写真です。
上の数枚の画像は、この写真の中央部左側に写っている建屋側から写した形になります。
案内板の解説です。
資料館です。
入口を入った所です。
上の画像正面の壁です。
上の画像の中央付近に写っている場所を写しました。
「都市の明日を思索する」という言葉には、今の日本にとって重みがあるように感じました。
2つ上の壁にあった写真です。
3つ上の壁にあった写真です。
展示室です。
娯楽場の模型です。
娯楽場の、当時の写真です。

小学校の模型と解説です。

社宅の模型と解説です。
当時の写真です。
当時の写真です。
当時使われていた日用品の展示です。
銅製品の展示です。
展示の写真、歓喜坑です。
展示の写真、第一通洞です。
展示の写真、第三通洞です。
展示の写真、第四通洞です。
資料館を出て、資料館脇のトンネルの所に来ました。
トンネルの中には鉱山用の車両が展示してありました。
10:44頃、場所を移動して、貯鉱庫跡方向を写しました。
左側の施設が貯鉱庫跡で、右側は索道基地跡です。
10:48頃、場所を移動して、ここから索道基地跡方向へ下ります。
ここは下の画像のように「インクライン跡」です。
現地にあった、当時の写真です。
現地にあった、インクラインの解説です。
貯鉱庫跡の下部に来ました。
索道基地跡の上部だと想像します。
現地にあった写真です。
現地にあった解説です。
3つ上の画像を写した場所から、もう一段下がった場所です。
この画像の上部に柵が写っていますが、一番上から2つ目の画像などはその場所で写しました。
離れた位置で写しました。
一番上から3番目の画像と対面した位置関係です。
貯鉱庫跡も確認できます。
上の画像の右下付近に近づいて写しました。
上の画像を写した所から、右側にまわりこむように移動して写しました。
上の画像を写した所から、右側にまわりこむように移動して写しました。
7つ上の画像を写した場所は、この石段を上った右側です。
インクライン跡を上って、駐車場へ戻ります。
11:09頃、一番上から2つ目の画像を写した場所に戻って、瀬戸内海方向を写しました。
ズームです。
11:12頃、場所を移動して、東平接待館跡です。
上の画像に写っている案内板の写真です。
解説です。

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