【 赤レンガ倉庫 】


函館の赤レンガ倉庫です。

(2007.8.19)
 
金森倉庫。
函館湾。見にくいですが、画像右隅(漁船の上)に摩周丸が写っています。
赤レンガ倉庫の中はお土産屋さんやレストランになっています。
一部に倉庫らしいところも見られますが・・・。
金森洋物館の壁。
ツタに覆われているのは、BAY函館の赤レンガ倉庫。
その向こうの2棟が金森洋物館です。
BAY函館の赤レンガ倉庫。上の画像のツタに覆われた倉庫の、水路をはさんで反対側。
みやげ物屋の看板ですが、六花亭の下の部分が白く覆われています。ここにもお菓子の名前が表示されていたんでしょうね。
そう、8月15日に、石屋製菓が「白い恋人」の賞味期限を改ざんしていた問題が報道され、店頭から商品が撤去されてのでした。
この旅の期間中、どこの観光地に行っても白い恋人を目にすることはありませんでした。
画像の左端ツタに覆われているのが「BAY函館赤レンガ倉庫」、その手前の2棟が金森洋物館、こちら側の2棟(よく見ると、実際は間に小ぶりな棟が挟まった格好になっている)が金森倉庫です。
東浜桟橋

明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となりました。この北海道の地を踏むものがその第一歩を印したのがこの東浜桟橋です。
この東浜桟橋は、明治4年(1871)に作られました。当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀ででこの桟橋との間を行き来しました。

青函連絡航路は、明治6年(1873)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始しました。
明治12年(1879)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されてきましたが、明治41年(1908)に国有鉄道の航路として比羅夫丸・田村丸が就航しました。

連絡船の桟橋は、明治43年(1910)2月に若松埠頭に新設移転しましたが、その後もこの桟橋は活用されました。北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきましたが、特に戦前の北洋漁業の発着時には、大変なにぎわいぶりを見せていました。

(近くにあった記念碑の解説文から)
東浜桟橋(別角度)


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