【 鉄道員(ぽっぽや) 幌舞駅 】


1999年に公開された映画「鉄道員(ぽっぽや)」の舞台となった幌舞駅は石炭輸送路線「幌舞線」の終端駅として登場しています。さらに、隣の駅は北幌舞駅で、幌舞線は美寄駅から分岐しているという設定です。幌舞線も幌舞駅も美寄駅も架空のものです。

さて、ご存知の方も多いと思いますが、幌舞駅としてロケが行なわれたのは、北海道空知郡南富良野町字幾寅にあるJR北海道の根室本線の幾寅駅(いくとらえき)です。同駅は撮影のために改装されて今のように(映画の「幌舞駅」のように)なったのだそうです。

訪れてみると、駅前には「だるま食堂」、「ひらた理容店」などのセットが残されていて、映画のロケのため改装され2005年に廃車になった「キハ40 764号気動車(映画ではキハ12 23として登場)」の車体の一部分も展示されています。


高倉健が演じる佐藤乙松(おとまつ)は、国鉄の機関士でしたがその後地上勤務になり、札幌鉄道管理局長から昭和51年10月1日に幌舞駅長の辞令を受けています。
乙松と妻「静枝(大竹しのぶ)」にはなかなか子供が出来なかったのですが、結婚17年目にして女の子を授かりました。初雪の降った昭和52年11月20日に生まれた子供に、二人は雪子と名付けました。
ところが、そのユッコ(雪子)は生まれた翌年の昭和53(1978)年1月5日に亡くなってしまいます。静枝が「あんたも後から来てね。」と言い残し、一番列車で美寄の病院に連れて行きました。「交代要員の手配がついたら俺も行く。」と言った乙松でしたが、結局、冷たくなったユッコを抱きかかえた静枝を幌舞駅のホームでむかえることになりました。そして、ヒノホ(日報)には「異常なし」と書いていたのです。いつものように・・・。
一昨年、美寄の病院で妻の静枝が亡くなった時も、乙松は勤務を終えてから病院の霊安室にかけつけたのでした。

国鉄は昭和62年にJRになったわけですが、乙松はJRになってからも鉄道員を続けていルことになります。
そして、乙松もこの春(物語が展開している年の春)には定年ですし、彼が勤務する幌舞駅がある幌舞線も同じく3月で廃線になります。(この春って何時のことなんでしょうか・・・?)

そんな状況の中、夢のような出来事ですが、ユッコ(雪子)が乙松に会いにきました。1月3日から4日にかけて、小学校から高校生に成長していく姿を見せに来たのでした。
17歳なったユッコが会いにきたのが1月4日で、乙松はその翌朝(つまり、ユッコと同じ命日になる)に亡くなったのでした。
そうすると、ユッコが17歳になるのは1994年11月で、物語は翌年の正月3〜4日の展開ですから乙松が亡くなった年は平成7年(1995)ということになると思います。

小説では、ユッコは乙松43歳、静枝38歳の時の子供だとしてあります。ユッコが生まれたのは昭和52年ですから、乙松は昭和9年(1934)か昭和8年(1933)生まれということになります。
亡くなった時の年齢は、(1995−1934=)61歳か、(1995−1933=)62歳でしょうか。
一方で、17歳になったユッコが会いにきたということですが、ユッコの17歳の誕生日(1977.11.10)の時の乙松の年齢は43+17=60歳ということにるのでしょうか・・・。
何だか年齢が合わないような気が・・・・、計算の仕方が悪いのかな・・・、いや、小説と映画の設定が全く同じだとは限りませんから気にしないことにしましょう。

(2007.8.17)
 
幌舞駅
鉄道員の舞台になった「幌舞駅」に到着しましたー!。赤いポストもそのままです。感激です!。
早速ホームに出て、北幌舞駅方面(現実では「落合駅方向」)を眺めていると・・・、早くも目頭が・・・・。
撮影用に設置された腕木式の信号機も残されていました。
実際の幾寅駅は終端の駅ではないので、映画の中では終端駅に見えるように工夫されています。
少しすると乗客がホームに上がってきました。
「お、列車が来るんだなー。」と期待しながら待っていると、キハがやって来ました\(^_^)/。

気分はすっかり乙末です!。列車が到着した時、思わず「ほろまい、ほろまーい!」と言いそうになりました^^;)。
私も、国鉄OBなもので・・・・。

ちなみに、キハとは「気動車の普通車両(グリーン車ではない)」という意味です。
参考までに、気動車のグリーン車両の場合は「キロ」といいます。
幌舞駅(ホーム側から)
ホームから、幌舞駅舎の画像。
鉄道員(ぽっぽや)
駅舎の中には、「鉄道員(ぽっぽや)」のロケに関わる品々が展示されています。
映画をご覧になった方には見覚えがあると思いますが、正面手前は映画のロケに使われた改札口の埒(らち)です。
幌舞駅前の「ひらた理容店」のセット。
DVDで確認しましたが、セットの位置は撮影当時のままだと思います。
だるま食堂 (鉄道員)
幌舞駅を背にして、右斜め前にある「だるま食堂」。同じく、セットの位置は撮影当時のままだと思います。
幌舞駅からだるま食堂方向を見たときに、だるま食堂の向こう側に見えた「井口商・・・」という看板がかかっていた、日用品や雑貨を販売する店のセット。セットの位置は撮影当時のままだと思います。
これも存在感があった、「赤い倉庫」。
幌舞駅(幾寅駅)
別角度で幌舞駅。ポストのわきの公衆電話BOXも残されていました。
ただし、映画の中では黄色い公衆電話でしたが、現在の公衆電話はグレーのものです。
観光に来ていた人にお願いして写してもらいました^^;)。
駅を出て右側に、ロケで使用されたキハが展示(ハーフサイズにカットされています)されています。
車内には、健さんたち出演者のサイン色紙がありました。
入口の上部には「キハ12 23」の車両番号が付けられています。

これは、キハ40系気動車を、ロケで使用するために札幌の苗穂工場で大幅に改造してキハ12系に作り変えたものです。実際の「キハ12」は、北海道向け専用車両として昭和31年から32年にかけて22両が製作され、道北・道東を中心に活躍しましたが、昭和55年までに全車が第一線から引退しました。
この車両は実際の「キハ12」が22両製造されたことから、撮影では23両目の車両「キハ12 23」と命名され、「鉄道員(ぽっぽや)」のもう一つの主役として、銀幕いっぱいに活躍しました。
<車内にあった案内板の文章>
反対側に回ってみると、もともとの車両番号(「キハ40 764」)が残っていました。

<どうでもいいような(あるいは考えたくない)疑問>

その1:幌舞駅の要員はどうだったのだろう?。
つまり、駅長である乙松の他に助役なり一般の駅員がいたのではないかと思うが・・・。

その2:乙松は「うちも円妙寺の檀家だ。」と言っているが、1月4日に仙次と一緒に静枝と雪子の墓参りに行ったとき、乙松は合掌するのではなく両手の指を組んでお参りしていた。
日本人の仏教徒なら当然合掌だと思うのだが・・・、もしかしたら健さんはクリスチャンなのかな?。それで、役の上でも合掌は出来なかったのだろうか?。それとも、あえてそうする事で「不器用さ」を表現しようとしたのか?。

その3:国鉄の民営化のとき乙松にはどのような葛藤があったのだろうか?。

その4:鉄道員に徹し、「鉄道のこと以外何も出来ない。」と言っていた乙松だが、幌舞以外の駅(例えば札幌のような大きな駅)でも勤務することが出来たのだろうか?。

その5:JR移行後も、国鉄の駅長帽をかぶり続けて(私はそのほうが嬉しいけど)も良かったのだろうか?。


PAGE TOP