【 北防波堤ドーム 】

利尻島から稚内港に戻って、小樽に向かう前に、4年ぶりに「北防波堤ドーム(きたぼうはていどーむ)」を訪問しました。


北防波堤ドーム(きたぼうはていどーむ)は、稚内港にある大型の防波堤のことですが、建設当時は「稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)」の桟橋と、桟橋に着く連絡船の乗客を守る目的で作られたのだそうです。
稚泊連絡船は、鉄道省が「北海道の稚内」と「樺太の大泊」の間を結んでいた鉄道連絡船です。

ドーム建設後、稚内駅からドームの手前まで鉄道省の線路が伸ばされ、1938年からは「稚内桟橋駅」が設けられていました。
乗客は稚内桟橋駅からドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだそうで、「鉄道にロマンがあった時代」のことだと思います。
北防波堤ドームの中で目を閉じると、往時の賑わいが感じられるような気持ちになりました。

終戦になって、「稚泊連絡船」も「ドームに続く線路」も消滅しましたが、防波堤としての機能は残され稚内港を守り続けています。

半世紀を経て老朽化が著しかったために、昭和53年から3年間、全面的に改修工事が行われ、現在は土木学会選奨土木遺産・北海道遺産に選定され、観光資源にもなっています。


(2011年8月22日訪問)
 
北防波堤ドーム、稚内駅、稚内フェリーターミナルの地図です。北防波堤ドームは東西に渡って設置されています。
16:19頃、稚泊航路記念碑です。
上の画像の記念碑に刻まれた銘文を写したのですが、失敗でした・・・。

画像では読めないので、

この地稚内から いまは異国の地樺太大泊に 国鉄稚泊航路が開設されたのは 宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正十二年五月一日である
この航路は、一六七キロの海上を約九時間を要し ときに宗谷海峡特有の濃霧 あるいは結氷 流氷との悪戦苦闘によりまもられてきた
昭和ニ年 砕氷貨物船亜庭丸(三三九三トン)が就航するに及び その往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた
しかし 終戦直後の昭和二十年八月二十四日十八時 二十二年にわたる歴史的使命を終え その幕を閉じたのである
今ここに星霜二十有余年 稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり 有志相図り稚泊航路の輝かしい業績と 幾多先人の苦労を銘記してこの碑を建立し 永久に記念するものである

昭和四十五年十一月吉日

有志を代表して
旭川鉄道管理局長 深沢今吉
稚内市長 浜森辰雄
記念碑の傍にある、C55の動輪です。
上の画像に写っている、動輪の案内板です。
上4枚の画像を写した付近から、西方向です。
上の画像を写した所で、東方向を写しました。
この画像左下に写っているのは稚泊航路記念碑で、画像中央はC55の動輪です。
上の画像を写した付近で、北防波堤ドームの内側、西方向です。
上の画像を写した場所で振り返って、北防波堤ドームの内側、東方向です。
16:22頃、北防波堤ドームの東端に来て、その先を写しました。
北防波堤ドームの東端から、西方向です。
東端部に、昭和53年から行われた改修工事の銘板がありました。
東端から西方向に歩きながら、写しました。
北防波堤ドームを、西方向から東方向に動画で映しました。
ドームの内側から、稚内公園の「開基百年記念塔」が見えます。
ちなみにこの画像は、8月21日早朝、稚内公園からズームで写した北防波堤ドームです。
西側の終端です。
北防波堤ドームの由来を記した銘板です。
西側から写しました。
近づいて、
ドームの屋根部分です。
上の画像を写した所で、右上を写しました。
北防波堤ドームの西端から写したドーム内です。
別角度です。

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